挽歌

文字数 748文字

 視覚が明瞭になった時、私はパソコンの画面を注視していた。左手元に牛乳が並々注がれたコップがある。何か母に言葉を告いで戻ってきたことだけは判る。
 そうか、今日は神崎千裕(ちひろ)の一周忌だったのか。一年前までは世間でずっと一番輝いていたあのアーティストである叔父の一周忌か。私にも才能が宿るようにとかほざいて『千』という漢字を付けるに至った要因の一周忌か。勝手に失望されるに至った要因の一周忌か。私が忌避していた曲の作り方は確か神崎千裕と同じだったな。だから嫌いだって。あぁ合点がいった。勝手に死んだと思うと清々する……。
 雨に強く打たれている、叔父を乗せた霊きゅう車が眼前に浮かび上がる。掌を強く握った感覚を思い出していた。
 一刻も早く忘れたかった。私はスマホを手元に引き寄せ、音楽サブスクリプションアプリを開いた。アルトサックスを滅茶苦茶に吹き散らかす曲を聴きたい激情が脳を駆け巡る。
 それだというのに、意図せず手が止まった。『神崎千裕』の項目があったからだ。私はその名前を爪でなぞる。アルトサックスの音が鳴り止んだ。
 聴くつもりがなくとも、その項目を選んでしまうのはそういう性分だ。ちゃんと再生ボタンを押してしまうのも分かっている。耳当たりの良いシンセサイザも刻むストロークと融和しつつも、余韻を残すフレーズとロングトーンに感化されてしまうことも知っている。過去の産物を越えられずに嘆くのも幾度目か。夢か現か揺られていた意識をまた浮上させた。
 雨の音が聞こえない。
 結局、私が辿り着く先にはこいつが居るに違いないのだ。私はスマホを机に放り、編曲の為に使うソフトをパソコンのデスクトップ上に立ち上げ、ヘッドホンを耳にあてがった。
 このメロディーラインが向かう先は、ピアノで刻む十六分連符で墜落する死だ。
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