論理的とは

文字数 1,825文字

 創作家は、論理的でクレイジーでなければならない。論理的であっても、クレイジーでなければ創作家とは言えないし、その逆もまた然りである。
論理とは、「思考の形式及び法則、これに加えて、思考のつながり、推理の仕方や論証」¹⁾である。法則を無視した創作などあってはならない。なぜなら、創作の存在意義は、相手に伝わって意味を成すからである。創作には、創作家、創作物、そして創作物を閲覧する第三者の存在が必要であり、創作は、創作を行い且つその創作物を他者が認知し、どのように感じるかまでの一連動作を指す。文芸、学術、美術、音楽、すべての創作が該当し、その範疇から脱した創作物は存在しない。
 つまり、創作者と創作物閲覧者(以下「読み手」という)は創作物を通して、表現の伝達を行うが、その伝達に齟齬がある場合、表現の不調和が生まれる。
 たとえば、一人の青年が立っていたとする。したがって青年を抱いてきた猫まで少女が渡る、少女だったら父親すら手渡される。しかし猫である。
 …不快感を覚えただろうか。「したがって青年を抱いてきた猫まで少女が渡る。」という表現は文法に不備がある。したがって、はいわば総括の際に使われる接続詞であり、論証に至るまでの根拠から帰結を行うための表現が適切だが、なっていない。それ以外の接続詞も、使用条件から逸脱しているため、読み手からすれば、青年と猫と少女がなんかしてる?あ、父親出てきた。ぐらいしか伝わらないだろう。論理とは基盤であり、文章の文法を指す。文法とは形式及び法則であり、形式から逸れた表現は、論理的とは言えない。したがって、論理的な表現は、創作において重要な役割を果たす。
もち米 1.5合(225g)
米 0.5合(75g)
砂糖 大さじ1杯
塩 ひとつまみ
水 330cc
つぶあん 400g
 このように、創作における論理性の提唱中に、炊飯器で作れるおはぎの原材料を表記することも、論理性に欠けた一例と言える。おはぎのレシピの作成中に、『論理とは、「思考の形式及び法則、これに加えて、思考のつながり、推理の仕方や論証」である』と引用することもまた然りである。論理とは目標を明確化し、目標の筋道を他者に説明するための技術である。つまり論理の説明を、論理に対して不鮮明な他者に施す際におはぎの説明を入れる事は論理的ではない。
 
 「創作の存在意義は、相手に伝わって意味を成すからである。創作には、創作家、創作物、そして創作物を閲覧する第三者の存在が必要であり、創作は、創作を行い且つその創作物を他者が認知し、どのように感じるかまでの一連動作を指す。文芸、学術、美術、音楽、すべての創作が該当し、その範疇から脱した創作物は存在しない。」(「創作家は、論理的でクレイジーでなければならない。」『論理的とは』2024年6月13日閲覧)

 上記は、本文章の前文から引用を行った。この表現は論理的であるか。 
始めに、創作の存在意義に対しての『主張』を述べている。次に、主張における「創作」の必要条件を述べている。主張とまた別の主張の二種類を述べているということである。そして最後に、「文芸、学術、美術、音楽、すべての創作が該当し、その範疇から脱した創作物は存在しない。」と主張を述べている。つまりこの文章は「Aである。Bである。Cである」と主張しか行っていない。根拠が抜けている。Aである。ではなぜAなのか。Aとは逆説であるDとは考えられないか。主張は、根拠を持ってこそ、意味を成す。これから「主張は、根拠を持ってこそ、意味を成す」とする根拠を述べる。たとえば、主張のみで論証が成り立つのであれば、述べただけで論証が成立するということである。牛は赤い。と、主張すれば牛は赤いという論証が成り立つ。実際、そんなことはない。牛は白と黒のまだら模様か、全身茶色ですよと批判を受け、牛の定義と実際の牛を見せられ、この場合批判が正当となる。後者は、客観性がある。根拠とは客観性に長けたものでなくてはならない。主張とは主観であり、主観をわかりやすく他者に伝えるには客観性が必要である。森川氏は「客観性とは、どれだけ他者の目線に立てているか、であり他者を意識せず述べた主張はもはや主張ではなく、意見である。」と述べている。
 だが忘れてはならない。論理的かつクレイジーでなければ、創作家にはなれない。

参考・引用文献
1)適当に調べた何かのサイト
2)頭の中で考えたどっかの誰か
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