第1話

文字数 98,159文字

        ふくろう図書館とポテサの夜
                           蘭野みゆう                                           
            1
 右手で頬杖をついてぼんやり校庭を眺めた。三階の窓際の席からは色帽子を被った小人たちが元気に走り回っているのが見える。帽子の色は赤とピンクと青。一年生が鬼ごっこに夢中になっている。小人たちは無邪気でいい。ユウウツというものを知らない。じゃれつきあったかと思うと、突然あらぬ方へ走っていく。勝手にはしゃぎ回るばねのついた身体をまだ持っている。ユウウツを知った身体は頬に杖をついてやらないと、顔から倒れてずぶずぶ沈んでいきそうだ。桜がまだ咲いてる。校庭の隅っこに五、六本、まばらに生えた桜の木。いつまで咲いてるつもりだろう?
 「ツキ、ポテサ作るんだって?そんなの、できるの?」
 前の席の絵里花がいきなり振り向いた。柔和な細い目が微笑んでいる。ツキはびっくり仰天する。なんで知ってる?ポテサという短縮形まで!ポテサに挑戦していることは誰にもしゃべってない。今のところ一生に一度の最高機密だ。ほんとは挑戦したことを少し後悔している。小学校六年の自分には難しい気がする。作り方が曖昧模糊としていて、詳しい手順もわからない。作り方を調べることはできるし、教えてくれそうな人もいる。でも、このミッションは秘密だから、調べたり誰かに聞いたりしてはいけない。作り方も材料も自分だけで挑戦して見事にクリアしなければいけない。絵里花は動物的勘の働く子だから早めに手を打っておこう。
 「何言ってるの?ポテサ作るって言ったと思うけど、あれ、嘘だから。嘘だよ、嘘!気にしないで」
 「やっぱり、そうじゃないかと思ったよ。で、今週の嘘、何個目?」
 「ええと、四個、かな」
 「へえ。今週はまだ少ないんだね」
 「へへ、まあね」
 初めてポテサを食べたのはどこかのファミレスだったと思う。ねっとりとまろやかなのにシャキシャキしてそれまで食べたことがない不思議な感触だった。少しだけ醤油を垂らしてパンに挟んで食べるのが大好きになった。小学校に上がる前だ。そのころはママも毎日家にいた。金魚の銀之丞と紅子(べにこ)姫もまだ生きていた。キッチンには使い込まれた鍋やフライパンやマッシャーやスライサーがあって、それらを使い回すいつも決まった手があった。ママは料理があまり上手くない。いや、はっきり言って下手だ。煮物は味が薄くて食べていると頭がぼんやりした。肉は焼きすぎて必ず焦がすので、口の中で焦げをこそげ落とそうと無駄な努力を強いられた。魚は反対に生焼けで十分に火が通っていないことがあった。そんな時、パパは箸を半生の魚に突き刺して「生焼けなら始めから刺身出せ」と怒った。ところが、ポテサだけは例外だった。ママのそれは塩とマヨネーズの加減もよく、じゃがいもは申し分なく柔らかく、きゅうりとりんごはシャキシャキ、サクサク、玉ねぎは甘くなっていて、こってりとコクがあった。ハムは入っていない。あの人工的なピンク色は歯肉の色にそっくりで気持ちが悪いとママは言う。そんなこと言われたら、そんな気もする。ママのポテサが美味しいわけは塩にあった。ママは利尻昆布塩という少し赤茶色っぽい塩を使っていた。昆布を粉末にして塩と合わせた調味料で、ママが昔、北海道にいた時に買って以来すっかり気に入ってずっと使っているそうだ。ポテサにそれを混ぜると昆布のだしが効いて本当に美味しい。もう歯肉の混ざったファミレスのポテサなんか食べられない。「あたしのポテサは天下一品!」ママはポテトサラダを勝手に短縮形にしてポテサと言った。何でも長いのが嫌いな人だ。髪は刈り上げ寸前のショートカット、スカートは中年になっても膝上二十センチの超ミニ、背丈も短ければ気も短い。それでよく喧嘩する。喧嘩の相手は行き当たりばったり総当たり。パパとはもちろん、ツキとも、学校の先生、近所のおじさんやおばさん、ママのパパ、ママのママ、通りすがりの人、その辺の野良猫とも。野良猫と喧嘩して帰った時は鼻血を垂らしていた。でも、パパがママのポテサを褒める時だけは初めて愛を告白されたみたいに機嫌がよかった。愛の告白?それがどういうものかは知らない。物語によるとお姫様は王子様からキスされた時についでに愛の告白もされるみたいだけど、どんな気持ちがするものなのか想像もつかない。たぶん、三日くらいは機嫌がいいんだろう。ママみたいに。
 ところが、この前の夜またまたパパと大喧嘩して家出した。もう十日ぐらい帰ってない。パパはママのことを心配していない。どうしてかというと、ママの家出はこれまで数え切れないほどだし、どこにいるのかもパパはだいたい知っているから。家出の最長記録はパパの統計によると三か月と九日間だそうだ。
 「そんなに長いこと家出してたの、知らなかった」
 「おまえはまだ赤ちゃんだったから、覚えてないさ」
 今回はどのくらいになるのか予測もつかない。パパによると、喧嘩の激しさと家出期間に比例関係はなく、てんで規則性もないそうだ。食器が割られるほどの喧嘩でも翌日帰って来たこともあれば、パパが無視しただけで一週間家出してたこともあったそうだ。比例については五年生の時、算数の授業で勉強した。一メートルの重さが十二グラムの針金の長さ○メートルと重さ△グラムは比例する、というあれだ。パパの怒鳴り声とママの金切り声の大きさなら比例すると思う。ママの家出は年中行事みたいなので、パパは今度もママよりポテサを恋しがっている。ママとポテサはまったく関係ない別のことみたいに。
 「ああ、そろそろポテサ、食いてえなあ」
 パパが新聞をめくりながら呟いた。ツキがすぐそばで靴屋のチラシを眺めていることには全く気づいていないようだ。この時、運命の歯車がカチリと音を立てて一つ回った。どこかで何かのスイッチがオンになった。そうだ、ポテサを作ろう!どうしても作らなければならない。これはミッションだ。別にパパを喜ばせたいと思ったわけではない。いや、正直パパにはうんざりだ。パパのためじゃない。じゃあ、誰のため?

              2
 学校からの帰り道、いつもの川のそばを通りかかる。今日は運動会の役員会議で遅くなった。小人たちの玉入れ競争で玉を数える係になったからだ。「ひとおつ、ふたあつ」という放送に合わせて玉を一つずつ籠から放り出す係だ。間違っても二ついっぺんに放り投げないようにと、運動会実行委員長の黒木先生から厳重に注意された。黒木先生は手の指まで黒い毛の生えた大男で、クマ先生と呼ばれているけど、目はテレビで見たカワウソのゴローみたいに可愛いし声も優しいから、あどけない小人たちは校庭に生えているけやきの大木を登るみたいに黒木先生を登りたがる。
 堤防の道は西日を浴びてそこだけ特別な場所みたいにきらきら光っていた。橋のたもとに猫婆さんの姿は見えない。猫婆さんというのは、パイプ椅子に座って猫たちと一緒に川や通りかかる人たちを眺めては、時々気が向くと世間話をしかけてくる樹齢百年の枯れ木のようなお婆さんだ。代わりに小柄な男の子が勝手に猫婆さんの椅子に座って足をぶらぶらさせている。どこかで見たことのある足だと思ったら、やっぱりヒビキだ。栗山響。五年生の時同じクラスで席が隣どうしだったことがある。ヒビキは目と目の間隔が離れていて、背丈の割に不自然に足が大きいのでうさぎと呼ばれていた。身体と足の大きさがアンバランスなために足先が突っかかってよく転んでいた。病院に行って見てもらったら、たまにある成長過程でのアンバランスで、心配ないと言われたらしい。今ではあんまり突っかからなくなったようだ。足だけは。
 「こんばんは。嘘つきツキさん」
 うさぎはアーモンド型の大きな目でツキを見据えた。くっきりと目力のある目だ。
 「こんばんは。うさぎさん、こんなところで何してるの」
 「オオバコたちと話してたところです」
 「オオバコ?」
 うさぎが突拍子もないことを言って人を煙に巻くのには慣れていた。
 「オオバコですよ」
 うさぎはそう言って自分の大きな足の下を指さした。
 「オオバコたちが僕に言うんです。その大きな足で思いきり踏んでくださいって」
 ツキはしゃがみこんで、地面にへばりつくように葉を広げている草を見やった。
 「オオバコってこれ?どうして踏んでほしいなんて言うの」
 うさぎはこれもアンバランスに発達した大きな前歯を見せてにんまりした。
 「それについて今、オオバコたちに事情聴取していたところです」
 「ジジョウ、チョウシュ?で、何かわかったわけ?」
 うさぎは偉そうに大きく頷き、咳払いをひとつした。
 「知りたいですか」
 「どうでもいいけど、聞いてやってもいいよ」
 うさぎの目つきが険しくなった。
 「そういう人には教えません。そういうぞんざいな口の利き方はあなたの人生に不利に働くと思いますよ。今日はこれで失敬。さようなら」
 うさぎは立ち上がると、オオバコの上で二度、三度足踏みをするや、橋の向こう側に向かって歩き出した。ツキは無視して見送った。今日という日の最後の光が燃えるように輝いて小柄なうさぎの全身を包んでいた。夕日がうさぎに燃え移って黒こげになるんじゃないかと思った。そうなればいいと思って見ていると、うさぎのつけた足跡が光を放ち、明滅しながら空に昇って行った。ぽかんと口を開けてただ見とれた。藍色に暮れた五月の川辺を辿ってカーサ・リバーサイドに帰った。名前だけは洒落ているけど、古い二階建ての安アパートで大雨が降ると雨漏りがした。錆ついた階段を上り、ドアを開けるとお婆ちゃんのスニーカーがあった。お婆ちゃんは車で十五分ぐらいのところに住んでいて、時々夕食のおかずを届けてくれる。
 「おや、お帰り。遅かったね。心配したよ」
 お婆ちゃんはお洒落だ。紫色のアイシャドウまで完璧にメイクをし、紺色のブラウスに透けるような水色のカーディガンを羽織っている。
 「女の子がいつまで外で遊んでるの。何かあってからじゃ遅いんだから」
 「遊んでたんじゃないよ」
 「運動会の」と言おうとしたらパパが横から口を出した。
 「大丈夫だって。こんな不細工な奴、だれもちょっかい出さないって」
 「だって、不細工かどうか暗くなってしまえばわからないじゃない」
 お婆ちゃんのフォローは全然嬉しくなかった。不細工はパパのせいだ。丸っこく横に広がった鼻のせいだ。他に似ているところは全然ないのに鼻だけがそっくりだった。何とかの空似だとパパは言う。「何とかの空似」の「何とか」って何?と聞いたら、ママが「他人の」って答えた。それから、「あたしの方に似ればよかったのにね」と言った。ママの鼻は高からず低からずまあ日本人の標準タイプと思う。
 「まんず、よかった、よかった。だば、私は帰るよ。ぐずぐずしてると今度は私がお父さんに怒られるもの」
 お爺ちゃんは日本酒の会社の偉い人で、見るからにすごく偉そうだ。地元の銘酒を海外にも売っているのだとお婆ちゃんが言っていた。会うたびに「成績はクラスで何番か。それは上がったのか、下がったのか」と聞かれる。下がったと正直に答えると、「そりゃ、負け組だな。おまえの親と同じだ」とぴしゃり言われる。たまに上がったというと、順番を聞かれる。「そんな下の方で上がっても意味はないな。おまえの親と同じだ」とやっぱりぴしゃんと切り捨てられる。親というのはパパとママと二人ともだ。糸の切れた凧みたいなママはもちろん、パパも勤めていた会社が倒産してからは貧乏になって、前の一軒家からこのアパートに引っ越した。ツキはお爺ちゃんの口が大嫌いだった。いつも嫌味なことを言うからというだけじゃなくて、生タラコみたいに厚ぼったくてぬらぬら光っているのが人間離れしててほんとに気持ち悪い。しかも、左右均等じゃなくて右側の下唇が蚊に刺されたみたいに一段と分厚かった。お爺ちゃんの質問には大抵嘘で答えるようになった。
 夕食のおかずはデミグラソース味のハンバーグとサラダだった。作ってくれたのはお婆ちゃんじゃなくて綾子さんだ。綾子さんは新しく来た住み込みの家政婦さんで少女漫画のキャラクターみたいにきりっと口角の上がった素敵な唇をしたおばさんだ。三回ぐらいしか会ったことがないけれど、まっすぐツキを見て唇で微笑んでくれる。すると、凍てつく雪の朝に柔らかな春陽のマントで包まれたような心地がする。パパとハンバーグを食べた。炊飯器には古くなった御飯が硬くなってこびりついたままだったので、冷蔵庫に残っていた食パンを囓り、ダイエットコーラを飲んだ。
 五月の最後の日曜日、ツキはパパに頼まれた買い物をするためにアパートの階段を下りて行った。アパートの敷地の片隅に小さな花壇があってそこにはよく季節の花が咲いていた。今は名前のわからない赤紫の花が幾つも咲いている。穂先に淡いピンクの花をびっしりつけたのもある。濃い緑の葉陰で恥ずかしそうにうつむいて咲いている白い花は知っている。自転車置き場に行こうと建物の角を曲がろうとした時、向こうから歩いてくるお爺さんに出会った。前にも姿を見たことはあったけど、正面から顔を見たのは初めてだった。老人は無愛想な顔で手に鎌を持っていた。避けるように端に寄って自転車置き場に向かった。
 自転車に乗って風を切ると肩まで伸びた髪が気持ちよく宙を泳いだ。スーパーとドラッグストアに行って、フランスパンや牛乳や歯磨きチューブ、石鹸などを買った。新発売のチョコレートが百二十円で美味しそうだったので、それもカートに入れた。パパはいちいちレシートを見ないからおつりだけ渡せば大丈夫だった。カーサ・リバーサイドに帰ってくると、花壇にさっきの老人がいた。草取りをしているらしく、こちらに背を向けて地面にしゃがみ込んでいる。気がつかない振りをしてそっと自転車置き場に回ろうとした時、しわがれた太い声に耳を掴まれた。
 「おや、お帰り!」
 無視して通り過ぎた。すると、老人の声がもっと太くなって追いかけてきた。
 「おおい、オオイヌノフグリがまだ咲いてるよ」
 返事をする代わりに老人の方に身体をひねった。
 「知ってたかい?オオイヌノフグリは朝咲いて夕方には散ってしまうんだ。ほら、見てごらん。こんなに小さい青い花だよ」
 仕方なく自転車のスタンドを立てて老人のそばに身をかがめた。老人の節くれ立った指先に本当に小さな青い花がひと群れ咲いていた。
 「お嬢ちゃん、オオイヌノフグリの意味は知ってる?」
 首を振ると老人は先生が発音を教えるように一音一音ゆっくりと明瞭に告げた。
 「イヌのキンタマ」
 「え!」
 「ね、驚くだろ?」
 「なんで?こんな可愛い花なのに」
 ツキの抗議に老人は頬を緩めた。
 「みんなそう言うのさ。そんな名前じゃ可哀想だってね。なんでそんな名前がついたかって言うと、この花の果実、実だな。実の形からきたんだよ。こんなふうに玉が二つくっついたような形でさ」
 老人は自分の両手を丸め、それを手首のところで合わせて見せた。
 「これが犬のキンタマにそっくりってわけさ」
 そう言われても犬のキンタマを見たことがないからわからない。ツキは老人と並んでしゃがみ込んでいることに違和感を感じなくなっていた。
 「この花は待ちぼうけの花なんだ」
 「待ちぼうけ?何を待ってるの?」
 「蝶々だよ。蝶々が来て蜜を吸ってくれるのを待ってるのさ。蝶々はこの辺りにも来ていたよ。でも、もっと大きな花の方がたくさん蜜があるからね、どうしてもそっちの方に行ってしまう。たんぽぽとか、チューリップとかね。蜂とか他の虫もそうだ。オオイヌフグリみたいな小さな花にはなかなか来てくれない。待って待って待ちくたびれて、蝶々が来ないまま夕方になって、もうだめだ、散ってしまうという時、ようやく一匹の紋白蝶が蜜を吸いに来てくれたなんてことがある」
 「おじさん、見てたの?」
 老人の皺だらけの顔が嬉しそうにほころんだ。
 「そうさ。見てたのさ、ここじゃないけど、別の場所でそれを観察したことがある」
 「じゃあ、待っても待っても蝶々が来なくて散ってしまったオオイヌ…何だっけ」
 「フグリ」
 「ああ、フグリもいるんでしょ」
 「そのとおり。そうすると花粉を運んでもらえないから繁殖できない」
 「繁殖って?」
 「増えて子孫を残すってことだよ」
 「それができないと困るの?」
 「まあ、生物は子孫を残すのが本能だから、みんな頑張ってそうしようとするんだけど、うまくできないこともある。でも、生物はどれも独りぼっちじゃないから、たとえば、ここの群れが繁殖できなくても他の場所の群れができれば大丈夫さ」
 「ふうん。なら、よかった」
 「はっはあ。すっかり時間を取らせてしまったね。さあ、もう行きなさい」
 老人は微笑んだ。両目の下の皮膚が垂れてポケットみたいになっている。ちょうどオオイヌフグリの青い花がひとつずつ収まりそうだった。

            3
 堤防の道は真っ暗だった。ふくろう通りの夜市に行けば、ほくほくのじゃがいもが買えると聞いて、ツキは赤いがま口を持って家を出た。ふくろう通りというのはどこだろう?初めて行くところだけれど、行ってみるしかない。土手の道には街灯というものが一つもなく、左手に見える家々の灯りだけが頼りだ。北国の五月の夜風はうっかり者の不意を突くようにたいそう冷たく、ツキの鼻腔を通って咽喉、肺腑にまでしみとおった。ツキは橋のたもとまで来て立ち止まり、四方を見渡した。この前、うさぎが座っていたパイプ椅子はそこに置かれたまま、所在なさそうに佇んでいる。すると、かさこそと草波が生じて何か白いものが出てきた。白い生き物はツキのそばに来ると背筋を伸ばして正座した。猫婆さんの四匹の猫のうちの一匹に違いない。四匹とも元々捨て猫だったのを拾って育てたのだと聞いている。特に白猫は目やにがひどくて失明寸前だったらしい。
 「こんな夜更けにどこへ行くのさ」
 「ふくろう通り。あのう、白猫さん、ふくろう通りがどこだか知ってる?」
 白猫は金色の目を爛々と見開き「知ってるよ」と答え、すぐに付け加えた。
 「教えるかどうかは別だけど」
 「意地悪言わないで教えてよ。ほくほくのじゃがいもを買いに行くんだから」
 「意地悪じゃないよ。親切のつもりさ。ふくろう通りは人間の女のちびが行くとこじゃないからさ」
 「どういう意味?」
 「知らない方がいいよ」
 白猫はしなやかに踵を返すと、徐に草むらの中へと歩み去る。ツキは追いかけていってその白い優雅なしっぽをむんずと掴んだ。
 「こら、俺様の大事なアースに触るな!」
 白猫が振り向いたので、ツキは跪いて土下座した。
 「白猫さん、お願いだから教えてください。どうしてもいいじゃがいもを買いたいの。それで、美味しいポテサを作ったら、きっと白猫さんにもあげるから、教えてください」
 「ふん。あいにくポテサは口に合わなくてね。でも、まあいいや。そんなに行きたいなら行くがいいさ。ほら、この道をまっすぐ行くと鉄橋があるだろ。その真下のコンクリートの脇に丸い窪みがあるよ。そこがふくろう通りへの入り口さ。そこへ行ったら、こう言うんだ。白猫のノスコー様の紹介ですとね」
 「わかった!白猫さんの名前はノスコーさんなんだね。ありがとう」
 「ノスコーさんじゃない。ノスコー様!」
 「あ、ノスコー様、ありがとう!」
 「ちょっと待て。人間の女のちびが神隠しに遭ったら俺様も後味が悪いから、ついでに教えてやろう。帰りたくなったら、呪文を言うんだ。これだ。ドムム レデオー」
 「え?何?もう一度」
 「ドムム レデオー!」
 「ドムム レデオー、ドムム レデオー。ドムム ええと、ドムム レデオー。わかった。本当にどうもありがとう」
 ぺこりとお辞儀をして歩き出したツキの背中にノスコーの声が追いかけてきた。
 「おい、ポテサなんかいらねえよ!」
 「ドムム レデオー、ドムム レデオー」
 ツキは真っ暗闇の中を呪文を唱えながら進んだが、小石に蹴躓いた拍子に頭の方でシューッと音がしてすぽんと抜けた。ドドム、ドーム、ドムム、ムムム?鉄橋の下まで辿り着いた時には呪文は変貌を遂げていた。鉄橋の真下に立ってもコンクリートと草むらがあるばかりで、ノスコーの言う窪みがあるかどうかはわからなかった。それでも、あると想像する方角を向いて声を出した。
 「白猫のノスコー様の紹介です。ふくろう通りに行きたいんです」
 何も起こらなかった。ジージージーという虫の鳴き声だけが虚しく響く。ツキはもっと大きな声で言ってみた。反応なし。もうやけくそになって、金切り声で叫んだ。「どうしてもふくろう通りへ行きたいんです!お願い、何とかして!」すると、草むらの一部がほんのり明るくなって、ちょうどツキの背丈くらいの洞穴がぽっかり口を開けた。一瞬ためらった。けれども、自分でも抑えることのできない力が内側から湧いてきて、その揺るぎない衝動に導かれるように、たゆたうような白い明るみの中へと進んでいった。進んでいくにつれて、自分が歩いているところが学校の廊下のような感触だと気がついた。突然、子どもたちの話し声や笑い声が聞こえてきた。そちらを見やると四年一組と書かれたプレートが目に入った。休み時間だろうか、先生の姿は見えず、三十人ばかりの子どもがてんでにおしゃべりしたりふざけ合ったりしている。突如、はっきりとした言葉が耳に飛び込んできた。
 「やあい!嘘つき!有紗の嘘つき!」
 「おまえなあ、嘘ばっかりつくのやめた方がいいよ」
 「そうだよ、何が秘密のトンネルでろばに追いかけられてけがしただよ!」
 「忘れ物の言い訳もいつも嘘だもんね。もう誰も信じないよ」
 「やあい、嘘つきツキコ!」
 「そうだ、今日から有紗じゃなくて、嘘つきツキコって呼ぼうぜ」
 「あ、それいいじゃん」
 絵里花の声が言う。
 「ねえ、ねえ、ツキコ、今日はなんで遅刻したか言って!」
 「母ちゃんが宇宙人にさらわれたとか?」
 「母ちゃんが犬、噛んだとか」
「わあ、やりそう!」
教室中に大爆笑の渦が起こった。
「この前さ、おまえの母ちゃんが八百屋のおばさんと喧嘩してたとこ、見たぜ。すげえ顔して怒鳴ってた。おまえの母ちゃん、ヤンキーなんだってな。そういう雰囲気あるよな」
複数の声が応える。
「うん、ある、ある」」
 「違う!ママはヤンキーなんかじゃないよ」
また、大爆笑。
「聞いた?ママだって」
「どう見てもママって感じじゃないよねえ、あの人」
「わあい、ママだって」
「ママ~、ママ~」
絵里香も一緒になってみんな口々に甘えた調子で囃し立てた。ツキコと命名された女の子は机に突っ伏して、時々肩を震わせている。外から覗いていたツキはいつの間にか肩に力が入って両の拳を硬く握っていた。何とも言えない気持ちだ。四年生の時の自分の姿を六年生の自分が見ているというのは。一方で、テレビか映画の一場面を見ているような感じがした。「ツキコ」が短くなって「ツキ」になったのはいつごろだったっけ?いや、いや、今はそんなことよりふくろう通りだ。我に返って見渡すと廊下の突き当たりがまたぼんやり白く浮き上がっている。誘われるように近づくとEXITの緑色の標識が目に飛び込んで来た。どこへともなく逃げていく緑色の男を追いかけるようにドアを開ける。目の前に白い道が伸びている。道の両側にオレンジ色の明かりが一つずつ灯っている。よく見ると明かりの形は鳥のようだ。ああ、あの形は、ふくろうだ。羽をすぼめてかっと目を見開いたふくろうだ。
ふくろう通りを歩いて行った。まもなく通りの左側に品物を並べた店がずらりと見えてきた。誰もいなかった通りに三々五々人の姿が現れた。ツキは赤いがま口の所在を確かめた。大丈夫。誕生日にママからもらったピンクの花柄の布袋の中にハンカチと一緒にちゃんとある。店を覗くと、いろんなものが売られていた。ガラスや陶器の食器。植木鉢みたいな器、魚やカエルやイルカなんかを象ったガラス細工、おはじきやヨーヨー、けん玉、お手玉などもある。次なる店先に並んだものに目を奪われた。そこには花柄模様や水玉模様の鉛筆や、色とりどりの表紙のノート、メモ帳、薔薇の花の形をした消しゴムなど、ツキの大好きな文房具が売られていた。思わずクリーム色の薔薇消しゴムに手を伸ばして匂いをかぐ。ああ、本当に薔薇の香りがする。お店のおばさんはツキの行為を咎めるでもなく、何か声をかけるでもなくあらぬ方を向いてじっと座っている。ほかにも定規やホチキス、可愛い手ばさみなど、小さなものたちを眺めているうちに、本来の目的を忘れそうになった。化粧道具や人形たち、いろんな模様の布などの店先を目をつむって通り過ぎ、じゃがいも屋を探した。それにしても、市は通りの左側だけで開かれていて右側にはふくろうの明かりもなく真っ暗闇だ。すれ違う人々がまったく無言で表情がないことにも気づいた。お年寄りも若い人も子どももいるけれど、彼らはよくできたマネキンのようにつんと涼しいすまし顔をしている。
 突然ツキの全身を冷気が吹き抜けた。心臓が凍りつきそうな恐怖が透明なマントを広げて覆い被さってきた。身震いが止まらない。本当だ。ここは怖いところだ。ノスコーの言っていたとおり。帰ろう。もう、いい。じゃがいもは諦めてさっさと帰ろう。ノスコーが教えてくれた呪文を呼び覚ます。「ドーム、ドーム」
 頭が金縛りに遭ったみたいに動かない。唇がわなわなと震え出す。
 「ドーム レオー?ドーム リデオー?ドドム…」
 ツキは顔を覆って座り込み、頭のてっぺんから悲鳴をあげた。その時、声が聞こえた。生きて働く人間の声が。
 「へい、らっしゃい。ほくほくのじゃがいもはいかが。栗みたいに黄色い取れたてのじゃがいもだよ。こちとら、じゃがいもだけ売ってるじゃがいも専門店さ。ほかでは買えないよ。早い者勝ち。すぐ売り切れだよ~」
 ツキは声のする方へ駆け寄った。野球帽を被ったお兄さんが身振り手振りを交えてじゃがいもを売っている。全身を温かい血が巡り出した。
 「そ、そのじゃがいもください!」
 「へえい、毎度。一袋、五百トス。今夜は一段と安いよ」
 「五百…トス?あの、五百円じゃないんですか」
 ツキは赤いがま口から五百円玉を取り出してお兄さんに見せた。愛想のよかった目が三角に吊り上がった。怖い。がっしりして髭が濃くて黒木先生よりもっとクマっぽい。
「あんた、どこから来たんだ?ここの世界のもんじゃないな。そんな銀色の丸っこいもんじゃダメだ。ここで通用するのはきらきら光る金色のお金だけだ。それもきっちり正三角形のさ」
 お兄さんは手元から夜目にきらめく小さな正三角形を出して見せた。
 「わあ、綺麗!」
 ツキが手を伸ばすと、光輝く正三角形はさっと身を引いた。
 「え?あの、そんな金色のお金は持ってないんで、ええと、あたしは、あの、白猫のノスコー様の紹介で、鉄橋の下から、ええと、その、窪みの向こうの道から、ほくほくのじゃがいもを……」
 お兄さんの目つきがますます険しく尖ってきたのを見て、ツキは泣きべそをかき始めた。すると、女の人の声がした。
 「なあに、まだちっこい人間の女じゃないか。じゃがいもくらいくれてやりなよ」
 ショートカットの髪に紫色のブラウス、ショートパンツから形のいい足がすらりと伸びている。ツキは目を見張って叫んだ。
 「ママ!ママじゃん!なんでここにいるの?ほんとママだよ。びっくりした!ママが若くなってる!」
 紫色の胸を震わせて大笑いする女の声が響き渡った。小粒の歯をむき出しにして笑う笑い方もまったくほんとにママだった。
 「何を血迷ってんのさ。あたしゃ、あんたみたいな不細工な子を生んだ覚えはないよ」
 「俺もタネ、提供した覚えはないな」
 「だよねえ」
 ママにそっくりのじゃがいも屋の奥さんは、じゃがいも屋の髭の濃い頬を両手でそっと挟んだ。
 「ほんと、あんたのタネ、使いたかったよ」
 じゃがいも屋は、突然ママにそっくりのじゃがいも屋の奥さんをぎゅっと抱きしめて、その頬と唇にキスした。ツキは仰天して混乱のあまり口走った。
 「タ、タネ?一年生の時、朝顔のタネ、取ったよ。それ、ママにあげたじゃん。それ、どうしたの?」
 「このガキ、何言ってんだ?うざいガキだな。じゃがいも持たせてさっさと返しちまおう。よし、ノスコーだったらあの呪文だな」

            4
 ツキは机に向かっている。お気に入りの大判の自由帳を開いて絵を描いている。四角い枠の中に机や椅子や本棚、お茶を飲むためのテーブルとソファー、衣装箪笥、ぬいぐるみを並べる飾り棚なども丁寧に描き込む。飾り棚には丸い木皿があってその中にいろいろな種類のどんぐりや木の実が山盛りになっている。幼稚園の頃からどんぐりを拾っては飾っておくのが趣味だった。どんぐりの形もさまざまで細長いのや小柄なのや少し太っちょのもある。色もきつね色から栗色まで素敵なバリエーションがある。すらりとしたスタイリストのマテバシイ、頭に白い毛糸の帽子を被ったようなイチイガシ、少し太っちょのクヌギ、正統派どんぐりと思うアベマキ、それからツキの大好きなくるみの実。なかなか眠らない時にくるみを握らせておくと寝入ったとママから聞いた。まだ雲の上にいた時、ママが男の人と一緒に森の中で木の実を拾っているのを見て、この女の人の子どもになろうと思った。二人がとても幸せそうだったから。そして、ママのおなかの中にいた時、おへその窓から木皿に盛られた木の実を見ていた。そこにはムラサキシキブの艶やかなあやめ色とナナカマドの紅い実もあった。その木皿は今もある。
 おやつのチョコレートやお煎餅、クッキーを入れておくのは白いロー箪笥にしようか、それともベージュ色の観音開きにしようか。紅茶用のポットやティーカップ、リボンの装飾が彫られたティースプーンも要る。仔猫のターシャのためにキャットタワーも必要だ。ターシャは淡い水色の目をした優美なロシアンブルーで、もちろんツキと話をすることができる。二人だけの共通の言葉で。木製の本棚にはお気に入りの本がずらりと並んでいる。世界の神話や昔話、美しい絵本たち、物語がたくさん詰まったカチッと分厚い本も。窓のカーテンは草色で裾の方に菜の花が描かれている。全ての家具にクーピーと色鉛筆で彩色を施す。こうして有紗とターシャの部屋が完成した。ツキはここで物語を作る。作るというか、すでに頭の中にある記憶を呼び起こす。白猫のノスコーと話し、過去の自分に会い、鉄橋の真下の窪みからふくろう通りに出かける。これから年上の男の子と出会ってすとんと恋に落ちる予定だ。恋に落ちたら、穴に落ちたと同じでまったくなんにも見えなくなるらしい。
 ふうっとため息を漏らし、黄色く変色した畳の上に寝ころぶ。いつもの天井の木目と目が合った。ちょうど流し目のよう見える木目が虚ろにツキを見つめている。端っこの天井は何度も雨漏りがしたために一段と茶色っぽく変色している。パパがリサイクル店で買ってきた小さな文机はいろいろ文房具を並べるには狭い上に、何だか汚くてみすぼらしい。きっと貧乏な家の鼻を垂らした男の子が使っていたのだ。一袋百円のイカピーかなんかを直接この上に置いて、それを食べながら嫌々算数の宿題をやっていたのだ。新しい机と椅子のセットが欲しかったのに、パパは「日本人は正座だ」とか、わけのわかんないことを言って買ってくれなかった。パパが正座してるのを見たことがない。この四畳半の部屋にはお菓子の引き出しもティータイム用の素敵なテーブルやソファーもないし、仔猫のターシャもいなければキャットタワーもない。ないことはちゃんとわかっている。木の実が少しだけ入った木皿だけは埃をかぶってカラーボックスの中にある。あることとないことと、ちゃんとわかっている。ふくろう通りはある。むささび通りはない。
 「有紗、有紗!」
 パパが呼んでる。居間に行くと珍しく出かける準備をしていた。顔がいつもよりさっぱりして見えるのは髭を剃ったからだと気づく。
 「今夜は仕事の打ち合わせで出かけるから、夕飯一人で食べな。綾子さんが来て何か置いていったから。九時までには帰る。わかったな」
 ツキはこくりと頷く。
 「ちゃんと返事をしなさい」
 「はい」
 嫌な予感がした。パパがいないのは寂しいどころか嬉しいくらいだ。ツキは何か不吉なものを払うように片手を動かす。今日は土曜日、明日は日曜日。土曜日からいきなり月曜日になることはないだろう。でも、時々日曜日の記憶が飛ぶ。何をしていたんだろう。何もしていなかったのかもしれない。運動会も終わって来週から六月だ。算数ドリルの宿題があるけど、今夜は昨日図書室で借りた本をゆっくり読もう。そう思っているとお腹が鳴った。綾子さんは何を作ってくれただろうと思って冷蔵庫に向かう。大きくて平べったいタッパーを開けると、赤い綺麗なサーモンがスライスされた玉ねぎやきゅうりと一緒に透明なスウプの中で寝ていた。こういうの、たしかマリネとか言うんだっけ。それから、大根とがんもの煮物もあった。炊飯器を開けると、珍しく湯気の立つ炊きたての御飯が入っていた。御飯を炊いてくれる妖精にはまだ会ってないから、パパが炊いてくれたんだ。足が何かに当たった。見ると、大きなじゃがいもの入った袋がひとつ転がっている。ああ、じゃがいももある。
 味噌汁は自分で作った。大根と油揚げとわかめの味噌汁。顆粒のだしを入れて完成。ねぎの小口切りを散らす技も覚えた。テレビのニュースを見ながらサーモンマリネと煮物を食べる。ニュースでは毎日誰かが死んだと言っている。ツキの知らない世界のどこかで毎日誰かが死んでいる。大きな鉄道事故があったり、地震や洪水や土砂崩れで一度に大勢の人が死ぬ。一つの国が二つのグループに別れてお互いに殺し合って、女の人や小さな子どもたちが巻き込まれて死ぬ。今夜は名古屋の中学生が首を吊って自殺したというニュースをアナウンサーの男の人が落ち着いたいい声で伝えていた。それを聞きながらツキは御飯と味噌汁をお代わりする。綾子さんの料理は一人で食べても美味しい。いや、一人の方が美味しい。寂しくなんかない。全然!台所で食器を洗い、ワゴンの脇を通った時派手にけっつまずいた。じゃがいもの袋だ。しゃがみこんで見るとじゃがいもはどれも大きく立派で、触ると硬く引き締まっていた。上等のほくほくのじゃがいもだ。あとは玉ねぎとにんじん、きゅうり、りんごが要る。明日スーパーに行って一気に手に入れよう。
 自分の部屋で図書室から借りた本を手に取った。三DKの間取りの一室は居間、一室は寝る部屋、もう一つの四畳半は物置になるはずだったが、ツキが勉強頑張るからこの部屋頂戴とさんざ粘ってようやく手に入れた。ママが「あたしの部屋がない」と騒いだので「ママは要らないでしょ!」とパパとツキが口を合わせて一蹴した。ママは癇癪を起こして「だから、こんなしけたとこにはいられないのよ!」とか言ってその日も家出した。
 ツキも毎日のように家出する。小さい魔女がカラスのアブラクサスと暮らす森へ、春になるとスナフキンが帰って来るムーミン谷へ、洋服ダンスの奥から夜明けの東の海へ、うさぎの穴に落っこちてワンダーランド、十三時の鐘の音とともに真夜中の庭へ。どの物語も本当なのだ。でたらめの嘘話じゃない。だから、鉄橋の下の窪みがふくろう通りへの入り口になっていたって不思議はない。いつだって特別の入り口は現れる。世界は「今、ここ」だけじゃなくて、別の世界とつながっている。それは赤ん坊の頃から知っている。そのことで嘘つきと言われたって平気だ。嘘じゃないもの!本当だもの!この目で夜の教室を見たし、一辺が一センチくらいのキラキラ光る正三角形のお金も見た。この手で夜市で売られていた立派なじゃがいもを触った。じゃがいも屋のお兄さんと話もした。あることとないこと、したこととしなかったこと、ちゃんとわかる。
 ツキは本の表紙を眺めた。どこかの森の中みたいな絵に白い霧が立ちこめている。よく見ると霧の中に幾人か人の姿が見える。タイトルは『今日は人生最悪の日』図書室でこの本を見つけた時、胸がときめいた。タイトルが愛想よく手招きしていた。何よりこの本自身がおのが身の不幸を物語るように、埃にまみれて一番下の棚の奥に落っこちていた。誰も知らない暗がりで発見されるのを待っていた。これを見つけたのは間違って一番下の棚を蹴飛ばしてしまったからだ。蹴飛ばした拍子に幾冊かの本が倒れ、それを直そうとした時に奥に落ちていたこの本を発見した。あまり厚い本じゃないけれど、ハードカバーのしっかりした装丁で小脇に抱えると何だかさまになった。
 「あら、まあ。汚い本だこと」
 図書室の先生が顔をしかめて雑巾でざっと拭いてくれた。ツキは家に帰ってからもっと丁寧に拭いた。その時、この本には作者の名前がないことに気づいた。不思議に思いながら本を開く。目次を見て自分の目を疑った。そこに書かれていたのは、「前書き」という三文字だけだった。驚いて頁をめくる。「前書き」はある。二頁にわたって書かれている。でも、その先は……。めくってもめくってもめくっても真っ白い紙。頁数さえ書いてない。何回見ても光にすかしてみても同じこと。図書室でぱらぱら中を見た時はこんなんじゃなかった。ちゃんと普通の本のようにどの頁も漢字や平仮名や片仮名で埋まっていた。とりあえず、前書きを読んでみる。それを読んでまたまたびっくり仰天。いきなりこんなことが書いてあった。
 「この本は世界にたった一冊しかない本です。これを今手にとって前書きを読んでいるそこのあなた!ほら、あなたですよ。あなた一人のための本です」
 ツキはドキリとした。本の中から人差し指が一本すっくと立ち上がり、その指で眉間の辺りをど突かれたような気がした。本は重々しく言葉を続ける。
 「これは運命的な出会いです。出会ってしまったからにはもう戻れません。この本を慌てて返したとしても、この出会いをなかったことにすることはできません。あなたはこの本を所有し、この本はあなたを所有します」
 慌てて本を閉じ眉間を押さえた。そうだ、こんなこともあるかもしれない。ふくろう通りもちゃんとあったし、じゃがいも屋もあった。ママはじゃがいも屋の奥さんだったし、白猫ノスコーはふくろう通りを知っていた。こんな変わった本があってもおかしくない。でも、今は御免だった。今はちょっと休みたい。
 お風呂に入った。湯船に浸かり目を閉じるとさっきの本の表紙が浮かんだ。あの白い霧の中にはいろんなものが隠れていて見ようとすれば見えるんだと思った。身体を洗いながら胸に触る。乳房がまろやかに膨らみ始めている。草陰に隠れた野薔薇の蕾みたいな乳首は、世界を拒むように小さく硬く尖っている。初潮のことは学校でビデオを見て知っていた。もうそれが来て、お母さんが赤飯を炊いてくれたという女の子がクラスに何人もいる。小柄でやせっぽちのツキはまだだった。生理でお腹が痛いとか、すごく眠いとかぼそぼそ話しているグループからは疎遠になる。「いいよねえ、まだの人は」背中越しにそんな言葉が聞こえたりする。本当に、ずっと「まだ」ならどんなにいいだろう。そんなもの永遠に来なければいい。血ならずっと前から流している。もっと小さい頃からずっと、この胸の辺りから。お風呂から出てテレビを見ていたら眠くなってきた。眠い目で時計を見ると、九時十五分だ。パパはまだ帰らない。布団を敷いて枕に頭を落とすとすぐ眠りの波にさらわれた。途中で一度ぼんやり目が覚めた。何かの気配がした。耳元に何か感じてしきりにこすった。誰かが何か囁いていたよう気がしたけれど、また睡魔に引きずり込まれた。
 翌朝、起きていくとパパが居間の襖を開けたまま寝ていた。いつ帰ってきたのか気がつかなかった。お酒をいっぱい飲んだ時の疲れてふやけた顔をしている。半開きの口と丸っこい鼻の穴で時々大きな鼾をかいている。酒臭い部屋の空気を追い払おうと窓を全開にした。外を眺めると、青い空の下、木々や草の緑、川面が日の光を浴びて微笑むように輝いていた。土手を走ったり犬と散歩したりしている人々の姿が見える。道端には赤や黄色や紫や色とりどりの花が咲き乱れている。ツキが名前を知っているのはたんぽぽとスズランとダリアくらい。ツキの顔ほどもある大きなクリーム色のダリアはここからでもそれとわかる。パパが起きてくる気配はなかった。トースターでパンを焼き、マーガリンとマンゴージャムを塗って食べた。ミルクをレンジで温めてカフェオレも作った。ただのホットミルクなんて子どもの飲み物は六年生になってから卒業した。朝はインスタントコーヒーをたっぷり入れたカフェオレでなくちゃいけない。
 さて、宿題を片づけねばならない。算数のドリルが二頁と国語の感想文。小数のかけ算とわり算の総復習。六年生になってもまだ小数の計算で満点を取れない人がいるからと復習ドリルが出た。ツキも時々小数点の位置を間違う。テストで時間がなくなってくるとあせってしまう。計算ドリルは面倒くさいから、早く片づけようとしてまた間違う。文章問題ではどっちをどっちで割るのかわからなくなって、適当にやってしまう。「あるペンキをうすめて、一・二倍の量にして使います。うすめたときの量を四・二リットルにするには、もとのペンキの量を何リットルにすればよいでしょうか」よく問題を読んで考えてから式を書くようにと先生から何度も言われるけど、考えるとよけいにわかんなくなるから、えい、やあ!ってやる方が当たったりする。感想文は得意だ。そんなに考え込まなくてもすらすら文章が出てくる。漢字を直されることはあるけど、たいてい大きな花丸をもらう。ドリルは一頁で終わりにして国語のノートを出した。「生物のつながりの輪を読んで」とタイトルを書く。六年三組 三浦有紗と名前を書く。鉛筆を握った手が止まった。教科書を眺め、鉛筆を削り、ノートの綴じ目にたまっていた消しゴムのかすを始末し、爪が伸びているのを発見して爪を切った。それでも、最初の一行が書き出せず仰向けに寝転んでいると、パパに呼ばれた。返事を渋っていると、呼び声は怒鳴り声になった。
 「有紗!おい!人が呼んでるのに返事もしないのか!」
 「今、宿題やってんだもん!」
 「宿題やってたって返事くらいできるだろ!お前は自分勝手でママとそっくりなんだよ。こっち来い!すぐ!」
 ツキが渋々居間へ入っていくと、カランと可愛い音がした。パパが氷を浮かべたウイスキーのコップをテーブルに置いたところだ。パパは赤く濁った目でツキを睨んだ。
 「まあ、座れ。いいか。今日はお前に秘密の話をしてやる。今まで話さなかった秘密の話だ。お前の母親はあのとおり金持ちのお嬢様で、あのいけ好かない偉ぶったジジイに甘やかされて育ったから、中年ババアになっても遊び歩いてばっかりで、とうとう病気になってしまった。若い頃はもっともっと遊び歩いてた。ボーイフレンドがとっかえひっかえ何人もいたんだ。これはまだ秘密の話じゃない。秘密というのはこれからだ」
 そこで、パパはグエッと汚い音のげっぷをした。ツキは逃げ出したいのを我慢して座っていた。けれども、パパはとろんと腐ったような目をして宙を見つめて黙り込んだ。
 「何?秘密の話って」
 沈黙に耐えられず尋ねると、「お前、今、いくつだ?」と聞き返された。
 「え?いくつって、年?十一だよ」
 そう答えると、パパの腐って崩れそうな目が潤んできて今にも水があふれそうになった。ツキは目をそらした。
 「そうか。秘密の話はあとにしよう。いいから宿題をやりなさい」
 午後、買いものに行くと言うと、パパは一万円札をよこした。自転車に乗ってポテサの材料を買いに行く。玉ねぎ、にんじん、きゅうりを籠に入れ、りんごを探す。果物売り場にはオレンジやプラムやキウイやバナナが並んでいる。りんごは一つも見つからない。思い切ってバナナを並べている青い制服のおばさんに聞いてみた。おばさんは振り返り、「りんご?りんごなら、ほら、その辺ですよ」と言って果物コーナーを見渡した。
 「あら、ほんと。りんご、ないね。ちょっと待ってね」
 そう言うと従業員だけが出入りできるドアの向こうに消えた。ツキはおばさんが戻って来るのを待っていたが、いつまで経っても戻らなかった。並べ終わらないバナナがカート台の上に取り残された。あの従業員専用のドアを開けて聞いてみる勇気は持ち合わせていなかった。パン売り場に移動して、それから自分用にチョコレートとクッキー、パパに頼まれたアーモンドと豆腐とパンを買った。
 どうしてポテサを作ろうなんて思ったんだろう?自分の知らないところで誰かが勝手にスイッチを押したせいで、このプロジェクトは始まってしまった。プロジェクトという言葉はパパに教わった。パパの仕事はシステムエンジニア。SEっていうらしい。SEの仕事がどんなのだか知らないけれど、いろんなプロジェクトに関わって仕事をしてきたらしい。機嫌のいい時は「今度のプロジェクトはパパがリーダーなんだぞ」と自慢そうに話したりした。そういう時は本当に忙しくて会社に何日も泊まりこんだ。でも、失業してからあんまり仕事の話はしなくなった。今は家でコンピュータの前に長いこと座っているけど、何をしているのかは知らない。
 帰り道で猫婆さんに会った。穏やかな陽射しを浴びていつものパイプ椅子に座っていた。挨拶すると、皺だらけの顔をほころばせた。
 「おや、買い物かい。感心だね」
 ツキは自転車を止める。白猫のノスコーと目の上に傷のある黒猫があさっての方を向いて寝そべっている。猫婆さんは瞼の垂れ下がった目で川の向こうにかすむ山の稜線を仰いでもう一言付け加えた。
 「ふくろう通りには行ったかい?」
 ツキは息を呑む。
 「どうしてふくろう通りを知ってるの?」
 猫婆さんはすぼんだ口を綺麗に開いて笑った。
 「若いのに物忘れがひどいね。ふくろう通りのことを教えてやったのはこの私だよ」
 ツキは目と口を丸く開いたまま絶句した。
 「大丈夫。言いふらしたりしないさ。まあ、せいぜい頑張るんだね」
 二匹の猫がつまらなそうに同時に欠伸をした。

            5
 ツキは眠り続ける。眠りの中で多くの旅をする。カンブリア紀の海でピカイアと泳ぎ、ジュラ紀の草むらで恐竜に遭遇し、かぐや姫が男たちを捨てて月に帰るのを見送り、銀河鉄道に乗って赤く燃える蠍座を眺め、サハラ砂漠で狐といっしょに砂に絵を描き、津波にさらわれて跡形もなくなった街の、がれきの黄昏をさまよう。時々、苦しそうなうなり声が聞こえてくる。その度にはっとして目が覚める。うなり声が自分の声だと気づくまでに時間がかかった。重苦しい頭痛と喉の痛みで目を覚ますと、白い靄のかかった天井が見えた。ママの声がした。おろおろと取り乱した高い声。パパの声も聞こえた。二人ともしきりに「有紗、有紗」と呼んでいる。「有紗じゃない。あたしの名前はツキだよ」そう言おうとしても唇が萎えたように動かず、有無を言わせぬ何か強い力が穴の中へと引きずりこむ。壊れて不協和音ばかり奏でる水琴窟の底へ。うううっ。頭にひびが入りそう。
 雷が轟き、叩きつけるような激しい雨が一晩中降り続いた。ツキの部屋は雨漏りがするので、いつもバケツが置いてある。雨がバケツの底を連打する音と暴風雨の音で悪夢にうなされた。朝になると、豪雨は嘘のようにやんで、六月の川べりは瑞々しく息づいていた。川の水量が増えて鉄橋の橋桁のところで茶色い水が渦を巻いているのが遠目にも見えた。テレビのニュースが県内陸部で崖崩れがあって、死者と行方不明者が出ていることを報じていた。頭痛と喉の痛みは治まっている。幼い頃から突然熱を出して寝込んだかと思うと、翌日にはケロリとしている子どもだった。口の悪いお爺ちゃんは、せっかく知恵熱が出てもこんなに早く治まっては、あんまり知恵もつくまいと言ったそうだ。ツキは土手道を歩いてみたい衝動に駆られ、お気に入りの小豆色の帽子を被って繰り出した。帽子が好きなのはママの影響だ。ママはいろんな色と形の帽子をコレクションしていた。麦わら帽子もありきたりのじゃなくて、ウエーブした大きなつばに長いリボンが垂れた素敵なやつだ。コサージュのついたつばの短い帽子とか、真っ赤なキャスケットも持っていた。チロリアンハットは実用ではなくて、ただ飾ってあった。ママは気が向くとツキのためにも帽子を買ってきた。自分の好みで勝手に買ってくるので迷惑だけれど、鏡の前で被ってみるのは大好きだった。ただ、真黄色のキャップとか、朱色のベレー帽とかは被って出かける勇気はなかった。でも、この小豆色のクロッシェはとても好きだ。顔の輪郭を引き締め、目の上にささやかな優しい陰を作って、被ると大人びた感じになる。橋のたもとまで来て誰もいないのを確認すると、石の階段を下りて川のすぐそばまで行った。濁った水が滔々と流れていく。流木に白いビニール袋が引っかかってこれでもかと洗われている。
 「嘘つきツキさん」
 背後から呼びかけられて振り向くと、アーモンド型の大きな目が見つめていた。
 「なんだ。うさぎさんじゃない。あんたって、いつも人をびっくりさせるんだから」
 「実を言うと、誰かをびっくりさせるのが僕の使命なのでありまして……それはともかく、学校さぼって何してるんですか」
 丁寧語しかしゃべらないうさぎが生徒指導の先生みたいに落ち着き払って聞いてくる。
 「あんたこそ、何してるのよ」
 軽くむかついて聞き返す。うさぎはまた頼んでもいない話を始めた。
 「この前のオオバコの話ですけどね、彼らがどうして僕に踏んでほしいと頼んだかというとですね、彼らの言うことには、踏まれないと他の草との縄張り争いに負けてしまうからなんです。踏まれて増える草なんです」
 「ふうん、それがどうしたの」
 白けた様子でそう言うと、うさぎは大きな足で地団駄を踏んだ。石の間のわずかな土から生え出た細長い草が石畳にへばりついている。
 「前にも言いましたけど、人を切って捨てるようなそういう言い方、やめた方がいいですよ。ついでに教えてあげるとですね、ポテサの完成は、極めてむずかしいでしょう」
 大きな足があっという間に石の階段を上っていった。
 「ふん!ポテサの完成は、極めてむずかしいでしょう」
 ツキはうさぎの気取った口調をまねて言ってみた。それから足元の小石を一つ川に蹴り込んだ。ほんとに癪に障る。今日は絶対ポテサを作るんだ。絶対完成させてやる。一気に家まで走った。息を整えながらじゃがいもを洗っていると、電話が鳴った。無視することにした。電話は一度切れて、続けてまた鳴ったけど、知らんぷりを決め込んだ。三回目に鳴った時、担任の水野先生だと直感した。仕方なく受話器を取るとやっぱりそうだった。もちろん嘘をついた。お腹が痛いので休みますと言うと、先生が「わかりました。お大事にね。ちょっとおうちの人に代わってもらえますか」と言ったので、また嘘をついた。
「パパもママも仕事に出かけました」
先生は心配して一人で大丈夫かと聞いたので、三度目の嘘をついた。
「お婆ちゃんがもうすぐ来るので大丈夫です」
先生はとても安心した声で「それならよかった」と言って電話を切った。こういう時はちゃんとした嘘をつかなければいけない。カモシカにお腹を踏まれましたとか、パパとママが妖怪だいだらぼっちにさらわれてしまったのでとか、そういうちゃんとしていない嘘はだめだ。パパが今朝早くから仕事に出かけたのは本当だ。ママは家出中。今度は長そうだ。この前お婆ちゃんが来た時、ママはいつもの別荘にいるけど、身体の具合が悪いからもう少し休ませると言っていた。別荘というのは北海道のどこからしいけど、行ったこともないし、よく知らない。どうせ金持ちのお爺ちゃんの別荘だろう。お婆ちゃんが毎日綾子さんの作った料理を持って来る。お婆ちゃんが来られない時は綾子さんが持って来て、ついでに掃除をしてくれることもあった。
 じゃがいもの皮を剥く。大きなごつごつした面に包丁を当てて皮を削ごうとするが、包丁が深く刺さってしまい、実が抉られる。じゃがいもの色がほんのり黄色でおいしそうだけれど、皮が剥かれるにつれてじゃがいもは小さくなり、厚ぼったい皮がまな板の上に積み上がった。一個剥くだけでかなりの時間がかかった。あと三個ぐらいは剥かなくちゃ。ツキは二個目のいもを取り、もう少し薄く剥くにはどうすればいいか思案した。いろいろやってみるうちに包丁の刃の角度が悪いということがわかった。包丁をもっと平らに寝せて、水平に動かせばもっと薄く剥けるはずだ。やってみると案の定うまくいった。四個目のじゃがいもに取りかっかった時は随分コツがわかってきた。親指を上手に使うと包丁がすいすい動く。ところが、調子に乗ってちょっとよそ見をした瞬間、包丁の刃がすべって左手の親指に当たった。あっと思った時にはもう見る見る鮮血が噴き出した。とっさに水道水で洗い流すが、流しても流しても血は止まらない。急いでティッシュを探すうちにも血は滴り落ち畳を汚した。しかめ面でテーブルの下に隠れていたティッシュを見つけだし、傷にかぶせてぎゅうっと力をこめて押さえた。しばらく押さえていてもう止まったかと思って見てみると、親指の爪の少し下からまたじゅわじゅわと鮮やかな赤色が滲み出てくる。傷口は小さくそれほど深そうでもないのに血が止まらない。目をつぶってぎゅっと押さえ込む。しばらくうずくまって押さえていると、ようやく止まったようだ。包帯を巻きたかったが、包帯なんかどこにあるんだろう。保健室の大村先生なら手際よく巻いてくれるのに。三年生の時、転んで掌を切ったことがあった。大村先生はバンドエイドだとはがれてしまうから包帯巻いてあげるねと言って、ちょうどいい按配にくるくるぽんとやってくれた。そうだ、バンドエイドだ。バンドエイドはどこだ?
 昼御飯も食べないで部屋でごろごろした。暇を持て余して『今日は人生最悪の日』を開いた。すでに前書きは全部読んだ。この本が自分に何をさせようとしているのかもわかった。それをしてみようと思うのだが、まだできなかった。左手の親指はティッシュで覆われてセロテープでぐるぐる巻きにされていた。剥いたじゃがいもはビニール袋に入れて冷蔵庫の野菜室の一番奥に隠した。じゃがいもの実がたっぷりくっついた皮は袋に入れて台所のゴミ箱の底深くに捨てた。時間が経つに連れて傷が痛みを増してきた。何をやる気も失せてふてくされていた。玄関のチャイムが鳴った。恐る恐るドアを開けると、えんじ色のブラウスに身を包んだ綾子さんが立っていた。
 「夕飯のおかず、持って来ましたよ」
 綾子さんはすぐにツキの左手の異変に気がついた。
 「あら、どうしたんです?その指は」
 「じゃがいもの皮を剥いてて……」
 綾子さんは上がり込んで野菜室の奥から皮を剥かれたじゃがいもを発見して笑った。
 「まあ、お嬢さんがポテトサラダをねえ」
 秘密がどんどん秘密でなくなっていく。綾子さんはせっかく剥いたじゃがいもがもったいないと言って、ポテサを作るという。ツキは綾子さんが作るところを見学することになった。じゃがいもを電子レンジで柔らかくしている間ににんじんを細い櫛形に切り、玉ねぎをスライサーでシャシャシャとスライス、レンジがチンと言うと、すぐににんじんをレンジに入れ、スイッチオン。マッシャーを探し出してボールの中でじゃがいもをつぶし、塩をぱらぱら。塩はもちろん利尻昆布塩。綾子さんはそれを知っていた。
 「奥様に教わったの。有紗ちゃんのお婆ちゃんにね。ほんと、この塩、万能なのよ」
 じゃがいもはほんのりクリーム色で見るからに美味しそうだ。レンジがにんじんのできあがりを告げると玉ねぎスライスと一緒ににんじんを投入。手早くきゅうりをスライス、林檎はないと言うと冷蔵庫の野菜室でしなびかけていたキウイを救出。ボールの中身にたっぷりマヨネーズを絞り込み丁寧にまんべんなく混ぜる。ツキに味見をさせ、もう少しマヨネーズをという要望に応えて追加。ツキがオーケーを出すと最後に小切りにしたキウイを軽く混ぜ入れて完成した。ツキがそれにプチトマトをトッピングして見た目も美しいポテサになった。
 ツキはポテサにちょっとだけ醤油をたらして柔らかい食パンに挟んで食べた。絶品だ。綾子さんの手際のよさはもちろんだったが、何と言ってもほくほくの黄色いじゃがいものお陰だと思った。美味しいと言うのさえ忘れて二枚目のパンに齧りつく。形のいい唇の端をきりりと上げて微笑んでいた綾子さんが腰を浮かせた。
 「よかった。そんなに美味しそうに食べてくれて。じゃあ、帰りますよ」
 ツキは口の中いっぱいポテサパンを頬張りながら、突然綾子さんに抱きついた。大好きな食べ物を味わう小さな幸せと、どこから来たのかわけのわからない大きな悲しみが同時に胸に押し寄せてきた。綾子さんの胸に頭を預け、泣きながらしゃくり上げながら、合間にポテサパンを噛んだ。ツキの背中を綾子さんの温かい手がゆっくり三回叩いた。
「大丈夫。有紗ちゃんは大丈夫!何にも根拠はないけどね」
 そう言って綾子さんは有紗の頭をそろりと撫でた。それから、幽霊みたいにすうっと立ち上がり静かに帰って行った。ツキはひとしきり激しく泣いた。そのあと、まだしゃくり上げながら三枚目のポテサパンに齧りついた。カフェオレもお代わりを作った。「何にも根拠はないけどね」って、むかつく。けど、気に入った。とっても!
 夕方、パパが帰ってきたので、バンドエイドの在りかを聞いた。その指はどうしたのかと一応聞いてくれたけれど、カッターでちょっと怪我をしたと答えるとそれ以上追及されることもなくバンドエイドを出してくれた。綾子さんが置いていったおかずは唐揚げとひじきの煮付けだった。ツキはもうたらふく食べた後だったので、食が進まない。パパはほんの一口しか食べないツキに何も言わなかった。パパは綾子さんの作ったポテサを食べた時は「おお、美味い!」と喜んで笑みを見せたものの、後はにこりともしないでテレビを見ていた。以前はもう少しいろんな話をしてくれた。
 たとえば、パパが子どもの頃飼っていた犬の話。元々野良犬で保健所送りになるところを、動物好きだったパパのママが引き取った。汚い身体を洗ってみると真っ白なふわふわの毛で大きな目が黒々として思いがけず可愛かったそうだ。その時はもう大人の犬になっていたから、なかなか人間に懐かなくて器用に首輪をすり抜けて何回も逃げたらしい。捜して歩くのは中学生だったパパの役目で、名前を呼びながらあちこち捜し回ったけど、パパが見つけたのは一回だけで、あとは近所の人が見つけてくれたり、悪さをしているところを通報されたり、また保健所送りになるところをかろうじて救出されたり、みんなを困らせた。でも、一年も経つと自分で帰って来るようになったから、逃げても放っておくようになった。そうして三年くらい経ったころ、ある日、家出したままついにとうとう帰らなかった。どこでどうしたのか、生きているのか、死んでしまったのかわからないままだそうだ。
 「今でもたまに夢に出てくる。あいつがダーって逃げて行くんだ。で、もって途中で立ち止まってちょっとだけ後ろを振り返るんだな。しろすけがね」
 「しろすけっていうの?」
 「そうだよ。真っ白だったから、真っ白しろすけ」
 しろすけはきっと追いかけて来てほしかったんだ。どこまでも。
 六月の最後の週も過ぎて、七月になった。七月は梅雨の季節だ。上旬からどんよりした雨天が続き、ようやく梅雨の合間の晴れ日となったある日の夕方、学校から帰ってくるとママがいた。相変わらずベリーショートの髪にベリーショートのショートパンツ。アロハシャツみたいに派手なブラウスを着て、一人でぼんやりテレビを見ていた。いつもばっちりフルメークしているのに、今日はまるで化粧っけがなくて病人のような青白い顔をしている。何だか急に年を取って別人みたいに見える。
 「よ!有紗、久しぶり」
 ママはいつもするように自分の頭の高さに片手をあげた。声にも元気がない。ツキは黙って片手をあげた。パパの靴はなかったから出かけているのだろう。保険会社のアヒルと猫のコマーシャルがテレビから流れる。テレビだけがしゃべっている。自分の母親なのに間が持たない。遠くの親戚のおばさんと二人だけにされたみたいだ。親戚のおばさんだったら「しばらく見ないうちに大きくなって」とか言うはずだけど、そんなことも言われない。ママはいつになく口が重い。
 「あの、宿題しなくちゃいけないから」
 そう言ってそのまま自分の部屋に逃げ込もうとした時、ママが叫んだ。
 「有紗!」
 声に怒りとも脅しとも悲しみともつかない強い力がこもっていてたじろいだ。
 「有紗!あんた、生きてて楽しいかい?」
 ツキの身体は緊張で強張り、喉が締め付けられるように苦しくなった。黙っていると、ママの声が短剣になって突き刺さってきた。
 「楽しかないだろ?え?楽しいはずがない。こんなどうしようもない母親もってさ。あんた、もう生理は来たの?生理って、知ってるだろ?女になるってことだよ。娘の生理の世話もしてやれないなんて、こんな母親もってほんと可哀想だね」
 いきなり生理のことなんか言い出すママの気が知れなかった。女になるなんて言い方にむかついた。胸の底で苦虫色の液体が沸々と煮えている。ツキは無言を通した。ママは怒りの湯気に気づかない。独り言のようにもそもそしゃべる。
 「ママは壊れてしまったんだ。もう普通の生活、できないから。入院したり、退院したりの繰り返し。だめだ。薬やめることもできないから……」
 「病気なんでしょ。しょうがないじゃん!」
 ようやく絞り出した声に思いのほか力がこもった。
 「あんた、いつの間にかママの知らない子になったね。心に硬くて冷たい石ころでも抱いてるみたいだ。でもさ、ほんとの気持ちを言わないとママみたいに頭がおかしくなるよ」
 「もう、とっくにおかしいから」
 「おや、怖い子だね」
 ママがうっとうしかった。金輪際ホントの気持ちなんか言うもんか。ずっと入院しててくれた方が、こんなふうに突然帰ってこない方が、気持ちを乱されなくてずっといい。「ママなんかいなくても大丈夫だから、もう帰って」と言ってやりたい気持ちをなんとか抑えていた。すると、ママが自分から言った。
 「ママなんかいなくてもいいんだろ?いない方がいいと思ってんだろ?正直に言いなよ」
 こんなママは初めてだった。こんなふうにいじけて怒っているママは。
 「ね、そうなんだろ!有紗!何とか言いなよ!」
 ヒステリーの時の甲高い声だった。もう煮えたぎる湯ではない。何かがパチンと弾けて導火線に火がついた。
 「そうだよ。ママなんかいない方がいいよ!その方が気が楽じゃん!」
 ママが傷つくのを承知で、いやもっともっともっと傷つけてやりたいという意地悪な衝動に駆られて、ツキは大声で言い放った。
 「もう帰って来ないで!」
「わかった」
 ママの声は決然としていた。色あせたオレンジ色の布バッグとコサージュのついた麦わら帽を取り立ち上がった。ツキは引き留めてなんかやるもんかと奥歯を噛みしめる。ママは出て行った。ドアから出る時ほんのちょっと振り向いたけど、ツキは目を反らした。
 「コツはやっぱり隠し味のお酢ですね。これでぐっと旨味とコクが出るんですよ」
 小太りの料理の先生がテレビの中でにこやかにしゃべっていた。

 6
 ツキが再びポテサに挑戦しようと思ったのは、夏休みに入ってすぐのことだった。夏休みの自由研究について担任の水野先生が説明した。
 「自由研究ですからほんとに何でもいいですよ。植物や動物の観察日記でもいいし、何か工作するのでもいいです。料理を作ってそれをリポートにまとめるのでもいいですよ」
 ツキの頭にぴかっと電気が光った。これで宿題が一つ片づく。先生は付け加えた。
 「ただし、自分でやり遂げること!もう一年生や二年生ではないのですから、おうちの人に手伝ってもらうのはダメです。うまくいかなくても失敗してもとにかく最初から最後まで自分で取り組んでください。これがルールです。ただし、火の扱いには十分気をつけて、くれぐれも安全に……」
 そうだ。これで自由研究は終わった。
 善は急げ。夏休みの第一日目、ツキは一人で昼食のパンを食べてから買い物に出かけた。まだ梅雨の明けない空はどんよりと曇っている。今にも降ってきそうな按配だったけれど、傘も持たずに自転車に乗る。いつものスーパーでポテサの材料を見て回る。完璧だ。すべての材料を買うことができた。自転車の前籠に荷物を載せてこぎ出した。空は一段と暗くなり、遠くで雷鳴も聞こえる。稲光が走る。大きな雨粒が一つ二つ手の甲を打つ。自転車をこぐ足に力が入る。十分!あと、十分降らないで!直後、いきなり滝壺に落ちたみたいに視界が閉ざされた。容赦のない豪雨に打たれ一瞬息ができなかった。路面を叩きつける雨で前方が煙っている。顔を滝のように流れ落ちる滴で目を開けていられない。息苦しい。自転車を押してゆっくり歩き出した。頭に載せたハンカチを片手で押さえて駆け出す人々の姿が視界をかすめる。全身びしょぬれになってようやくアパートに辿り着く頃、雨足は弱まり、切れた雨雲の間から光が差した。自転車置き場でTシャツの裾を絞ると勢いよく水が流れ落ちた。ため息が口をついて出る。水が滴り落ちるスーパーのビニール袋を持って階段に足をかけたところで呼び止められた。
 「やあ、大変だったねえ」
 オオイヌノフグリのおじさんが嘘のように青空をのぞかせた空の下、花壇にしゃがみこんで何かやっていた。
 「ああ、はい」
 ツキは一刻も早く着替えたかったので、どんどん階段を上っていく。
 「風邪引かないようになあ」
 フグリのおじさんはまったく濡れた様子もなくシャベルで土を掘っている。びっしょり濡れて肌にひっつく下着を脱ぎ捨てて身体じゅうを拭き着替えると、さっぱりした気分になった。買ってきたものの水気を拭き取って冷蔵庫にしまった。その時異変に気がついた。 
じゃがいもがない。冷蔵庫にしまったものをまた出して買ったものすべてを床に並べた。じゃがいもを一袋確かにかごに入れてお金を払い、レジ袋に入れて運んできたはずだった。何度もその過程を思い出して首をひねった。あるはずのものがない。どうしてないのかわからない。じゃがいもなしでどうやってポテサが作れるだろう?
 ツキは出鼻をくじかれて時間を持て余した。ドリルの宿題もやる気が出ない。堤防を散歩したかったけれど、またフグリのおじさんに会うのがうっとうしくて出て行きかねた。ごろりと寝ころんで天井を見上げる。雨漏りがしていたところは修理してもらって漏らないようになった。パパがこの前の大雨の時、畳までぐしょぐしょになってあんまりひどかったので、怒って管理会社というところに電話したのだ。「こんなオンボロアパートになんかいられるもんか」ママじゃなくてもそう言いたい。でも、ツキはここにいるしかない。他にいるところはない。ママに会いに行こうとは思わない。お婆ちゃんが夏休みに別荘においでと言ったけど、ママのことを考えただけで心がちくちくする。ママに酷いことを言った。ママなんかいない方がいい、帰って来るなと言った。それで心がずっとひりひりしている。でも、ママに会ったら、また酷いことを言いそうな気がする。もっともっと酷いことを。ぼんやり天井の木目を眺めているうちに意識がふわりとしてきた。つかの間うとうとして、はっと目が覚めた時、耳の中に誰かがささやいた。
 「じゃがいもはよ、あれでなくてはだめだ。あの黄色いほくほくのでなくてはよ」
 ツキは跳び起きた。ああ、やっぱりあれでなくては。ふくろう通りに行こう。じゃがいも屋のお兄さんから黄色いほくほくのじゃがいもを……ああ、でも、三角形の金貨がない。この前はなんとかなったけど、今度はだめかもしれない。そうだ。白猫ノスコー様だ。ノスコー様に相談してみよう。
 堤防を歩いて橋のたもとまで行った。ゲリラ豪雨の後の空はすかっと思いきり夏色で、力強い光が降り注ぎ、山々の稜線がくっきり見える。ノスコーは今頃パイプ椅子のある草陰に寝そべっているはずだ。ところが、白猫の姿はなく代わりにしっぽの先だけが白い黒猫が土手の真ん中にちょこんと座っていた。目の上に傷がある。猫婆さんもいない。
 「あのう、ええと、黒猫さん、こんにちは」
 黒猫はエメラルドグリーンの海に浮かぶ目ん玉をくるんと泳がせてツキを見た。
 「あのう、白猫のノスコーさんがどこにいるか御存じですか」
 黒猫は徐に右の前足をぺろぺろ舐め始め、次に左を念入りに舐めた。それから、ぱたりと地面に横になると、ぐい~んと身体を伸ばした。
 「イグノスは人間なんか相手にしないのさ」
 振り向くとノスコーが音もなくそばに来ていた。
 「すべて理解してるけど、無視。気位が高いのさ。よっぽど気が向いた時じゃなければ、イグノスは応えない」
 「そうなんだ。よかった、ノスコーさんが来てくれて」
 「ノスコー様!」
 「あ、御免。ノスコー様!」
 ツキは遠慮がちに正三角形の金貨を手に入れる方法はないかと聞いてみた。ノスコーの答えは簡単かつ明快だった。
 「どうしても必要なら、何とかなるものさ」
 「そんなこと言われても…」
 「じゃあ、諦めるんだね」
 冷たく言い放つと、ノスコーは寝そべっている黒猫に声をかけた。
 「イグノス、昼寝に打ってつけの場所を見つけたんだ。木陰で涼しくて、おまけに別嬪のロシアンブルーと逢い引きできるんだ」
 「そりゃあ、いいな。ノスコー。ションベン臭い人間のちびよりずっと刺激的だぜ」
 二匹は連れ立って徐に草むらの陰に消えていった。猫に馬鹿にされたツキは奮起した。鉄橋の下までずんずん歩いた。ちょうど鉄橋の真下に来た時、電車が頭の上を通過した。まだ明るい斜面に車両の影が映って消えた。夏草が鬱蒼と生い茂った窪みに向かって前と同じように唱えてみた。
 「白猫ノスコー様の紹介です。ふくろう通りに行きたいんです。お願いします」
 嘘みたいに入り口が開いた。ほんのり明るい入り口の向こうは薄い墨汁を流したみたいに闇がたゆたっている。力を込めて足を踏み出す。歩き出すと今度も廊下だった。きっと教室が現れると思っていると、果たしてそのとおりだった。五年三組の表示。教室の隅の方で数人の女子グループが輪になっている。輪の外には何人かの男子もいる。輪の真ん中に立っているのは肩までの髪を無造作に垂らした痩せて小さい少女。
 「だから、どうしてそういう嘘つくわけ?」
 「どうせ嘘ならもっとましな嘘つけばいいじゃん」
 「そうだよ、なんで空から煮干しが降ってきたとか、言うわけ?」
 「あひゃあ、今度は煮干しかよう!」
 「前はカボチャだったよな」
 「そう、そう。でかいカボチャが降ってきて頭に当たって倒れてたとか」
 男子たちがゲラゲラ笑い転げているのに比べて、女子たちは一様に怖い顔をして真ん中の少女を睨んでいる。
 「だから、嘘つきツキコって言われるんだよ」
 「もういい加減にしてよ!」
 「ツキのママは不良で、パパは刑務所帰りなんだってね」
うなだれていた少女が顔を上げた。
「そんなこと、言ってない!ママは芸術家で、パパは社長だもん」
「うわあ、痛!またバレバレの嘘ついてる!」
 「ほんっと、まじむかつく」
「親が悪いと子どもも悪くなるんだって、うちのお母さんが言ってたよ。ツキったらカワイソー」
少女が懸命に声を振り絞る。
「カワイソーとか言うな!嘘つきでいいもん。ツキコでいいもん」
 「へえ、あんた居直るつもり?」
 一番身体の大きい美香が少女の肩を度突いた。煽られるように二人が続いて手を出す。
 「ちょっと、やめなよ。そういうの」
 そう言ってかばったのは絵里花だった。少女が口を開く。
 「いいよ、絵里花。嘘つきツキコで。嘘が大好き。嘘つかないと自分じゃないって感じ」
 「へえ。いい根性だね。なら、ずっとやってれば」
 「なら、もう友だちじゃないから」
 「なら、シカトだから」
 「でも、絵里花は友だちかもね」
 美香が意地悪い目をして絵里花を見た。
 「行こう」
 美香が言うと他の女子も従う。男子はとっくにいなくなっていた。絵里花と少女が残された。絵里花が少女の目を見てにっこりした。
 「あたしは友だちだよ」
 「ありがとう。でも、絵里花も仲間はずれにされるよ」
 「いいって。気にしない、気にしない」
 あれから二人仲良くトイレに行ったのだった。どうして絵里花が嘘つきツキコと友だちだと言ってくれたのか、今でも友だちでいてくれるのかわからない。絵里花も本を読むのが好きだからかもしれない。でも、美香だってよく図書室で本を借りては読んでいる。絵里花と美香の違いは何だろう。
 ツキは一年前の教室を後にした。自分もひとつの物語の中のひとりだという気がした。世界中に星の数ほどある物語の中の小さなひとり。
 EXITの緑の男を追い越して外に出ると、よく熟れた茄子みたいな色の空に細い三日月が浮かんでいた。空気がひんやりする。さっきからお腹の下の方に変な感覚があった。小人がお腹の中からそっとさすっているような感じ。痛いというより脈動するような感覚。それもふくろう型の街灯が目に入ったら薄れていった。ふくろう通りにはこの前と同じように左側だけにぎやかにお店が並んでいる。反対側は濃い墨汁を流し込んだような闇にどっぷり呑み込まれている。あそこには近づかない方がいいと直感的に思う。ツキは店先を覗きながらじゃがいも屋を捜した。この前と同じ店もあれば違う店もある。文房具屋や人形屋、布の店などは同じで、売り物の後ろに控えている人たちがみんな黙ったままじっと座っているのも同じだ。ツキは文房具屋のおばさんに声をかけてみた。
 「あの、この三角定規はいくらですか」
 髪を頭のてっぺんでお団子にし、シニヨンでまとめたおばさんは透き通るような肌をして、大きな目を見開いたままぴくりとも動かない。ところが、少し間をおいて彼女は小さな声で答えた。
「三百トス」
 ツキは慌てた。なぜだか答えが返ってくるとは思っていなかった。おばさんは眉一つ動かさず、目だけは先ほどと違ってまっすぐツキに向けられている。ツキは青くなった。
 「あの、あたし、ここのお金は持ってなくて、ただ、ちょっといくらか聞いてみただけで、御免なさい」
 おばさんは一度も瞬きをせず、にこりともせず言った。
 「じゃあ、質屋に行きなさい。すぐ隣だよ。それからまたここに来て、この三角定規を買いなさい。必ずきっと買いなさい」
 「質屋?」
 「そう、質屋」
 「はい」
 とにかく、質屋というところに行くしかなかった。不用意に声をかけたことを後悔した。質屋というのは聞いたことがあるけれど、実際何をどうするのかよく知らなかった。隣に行くと「質屋」と大きく書かれた暖簾があった。店先には売り物が何も置いてないばかりか、誰もいない。勇気を振り絞って暖簾をかき分けて入って行く。またお腹にあの感覚が戻ってきた。今度は脈動がさっきより強い。掌でお腹を撫でて中の小人をなだめる。店には木製の艶々したカウンターがあってお爺さんがひとり鎖のついた時計を磨いていた。
 「あのう、こんばんは」
 お爺さんは鼻まで落ちた眼鏡越しにツキを見た。
 「おや、珍しいお客だ」
 お爺さんには表情がある。もじもじしているツキに質草があるのかと聞いた。
 「質草って何ですか」
 「おやおや、質草も知らずに質屋へ来たのかね」
 お爺さんは苦笑いして、質屋がどういうところか説明してくれた。あらためて質草になるものを考えたけれど、今持っているのは布袋と赤いがま口、いくらかのお金、それとハンカチとポケットティッシュくらいのものだった。ツキはそれらをカウンターの上に並べた。お爺さんはひとつひとつ手にとって調べた。特にがま口の中身の五百円玉や百円玉、十円玉なんかはじっくりあらためた。
 「まあ、これでよしとしようか」
 お爺さんは奥に消えてすぐ戻って来ると、飴色のカウンターの上に光り輝く正三角形のお金を二つ置いた。
 「二タナーだ。念のために教えておくと、一タナーは千トスだよ。では、質草としてこれをもらうよ」
 お爺さんが自分の方に寄せたのは意外にも空になった財布だった。それは十歳の誕生日にママからもらったがま口で、金色の留め金がとても固くしっかりしていて始めのうちは開けるのに手間取った。ようやく開けると親指と人差し指の腹にくっきりと留め金の判子がついた。その代わり閉める時はパチンと気持ちのいい音がして、「大切な中身は何があろうとこのわたしが守りますよ」というがま口の決意が聞こえた。今ではすっかりなじんで開けやすくなっていたのに、雨に濡らしたりして鮮やかだった赤色も褪せて所々地が剥げたりしていた。ママからのプレゼントを置いていくのはママがもっと遠くへ行ってしまうようで、心残りだった。でも、今は仕方がない。
 「ありがとう」
 ツキの心細そうな顔を見てお爺さんが言った。
 「質草はまた取りもどせるよ。これが大事なものなら、取っておいてあげてもいいよ」
 ツキがうなずくとお爺さんは片手を上げた。さよならの合図だった。ツキは約束どおり文房具屋に戻った。「必ずきっと買いなさい」とあのおばさんは言った。買わないと何か怖いことになりそうな気がした。お腹の脈動ははっきりとした痛みに変わっていた。
 「あのう、三角定規、買います」
 そう言ってきらきら光るお金を見せた。おばさんは相変わらず無表情で二枚一組になったプラスチックの三角定規を差し出した。目盛りがついて中ほどに穴があいているあまりにも普通のそれを見て、やっぱり要らないと思いながらお金を差し出す。
 「おつり、七百トス」
 ツキは左手をお腹に当てたまま右手でおつりを受け取った。赤銅色の正三角形を七つ。
 「あのう、ええと、じゃがいも屋を知りませんか」
 おばさんはあっさり答えた。
 「今日は休み」
 「え!どうして」
 「知らない」
 おばさんは陰気な招き猫みたいな顔になって遠くを見つめている。そのまま半年ぐらいは動きそうにない。お腹の中で悪い小人が蠢(うごめ)いている。手を当ててうずくまった。おばさんは招き猫になったままもう息も止めたみたいだ。

            7 
 寝返りを打った拍子に何か生ぬるいものが流れた。重苦しい鈍痛が細い通路を押し進むようにゆっくりゆっくり匍匐前進して来る。何か歓迎すべからざる異変が起きている。トイレに行き下着を下ろすと赤いしみが目に飛び込んできた。それは蜂蜜が垂れるようにゆっくりと身体の奥深くから滴り落ちてくる。咄嗟にトイレットペーパーを手に取ってぐるぐる巻きにし、パンツに当てがった。生理用ナプキンは用意してなかった。困った。こんな垂れ流しで自転車に乗って買いものに行くのはしんどい。お腹は疼くし気分も最悪。人生最悪の日だ。また布団の中に潜り込み、横向きに海老みたいになって丸まる。けだるい疲れがよけいなことを考えなくてもいいようにしてくれた。
 ふくろう通りでじゃがいも屋の前に立っていた。ツキがキラキラ光る三角金貨を見せると、じゃがいも屋のお兄さんが嬉しそうに笑った。ああ、これは夢なんだなと思いながら、持っていたお金を全部渡すと、お兄さんは大きなじゃがいもがいっぱい入った袋を差し出した。「毎度あり。この前のつけの分ももらったよ。今日は出血大サービスだ」袋を両手で受け取る。ずしりと重くてのけぞった。ママにそっくりなじゃがいも屋の奥さんが「厄介なことになったね。でも、おめでとう」と言った。
 「だって、あんたあれになったばっかりだろ?今一番必要なものはトイレの上の棚にあるよ。茶色い紙袋の中にね」
 ああ、これは夢だと思いながら「ありがとう」と答える。ママみたいだけどママじゃないじゃがいも屋の奥さんは意味ありげに微笑んだ。
 起きあがってトイレに行く。昨日は何をしたっけ。学校には行ってない。だって、夏休みだもの。どこか別のところへ行った。いろんなことがあったような気がするけど、あまり覚えてない。目が自然と棚の上に行った。背伸びして茶色い紙袋を取る。中から水色のビニール袋に包まれた厚みのある柔らかいものが出てきた。ビニール袋を破る。ああ、これは今自分が一番必要としているものだとわかる。身体の内からどうしようもなくあふれ出るものを受け止めてくれる頼もしいお助けグッズ。それをどういうふうに使うかも知っている。それにしてもお腹が疼く。顔からじっとり脂汗が流れる。海老のようになって寝込むうち、またとろとろと眠る。誰かがそばにいるのを感じる。すぐそばに。耳元に生ぬるい息がかかる。生ぬるい息は生臭い声になる。
 「有紗、おまえ、血の匂いがするね。おめでとう。女になったんだね。パパの可愛い天使ちゃん」
 虫ずが走った。吐き気がして跳び起きた。真っ暗だ。嫌な夢を見た。いや、夢じゃないかもしれない。喉の奥から饐えた匂いが上がってきた。口を押さえながら急いで電気をつけた。部屋の中には誰もいない。文机の上に国語の教科書とノートと、本が一冊置いてある。『今日は人生最悪の日』という本が。トイレに駆け込んで吐いた。洗面所でうがいしているとパパが覗いた。
 「有紗、具合でも悪いのか。よく眠っていたから起こさなかったんだ。大丈夫か」
 「うん、大丈夫」
 「じゃあ、夕飯を食べなさい。パパは先に食べたから」
 その前にもう一度トイレに行ってナプキンを取り替える。使用済みのものをどこに捨てるかも知っている。トイレの隅にちょこんと置かれた青い三角ボックス。ママがあれを使っていた時、何を入れているのか見たことがあった。居間に行くとパパがウイスキーを飲みながらテレビを見ていた。
 「何だ、ほんとに顔色悪いなあ」
 ツキがだるそうにしていると、パパが食卓におかずを用意し、御飯も盛ってくれた。今日のメニューは何か魚のあんかけとほうれん草のソテーと茄子の漬け物だった。
 「漬け物はお婆ちゃんがつけたんだとさ。美味かったよ」
 パパは好物のアーモンドを口の中に放り込み、チーズを頬張る。
 「なあ、八月になったら、ママのところへ行ってみないか」
 ツキはほうれん草をよけてベーコンを摘みながら、首を傾げて考えているポーズを取る。
 「嫌か?北海道の札幌だぞ。ここよりは涼しいぞ」
 「ふうん」
 「ママは有紗に会いたがってるよ」
 「うそ!」
 「うそじゃないよ。本当さ。パパも何とか仕事がうまくいきそうだから、お盆のころには多めに休みが取れるんだ」
 「そうなんだ」
 ツキは茄子の漬け物がしょっぱすぎると思う。
 「じゃあ、いいね。飛行機、予約取るよ」
 「え!飛行機で行くの」
 「有紗はひとりで泳いで行くか?」
 「うん。ひとりで泳いでいく。それで、おぼれて死ぬ!」
 「ふざけるな。お婆ちゃんと三人で行くからな」
パパは勝手に札幌行きを決めてしまった。いつ行くかも全部もう決めていたのだ。
『今日は人生最悪の日』という本の前書きにはこんなことが書いてあった。
 「この本の作者はあなたです。これはあなたによって書かれる本です。いいですか。もう第一章が始まっています。あなたは近いうち最初の頁を書くことになるでしょう。もう逃げることはできません。でも、この本は二、三週間後には返さなくてはいけないだろうって?いいえ、そんな心配には及びません。よくご覧なさい。どこに図書館所有のラベルやスタンプがありますか」
 もちろんすぐに本をひっくり返してラベルやスタンプを探した。本当にそういう類のものはなかった。本の背にも裏表紙にも閉じた頁の厚みの上下側面どこにも!
 夕食を食べ終わってのろのろと食器を洗い、自分の部屋に戻る。しばらく放っておいたあの『本』を出した。あらためて点検する。やっぱりラベルもスタンプもない。本当に返さなくてもいいのだろうか。開くと真っ白な頁が猫なで声で促す。
 「さあ、書いてごらんなさい。この本を日記帳だと考えてもいいですよ。書きにくかったらまずは日付を書きなさい。よかったら天気もね。あなたにとって今日はどんな人生最悪の日でしたか。あなたはどこかでこの本を手に取った。そして、今もこの本が目の前にある。ということは、あなたの人生はバラ色というわけではないのでしょう?最悪とは言えないまでも、山ほど書くことがあるのでしょう?あまり嬉しくないことが。さあ、書いてごらんなさい。あなたの最悪のできごとを、あるいは最悪に限りなく近いできごとを。ほら、そこに鉛筆が転がってるじゃありませんか!」
 少し本を動かしたらほんとに鉛筆が転がり出た。紺色の鉛筆。ツキは日付を書く。まだ何も起こっていない真っ白な世界の一頁に。ついでに天気も。2Bの鉛筆がすらすらと動き出す。
 「今日は人生最悪の日でした。生理になったからです。絶対なりたくなかったです。お腹は痛いし、気分は悪いし、変な夢は見るし、吐くし、何もいいことなんかありません。何だかわかんないけど、罰を受けた気分です。ポテサもまだ作れません。おまけに、ママのところへ行くことになっちゃったし。まだあります。お婆ちゃんの漬け物はしょっぱすぎて、綾子さんの魚料理は味が薄すぎて、ほうれん草は大嫌い。小松菜のお浸しならまだいいのに。ほんとに今日は人生最悪でした」
 書いているとお腹の疼きを忘れた。紺色の鉛筆がまた動く。
 「私の名前は嘘つきツキコ。みんなが嘘つきツキちゃんと呼びます。毎日嘘をついて暮らします。いっぱいいっぱい嘘をついて、つける嘘がなくなったら、月に帰ります。はい、さようなら。私は月の子ツキコ。はい、さようなら。ごきげんよう。ところで、生理のこと、月のものって言うらしいです。何かの小説で読みました。かぐや姫もやっぱり月のものがあったのかな?かぐや姫はたくさんの男たちからプロポーズされたのに、みんな蹴飛ばしてさっさと月に帰っちゃったところがかっこいいと思います。めでたし、めでたし」
 ツキはパタンと本を閉じた。胸のつかえがおりて何だかすっきりした。歯を磨きながらハミングしているのに気がついて自分でも驚いた。トイレの水が流れる音がした。出てきたパパが声をかけてきた。
 「ほう、急に調子がよくなったな。何かいいことでもあったのか」
 「なんも」
 「なんだ、ないのか」
 パパが通り過ぎた。パパはいつもツキのそばを通り過ぎる。微かな風のように、突然現れた影のように。そして、パパの輪郭がだんだん薄くなっていく。有り難いような怖いような変な気がする。だから、この頃パパにはあまり嘘をつかない。
 本の前書きの最後にはこう書いてあった。
「頁の最後まであなたの物語を書き終えたら、世にも素敵なプレゼントが待っていますよ。この広い世界であなた一人にだけ届く、それはもうとっておきの素晴らしいプレゼントです。お楽しみ、お楽しみ。ああ、忘れるところでした。プレゼントの条件はもうひとつあります。それは、この本のことは誰にも話してはいけないということです。最高級の秘密、トップシークレットです。秘密結社の一員のように誰にも見つからないようにこっそりとこの本を開き、書き、閉じ、保管しなければいけません。いいですか。できますか。条件は二つですよ。一つ目は最後の頁まで書き終えること、二つ目は誰にも秘密にすること。どうかこの二つの条件をお忘れなく!では、成功を祈ります」
 本の中に潜んでいる大きな瞳がウインクした。本の中に棲む妖精に違いない。
 
            8 
 その日、ツキは何が何でもポテサを作ろうと思った。パパは仕事で出かけた。夕方まで帰ってこない。お婆ちゃんか綾子さんが来るかもしれないけど、それはいつも午後だ。それに、何と言っても月のものが終わってこの上なくめでたいお日柄だ。今、きっかり十時。時間は充分ある。まず材料を点検する。玉ねぎ、にんじん、きゅうり、りんご、そして、じゃがいも。はて、このじゃがいもはいつからあったのだろう?とにかく、材料が全部そろっているのはめでたいことだ。まずはじゃがいもの皮を剥く。美味しそうなクリームイエロー。包丁の扱いはだいぶうまくなっている。自分の指を切るようなへまはもうしない。大きなじゃがいもを三つ無事剥き終えた。一つを四つぐらいに切ってレンジへ。レンジの操作がいまいちわからない。「あたため」じゃなくて、何だっけ?いろいろボタンを押してみて、勘でやってみることにした。スタート。次に玉ねぎをスライスしようとしたが、スライサーが見当たらない。どこにしまった?この前綾子さんがポテサを作ってくれて、それからどうした?たぶんしまったのは綾子さんだ。あちこちの引き出しを開けたり閉めたりした。見つからない。仕方なく包丁で薄切りにするという難しい技に挑戦する。力任せに包丁を使ううち、たちまち目が痛くなって涙が滲み出た。蒸し暑さで額からは汗が滴る。泣きながら玉ねぎ一個を切り終える。あらためてよく見れば、スライスしたものとは大違いの分厚い切片ばかり。とっくに加熱を終えたじゃがいもをボウルに取り、マッシャーで潰す。操作が間違っているのか芯まで柔らかくなっていなくて、ほぐれない。力任せに押しつぶす。硬い部分がそのまま残る。そこに薄切りにしたつもりの玉ねぎを放り込む。急いでにんじんを切ってレンジにかける。今度は薄く小さく切った。きゅうりを出して薄く切る。スライサーがないと不便で疲れるということがわかった。それから林檎を剥く。途中でレンジがにんじんの加熱が終わったことを告げる。にんじんをボウルに投入して味を見ながら昆布塩。林檎も投入。あとはマヨネーズで……
 冷蔵庫の扉の下の方で出番を待っていたマヨネーズを発見したまではよかった。しかし、なんとマヨネーズはぺちゃんこだ。中身がほとんど入っていない。この前綾子さんがポテサを作った時、使ってしまったのだ。希望で膨らんでいたツキの胸は一気にしぼんで、目の前のマヨネーズと同じになった。
突然、電話が鳴った。悪い知らせの予感がした。こんな時にいいことが起こるなんてことはありえない。恐る恐る受話器を取る。
 「もし、もし、ツキ?」
 「え?」
 いきなりあだ名を呼ばれて狼狽した。
 「あたし、絵里花だけどっ!」
 「え、絵里花?どうしたの」
 「どうしたのじゃないよ。今日の約束忘れちゃったわけっ!」
 絵里花の声には太いとげが生えていた。今日絵里花たちと四人で市営プールへ行く約束をしていたらしい。そう言えばそんな約束をした覚えがある。ツキはひたすら謝ったけれど、絵里花のとげはますます太く鋭くなるばかりだ。
 「ツキったら、最悪。約束破るなんて絶対許せないからね。春菜とゆっこもすっごく怒ってるよ。もう話したくないって!絶好かもね。じゃ、そういうことで、さよならっ!」
 ツキは膝を抱えてその場にうずくまった。やっぱり、予感は的中した。生理のせいだ。生理になってお腹は痛いし気分は落ち込むしで、あたふたしていたから、他のことがすっ飛んでしまった。忌々しい生理め!一生呪ってやる。マヨネーズがないのも生理のせいだ。スライサーが見つからないのも生理のせいだ。目が痛いのも生理のせいだ。蒸し暑いのも生理のせいだ。ツキはお小遣いをショートパンツのポケットに突っ込んで家を出た。ここまで来たら突進するしかない。自転車に乗って走る。めちゃくちゃペダルをこいで堤防の道を走る、走る。車止めの赤白バーにぶつかりそうになりながらきわどくすり抜け、通い慣れたスーパーへ続く道を走る。スーパーでマヨネーズを引っ掴み、レジへ突進、もと来た道を戻る。今度は少しゆっくり。なんだ、簡単なことだ。これでポテサは完成する。一つくらい何か達成しないとほんとにまったくやってられない。
 堤防の道に続く路地の角を曲がってから思いきり立ちこぎをしてスピードを出す。車止めバーの赤白が突然にゅうっと目の前に迫った時、一転世界がひっくり返った。何かとんでもない衝撃を喰らって一瞬空中を飛んだ。そしたら、突然夜になった。
 気がつくと横になっていた。自分が仰向けに寝ているところがベッドの上であることはわかった。枕元に青い布製の笠を被ったランプがあって、その光がツキの身体の周囲を照らしていた。見上げた視野の先にはぼんやりした光が見える。星空を眺めている気分。ここは家の中じゃなくて外なんだろうか。不思議に思って見つめていると、ぼんやりした光が少しずつ増えていく。その光の川が明滅しながらきらめき流れる。昔パパとママと一緒に見上げた天の川みたいだと思う。たしかツキが小学一年生になった夏、どこかの高い山の上に行ったのだ。うっとり見とれていると、バサ、バサと大きな翼のようなものがゆったり羽ばたく音が聞こえた。やがて音は声になった。
 「シロカニペ ランラン ピシカン。コンカニペ ランラン ピシカン」
 抑揚低く歌うような不思議な声だ。身体中がぞくぞくして、ベッドの上に起きあがった。
 「ようこそ、ふくろうホテルへ」 
 「ふくろうホテル?」
 「さよう、ふくろうホテル」
 「ええと、あのう、ふくろう通りなら知ってるけど」
 「さよう、ふくろう通りを知っておる者しかふくろうホテルには来られん」
 「痛っ」
 ツキは頭を押さえた。突然頭の後ろあたりがズキズキと鋭く痛んだ。頭を抱え込む。しばらくそうしているうちに痛みはゆっくり遠のいていった。目を開けると人のような姿があった。恐ろしくて身体が硬直した。その人の顔は満月のようにまん丸で、白目に当たるところが真っ黄色、その中に絵筆で描いたようなくっきりした黒目があり、それが瞬きもしないでツキを見つめている。鼻は小さく先っちょがかぎ針みたいに曲がり、唇の輪郭はぼやけてよく見えない。真っ白で柔らかそうな髪が丸い顔を縁取り、身体は白っぽい綿毛のようなふわふわした衣服に覆われ、胸元には赤い蝶ネクタイが留まっている。
 「そんなに怖がらなくてもいいさ」
 ヒトだろうか、トリだろうか?恐怖で強張った脳みそが悩む。その時、ツキの方にすっと片手が差し伸べられた。それを見て本当に卒倒しそうになった。だが、次の瞬間、気持ちのいい涼やかな風が頬をかすめた。
 「おっと、この手は、ちと変わっているかの」
 すごく変わっていると言いたかったけれど、声が出ない。それは人間の指ではなくて、どう見ても鳥の足だった。
 「わたしが当ふくろうホテルの支配人じゃ」
 ツキは頷くのが精一杯だ。
 「まだショック状態か?それとも、挨拶もできないたわけ者かの?」
 ツキは乾いて干からびた喉にようやく絞り出した唾液を送り、舌で唇をひと舐めした。
 「あの、ええと。支配人さん、はじめまして。わたしの名前は……」
 本名を言おうとしたが、それがどうしても出てこない。自分の名前を忘れてしまった。
 「名前は?」
 支配人の声はしゃがれていて、とても落ち着いた低い声だ。怖くない。
 「わたしの名前は、ええと……嘘つきツキコ」
 「ほう、いい名前じゃないか」
 またそよそよと涼風が吹いてきた。今度はもっと長くたっぷりと。
 「嘘つきツキコ殿、何か質問がおありかな?」
 ツキは本来の好奇心を取り戻した。
 「あのう、このホテルには天井がないんですか」
 「さよう。天井もなければ壁もない。何かと何かを仕切る境界というものは一切ない。ほら、見てごらん」
 青いランプの光がずっと遠くまで射程を伸ばすと、ツキの網膜にはどこまでも続く果てしない空間が映った。
 「ほんとだ。でも、雨が降ったらどうするんですか。うちのアパートも大雨が降ると、雨漏りしてとても困ったんです。で、パパがどこかに電話して修理してもらったんです」
 支配人の黒い目玉がくるりんとひと回りした。
 「ほう、そうかえ。心配はいらん。ここでは雨は降らんでな。代わりに別のものが降る」
 「別のもの?どうして雨は降らないんですか」
 「ここは特別の世界だからじゃ。少なくとも世界地図には載っていない。ヤフーやグーグルの検索にもヒットしない。他に質問は?」
 ツキは少しためらってから思い切って言ってみた。
 「あのう、支配人さんは人間ですか、それともふくろうさんですか。もし、人間だとしたら男ですか、女ですか」
 ツキにはもうこの不思議なヒトを正面から見つめる余裕が生まれていた。今度は支配人の首がゆっくり右に回転し始めた。九十度で支配人の左の耳たぶが見え、百八十度でふさふさした白髪の後頭部が現れ、まもなく右の耳たぶがゆっくりツキの視界に入ってきた。左側にだけ金色に光るピアスがつけられていて、それがきっかり正三角形であることに気づいた。支配人の首は滑らかに一回転した。
 「人間にこんなことができるかの」
 ツキは激しく首を振る。そう、首は振るだけで精一杯だ。
 「でも、だからといってわたしがふくろうだと言っているわけではない。ちなみに、ふくろうの首は二百七十度しか回らないのだがな。さて、ここでは境界というものは一切ないと言ったろう。だから、人間かふくろうか、はたまたカラスか、ペンギンかペリカンかというような区別はない。よって、男か女かの区別もない」
 ツキは返事をする代わりにくるりと目玉を回してみた。何だか楽しくなってきた。もう一つ質問が浮かんできた。
 「さあ、今日はもう帰りなさい」
 「え?どうして?もっと聞きたいことがあるのに」
 「よろしい。では、もうひとつだけ特別に承ろう」
 「あのう、ここは夢の国ですか。私は夢をみているんですか」
 「その質問の答も同じだ。ここには境界というものはないのだよ。よって、夢と現実の境界もない。夢と現実は別々に切り離されているものではない。入り組んでいるのさ。ずっと昔から。さあ、おしめ臭い小娘はもう帰ったがいい。あんまり長居をすれば帰れなくなる。本当は怖いところさ」
 支配人の首が今度は縦に回転し、二つの目が上下に並んだ。また元に戻ると、次はゆっくり左に回り始めた。回転の速度が次第に速くなり、びゅんびゅん音がするようになった。それを眺めているツキの目玉もつむじ風に巻き込まれた木の葉のように目まぐるしく回転した。

             9
 自由研究の記録を書いていた。ポテサのレシピを文章にし、手順ごとにクーピーで絵を添える。写真を撮る方が簡単だけれど、完成したポテサの写真が撮れないので、手書きのイラストにするしかない。結局、マヨネーズであえるところまでいかなかった。マヨネーズを買った帰り道、ツキは自転車ごと車止めの赤白バーに派手にぶつかって倒れた。猫婆さんが気づいて救急車を呼んでくれたらしい。幸い病院でまもなく意識を取り戻した。頭と腰を打っていたが、いろんな検査の結果、特に異常はなかった。念のため一晩入院した。目を閉じるとさんざめく星空がいっぱいに広がって見えた。目を開けると闇の中に病室の白い天井がうっすら見えた。一晩中、誰かが囁くような低い声が聞こえて眠った気がしなかった。翌日パパが迎えに来て家に帰った。帰るとお婆ちゃんも来ていた。慌てて病院に駆けつけたパパとお婆ちゃんは疲れて不機嫌な顔をしていた。
 「心配させやがって、ぼやっとしてるからだ」とパパは怒り、お婆ちゃんは「まったく肝を冷やしたよ。この上、孫にまで何かあったらと思えば、もう生きた心地がしなかったもの」とこぼした。「だって、急にカラスが襲って来たんだもの」と言うと二人の冷たい視線が目に刺さった。「また、そういう見え透いた嘘ついて」とお婆ちゃんが嘆いた。
 お婆ちゃんが猫婆さんにお礼に行ったら、猫婆さんは今もらったばかりの金萬の菓子折をすぐに開けて口に入れ、お茶をひとくち飲んでからこう言ったそうだ。
 「あたしゃ、テレビを見てて知らなかったけど、白猫がいつになく鳴いて騒ぐんで外に出てみたんだ。あの猫は普段はニャンともワンとも鳴かない子でね。これは何かあったかなと思ったさ。そしたら、いつも見かけるあの子が倒れてるのを見つけたってわけさ。よかったねえ。何ともなくて」
 というわけで、ポテサは完成していない。だから、食べて味わってもいない。でも、完成して食べたことにして感想も書いた。「初めて自分で作ったポテトサラダはとてもおいしかったです」自由研究は終わった。
 ツキは自分の『本』を開いた。前に書いた文を読み返し、くすっと笑った。やっぱり、自分には白雪姫やシンデレラより、かぐや姫が合っていると思う。王子様と結婚するより一人でさっさと月の世界へ帰りたいと思う。嘘つきツキコの世界へ。紺色の鉛筆を執る。日付を書き、少し考えてから鉛筆を走らせる。すぐ鉛筆を置き、消しゴムを使って、消しゴムの匂いをかぐ。葡萄の匂い。また、鉛筆を持ち、それを眺める。「アリサ」と記名してあり、中ほどには悔し紛れの歯形スタンプが三か所も押してある。削ってあるけれどまた削る。そして、書き始める。今度はスイッチが入った。鉛筆に意志があるかのように勝手にサラサラ動き出す。紺色の鉛筆が書いたものをツキが読む。
 「またまた人生最悪の日でした。自転車で車止めにぶつかって病院に運ばれました。ひじとすねにかすり傷を負ったけれど、あとは何ともなかったので、パパとお婆ちゃんに怒られました。もっとひどく怪我をしてたら怒られなかったと思います。ポテサも完成しませんでした。あともう少しだったのに。それから、絵里花たちとの約束を忘れたので、あの人たち、すご~く怒っているみたいで、もう絶交されると思います。学校が始まるのがゆううつです。シカトとか絶対されると思います。最悪です。どうしたらいいかわかりません。おこづかい使って三人に何かあげようか。でも、三人分お金がかかって大変だし、そういうのめんどくさいしいやだなあ。やっぱりほうっておこうか。そうだ、ふくろうホテルの支配人に会いました。ふくろうだかなんだかわからなくて気持ち悪かったです。でも、面白かったです」
 読み返してぱたんと本を閉じた。そんなに人生最悪でもない気がした。
 その日は朝から夏の太陽が大張り切りで気温がぐんぐん上がっていた。予報だと三十四度くらいになるらしい。午後、図書館に行って来ると言うと、パパが珍しく「俺も行く」と言う。「暑いから車で行こう」と言う。ちょっと困った気がしたけれど、一緒に行かない理由が見つからなかった。ツキがいつも行く図書館は自転車で二十分ぐらいだ。近くに大きな公園があって、気候のいい時は木陰のベンチで本を読むこともある。パパの車に乗るのは入院騒ぎ以来だ。あれからあっという間に二週間経ち、ママのところへ行く日が近づいていた。助手席に座ると冷房の強い冷気がまともに顔に吹きつけた。涼しいけれど快適ではなかった。パパが一言もしゃべらず、硬い表情をしていたからだ。窓から外を眺めて気を紛らわす。すれ違った車の後部座席に金色の毛並みの大きな犬が行儀良く座っているのが見えた。犬はすれ違う瞬間、くるりと首を回してツキの方を見た。優しくて賢そうな目だった。犬を飼ってみたい。いや、犬になってみたい。あんな堂々とした美しい犬に。
 図書館は夏休みの子どもたちで混んでいた。冷房は入っているのだろうが、あまり涼しく感じない。カウンターは相変わらず照明が暗くていつ来ても夕暮れみたいだ。コンピュータの明るい画面が水族館の水槽みたいに見える。図書館の人がじっと水槽を覗き込んで何か観察しては右手を動かす。ツキが海藻のようにゆらりと揺れて児童書の方へ行こうとすると、パパの声に肩口を掴まれた。
 「おい、俺は用事が済んだらこの辺りのソファーに座ってるからな」
 「うん、わかった」
 ツキが返事をした時にはパパはくるりと背中を向けていた。本棚から手当たり次第手に取って借りたい本を物色する。宿題の読書感想文を書かなければならない。課題図書はあるけれど、探すのが面倒だし、自分の気に入った本で書きたい。でも、気に入った本に出会えないかもしれない。借りられる最大限の七冊の本をかかえてカウンターへ行った時にはかなり時間が経っていたみたいだ。しびれを切らしてそばまで来たパパに文句を言われた。パパは運転中も不機嫌そうだった。ツキも黙っていた。家に向かう道とは違う方向に曲がったと思っていると、車はファミレスの駐車場に入った。
 「コーヒーでも飲んで帰るか」
 パパが前を見たままぼそっと言った。パパと二人だけでファミレスに入ったことがあっただろうか。ママと三人でなら何回もあるけれど。記憶の検索キーを叩いてもヒットしない。たぶん初めてじゃないかと思う。図書館と大違いで一歩足を踏み入れただけでスカッと涼しい。窓際のテーブルにつくと、すぐにウェイトレスがやって来た。若くて綺麗なお姉さんだ。ツキはすぐに冷たい水を飲む。
 「何でも好きなの注文していいぞ」
 パパの目が急に優しくなっている。大人の事情はわからない。ツキはフルーツパフェ、パパはアイスコーヒーとくるみのタルトを選んだ。綺麗なウェイトレスが行ってしまうと、とたんにお互い所在なくなった。こうして向き合って座るということは家の中ではあまりない。あっても顔はテレビの方を向いていたり、互いに何かしていたりで面と向かって顔を見るしかないという状況はない。パパはすぐに視線を窓の外にそらせ、ツキは店内を観察しながら今借りた本を一冊でも持ってくればよかったと思う。ふいにパパが話し出した。
 「あ、思い出した。婆ちゃんに言われて気がついたんだ。おまえ、病院に一泊した日、誕生日だっただろ?」
 「誕生日?え?あれって七月三十日だったっけ?」
 「そうさ。十二歳だろ?おめでとう。遅くなったけど、今日はささやかなお祝い」
 「あ、ありがと」
 誕生日なんかすっかり忘れていた。嬉しい。フルーツパフェぼっちとは思わない。
 「あのな、有紗」
 顔を上げる。今度はパパの目がしっかりツキをとらえている。
 「ママな、あんまり調子がよくないんだ。今も入院してる。おまえを連れて行くの、どうしようかと思ってたんだが、お医者さんが一度家族を呼んだ方がいいと言うんでな」
 「え!ママ、そんなに悪いの?死んじゃうの?」
 パパは笑った。でも、やっぱり無理な笑い方だった。
 「そんなことはないさ。ただ、」
 「お待たせしました」
 注文したものが来た。フルーツパフェは写真のとおりアイスクリームとホイップ山盛り、りんごやメロンやオレンジ、さくらんぼ、色とりどりの派手なやつだった。ツキはさっそくホイップとアイスクリームを混ぜて口に運んだ。パパもミルクを入れてアイスコーヒーを飲む。それから話の続きにかかる。
 「もちろん、死んじゃうなんてことはないさ。ただ、食欲がなくてほとんど食べないもんだから痩せてしまって、あんなに怒りんぼだったのに怒りもしないで寝てるそうだ。だから、有紗が行って元気づけてやってほしい」
 「ママはあたしになんか会いたくないと思うよ。だって、」
 「そんなことあるもんか。会いたいに決まってる。パパなんかママと随分喧嘩してお互い酷いこと言ったけど、やっぱりママに会いたいよ。また元気に喧嘩したいと思ってる」
 「あは。元気に喧嘩するって、いいね」
 「迷惑だけど」と付け足したかったけれど、それは喉の奥に呑み込んだ。ツキの喉の奥の暗がりにはそうして言わずに呑み込んだ言葉がどろどろ溜まって底なし沼になっているはずだ。
 「喧嘩もできなくなると、寂しいもんだ。この間、すずらん薬局に行ったら、あそこの受付のおばさんにママのことを聞かれたよ。最近見ないけど、お元気ですかって。ママはあのおばさんとも喧嘩して、薬を投げつけて帰ってきたからね。お金も叩きつけたらしい。おばさんが後から薬とおつりを届けに来たことがあったな。覚えてるかい」
 「知らない」
 「おまえはまだ小さかったかな。相手が謝っているのに、ママはまたヒステリー起こして騒いで大変だった」
 「なんでそんなに怒ったの」
 「さあ、なんでかな」 
 二人はしばらく無言で口を動かした。パパはタルトを食べてコーヒーを飲み干した。ツキのフルーツパフェもすっかりお腹に収まって、ガラスの器にはさくらんぼの細い柄と種がひっそり残っているだけになった。すると、一筋の悲しみが透明な冷たいゼリーみたいに心の器に降りてきた。

            10
 飛行機に乗るのは初めてだった。パパとお婆ちゃんと三人、座席に座って飛び立つのを待っている時はわくわくした。一方で、飛行機が落っこちて山か海に突っ込む場面を想像すると、足の裏がこそばゆく浮き上がるような思いがした。
 「ねえ、落っこちない?」
 小声で隣のお婆ちゃんに言うと、「そんなこと考えてたら、乗れないよ。だいじょぶだあって思うしかないよ」と胸を叩いた。お婆ちゃんは飛行機に乗るのは五回目だという。お爺ちゃんと外国へ行ったこともある。女の人の綺麗な声でアナウンスがあった。まもなく、飛行機は滑走路を走り出した。スクリーンに灰色の滑走路が映る。飛行機は轟音とともにびゅんびゅんスピードをあげてついにふわりと宙に浮いたかと思うと、ぐううんと高度を上げた。窓際に座らせてもらったツキは小さな窓から外を眺める。町や山や川がどんどん小さくなって遠ざかり、やがて眼下に雲海が広がった。よく晴れた青空と白い雲の絨毯を突っ切って飛んでいる。そのうち飛んでいるのか、ただ浮いているのかわからなくなった。ツキが下界に目を遊ばせているうちに、飛行機は落ちる間もなく新千歳空港に到着した。
 荷物を受け取って外へ出るとパパは誰かを捜すようにきょろきょろした。そして、赤い小さな旗を掲げている男の人に向かって手を上げた。その人がすぐに近づいてきて「三浦雅志様ですね」とパパの名前を言って、名刺を渡した。お爺ちゃんの別荘の管理人で浅井さんというそうだ。浅井さんはツキに目を留めて「お嬢さん、随分と大きくなりましたね。まだ赤ちゃんの時、二、三度会いましたよ。覚えてないでしょうけどねえ」と感慨深そうに言った。ツキは曖昧に笑って挨拶だけした。皆で浅井さんの車に乗って別荘に向かう。
 「今年はここいらも暑くてですね、この前は三十三度まで上がりましたよ」
 「そうですか。夏はやっぱり暑いものねえ」
 お婆ちゃんがどうでもいい相槌を打つ。ツキは後ろの座席から浅井さんの頭に五円玉くらいの禿があるのを見つけて、もう一つぐらいないかと探していた。すると、浅井さんが禿のあたりにさっと左手を当てて掻いた。
 「お昼はどうされます?」
 「おや、もうお昼を過ぎたんだね。どこか入るのも面倒だから、何かコンビニで買って行ったらいいんじゃない?ねえ、有紗、どう?」
 お婆ちゃんが顔を窓にくっつけるようにして外を眺めているツキに聞いた。
 「いいよ」
 「じゃあ、どこか適当なコンビニに行ってください」
 前の席のパパが言うと、浅井さんは「承知しました」と答えてまもなく左手に現れたコンビニに入った。ツキはさっきから変な感覚にとらわれていた。一直線に伸びる広い道路、今、通り過ぎた緑濃い公園のたたずまい、赤信号で止まった時見た赤煉瓦の大きな建物、前に見たことがあるような気がしてならない。一つひとつの建物に見覚えがあるわけではないけれど、街の雰囲気みたいなものに懐かしさを感じる。赤ちゃんの時、見たことがあるらしい。それとも、たくさんの夢を見てそれをけっこう覚えている質だから、夢に出てきた街なのかと思う。浅井さんが右前方を指した。
 「もうすぐ有名な時計台が見えますよ。ビルに囲まれててあんまり目立たないから、気がつかないと思いますけど」
 ツキは目を凝らした。「ほら、そこ」と浅井さんが木立ちの一角を指さしたけど、あっという間に通り過ぎてわからなかった。
 別荘は二階建ての立派なものだった。庭も広い。縦に連なってにぎやかに咲いているピンクや白の花が目を引いた。
 「まあ、立葵が豪勢に咲いたこと」
 お婆ちゃんが目を細めた。浅井さんが言う。
 「大して手入れもしないのによく咲いてくれます。さあ、どうぞ」
 みんなが玄関に入ると浅井さんが最後に入った。
 「電気、水道、ガス、全部使えます。何かお聞きになりたいことがありましたら、さっきの名刺の番号に電話してください。私はちょっと用事があるので、いったん帰って、またお迎えにまいりますが、何時頃来たらいいでっしょ?」
 パパが病院の面会時間を確かめてから返事をした。お婆ちゃんが用意していたお土産を渡すと、浅井さんは恐縮して受け取った。ツキは居間に荷物を置いて部屋を見回す。ガラスのテーブルにベージュ色のソファーが二つと長椅子が一つ、壁には風景画が三つ掛けてある。どれも森の風景。居間の向こうにはすっきりと片づいたキッチンがあり、和室がひとつ、あとはトイレと風呂場。ツキはさっそくトイレに入ってみた。温水付きの淡い水色の便器、芳香剤もちゃんとある。風呂場もホテルみたいにきれいだ。喜々として二階への階段を上る。部屋が三つあった。一つは広い和室、もう一つは洋室でベッドが一つ置いてある。三つ目のドアのノブを開けようとしたが、押しても引いても開かなかった。ママの部屋かもしれない。和室から張り出したベランダに出てみる。すぐ目についたのは青空にそびえ立つ塔だった。塔の周りは濃い緑の森林に覆われ、その中に銀色に光る建物の屋根が見え隠れしている。あまり遠くはなさそうだ。ママはあそこに行っただろうか。近くに目を移すと大きな葉っぱの街路樹に縁取られた道路がまっすぐ伸びているのが見える。どこにでもありそうなビルや住宅がずっと続いている。ツキが住んでいる街より整然として都会的な感じがした。遠くに一筋細く光って見えるのは川に違いない。川がもっと近くにあればいいのにと思う。晴れた日に橋の上から川を眺めると、視界が開けて心がゆったりする。緑に縁どられた川べりの小道がこっちにおいでと誘う。雪の日の灰色に閉ざされた沈鬱な川もいい。川の流れる街が好きだ。ふと、こうしてこのベランダに立って街並みを眺めるのは初めてじゃないような気がした。淡い記憶の断片がちらりと見えた気がしたが、あっという間に遠ざかって白い靄の中に消えた。
 「有紗、降りておいで。もっと、もっと下まで」
 声が聞こえた。どこかとんでもなく遠い別の世界からのように微かな声だった。けれども、それはすぐ耳元で囁かれたようにまっすぐにツキの聴覚に届いた。ツキははっとした。今のはお婆ちゃんじゃない。パパでもない。ママだ。ママの声だ。階段を踏み外さんばかりの勢いで駆けおりて居間に行くと、お婆ちゃんがコーヒーを入れていた。パパはいない。ママもいない。
 「ちょうどよかった。今呼ぼうと思ったとこだったよ」
 「あの、今呼ばなかった?有紗、降りておいでって」
 「ううん、まだ呼んでないよ。呼ぼうと思ったとこだって言ったでしょ」
 「そうなんだ。パパは?」
 「さあ、トイレじゃないかい」
 「ママは?」
 コーヒーカップにお湯を注いでいるお婆ちゃんの手が止まった。
 「ママは、病院だけど」
 「あ、そうだ、そうだよね」
 ガラスのテーブルにはコンビニで買ったサンドイッチや総菜パンやおにぎりなどが山になっている。パパが来てソファーに座る。
 「さあ、どれでも好きなの食べなさい」
 ツキはスクランブルエッグがたっぷり挟まったコロッケパンを取った。
 「有紗、この前ポテサ作ってたろ?」
 パパがいきなり聞いてきた。ツキはコロッケパンで一杯の口をもぐもぐさせてうなずく。
 「ポテサって何?」
 おにぎりを食べながらコーヒーを飲んでいるお婆ちゃんが聞く。
 「ポテトサラダですよ」
 コーヒーを飲んでから手巻き寿司にぱくついたパパが答える。
 「あれな、玉ねぎが分厚くて辛くて食えなかったぞ。マヨネーズはほとんどなかったし」
 自由研究でポテサを作りかけて、マヨネーズを買いに行った帰りに車止めにぶつかったことをあらためて話すと、二人とも笑った。
 「今だから笑えるけど、まあ、そのポテトサラダは残念だったね。それで、雅志さん、そのできそこないのポテサ、かい?それ、どうしたの」
 「頑張って少し食べたけど、やっぱり捨てましたよ。じゃがいもも芯があって硬くて。ママのポテサなら天下一品なんだけど。なあ、有紗」
 「へえ、りりこがポテトサラダを作るって?へえ、あの子がね、料理なんか何にもできないと思ってたけど」
 「りりこの料理は総菜並べるだけだけど、ポテサだけは別、ほんと美味いんですよ」
 「ははあ。じゃがいも料理ならやりそうだね。有紗、ママはこの別荘から高校へ通ったんだよ。さっきの浅井さんの奥さんが食事の面倒やなんかを見てくれてね」
 「ほんと?ママはここで一人で暮らしてたの?驚いた」
 「そういう時もあったね」
 お婆ちゃんはそれ以上話さなかった。パパももう食べるため以外に口を開かなかった。
 浅井さんが約束の時間きっかりにやって来て、車でママの入院している病院に行った。すぐ着くのかと思ったら、住宅街をはずれて広い畑がどこまでも続く道をひたすら進み、小高い丘の中腹で止まった。三階建ての白い建物に「メンタルクリニック リラ」というオレンジ色の看板が掲げてある。主治医の説明を受けるために待っている間、誰もしゃべらなかった。広々とした待合室にはツキたちの他に五、六人の人がいた。みんな俯いて雑誌に目を落としている。適度に冷房が入り、テレビの音声は低く、布製のソファーは座り心地よく、本棚には雑誌や本が並べてある。明るくて清潔な部屋だった。それなのに、座っているとだんだん息苦しくなってきた。
 主治医は女の人だった。色白の小顔に黒縁の眼鏡をかけ、淡いピンク色の上衣にスラックス。ツキの目には十分若く見えたけれど、後になってパパが「四十は越えてるな」と言うと、すぐにお婆ちゃんが「甘い、甘い。あれは五十代半ばだよ」と断言した。あいさつを交わすと主治医はツキを見てちょっと微笑み、パパに向かって言った。
 「あのう、娘さんは待合室で待っていた方がよろしいかと思いますが」
 「え?一緒ではまずいですか」
 「まだ小学生のようですから」
 パパに待合室で待っているように言われたけれど、ツキは首を振った。
 「一緒にいたいです」
 主治医がツキに名前と学年を尋ねた。はきはきと答えたツキに主治医は言った。
 「しっかりしたお子さんですね。一緒に聞いても大丈夫だと思います」
 それから、あらためて三人に向き直り、話し始めた。
 「それでは、三浦りりこさんの病状についてまずはこちらから説明させていただきます。そのあとで質問をお受け致しますので、よろしくお願いします」
 主治医がお辞儀をしたので、みなかしこまって頭を下げる。
 「症状は今は落ち着いています。でも、このまま安心できる状態ではありません。四日前でしたか、幻聴、幻視がこれまでになく強く出まして、夜中に叫んでドアを叩き続けたんです。どこかへ行こうとしたようですが、興奮が収まらなかったのでやむなく鎮静剤で落ち着かせました。初めてりりこさんを診察した時は鬱状態が目立っていましたので、カウンセリングと鬱病の薬物治療をし、一時は随分晴れやかな表情を見せるようになって、食事や散歩を楽しんだりして、退院もできましたが、その後、残念ながら、未遂、ということもありまして、また入院。拒食の症状が強く、随分体重が落ちて一時は深刻な状態でしたが、今は危機的な状況は脱しています。その後単純な鬱病ではない所見が見られまして、幻覚症状から統合失調症の可能性もあります。今後の治療方針としましてはとにかく最悪の事態を避けることを第一に、薬物療法をし、平行してきちんと食事をして必要な栄養素を摂ってもらうようにしてですね。いい栄養剤があるんですが、それもなかなか十分には飲んでくれなくて、脳の機能も低栄養ですとやはり……」
 ツキは主治医が不自然に声を落とした言葉を頭の中で繰り返した。みすい、みすい。その意味は知っていた。パパとお婆ちゃんがいくつか質問して主治医が答えていたようだったけれど、ツキはあまり聞いていなかった。少し前から動悸が激しくなっていた。ママが呼んでる。さっき別荘にいた時みたいにママの声が聞こえたわけではないけど、ママは確かにツキを呼んでいた。早くママのところへ行かなくては。
 「有紗!」
 パパの声が耳に飛び込んできた。
 「先生が大丈夫かとおまえに聞いているよ」
 主治医の大きな目が心配そうにツキを見つめていた。
 「はい、ええと、別に……」
 「大丈夫ですか。ショックじゃなかった?」
 主治医は気遣って、もう待合室で休んだらと言ってくれたが、ツキは首を振った。
 そのまま少し待たされてからママの病室に案内された。二階の端っこの個室だった。若い男の看護士が鍵を開けると、中は薄暗かった。
 「りりこさん、御家族の方が見えましたよ」
 看護士が電気をつけた。窓際に置かれたベッドで窓の方を向いて寝ている後頭部が見える。その黒髪は肩まで伸びていて、いつも見慣れたベリーショートではなくなっていた。
 「りりこ。来たよ。おかあさんだよ。雅志さんと有紗も一緒だよ」
 お婆ちゃんの声は一瞬不安そうに揺れた。パパも声をかける。「ママ」ツキは小さな声で呟く。アルコールみたいなつんとしたにおいが鼻先をかすめた。ママの寝乱れた後頭部が何かの異常を語っていた。看護士が困惑したように声を落として言う。
 「りりこさん、眠っているのかな。さっきは起きていて私と少しお話もしたんですけど。もちろん、皆さんがいらっしゃることもお伝えして、それは御存じのはずですが……」
 看護士は俳優みたいに端正なルックスの持ち主だった。そこに主治医が入ってきた。何もかもわかっているというふうにママの背後から小さな声で何事か囁いた。すると、ママの身体がくるっと反転し、訪問者たちの方に向き直った。
 「りりこ!」
 お婆ちゃんが感極まった声で呼びかけ、両手でママの頬を挟んだ。
 「おまえ、どうしたの!随分と痩せてしまって。こんなにもこんなにも……」
 お婆ちゃんはママの頬を撫でて、涙声で言った。
「もっと早く来ればよかった。絶対に来るなと言われても。そばにいてあげてれば……」
 ママは無表情のまま、お婆ちゃんと目を合わせることもしなかった。
「なあ、りりこ、ちゃんと食べて元気になって早く帰って来てくれよ。今度の家出は長すぎて、もう待ちくたびれたよ」
 パパが喉の奥から声を振り絞る。精一杯感情を押し殺しているのがわかる。ツキは何と言ったらいいかわからない。黙ってママのやつれた青白い顔を見ていた。ママは壊れた人形みたいに力なく半分目を開けている。幼稚園のころ、脚が片方引きちぎれた西洋人形を庭に放り投げたことがあった。人形は青い目を開けたままいつまでも空を仰いでいた。ママもその布団を剥げば片脚がもげているかもしれなかった。すると、人形がしゃべった。
 「有紗」
 ツキは逃げ帰りたい衝動に駆られたが、お婆ちゃんに背中を押されてママの方に顔を近づけた。
 「有紗、ほんとに有紗?夢じゃない?」
 ママの眠そうな目がツキを捉えた。ツキはママの手を両手で握った。ママの手は薄く骨張って強く握ったら砕けてしまいそうだった。
 「夢じゃないよ。ママ、有紗だよ。ほんとに有紗だよ」
 ママのぼんやりした目に力が漲るのがわかった。次の瞬間、掌に鋭い痛みが走った。
 「違う。おまえは有紗じゃない。有紗のふりをした化け物だ。あっちへ行け!早く!消えろ!この化け物め!」
 ママの声は元気な頃と同じくらい迫力があった。ツキは弾かれたように後ずさりした。すぐに主治医が駆け寄った。医師が何か言おうとツキたちの方を振り向いた瞬間、看護士が叫んだ。
 「危ない!」
 素早く起きあがったママが医師の背後から襲いかかり、その首に手をかけて絞めようとした。ツキはママの形相にのけぞった。ぼさぼさの髪にこけた頬、見開いた目の周りは青黒く変色し、歯を剥き出して呻り声をあげている。看護士とパパが両脇からママの手を外そうとしたが、痩せてしなびた身体のどこからあんな力が出るのかと思うほど、ママの手は医師の首を掴んで放さない。ママの喉の奥から呻るように言葉が絞り出された。
 「この鬼婆め!こいつは人殺しだ。ここで何人も殺されたんだ。この人殺し!」
 「りりこ、やめなさい!放しなさい!」
 「りりこさん、落ち着いて!化け物なら僕が退治しますよ。いつものように。僕に任せて、お願いだから。放して、りりこさんっ!」
 その時、パパの拳骨がママのお腹に炸裂した。ママは白目を剥いてベッドに倒れた。パパは気が狂ったみたいにママを殴りつけた。
 「化け物はおまえの方だ!」
 「やめて、やめてえ!」
 お婆ちゃんが泣きながらパパの腕にむしゃぶりついた。主治医は床に倒れ込んで激しく咳き込んでいた。パパは床に膝をつき大声で泣き叫んだ。ツキは呆然として病室を見回す。ベッドとサイドテーブル以外何もない。テレビもラジオも花一本、お茶わんひとつない白い部屋。

            11
 川べりの道には一列に並んで向日葵たちが咲いていた。柵越しに川を眺めると、白い鳥が一羽岸辺で羽を休めている。カモの群が水面を滑るように泳ぎ、葦の葉陰から出たり入ったりしている。ツキは橋の方に向かって歩き出す。途中、ベンチが二つあって、その一つに老人が一人腰掛けているのが見える。もうだいぶ陽が傾いているが、残暑の火照りをこめかみのあたりにたっぷり張りつかせてぶらぶらと歩いていく。ベンチのところにさしかかった。
 「おや、二階のお嬢ちゃんじゃないか。こんにちは」
 フグリのおじさんだった。そんな気がしていたけれど、気がつかないふりをして通り過ぎる魂胆だった。仕方なく返事をする。
 「あんまり元気じゃなさそうだね」
 フグリのおじさんは目の覚めるような青色のTシャツに白っぽい半ズボン姿でいつもより随分こざっぱりとしていた。
 「この前この道をカモシカが一頭歩いているのを見たよ」
 「カモシカ?」
 「そう、カモシカ」
 「角があった?」
 「あったよ。まだそんなに大きくない角。若いオスかな」
 「どうしてカモシカ?」
 「山の方から里へ下り来るんだね。えさを食べているうちに気がついたらいつの間にか里まで来ていたのかな、それとも、好奇心が強い奴で行ったことのないところへ行ってみたくてやって来たのかな。まあ、本当のところはカモシカに聞いてみないとわからんね」
「そのカモシカ、今、どこにいるの。ひとりで山に帰れる?」
 フグリのおじさんは微笑んだ。
 「カモシカのことを心配してくれるんだね。大丈夫さ。そんなふうに心配してくれる子どもがひとりいれば、カモシカ君はちゃんと帰れるよ」
 「そうかな」
 何だか変な理屈だと思った。首を傾げるツキをおじさんの皺に埋もれた目が慈しむように眺めている。ジョギングする人やウォーキングする人、高校生の乗った自転車などが目の前を次々通り過ぎていく。次第に陽が傾いて西の空が火事になった。火事になった空に黒雲が広がっている。中には両手を広げた怪物が覆い被さってくるような黒雲もある。
 「あ、あれを見てごらん」
 おじさんが指さしたのはもっと北の空だった。
 「あ、カモシカ」
 そこには動物の横顔にちょうど二本の角に見える形の雲が浮かんでいた。
 「ほら、あっちは山の方角だ。カモシカ君が無事に山の方向へ帰ったしるしだよ」
 「ほんとだ」
 ツキはおじさんの理屈を疑ったことを忘れて、すっかり安心した。
 「さあ、暗くなる。早く帰りなさい」
 「おじさんは帰らないの?」
 「もう少しここにいるよ。空のスクリーンではまだ見ものがあるんだ。金星と月、星たちのお出まし。それから虫たちの音楽会も始まるからね」
 「じゃあ、あたしも」
 「ダメ!夜のデートはもっと大きくなってから。そしたら、おじさんとデートしてよ」
 フグリのおじさんは笑って手を振った。
 仕方なく家に帰るとパパとお婆ちゃんがいた。札幌から帰って以来、パパはいっそう口数が少なくなり、お婆ちゃんはやたらとため息が多くなった。
 「ほら、あんたたちの好きなポテトサラダ、綾子さんが作ってくれたよ。あと、生姜焼きもね。みるく屋のデカプリン、買ってきたよ。ああ、それと……何だっけ?あれ、あれだよ、ほら、あれ」
 お婆ちゃんは思い出せずに、またため息をついた。
 「おお、しんどい。じゃあ、帰るよ。雅志さん、さっきの話、考えといてね」
 「ああ、はい」
 パパは気のない返事をした。パパと二人で静かに夕食を食べた。テレビもつけなかった。早々と自分の部屋に引き上げようとすると、呼び止められた。
 「有紗。お婆ちゃんがな、一緒に暮らさないかって言うんだ。ママは当分ここに帰って来られないだろうから、ここを引き払って一緒に住んだ方が有紗のためにもいいんじゃないかって。お婆ちゃんの家は大きいし、空いてる部屋もある。料理が上手な綾子さんもいる。だけど、あそこはお婆ちゃんの家じゃなくて、あの嫌な爺さんの家だ。有紗は爺さんの家に住む気があるか」
 ツキは力強くしっかりと首を振った。
 「嫌だ。あの意地悪爺さんの顔なんか見たくない。パパと二人の方がまし」
 パパが珍しく笑い声を上げた。
 「なるほど。パパの方がましか。そりゃあ、よかった」
 「貧乏でもいいからここがいい」
 「わかった。そんなにはっきり言ってくれるとは思わなかった。心配してくれてるお婆ちゃんには悪いけど、じゃあ、この話はなしだ」
 「うん、なしだ」
 珍しく意気投合した。ひとりになってあの『本』を開いた。札幌から帰ってまもなく書いた頁には、鉛筆を拳で握りしめて力任せに引きずった跡が無数にあった。そのせいで何枚かの頁が破れ穴が空いた。その次は「バカバカバカ」とか「死ね死ね死ね」とか引き裂くように殴り書きした頁が続いた。そして、しばらくあとになって書いたのがこれだった。
 「人生最悪の日が続いている。ママに化け物って言われた。怒っている時のママの表情はよく知っている。それはもちろん気持ちのいい顔じゃないけど、人間誰でも怒ればそんな顔になる。四年生の時、うさぎが足のでかいのをからかわれて、泣いて怒って歯を剥き出しにして、からかった奴に突っかかっていった時の顔を見たけど、あの顔も凄かった。でも、ママの顔はもっと違う凄さだった。何て言ったらいいんだろう。帰りの飛行機の中で薔薇色の帯みたいな夕焼け雲を下に見ながら考えた。そしたら、「呪ってる」という言葉を思いついた。『呪いの黒薔薇』という漫画を読んだことがあるけど、その中に出てくる修道女カテリーナみたいな顔だ。ママの顔は呪ってる顔だと思った。ママは呪ってる。何を、誰を?ママは自分で自分のことを壊れちゃったと言ってたけど、ほんとに壊れちゃったのがわかった。壊れちゃったママはもう治らないのだろうか。もしかしたら、壊れちゃった方が楽かも。親子で壊れちゃったらどうだろう?ほんとにもう、最悪!早く月に帰ろう!」
 ツキは『今日は人生最悪の日』を生きる少女に共感し、エールを送る。そうだ、こんな嫌な世界は捨てて、この子と一緒に月に帰ろう。かぐや姫みたいに。

            12
 学校が始まった。クラスメートはそれぞれ持ってきた自由研究作品を教室の後ろのロッカー上に並べている。絵里花とすれ違った。目が合った時、絵里花ははっきりした意図を持って目を反らした。ツキがポテサの作品を置いて席に戻ると、絵里花と春菜、ゆっこ、それにあと二人の女子がグループを作って、時たまツキの方に尖った視線を投げているのに気づいた。ツキは机の中から本を取り出して読み出した。朝の始業前は読書タイムなのに本を読んでいる人はいない。みんな小グループを作って夏休み中の話で盛り上がっているみたいだ。男子の何人かは廊下で犬ころの兄弟みたいに取っ組み合ってふざけている。
 「先生が来たぞ!」
 物見係の一声でみんないっせいに席に着いた。日直が前に出て朝の会が始まる。水野先生は欠席者がひとりもいないことを喜んだ。夏休みドリルや絵日記、読書感想文、生活表など提出物を出し終わると、先生のお話だ。
 「長い夏休み、みなさんはどんなふうに過ごしましたか。どこかに行きましたか。どんなことが楽しかったですか。私はこんなことをしました。こんなことが面白かったです。または、こんな失敗をしましたとか、こんな困ったことがありましたとか何でもいいですから、一人ずつ前に出て話してもらうことにしましょう。質問や感想は二人までとします」
 席順で廊下側の人から始まった。窓際のツキは終わりの方、絵里香の次だ。クラスメートの話はやっぱりどこか旅行に行った話が多かった。家族でハワイに行った女の子や沖縄の海で泳いできた男子もいた。普段は模範生の男子の、田沢湖でお兄さんとボートに乗ったら、ふざけた拍子にバランスを崩して落ちそうになったけど、何とか助かった、代わりに大事なゲーム機がぽちゃんと湖に沈んで泣いたという話にみんな笑った。ツキはみんなの笑い声を膜一枚隔てた別の世界から届くもののように聞いた。誰かがお父さんやお母さんと何かをしたりどこかへ行ったりした話をすると、胸の奥にざわざわと不穏な風が立った。細い錐で柔らかい皮膚を少しだけ突かれるような感じがした。札幌に行った話はしたくなかった。だんだん順番が近づいてきた。絵里香が話したのは、お母さんと妹と一緒にレインボープールへ行って泳いだ話だった。絵里香のお母さんは若い頃水泳の選手で、絵里香にクロールを教えてくれたそうだ。「お母さんが去年よりずと上手になったねと言って褒めてくれました」と絵里香は笑顔で言葉を結んだ。ツキの心にはっきりとした痛みが走った。ツキが前に出て話す番だった。お父さんと図書館に行ってたくさん本を借りたこと、それからファミレスに行って誕生日を祝ってもらったことを話した。
 案の定、休み時間に絵里花のグループに囲まれた。
 「嘘つきツキさん、誕生日、おめでとう」
「おめでとう。祝ってもらってよかったね」
 「約束破る人でも、誕生日、祝ってもらえるんだ。よかったね」
 「もしかして、お父さんとファミレスも嘘じゃない?」
 「そうだよ。ほんとは自分でコンビニで安いプリンとか買っただけじゃね?」
 「うわあ、痛!痛すぎ」
「うちら、もうツキの言うこと全然信じないし」
 「第一、もう話ししたくないし」
 「ってことで、今日が話す最後だから」
 「ってことで、最後だから。バイバイ」
 最後に言ったのは絵里花で、あと三人が声を合わせて「バイバイ」と底意地の悪い笑顔で手を振った。ツキは一言も返さなかった。今更プールに行く約束を忘れたことを謝っても無駄だと思った。学校という所がそれまでとは違って見えた。先生もクラスの人たちもよそよそしい。埋めようのない溝ができて、誰かの噂とか他愛のないおしゃべりとか、そういうものがつくづくどうでもいいことに感じられる。一人でトイレに行って戻る時、廊下で隣のクラスのうさぎに会った。うさぎはすれ違いざまぼそっと言った。
 「おまえの母ちゃん、やばそ」
 ツキは振り向いてうさぎに駆け寄ろうとしたが、うさぎはすぐ男子トイレの中に消えてしまった。待ち伏せしようと廊下の隅に立っていたら、始業のベルが鳴った。昼休みにうさぎを探したけれど、中庭の穴の中にでももぐりこんだのか見つけることができなかった。
 時々学校を休むようになった。頭が痛いだのお腹が痛いだのという理由以外に、天気が悪いとか、天気が良すぎるとか、カラスと目が合ったとか、カラスに無視されたとか、理由はいくらでもあった。水野先生が心配して家庭訪問に来ることになったけど、その日は先生の都合が悪くなって中止になったとパパに嘘をついた。当日、ツキは玄関の鍵と家中の窓を閉めて自分の部屋で息を潜めていた。玄関のチャイムが鳴ると、両手で耳を塞いだ。水野先生には悪いことをした。電話が鳴ったけど、それも無視した。夜、一人の部屋でそっとあの『本』を開いた。日記みたいに簡単に書きつける日が増え、文字の大きさが大きくなったわりには、まだ半分も埋まっていない。誰にもこの本のことを言わないで最後の頁まで書き終わったら、どんなプレゼントが待っているのだろう。それがツキのただ一つの楽しみ、希望みたいになった。紺色の鉛筆を執る。
 「先生、御免なさい。もう学校に行きたくありません。学校に行くのが嫌になりました。クラスでまともに話のできる女子はもうひとりもいません。完全にシカトされてます。みんな先生の前では気づかれないように表面だけ相手になったりしているから、先生はわからないでしょう。上履きの中に鉛筆の削りかすが入っていたり、持ってきたはずの教科書が見当たらなくなったりします。あちこち捜しているとくすくす笑い声が聞こえてきます。席を離れて戻ってくると、行方不明の教科書が泥で汚れて机の中に入っています。みんなあいつらの仕業です。でも、どんなことをされても、謝ったりしないし、仲良くしてなんて頼むつもりはありません。あんな奴らこっちから無視してやる。私の名前は嘘つきツキコ、いつか月に帰る運命なんです。地球にはもうすぐ毒の雨が降って滅びるから、あいつらもみんな滅びます。私は地球を救う力を与えられているけれど、当分その力は使わない。かぐや姫と同じようにみんな見捨てて月に帰る予定です。悪いけど、先生もです。私は特別の存在だから、どんなことにも耐えられる特別の存在だから、学校なんか行かなくても偉い人になれます。エジソンとか、アインシュタインとか、偉い人は学校に行かなかったらしいです。本当に偉い人は学校でバカとつき合ってる暇なんかなかったんだと思います。きっと」
 ツキは鉛筆を置いて手鏡を手に取った。そこには気高いヒロインの顔が映っているはずだった。しかし、残念なことに、そこに見えたのは満足に眠れず目が真っ赤に充血して顔全体がむくんだ不細工な子どもの顔だった。しかも、お腹の中に重くて硬い塊が沈んでいて、時々抉られるみたいに痛くなる。まだ生理には早すぎるのに、お腹だけ疼く。顔は青白く、目の下だけがどす黒い。歯をむき出して吠えてみた。ほんとだ、化け物だ。ママの言ったとおり。しかも、ママにそっくり。つまり、化け物は二人だ。親子の化け物。
 似た者同士だから、ママのまねをして家出することにした。百年くらいは帰らないつもりだ。ピンクとグレーの縦縞模様のリュックサックに家出グッズを詰め込んだ。まず、着替え用の下着や服が要る。箪笥の引き出しから新しめのを選んでスーパーの袋に入れた。Tシャツ三枚とレギンス二本、靴下もお気に入りのハート模様のを選んだ。ハンカチ、タオル、ティッシュ、それから、筆記用具と財布。赤いがま口は質草になってるから、代わりにママの黄色い大きな財布を借りた。中には何枚かのカードと小銭しか入っていない。その財布はツキの部屋の押入箪笥に入っていたのをこの前偶然見つけたばかりだった。 他には何が必要だろうか?五年生の時、三泊四日の宿泊研修でなんたら山に出かけた時のことを思い出そうとした。なんたら山というのは本当は南(な)見(み)足(たり)山(やま)という名前だが、地元ではなんたら山と呼ばれている。なんたら山へ行った時みたいに栞はないし、歌集も要らない。そうだ、あの時寒い時に羽織るものを持って行った。黒のウインドブレーカーを突っ込む。それから、お弁当と水筒だ。冷蔵庫の中にあった麦茶のボトルから自分の水筒にたっぷり注ぎ入れた。お弁当?作るのは面倒だから、コンビニで買って行くことにしよう。
 何か大事なものを忘れている気がした。百年の家出になる予定だから、あれを持って行かなくては!書くこともたくさんあるに違いない。プレゼントがもらえるようになるかもしれない。ツキは『本』をリュックの中にしまった。それから、宝物のくるみとどんぐり。突然ひらめいてパパの小刀を持っていこうと思った。それは居間の茶箪笥の引き出しの中にスプーンやフォークと一緒にあって、ツキはその引き出しを開けるたびにその存在を心に留めていた。今こそあれを引き出しの中から外へ連れ出す時だと思われた。  
準備万端だ。リュックはちょうどいい具合に膨らんだ。百年の家出用には心許ない気もしたが、あまり重くなっては歩けない。背負ってみると、軽からず重からずちょうどいいバランスで背中に適度な重心ができた。綾子さんは今日はとっくにやってきて今夜のおかずを置いていった。いつになくツキの顔をしげしげ眺めていたけど、何も言わずにそのまま帰った。今夜ならパパの帰りも遅い。まずは腹ごしらえだ。綾子さんの作ったカレーをお腹いっぱい食べると、元気が出た。デザートの梨も丸ごと一個たいらげた。お腹が重くて動けなくなったので少し休む。時計を見ると六時十五分だった。リュックを背負って水筒をたすきがけし、スニーカーを履いた。九月の戸外は桔梗色。まだほの明るい。夕暮れの土手はいつもと同様、犬の散歩をする人や走る人が行き交っている。残暑に人々の吐き出す二酸化炭素が加わってもわっと暑い。橋のたもとまでゆっくり歩いて行くと、猫婆さんの椅子の辺りに三毛猫と灰色猫が寝そべっていた。この二匹も捨てられていたのを猫婆さんに拾われたに違いないが、今まであまり姿を見ることはなかった。
 「ええと、あのう、こんばんは。あなたたち、名前は何ていうんですか」
 話しかけてみても、三毛猫はちらりとこちらに目をくれただけ、灰色猫は見向きもしない。うんともすんともにゃんとも言わない。人語を解さない猫もいるのだと思った。残念に思いながら一番近くのコンビニの方へ歩き出した。
 コンビニに入ってまっすぐ弁当のコーナーへ進む。おにぎり売り場を見やると、そこに見覚えのある後ろ姿が立っているのに気づいた。こんな時に一番会いたくない横顔がちらりと見えた。反射的に右側へ曲がり、パン売り場を過ぎて飲みものコーナーに身を潜めた。飲み物を選ぶふりをしてちらちらと後ろを振り向く。足の大きなのっぽはいつまでもそこから離れようとしない。ちょっと見ないうちにずいぶんと背が伸びて大きな足が以前ほど目立たなくなっている。ツキはトイレに隠れることにした。個室で少し待てばきっといなくなっているに違いない。ついでにおしっこして時間をやり過ごす。何分経っただろう?もういい加減いなくなっているはずだと期待して、トイレを出てパン売り場からおにぎり売り場を覗いた時、オレンジ色の籠を提げて向こうからやって来るうさぎと鉢合わせした。
 「あれ?嘘つきツキさんじゃないですか。これは偶然、奇遇ですね」
 うさぎはアーモンド型の目を嬉しそうに輝かせた。ツキは「きぐう」という言葉の意味を推測しながら、心の中で舌打ちした。
 「この時間に僕とツキさんがばったり会う確率というのは極めて低いと思われます。どうしてかと言うと、僕はめったにコンビニというところへ来ないからです。たまに来るとしても、ここではなくて、もっと自宅に近い別のコンビニです。でも、今日はたまたまほかの用事があってこの辺に来たついでに夕食用のおにぎりを買いに来たというわけです。どうして僕が夕食用のおにぎりを買わなければならないかについて、知りたいですか」
 「ノー!知りたくない。全然!」
 ツキは開いた右手を突き出した。うさぎは無愛想な反応にもまったく動じない。
 「やっぱり。もちろん、その反応は十分に予想していました。それで、僕の方からもひとつ質問したいのですが、ええと、まず、その、背負っているリュックと水筒ですね。これからなんたら山にでも宿泊研修に出かけるところですか」
 「はい、そのとおり。質問はひとつまで。では、さようなら」
 うさぎは眉をぴくんと動かして「了解です。では、さようなら」と言って、カレーパンをひとつ籠に放り込んだ。ツキはおにぎり売り場にすたすた歩いていっておにぎりを選ぶ。鮭とたらこと五目おにぎりを籠に入れた。横目でレジを見やるとうさぎが会計して出口の方へ行くところだった。やれやれと思い、パン売り場にもどって特大のシュークリームをひとつかごに入れた。念のためもう少し時間をつぶしてから会計をし、外に出るとだいぶ暗くなっていた。橋のたもとに向かって歩き出す。曲がり角からうさぎが出てきて「やあ、奇遇ですね」と性懲りもなく声をかけてくる気がして落ち着かない。本当に神出鬼没、迷惑な奴だ。橋のたもとまで来ると、細く束ねられた光の残照が闇に飲み込まれるところだった。反対側の空には白い月影が見える。生ぬるい風が耳たぶをくすぐって行く。猫婆さんの椅子には残暑の名残が座っているだけだった。さっきいた二匹の姿も見えない。ノスコーに会いたかったけれど、会っても別に話すことなんかないのだ。ツキは暮色濃い堤防の道を鉄橋に向かって歩く。草むらからは虫たちのすだきが聞こえる。頭の上でカラスがうるさく鳴き交わした。ゾクッと鳥肌が立った。自分の部屋でココアでも飲んでゆっくりしたいという思いがこみあげる。今なら引き返せる。パパやお婆ちゃんや綾子さんが心配するだろうとも思う。水野先生も。ツキはうっすらクリーム色を帯びてきた月を見上げた。今更やめるわけにはいかない。やめたらきっと後悔する。

13
 鉄橋下の窪みまでやって来た。もう真っ暗で何も見えない。これまでと同様に白猫ノスコーの名前を唱えふくろう通りへ行くお願いをした。ところが、何度願っても窪みの先に通路は開けなかった。途方に暮れて草の上に座り込んだ。今回も遠くから聞き慣れた足音が聞こえてきて、まもなく足音は轟音となり頭の上を通過していった。雲間から現れた月の色はいよいよ清かに冴え渡り、ほぼ満月に見えた。月の光が窪みを照らすとそこにうずくまっている黒いものが見えた。黒いものはエメラルドグリーンの目を光らせてツキをにらみつけた。思わず後ずさりする。
 「人間の女のおちびさん、俺のことを忘れたかい?」
 ツキは黒いものが自分のよく知っているネコ科に属することをようやく悟った。
 「ああ、いえ。思い出しました。ノスコーさんのお友達の黒猫さんですよね。名前は、ええと……」
 黒猫はいかにも不機嫌そうに「シャー」と不愉快音を発してから言葉を継いだ。
 「イグノス」
 「あ、そう、そう。イグノスさん」
 「シャー、シャー!」
 「あ、じゃなくて、イグノス様!」
 黒猫は「ふん」と鼻を鳴らして続けた。
 「新しい呪文を教えるのを金輪際やめようかと思ったぜ。今月から当番がノスコーから俺様に変わったんだ」
 「そ、そうなんですか。ということは、もしかしてここで待っててくれたんですか」
 「ふん。ノスコーに頼まれたから仕方なく来てやったんだ」
 「ありがとう!イグノス様!」
 ツキは座ったまま深くお辞儀をした。
 「いいか。新しい呪文を言うぞ。よく聞くんだ。そして、覚えろ。忘れると今度こそ帰れなくなる。もし帰りたくないならそれもしかたねえがな。いいか、言うぞ。今、言うぞ」
 「は、はい」
 ツキはイグノスの方に身を乗り出して耳を澄ませる。
 「カサ ボナウェントーラ」
 「え?な、何?あの、もう一度、もう一度お願いします」
 イグノスはゆっくりと復唱した。
「待って!今、書くから」
リュックの中をまさぐって紙とボールペンを捜し始めると、イグノスが冷たく言った。
「だめ!書くのはルール違反。覚えるんだ」
仕方なく目を閉じてその言葉を脳細胞に深く埋め込むようにゆっくりと十数回唱えた。「カサ」というところでは、傘をさす仕草を繰り返した。もう大丈夫と思った時にはイグノスの姿はなく、窪みの向こうには銀色に煙る通路が開けていた。
 ツキは足を踏み出す。ぶるっと身体が震える。今度は武者震いだ。さあ、教室だ。ドアのガラス窓から覗く。静かだ。中は薄暗くて誰もいないようだ。その時、ガタンと椅子を引くような音がして薄闇の中で立ち上がった者がいる。驚いて見ていると足音が近づいてきてドアが開いた。心臓がきゅうっと縮んだ。
 「やあ、嘘つきツキさん、こりゃまたとんでもない奇遇ですね。まるでもぐらが鯨と出会うほどの確率で」
 うさぎの声はいつになく上機嫌で弾んでいる。
 「うわあ!なんで、あんたがここに!」
 ツキは心臓をさすりながら驚きと安堵が入り交じった声を放った。
 「なんでって、待ってたからです」
 「誰を」
 「だから、乙姫さまを」
 「ふざけないで!」
 「だって、ツキさんもその銀色の道を、秘密の天の川を渡って来たんでしょう?僕もですよ。待ってたと言ってもツキさんが来るのを知ってたわけじゃありません。ただ、何となく誰か来ないともかぎらないなあって感じていただけで。でも、こうして会ったからにはですね、これから二人の冒険が始まるってわけで」
 「げっ!二人の、とか言わないで!なんで、あんたと。もう、泣きたい!」
 「まあ、まあ、そう言わずに。世の中、泣きたいことだらけですよ」
 うさぎは大きな足を踏み出して歩き出した。ツキは仕方なくついて行く。うさぎもリュックを背負って、水筒をたすきがけしている。ほどなくふくろうの灯りが幾つか見えてきた。ふくろう通りの左側には小さな店が並び、右側はやはりどっぷり闇に沈んでいる。ツキとうさぎは並んで花屋の前に立った。花はみんな小さい。野の花みたいに地味で、普通の花屋にあるような薔薇や百合や蘭など豪華な花も鉢植えの花も見当たらない。ツキは白い鉢の上にこんもり咲いた青い小さな花を見つけて叫んだ。
 「あ、フグリだ。オオイヌフグリ!」
 「ほんとだ」
 うさぎがうなずく。
 「一鉢七百トスのところ、今日はお安くして五百トスだよ」
 そう声をかけてきたのは、ツキよりもずっと小さな男の子だった。浅黒い肌にくるんくるんの巻き毛、大きな目は夜露に濡れたように潤んでいる。
 「僕たち、ここのお金を持ってないんです」
 「なら、質屋に行きなよ。その水筒、いい質草になるよ」
 男の子はいっぱしの口をきいた。
 「わかった。質屋なら知ってる」
 ツキが答えると男の子はにっこりした。
 「質屋を知ってるんですか」
 うさぎの質問に答えることは、ふくろう通りでの経験についてあらかた話すことだった。うさぎは興味深そうに耳を傾けた。その表情が思いの外思慮深く見えたので、少し見直した。質屋に行く途中、帽子屋の前で足が止まった。花屋もそうだけれど、以前にはなかった店ができている。店を冷やかして回る人々に見知った顔はないが、老若男女みな相変わらず静謐で、大声でしゃべったり騒いだりする人はいない。帽子屋の主人は赤ら顔のでっぷり太ったおじさんで、シャーロック・ホームズが被っているような帽子を頭に載せている。左右の耳当ては頭の上できちんとリボンで留められていた。帽子屋の店先は目が覚めるような色彩に満ちていて、特に女性用の帽子はコサージュやリボンで飾られ、赤や黒、黄色、薔薇色、ベージュ色、青、緑色など大きさも形もデザインもいろいろな帽子がところ狭しと並んでいる。ツキはすっかり見とれてしまった。
 「お嬢ちゃん、よかったら被ってみてもいいんだよ」
 帽子屋の主人はそう言うと、黄金色の液体が半分ほど入ったグラスを手に取り、ひとくち含んでゆっくりと飲み込んだ。
 「でも、お金を持っていないので」
 ツキが遠慮がちに答えると、主人は優しい笑みを見せて言った。
 「ちょっと被ってみるのにお代は要らない。そうさな、お嬢ちゃんにはこれなんかどうかな」
 主人は深い海の底のような青緑色のフェルト帽に若草色のリボン、縁にはナナカマドみたいな真っ赤な実がブローチ風に飾られた帽子を差し出した。ツキの口から感嘆のため息が漏れた。自分の色あせたキャップを脱いで帽子を頭に頂く。
 「おお、よく似合う」
 「ああ、本当に」
 うさぎも珍しく素直に応じた。主人が小さな手鏡を渡してくれた。それを覗き込んだツキはうっとりした。本当にこの帽子は自分のために用意されていたみたいにぴったりと頭に収まり、元々小作りな顔の輪郭をいっそう引き締めて何だかとても賢そうに見える。でも、こんな素晴らしい帽子、きっととてつもなく高いのだろうと思うと、高揚していた気持ちが一気にしぼんだ。
 「ありがとうございました」
 ツキは手鏡と帽子を返した。
 「なんの、なんの」
 帽子屋の主人は機嫌良くそれらを受け取り、こう言った。
 「これはあんたの帽子になる運命かもしれないな。では、ご機嫌よう」
 ツキは他の店には目もくれず質屋に急いだ。うさぎは古道具屋の前で人魚の骨壺を探すんだと言い張ったので、そこで別れた。
 ツキは質屋に辿り着いた。質屋のお爺さんはツキが息を切らして持ち物をカウンターに並べるのを黙って見ていた。カウンターの上は鉛筆入れやハンカチ、タオル、『本』、お弁当、クルミ、ドングリ、小刀などで一杯になった。
 「どれが一番高い質草になりますか」
 「ほほう、いっぱしの客の口をきくようになったな。何か買いたいものが見つかったんだね。いったい、いくら要るんだい」
 そう聞かれて、帽子の値段を知らないことに気がついた。
 「ああ、あの帽子、いくらなのか聞かなかった」
 「慌て者だね。そうさな、ここに並んだものではこれが一番かな」
 お爺さんが手に取ったのは『本』だった。
 「紙の本はここにはもうないのでね、こういうのは貴重なんだよ」
「え!それは……」
「おや、これはだめかね」
 ツキの脳裏にナナカマドの真っ赤な実が揺れる青緑色の帽子が浮かび、それを被ったきりりと賢そうな自分の顔が浮かんだ。あの帽子さえあれば、頭の中にいろんな知恵が湧いて出て、どんな難局もかっこよく乗り越えて行けそうな気がした。
 「いいえ、だめじゃないです。それでお金を貸してください」
 「ほんとに、いいのかい?」
 お爺さんは『本』を手にとって丁寧にあらためると、独り言のように呟いた。
 「おや、まあ、不思議な本だな。とんでもなく下手くそな活字で書いてある。おまけに破れて穴があいてる。まあ、いいか」
 それから、ツキの目を見て言った。
 「うんと奮発して十タナー。その帽子を買ってもおつりが来るだろうよ」
 ツキは目を輝かせてお礼を言い、きらきら光る小さな正三角形を十枚両手で受け取った。
 心がせくあまり、走り出す。ゆったりと歩いている人々にぶつかりそうになりながら帽子屋に戻った。赤ら顔のおじさんは相変わらず黄金色の飲み物をちびちびと飲んでいた。
 「あの、さっきの帽子、いくらですか」
 息せき切ったツキの顔を見て、おじさんはにんまりした。
 「おお、お嬢ちゃん、きっと戻ってくると思ったけど、随分早かったね。さっきの帽子ね、あれは由緒あるものでちょいと値が張るのさ。でも、お嬢ちゃんの熱意に感じてお安くしてあげるよ。十タナーのところ、八タナーでいいよ。どうだい?二割引きさ。悪くなかろう」
 ツキは大喜びで何度も頷いた。きらめくお金を八枚数えておじさんに渡す。おじさんはそれをきっちり確かめてから、「さあ」とあの帽子を差し出した。
 「被っていくといい」
 ツキは帽子を被り、また手鏡を借りた。この聡明そうに微笑む少女がほかならぬ自分なのだと思うと喜びで胸がときめいた。同時に欲しいものを自分の力で手に入れたことにすっかり満足した。
一人でふくろう通りを歩いているうちに興奮も冷め、うさぎのことが気になってきた。古道具屋にはもううさぎの姿はなく、どこに行ったのかわからない。水筒を持っていることを思い出して麦茶で乾きを癒したら、今度はひどく空腹を覚えた。お弁当を食べるのにいい場所はないかときょろきょろしていると、ロングスカートの女の人が話しかけてきた。
 「何か探してるの?」
 ちょっと小太りで首に銀色のストールを巻いている。
 「はい、あのう、ええと、ふくろうホテルはどこですか」
 ふくろうホテルのことなど頭になかったのに、それが口をついて出たので自分でも驚いた。女の人は蜜がたっぷり沁みこんだ柔らかいスポンジケーキみたいな声で答えた。
 「ふくろうホテルはここです。そして、どこでもありません」
 ツキは「え?」と言ったきり絶句した。蜜を含んだ柔らかい声がまた言った。
 「変な答でごめんなさい。でも、ほかに答えようがないの。つまり、あなたがここがふくろうホテルだと思ったところがそれなのです。思わなければ、ふくろうホテルはどこにも存在しません」
 そう言うと、香しいそよ風みたいにふわりと通り過ぎた。ツキはふくろうたちの街灯に照らされた道に佇み、空を見上げた。幾重もの銀河がきらめきながら垂直に流れている。ふくろうホテルの支配人のことを思い出した。あの人間かふくろうか、男か女かわからない不思議な支配人のことを。「境界というもののない世界」支配人はたしかそんなことを言っていた。ツキは目を閉じた。そして、今ここがふくろうホテルなのだと強く念じた。
 「ここがふくろうホテル。ふくろうホテルの支配人がそこにいる」
 何度もそう呟いてそっと目を開けた。見渡す風景は何も変わっていなかった。すると、向こうからゆっくり近づいてくる者がいる。そのシルエットで誰だかわかった。ツキは自分の方から駆け寄った。
 「うさぎったら、どこに行ったのかと思ったよ」
うさぎの声が落ち着き払って答える。
 「あの、うさぎって呼び捨てにするのはいい加減やめてくれませんか。僕はいつだってツキさんと呼んでるじゃありませんか」
 「あ、ごめんなさい。うさぎさん。で、どこへ行ってたの」
 「ホテルで休んでましたよ。もちろん、ふくろうホテル」
 「ふくろうホテル、どこ?」
 うさぎは大きな前歯を見せて愉快そうに笑った。
 「だから、ここ!」
 うさぎの人差し指が自分の足下を指した。
 「僕たちは今フロントにいるんです。こっちがカウンターです」
 うさぎが振り向くと、なるほどカウンターが現れ、そこにあの赤い蝶ネクタイをつけた支配人が金色の目を光らせて立っていた。
 「僕はもう予約を済ませましたよ。取りあえず三日ほど宿泊します」
 ツキが支配人に挨拶すると、支配人は「ようこそ」と答えて、朗々と歌い出した。
 「シロカニペ ランラン ピシカン コンカニペ ランラン ピシカン……」
 支配人の首が右回りにゆっくり一回転したところで歌が終わった。
 「これは歓迎の挨拶。で、そちらのお嬢さんは当ホテルに何泊お泊りかな」
 ツキは口ごもった。
 「それは、あのう、まだはっきりとは……」
 「けっこう。好きなだけ泊まるがいい。それで、支払いはどうするね?そちらの坊ちゃんみたいに身体で払うかい」
 「身体で?」
 うさぎがすぐ説明した。
 「僕は働いて払うことにしてもらったんです」
 「何をして働くの?」
 「さあ」
 うさぎは暢気に肩をすくめる。
 「あのう、どんな仕事をするんですか」
 支配人も羽毛に覆われたその肩をすくめた。
 「それはやる気次第さ。まず、働く気があるかどうか、それが一番重要さ」
 「あ、あります」
 「ほほう、そうかい。それでは契約成立といこう。仕事の話は後だ。まずはゆっくり休みなさい」
 支配人が首を左に回し始めると、カウンターも支配人も見えなくなった。二人が立っているのはだだっ広い野原だった。
 「ほんとにここ、ホテルなの?」
 「ホテルさ。僕はぐっすり一眠りして、お茶も飲みましたよ」
 「ベッドもないのに?」
 「ありましたよ。眠ったらそこがベッドでした。コンビニで買ってきたおにぎりを食べたら、そこがレストランでした」
 「うさぎったら、」
 「うさぎさん!」
 「あ、うさぎさんたら、なんでそんなふうに余裕なの?もしかしてリピーターなわけ?ディズニーランドみたいな回数券持ってるとか」
 「あはは。回数券は持ってないけど、リピーターは当たり!ツキさんは勘がいいですね」
 「驚いた。ついでにもう一つ聞くけど、あたしがポテサを作ろうとしてるの、どうして知ってたわけ?それから、ママのこと、やばいって言ったけど、なんでそんなこと」
 「おっと、いきなり質問二つですか。まず、最初の質問。それはですね」
 その時「グルグルグルルー」と高らかな鳴動が発生した。ツキは慌てて腹を押さえた。
 「その前におにぎり食べたらどうですか」
 「そうする」
 ツキは野原に腰をおろし、コンビニで買ったおにぎりを取り出すと夢中でぱくついた。仕上げにカスタードとホイップの特大ミックスシューを食べて麦茶を流し込み両手で胃をなでた。うさぎはその間、眠っていた。うさぎを起こして話の続きを聞こうとしたが、急に眠くなってきた。甘酸っぱい匂いがする。幼稚園の頃、寝つくまでいつもしゃぶっていたタオルケットみたいな匂い。
 「有紗、早く降りておいで。こっちだよ。早く!」
 呼んでいる。何度も。ママだ。ママの声だ。ママが近くにいる。ツキは眠りの螺旋階段をくるくると回転しながら、下へ下へと降りていった。
 すとんと大地に足がついたような気がした。立ち上がると、支配人の声が聞こえてきた。
 「さあ、仕事だ」
 ふくろうホテルの支配人の声が頭の上から降ってきた。
 「はい!」
 いつのまのか隣にうさぎがいて張り切っている。
 「もう一人の応答がないようだが」
 支配人の金色の膜に墨で描いたような黒目が一回りしてサーチライトのようにツキを照らした。慌てて返事をする。
 「さて、仕事は、ふくろう図書館での解読作業だ。図書館といっても紙の本はない。紙ではない本がある。仕事は紙ではない本の内容を解読して、結果を報告すること。以上」
 うさぎと二人ぽかんと口を開けているうちに支配人は翼を広げて飛び去った。うさぎがぼそっと言った。
 「やっぱり、飛ぶんですね。あの支配人」
 「うさぎさん、リピーターなのに知らなかったの?」

14 
 東も西も皆目見当がつかない森の中で地図を作れと命令されたような気がした。しかも、紙はない。あたりを見回す。朽ちかけた机やテーブル、椅子、ベッド、棚、食器類、大量のボロ切れ、壊れた傘、泥だらけの毛布みたいなもの、大小の石ころや貝殻、枯葉、魚のミイラみたいなの、干からびた野菜や果物、丸くて黒い円盤、汚らしくて触りたくもない代物ばかり。廃墟というよりまるで巨大なゴミ捨て場のようなありさまだ。
 「ここが図書館なんですか」
 うさぎが赤ちゃんの握り拳ほどの石を放り投げて聞いた。
 「あたしに聞かないで。リピーターなんでしょ?知らないの?」
 「こういうところは初めてです」
 「何が仕事なのか全然わかんなかったし、カイドクとか、わかった?」
 うさぎが首を振る。ふと頭に手をやると帽子に触れた。お気に入りの帽子がちゃんとあることを喜んだ。帽子を被り直して壊れたテーブルに目を留めた瞬間、ひらめいた。
 「そうだ!図書館には司書の先生がいるはずだ。そうでしょ?」
 うさぎは皮肉な口調で答えた。
「普通の図書館の場合はね」
学校の図書室にも公園のそばにある市立図書館にも百円ショップの隣にある県立図書館にも司書がいて困った時は助けてくれた。小学校に上がる前、ママに連れられてよく市立図書館に行った。本が大好きだった。子どもの本棚の床にぺたりと座って絵本に夢中になった。ママがいなくなっていることにも気がつかなかった。司書のお姉さんが「一人なの?ママはどこにいるの」と聞いたけど、首を振るばかり。ツキの手を引いてフロアを捜しまわったけれど、ママはどこにもいなかった。ツキはそれでも泣かなかった。館内放送もしてくれたけど、ママは現れない。置いてきぼりにされていた。それでも、ツキは大人しく絵本の続きを見ていた。司書のお姉さんが心配して時々声をかけてくれたから心細くはなかった。日が暮れる頃、迎えに来たのはママじゃなくてお婆ちゃんだった。そんなことが何度もあった。ツキは思い切って呼んでみた。
 「司書の先生!ふくろう図書館の司書の先生!困っているので来てくださ~い」
 うさぎがバカじゃないのという顔でツキを見ている。あたりはし~んと静まりかえり、しばらく白けた雰囲気が漂った。もう一度呼ぼうとした時、信じられないことが起きた。
 「はあああ~い!」
 まるで高い山の彼方からひどく遅れて届いたこだまのように、左右に雨雲を払うように、明るく爽やかな声が降ってきた。驚いてうさぎと目を合わせた。うさぎの大きな目がさらに大きくなっている。それから、本当に司書が一人降ってきた。司書は体操の床演技でピタリと着地を決めたオリンピック選手みたいに忽然と二人の前に出現した。
 「お呼びですか。わたしが当ふくろう図書館の司書です。リベルと申します」
 その人は雲一つない秋空がしみこんで布地になったみたいなエプロンをつけていた。金色の髪を肩まで垂らし、薔薇色の縁の眼鏡をかけた美しいお姉さんだった。うさぎの目がいつになく情熱的に輝いている。
 「あ、あの、僕、うさぎと言います。っていうか、それは、もちろん、ニックネームなんですけど、どうぞよろしく」
 うさぎが抜け目なく差し出した手をリベルと名乗った司書が握った。うさぎはでれでれと締まらない顔で「リベルさん、すごい冷え性なんですね」と言った。リベルがツキの方にエプロンの色と同じくらい青い目を向けた。
 「あ、私はツキです。あ、やっぱり、ニックネームですけど」
 「よろしく。リベルと呼んでください」
 すっと差し出された手を握った。氷と握手したみたいだった。
 「さて、二人にやってもらう仕事については支配人から聞いています。まず、一つ質問しますので自由に答えてください。ここは図書館です。このことについてどう思いますか」 
 間髪入れずうさぎが答えた。
 「残念ながら異議ありです。僕は本が好きでいろいろ図書館という所に行ったことがありますが、ここにはガラクタばかりで本というものが一冊もありません。ですから、ここが図書館だとは思えません」
 リベルの青い目がツキの方に動く。心の奥まで見透かされそうで、思わず目を反らす。
 「私も、同じです」
 リベルはにっこり微笑んだ。うつむいたツキは、リベルのエプロンの正面に大きなポケットが付いていて、何かが入っていることに気づいた。
 「でも、ここは図書館なのです。ここにあるのはすべて本です。あなたがたが知っている本とは違うかもしれませんけど。だから、それを読まなければなりません。そして、それを読むのがあなたがたの仕事です。読みとったメッセージを口頭で報告することで、賃金を支払います」
 うさぎが勢いよく手を上げた。
 「本じゃないものをどうやって読むんですか」
 「その方法を考えるのも仕事のうちです」
 ツキは黙っていた。
 「この仕事をやめたいなら、今のうちです。始めてしまってからではやめることはできませんよ」
 「ぼ、僕はやります」
 うさぎがツキの腕をつつく。
 「あ、私も、やります」
 「よかった。ほかに質問は?」
 のろのろと手をあげたのはツキだ。
 「あのう、報告するって、どうやってですか。こうとう、って何ですか」
 うさぎが元気よく手を上げた。
 「はい!こうとうっていうのは、口でしゃべることです。しゃべって報告すればいいんですよね、リベルさん」
 「そのとおりです。リベルと呼んでくださってけっこうですよ。では、仕事にかかってください。あ、そうそう。忘れていました」
 リベルはエプロンのポケットから何かを取り出した。
 「これが勤務時間の目安です」
 リベルが壊れたテーブルの上に置いたのは砂時計のようだった。
 「砂が全部落ちたら、今日の仕事は終わりです。仕事は毎日です。結果が出るまで毎日」 そう言うとリベルは砂時計をひっくり返した、そして、ガラクタの山を軽々と跳び越えてまもなく見えなくなった。黄昏の淡い光の中に取り残された二人は途方に暮れて顔を見合わせた。
 「始める前から疲れちゃった」
 「まあ、とにかくやってみるほかはありません」
 うさぎは身をかがめてガラクタの山に分け入り、手当たり次第点検し始めた。ツキも重い腰を上げてゴミの中をほっつき歩き、何か珍しいものを探した。薄闇に白く浮かび上がって見えた大きな貝殻を見つけて手に取り、もっとよく見ようと注意を集中した時、貝の表面の細かい模様が仔細に浮かび上がった。その模様は何となく文字のように見えたけれど、ツキには読めない。うさぎを呼んで見てもらう。うさぎが貝殻にぐいと顔を近づける。
 「ほんとだ。ヒエログラフか、ヘブライ語の文字みたいだ」
 「読める?」
 「全然。でも、ひとつ気づいたことがありますよ。あたりはこんなに薄暗いのに、何かひとつのものをじっと観察しようとすると、ほら!そこだけスポットライトが当たったように明るくなります」
 「わ!ほんとだ。気がつかなかった」
 ツキは面白くなって他のものにも試してみた。すると、たしかにじっと集中して見ようとすると、そこだけ明るくなる。集中せずにいい加減に目をくれるだけだとスポットライトは当たらない。しばらくそうやって遊んでみたが、本を読むように読めるものはひとつもない。もし、自分たちの知らない言葉で書いてあるとしたら、全然意味がない。ツキは疲れて腰を下ろした。うさぎはどこに行ったのか姿が見えない。眠くなってきた。どのくらい経ったのだろう。空から何かが降ってくる感覚に揺り動かされて薄目を開けた。うさぎの声で目を覚ました。
 「ツキさん。砂時計の砂が全部落ちていますよ。今日の仕事は終わりです。それに、何か降っています」
 さらさらと何か白いものが降ってくる。見る見るツキの足首が隠れた。
 「砂、みたいですね。このままじゃ、僕たちじきに埋まってしまいますよ」
 ツキは立ち上がってうさぎと一緒に脱出を試みた。歩いても歩いても白い砂は降ってくる。ふくろう図書館そのものが大きな砂時計みたいだ。いったいどこまでがふくろう図書館なんだろう?その時、ふくろうホテルの場所を教えてくれたロングスカートの女の人を思い出した。彼女はたしかこう言った。「あなたがここがふくろうホテルだと思ったところがそれなのです」
 「うさぎさん、ふくろうホテルに行こう」
 勘のいいうさぎはすぐに合点した。
 「よし!さあ、ここがふくろうホテル!」
 ふたりの声が合わさった時、ツキはサイドテーブルのついたベッドに座っていた。そこからうさぎと一緒にふくろうレストランへ行き、食事をした。熱いシチューと黒パンとミルクティー。それから、小さなりんごをひとつずつ。

15
 次の日も仕事だ。ツキは足下に転がっている壊れた傘を拾い上げた。骨が折れ、どす黒い汚れがこびりついたビニール地は破れている。
 「なんで、これが本のわけ?この汚いビニールには文字みたいなのは書いてないし、どうやってこのぼろ傘を読めって言うの?バカみたい」
 うさぎは隣で何か泥だらけの塊を手にしている。
 「どうやらこれは元はくまか何かのぬいぐるみだったみたいですよ。ふうむ。すご~く大変だけど、頑張ってこれが本だと考えてみますか」
 うさぎは汚らしい元ぬいぐるみをなでたり叩いたり逆さにしたり耳に当てたり匂いをかいだりしている。
 「臭いなあ。変な匂いがします。牛乳が腐ったみたいな」
 「赤ちゃんがおっぱい飲んだ口でしゃぶってたんじゃない?」
 「ああ、そうかもしれませんね。それに、随分と湿っぽい」
 「それって、よだれじゃない?」
 「首もぶらぶらしてます」
 「きっと、ぶん回して遊んだのよ」
 うさぎがはっと閃いた表情をした。
 「今、ツキさんが言ったこと、このぬいぐるみを読んだことになりませんか?」
 「え!」
 ツキは思わず膝を叩いた。
 「そうか。そのぬいぐるみを持っていた男の子か女の子のことを考えてみると……」
 「そこには物語があって……」
「それを読む!」
 ツキはうさぎと手を取り合って小躍りした。うさぎの口から言葉がほとばしる。
 「そうですね。このぬいぐるみの持ち主は男の子で、四歳の誕生日にお母さんからプレゼントされたんです。大のお気に入りで寝ても覚めてもぬいぐるみを手放さずにいたんだけど、お母さんはその子が五歳の時病気で死んじゃって、男の子は寂しくてたまらなくなると、このぬいぐるみを抱きしめてしゃぶったり噛んだり投げたりぶん回したりしたんです。でも、大きくなったらぬいぐるみは捨てられてゴミの山の中に埋もれてしまった。こんなに汚れて」
 「ふうん。でも、それってうさぎさんの勝手な想像でしょ。あたしなら別の物語りを考えるな。そうやってみんなが違うこと考えたら、本当のことなんかわからないと思うけど」
 「う~ん。なるほどね。でも、ツキさんだったら、どんな物語を考えますか」
 ツキは腕を組んでしばらく考えた。
 「死んだのはお母さんじゃなくてその男の子だったの。その子はベッドの中でずっとそのぬいぐるみと一緒だった。最後にぬいぐるみはその子と一緒に棺桶に入れられたんだけど、神様がおまえは男の子の代わりにもっと生きなさいって言われて、棺桶から飛び出して、ええと、それで、どうしよう」
 「流れ流れて外国の貧しい女の子のものになって、」
 「ううん、違う。流れ流れて外国の金持ちの女の子のものになって、その子はわがままで、こんな汚いぬいぐるみなんかって言って、すごくいじめるの。それで、首がぶらぶらになって、ぬいぐるみはその女の子に復讐しようと呪いのくまになって……」
 「おお、こわ」
うさぎが大きなため息をついた。
 「なんだかもうどうでもよくなってきました」
 そう言われると、ツキも好き勝手な想像を膨らませるのがつまらなくなった。くまのぬいぐるみも外国のわがままな女の子も自分には関係ない。
 「読むって、こういうことなのかなあ。わかんない。もうめんどくさくなってきた」
 壊れたソファーにだらんと寝そべったうさぎは返事もしない。ツキも疲れて膝を抱えた。ふと、頭や肩に何かとても微かな感触を覚えて空を見上げた。また降っている。たいそう軽くて薄くて頼りない白っぽいものが。白っぽい砂は次第に量を増して、さらさらと落ちてくる。よく見ると、時々スペタクルがかかったように虹色に変化する。
 「うさぎさん!起きて!砂だよ。また砂が降ってきたよ。虹色の!」
ツキはうつ伏せに寝ているうさぎの身体を揺さぶった。うさぎの背中にも砂が積もり始めている。うさぎは起きあがり、掌に降り落ちるものを受けた。
 「ああ、思い出した。これは忘却の砂だ」
 けだるそうに呟くとまたうつ伏せになってまもなく寝息を立て始めた。ツキはうさぎの身体をさっきの何十倍も乱暴に揺すぶったが、うさぎは目を覚まさない。辺りはどんどん白い砂に覆われていく。落ちた砂に色彩はなくただ白いだけだ。空中を落下している時だけ虹色に見える。砂は綿毛みたいに軽くてゆっくりゆっくり落ちてくる。砂というか灰のようでもある。衝撃は感じない。それなのに、もう脚のすねまで埋まった。うさぎが寝ているソファーの脚の部分も埋もれた。このまま降り続ければ頭まで埋まってしまいそうだ。辺りを見回して高いものを探したけれど、ツキの背丈以上に高いものは見当たらない。うさぎの背丈でもツキより七、八センチ高い程度だろう。そのうさぎは今横になっている。縦になっていなければいけないのに。必死でうさぎを起こそうとした。揺さぶり、叩き、頬をつねり、耳を引っ張った。
 「起きて、早く!埋もれて死んじゃうよ!」
 うさぎはぴくりとも動かない。もう早々と死んでしまったみたいに。ツキはうさぎの上に身体を重ねて泣き出した。
 「う~」とうさぎが呻いた。まだ死んでない。見ると、半開きの口に砂が入り込んでいる。それなのに、うさぎときたら失神しているみたいに目を開けない。ツキはせめて仰向けにしようと、うさぎの身体をひっくり返そうとした。男の子の身体がこんなに重いとは知らなかった。息を切らしてようやくひっくり返したが、今度は顔に直接砂が降りかかる。うさぎの顔を撫でて絶えず砂を払ってやらなければならない。うさぎの睫毛の黒々と長いのにあらためて気づいた。眠っているうさぎはいつになくよそよそしく生真面目そうで、よく似た他人みたいな感じがした。
 ツキはいつまで続くのかわからない作業に倦み疲れた。自然に身体が前傾すると、うさぎの頬に自分の頬が重なった。その頬はよく冷えたみるく屋のプリンみたいに冷たくて心地いい。ツキの身体は火照っていた。心の中にもわけのわからない火照りがあった。ふうっと身体の力を抜いた拍子にうさぎの肩に頭が載った。
 夢の中で誰かの胸に抱かれていた。小さなツキは人の体温の温かさにくるまれて安心してまどろんでいた。ふと蜜柑の匂いがした。蜜柑を食べているのはママだ。ママの気配がする。ママはよくツキを抱きながら片手で器用に蜜柑を剥いた。蜜柑を半分ぐらい皮ごと口に放り込むママ。蜜柑の果汁が飛び散ってツキの顔にかかる。そんなママを二度と見ることはないのだ。ママの蜜柑のシャワーを浴びることはもうないのだ。ぬくもりが急激に冷めていき、薄墨色の悲しみが胸に広がった。はっとして起きあがると、うさぎの身体はもうほとんど埋もれていた。慌てて砂をかきのけ、うさぎを掘り出そうと試みるが、腕が重くて思うように動かない。疲労に打ちのめされたように全身が重い。もう、だめだ。
 「リベル!助けて!リベル!」
ツキはあらん限りの声を振り絞った。ツキは何度も何度もリベルを呼んだ。しばらくして目の前に何かがすとんと落ちてきた。リベルだ。たぶん。
 「ああ、リベル。なんて遅いの!助けて。うさぎが砂に埋もれてしまう。お願い、この砂を止めて!」
 「その前にどうしてこれが降り始めたのか説明してあげよう。そもそも、これはただの砂ではないのだがな」
 声が違う。ツキは驚いてリベルを見た。そこにいたのはリベルではなかった。しわくちゃの顔にぼさぼさの白髪、背中の丸まった小さな老婆が太い杖を携えて立っていた。
 「リベルじゃない!あなたは誰?」
 「だから、リベルさ」
 老婆は平然と答えた。ツキは激しく首を振る。
 「私はリベルさ。ふくろうホテルの支配人が言ってなかったかい?ここには境界というものがないのだと。男も女もないのだと。ならば、若いか年寄りかの境界もないのさ。だから、私はリベルさ」
 「違う、違う!あなたとリベルの同じところは、その真っ青なエプロンだけ。あとは全部違う。姿も声もしゃべり方も」
 「頭の固い娘だね。まあ、そんなことだからここまで来なければならなかったんだろうよ。じゃあ、あんたの知ってるリベルじゃないから、助けてもらわなくてもいいんだね?」
 ツキは慌てて首を振った。
 「そ、それは困ります。だって、うさぎが……」
 とっくに砂に埋もれているはずのうさぎの顔がきれいにそこにある。手をかざしてみると、砂はもう降り止んでいた。
 「ほら、私は仕事が早いのさ」
 「あ、ありがとうございます」
 「よろしい。礼儀は知っているようだ。さて、この砂の正体を知りたくないかい。そっちのうさぎさんはもう知っているようだが」
 リベルが杖の先をうさぎの頭にかざすと、長い睫毛の緞帳が上がった。うさぎは顎がはずれそうな大欠伸をした。
 「ああ、すっかり眠ってしまったなあ。なんだかこっち側の肩が痛い」
 ツキの頭が載っていた方の肩を撫でながらリベルを見るや、こともなげに言った。
 「ああ、リベル。さっきの方が素敵だったけど、中身はおんなじリベルですね。それで、今、何の話をしてたんですか」
 「え!うさぎったら、なんでびっくりしないの?リベルは」
 「僕はリピーターですから。あのう、それから、さんをつけて」
 「あ、御免。じゃ、巻き戻し。うさぎさんったら、なんでびっくりしないの?」
 「全く、全然、ちっとも。それで、リベル、僕、突然思い出したんだけど、この砂は忘却の砂ですね。どうでもいいと思って関心を持たなくなった人の上に降ってくる忘却の砂」
 「さよう。この図書館に収められている本はどれも物語を持っている。その物語に耳を傾ければ何らかのメッセージを受け取れる。しかし、それを聞こうとしないで、疲れたの何のと言ってすぐ放り出してしまう、そういう者の上に降る砂だ。砂は降り続けて、そういう者たちをも忘れ去られる運命に導く」
 リベルは杖を振り上げてツキの鼻先でピタリと止めた。
 「おまえさんは自分がどうしてここにいるのかも、まだわかっていないようだね」
 そう言われると、本当にわからなかった。わからないというのは、身体を支えていた重心が崩れ、へたへたと座りこむことだった。見知らぬ悲しみに胸をついばまれ、自分自身が見知らぬ誰かになることだった。
 「わかりません。でも、もうどうでもいい。このまま砂に埋もれて死んじゃってもいい」
 「そうかい。では、そうしてあげよう。おまえさんの望むとおりに」
 リベルが天に向かって杖を振り上げると、白い砂がうっすらと虹色に輝きながら降ってきた。ツキは呆けたようにそれを眺めた。リベルは姿を消した。突然、甲高い笑い声が響き渡った。明るく弾むような声。ツキの無表情の頬がピクンと動いた。
 「ママだ。ママの声だ。ママが笑ってる」
 きょろきょろ辺りを見回すと、じっとツキの様子を見つめているうさぎの目と出会った。 「ツキさん、あなたはママを見つけなければならないんです」
 はっと目が覚めた。うさぎの目にはこれまでになく親密で優しく、同時にとんでもなく近寄りがたい聡明な光が宿っていた。
 「うさぎさん、どうしてそんなことわかるの?あなたは誰?」
 「それは後からわかります。今はとにかく、ママを見つけなくては」
 「見つけるって、どうやって?ここにママがいるの?」
 「います。ツキさんは無意識のうちにいることがわかっていたから、家出してここまで来たんでしょう?」
 きょとんとしているツキにうさぎはかまわず質問する。
 「ところで、ツキさん、お気に入りの帽子はどこです?」
 「帽子?」
 慌てて頭に手をやると、ざらついた髪の毛の感触だけが残った。
 「そうだ!帽子を買って、被っていたのに。ほんとだ、ない!どこに行ったんだろう」
 ツキは半べそをかきながら、辺りを探し始める。その間にも砂は音もなく降り続く。もう足下が埋まった。だんだん足をあげるのがしんどくなる。それでも、帽子を探す。あの帽子は特別の帽子だ。理由はわからないけど。壊れたテーブルの下に潜り、人形や壺やクッションを点検し、扉のはずれた洋服箪笥の中を調べ引き出しを開けてみる。ガムテープで塞がれた小さな段ボールの箱が目に留まる。こんな中にあるはずがないと思いながら、いったい何が入っているのかと気になって開けてみる。ガムテープは乾燥していてすぐに剥がれた。中にはプラスチックの車や電車や飛行機、おはじきやけん玉、トランプなどが入っていた。トランプは角が丸くなりひどく折れているのもある。これで遊んだ子はどんな子どもだったかと思う。パパとママと三人でババ抜きをして遊んだことを思い出した。あの時、ママは笑っていた。高い声で楽しそうに。パパも笑顔だった。ツキはトランプを揃えて切ってみた。半分に分けて両手に持ち左右交互に捌いてみた。うまくいかない。ママはこれも上手だった。目にも留まらぬ速さで綺麗にシャッフルした。もっと探そう。
 「ツキさん、ホテルへ戻ろう」
 昨日よりも大きく見える砂時計がその日の仕事の終了を告げていた。二人はふくろうレストランで食事をした。クルミ入りパンと特大チーズ、茸のスープと熟れたプラムを一つずつ。
 翌朝、ツキは下腹部の痛みで目を覚ました。仕事に出かけようとしたけれど、頭痛も始まって動けなかった。
 「僕がリベルに今日は休みだと言っておきます。体調不良ということで。でも、有給休暇はないと思います」
 ツキはお腹をさすりながら尋ねた。
 「ゆうきゅうきゅうかって何?」
 うさぎがわかりやすく教えてくれた。
 「ふうん。それ、ないの。残念」
 ツキは顔をしかめて目を閉じる。身体の奥の泉からぬらりと何かが降りてきた。身体の奥でまた赤い泉が湧き出した。泉はあふれ身体の外に滾々(こんこん)とあふれ出す。糸を引くような粘っこい眠りに引き込まれながらツキは繰り返し呟いた。
 「困った、困った。どうしよう」
 「ほら、あんたの必要なものはここにあるよ。おや、まだ目が覚めないのかい」
 まぶたをほんの少し持ち上げてみたけれど、瞼はダンベルみたいに重くてすぐに落ちた。誰かの手がツキの身体に触った。それから、下半身に身につけているものをゆっくり一枚ずつ剥いでいく。裸になった下半身にパンツを履かせ何か柔らかいものがあてがわれた。優しい手が元どおりに衣服を戻すと、ツキはおしめを替えてもらった赤ん坊のように安心した。そうして、すやすやと赤ん坊の眠りを眠った。はっきりと目覚めた時、ママが来てくれたことを確信した。ママはすぐ近くにいる。
 ふくろう図書館で仕事を再開した。うさぎの姿が見えない。小癪な奴だけれど、いないとなると、片腕もがれたように寂しい。寂しさを振り払うように仕事に集中した。何を探さなければならないのかわかった。この『本』たちのどこかにママに関係するものがあるはずだった。ツキは図書館内を片っ端から調べ始めた。まだ調べていない大きな洋服箪笥が目についた。火事にでも遭ったのか焼けこげた跡がある。扉は開いていて中に引き出しがついている。洋服は一着もかかっていない。ツキは三段になっている引き出しの一番上に手を掛けた。歪んでいるためにどう引っ張っても開かない。他の二つも同様だった。
 「うさぎったら、こんな時にどこへ行っちゃったの」
 肝心な時に行方をくらましたうさぎを恨んだ。お腹が重苦しく頭も痛くなってきた。それでも、何か金槌みたいな道具がないかと探し始める。独りぼっちでさまよい歩くうちに疲れと痛み、心細さで涙が頬を伝う。とうとう膝を抱えて座り込んだ。こんなところに一人でいるんだったら、カーサ・リバーサイドの自分の部屋でカフェオレを飲みながら本を読んで過ごす方がずっとよかった。もう帰ろう。帰るにはどうしたらいいんだっけ?
 「あ!呪文!」
 黒猫が帰るための呪文を教えてくれたことは思い出したけれど、肝心な呪文は忘れた。思い出したのは別のことだ。黒猫イグノスはこう言った。「これを忘れると帰れなくなるよ」ツキは仕事に向かう気力を失って大の字に寝転がった。これは悪い夢に違いない。本が一冊もない図書館とか、若くなったり年寄りになったりする司書とか、ヒトだかふくろうだかわからない支配人とか、忘却の砂とか、そんなものが現実であるはずがなかった。悪い夢から覚めるにはどうしたらいいだろう?早く覚めないと頭が変になりそうだった。首筋がひどく凝っていて、目が痛い。胸の奥でドドドと太鼓が鳴っているような気持ちの悪い動機がする。ツキはか細い声を出した。
 「助けて!ママ、ママ」
 何度も声を出すと、ぐにゃぐにゃした身体にか細い心棒が立つような気がした。だんだん声のボリュウムをあげて、ついに立ち上がって絶叫した。
 「助けて~!助けて~!ママ~!ママ~!」
 叫び声も吸い取られるような静寂の中で何かが転がるころんという軽やかな音がした。音の方に目をやると、木槌がひとつ転がっていた。手ごろな大きさの木槌で掴むとしっくり手になじんだ。それを手にして迷いながらあの洋服箪笥のところに辿り着いた。リュックを下ろし、歪んで前にも後ろにも動かない引き出しの脇を木槌で叩いた。どこをどのように叩けばいいのかわからなかった。試行錯誤しながら叩いては引き出しを動かす作業を繰り返した。だめだった。引き出しごと叩き壊す気力もない。くたびれてリュックを枕に横になった。忘却の砂が降り始めたが、もうどうにでもなれと思った。どのくらい経っただろうか。寝返りを打った時に何か硬い物が耳に当たった。突如、ひらめきが走り、リュックを開けてそれを取り出した。パパの小刀。それを歪んだ枠と引き出しの間に当て、位置を変えて何度も引っ張るうちに一番上の引き出しがすぽんと抜けた。
 「やった!」
 急いで中を見ると、いろんな形のどんぐりがいっぱい詰まっていた。「これは……」懐かしさがこみあげた。ママと一緒にどんぐりや銀杏を拾った時の光景が胸に広がる。銀杏の強烈な匂いも思い出した。どこかとても広い神社の境内だった。ツキはどんぐりの中にたった一つ混じっていたくるみを握りしめた。二番目の引き出しには何枚かの写真が入っていた。古いもののようで色あせて茶色く変色しているけれど、そこに何が写っているかはわかった。写真は四枚。女の子が写っていた。女の子は中学か高校生くらいの年齢に見える。背景はどこか外国の街並み、時折写っている男女はみな外国人だ。一枚は日本人の男の人と女の子のツーショット。男の人の顔をまじまじ見る。唇がぼってりと厚い。その唇をへの字に曲げて怒ったような困ったような顔をしている。きっちりした背広に帽子。女の子も帽子を被っている。四枚のうち三枚に写っている少女はどれも帽子を被っている。俯いた少女の写真では帽子の形がよくわかるものがあった。それをじいっと見つめたツキの口から驚きの声が漏れた。それはツキが帽子屋で買った帽子と瓜二つだった。色こそわからないが、その形、リボンの巻かれ具合、何よりななかまどのブローチの形と位置がそっくりだ。「ママだ!」
 写っている少女はママだと直感した。四つボタンの可愛らしいコートにブーツを履いている姿は雑誌に出てくるモデルみたいだ。隣の人はママのパパに違いない。ツキが大嫌いなたらこ唇の威張った祖父だ。ママはあまり楽しそうには見えない。一枚だけは集合写真で、学校のような建物を背景に二十人ほどの生徒と先生らしい女の人が写っている。前列右端で俯いている一際小柄な少女を見つめた。ママに違いなかった。ママ以外は全員立派な体格の外国人の子どもたちだ。四枚の写真から伝わってくるのは悲しみだった。ママは綺麗な服を着て素敵な帽子を被りながら、丸ごと憂鬱に乗っ取られたような暗い顔をしている。
 「ママ、どうしてこんなに悲しそうなの?」
 ツキは写真のママに呼びかけた。何度も何度も呼びかけた。ママの顔を指で撫でさすり、匂いをかぎ、耳に当てた。何も起こらなかった。何一つ読みとることはできなかった。うなだれて小さく身を丸めて、それから横になった。また砂が降り始めた。砂は虹色に輝きながらゆっくりとツキの身体を埋めていく。ツキの意識は家出する。あらゆる世界のあらゆる街へあらゆる時代のあらゆる川へ、縦横に時空を越えてさまよい出る。そして、どこにも存在せず、あらゆる場所に存在するリアルな物語の世界を巡礼する。ツキは自分に言い聞かす。あることとないことと、ちゃんとわかっている。ふくろうホテルはあるけれど、むささびホテルは、ない。ふくろう図書館はあるけれど、むささび図書館は、ない。ちゃんとわかっている。

            16
 「ママが掘り出してくれたの?」 
 「そうだよ」
 ソファーに横たわったツキはママの声をとらえる。部屋の中は温かく窓には裾に菜の花のプリントがついた若草色のカーテンがかかり、テーブルには素敵なコーヒーセットが置いてある。部屋の中には机や椅子、本棚、飾り棚、おやつの入ったロー箪笥などお気に入りのものがいっぱい。ロシアンブルーのターシャまでいる。ターシャは天井まで届く猫タワーの中ほどでゆったり優雅に寝そべっている。
 ママが熱いカフェオレを作ってくれた。ツキは起きあがってコーヒーカップの取っ手を掴もうとしてくるみを握っていることに気づいた。くるみをそっとテーブルの上に置く。コーヒーカップとソーサーには白地に色とりどりの小さな正三角形が入り乱れた模様がついている。ひとくち含むと、コーヒーの香りが立ち上りとろりと甘く温かい。
 「美味しい。ママはカフェオレを作るのも上手だったんだ。ママが助けてくれなかったら、あたし、あのまま砂に埋もれて死んでたと思う」
 ママはツキのすぐ隣にいる。ママはもう透明で姿形は見えないけれど、見えていた時より何倍も濃密にその存在が伝わってくる。そのまなざしをありありと感じ、その声を生々と聞くことができる。
 「ねえ、どうしてあんなことしたの?」
 ママの答えは返ってこない。ツキはじっと待った。長い沈黙を破ってターシャがひとしきり鳴いた。絡みつくような甘い声で。ようやくツキの耳にママの声が届く。
 「それがママの果たすべきことだったから。そういうことを使命として生まれてくる人たちがいるらしい。どうしてかはわからない。人はみんな生まれた時にもうその細胞にその人だけの暗号が書かれているの。いいか悪いかなんて関係ない。それを決めつけるのは人間の勝手な価値観にすぎないんだ。いいかい、人間というのはね、環境や条件によっては、どんな目にも遭うし、どんなことにもなっていくの。悪い人だから悪いことをするわけじゃないんだ。どんなに善良な人も環境と条件によっては恐ろしいことをする。だから、誰でも最後まで生ききって使命を果たしたら、それでいいの。ママは時間をかけて自分の身に起こったことをもう一度引き受けた。もう苦しみも痛みもない。すっかり解放されたのよ」
 「あとに残された人が苦しんでもいいの?」
 きっぱりと落ち着いた声が言う。
 「そう、いいんだよ。苦しみは人に何かを学ばせ、何かをもたらす。いいことも悪いことも。少なくとも以前なら考えなくてもよかったこと、考えようともしなかったことを考えさせる。もしかしたら、今までは見えなかったことが見えるようになるかもしれない。あまり明るくない方がよく見えるってこともあるんだってね。苦しみ、悲しみをどう受け止めるかもその人の運命さ」
 「運命?じゃあ、運命は変えられないの?人を殺したり殺されたり自殺したりする運命も?」
 「それはその人が自分で自分の人生を生きてみるよりほかはない。一つだけ素晴らしいことがある。人は自分の人生を最後まで生き切って別の世界へ行った後は、くよくよ後悔しないのさ。苦しみを引き受けざるをえなかった人に神様は手を差し伸べてくれるらしいよ。不幸にも被害者になってしまった人はもちろん、どんな悪いことをした人でもね。これはある男から聞いたんだ。その男は女性を何人も誘拐、監禁して、おまけに薬物で頭が変になっていた。そのうち四人を殺して死刑になったんだ。地獄に落ちたと思っていたら、神様がそばにいて手を差し伸べていたんだって」
 「うそ!そんなの、おかしい。絶対おかしい!そんな人殺しはずっと罰を受けるのが当たり前だよ。その神様、インチキだよ。許せないよ。ママが自殺してあたしもパパもお婆ちゃんもすごいショックを受けたんだ。あたしは学校に行かなくなって、お婆ちゃんは何も食べなくなって、パパはお酒を飲み過ぎてアル中になって、あの意地悪なお爺ちゃんまで泣いて怒って病気になって倒れたんだから。なのに、ママはもう何も苦しまないし後悔もしてないの?そんなのひどいよ!」
 「だって、もう死んじゃったもの、しょうがないよ。大丈夫。そのうち慣れる。人間は慣れるように作られているの。さんざん泣いて悲しんでもまたお腹が空いて御飯を食べるのさ。それでいいの。どうしても慣れることができなかったとしても、それがその人にとっての最善だということさ」
 「そんなの、ひどいよ!そんなの絶対許せない!」
 ママの声が優しく笑った。すると、目の前にぱっと一瞬だけママの笑顔が浮かんで消えた。
「あのね、別の世界へ行った者に感傷的になってる暇はないの。別世界でもまた仕事があってね。神様はなかなか休ませてくれないのさ」
 「え?ママはまだ仕事があるの?」
 「そうだよ。死んでからも暇じゃないのさ」
 「どんな仕事?教えて」
 「それは、ひ~み~つ。ああ、そうだ。おまえにお礼を言いたかったんだ。ふくろう図書館でママの子どもの時の写真を見つけてくれた時、有紗はママの悲しみをわかろうとしてくれたね。嬉しかった。ほんとにありがとう。嬉しかった。あ、ほら、早くカフェオレ、飲みなよ。冷めてしまったじゃないか」
 その言葉を最後にママの気配はぷっつり消えた。そのまなざしも声も届かなくなった。
 ふくろう通りの右側にはずらりと死者たちが立っていた。原初の闇を塗り込めたような底知れぬ暗黒の中に死者たちは壁にもたれかかるように立っていた。うさぎがそれを見せてくれた時、彼はそれまでツキが知っていたうさぎとは全く別人になっていた。大きな足、ひょろりとした身体つき、互いの間隔が離れたアーモンド型の目、外見はそれまでと同じだったけれど、彼はもう別世界の存在だった。二つの世界を自由に行き来して、何事かを伝えるトランスミッター。この世にはそういう人たちがいるらしい。普段はこの世の人たちとまったく変わらない生活をしているけれど、どこか風変わりなところを持ち、自分の使命を果たすべく対象者を探している。そうして、対象者を見つけると声をかける。「やあ、これはすごい偶然ですね。あなたと出会う確率は、まるで鯨がもぐらに出会うほどの低さです。実に奇遇です」と。うさぎはツキに死者たちの列に加わったママを見せてこう言った。
 「ツキさんのママはお仲間たちと一緒に砂になって降るんです。ふくろう図書館に降る虹色の砂になるんです。ここは死を慕う魂が遊びに来るところ、その魂が死を恋い求めている人、死のすぐ近くにいる人、そしてまた、死してなお思いを残している人の来るところです。ここに来る人はまだ苦しみから解放されていません。ここを去って砂になって初めてすべての確執から自由になります。そして、いつの日かもう一度生まれるための準備に入ります。だから、あなたはずっとここにいてはいけない。ふくろうホテルの支配人はそれを許さないでしょう」
 それから、うさぎに会うことは二度となかった。中学校へ行くようになってから、同じ小学校を卒業した級友の誰に聞いてもうさぎのことを覚えている者はいなかった。まるで初めから存在しなかったように、皆怪訝な顔をして聞き返した。
「うさぎって誰?それ、あだ名なの?」
「そう、本名は栗山響」
そう告げてもみんな異口同音に答えた。
「知らないよ。そんな人、いなかったよ」

            17  
 ママがこの世からいなくなったのは六年生の冬のことで、その知らせが届いたのは正月三日の朝だった。慌てて駆けつけたお婆ちゃんにパパがしゃべっていたのを盗み聞きした。ママは病室のベッドの柵にパジャマのズボンをかけて首を吊った。冬休みが終わってもツキは学校に行かなかった。もうずっと行かないつもりだった。お葬式が終わってまもなくお婆ちゃんが「二人ともうちへおいで」と言ってくれたけれど、パパは頑として応じなかった。パパは毎日酒浸りになっていた。ある晩、夜中にツキの寝床にやって来た。酒臭い息を吐きながら黙って身体に触って来た。ツキは鳥肌立ち、その夜のうちに家出した。祖父の家まで底冷えのする夜を無我夢中で走りに走った。寒さなど感じなかった。途中、誰か知らない人に声をかけられたけど、ブレーキのない自転車みたいに突っ走った。祖父の家に辿り着いたとたんに泣き叫んだ。びっくり仰天した祖母が何も聞かずにただ抱き締めてくれた。そして、そのまま祖父の家に引き取られた。パパは昼間から飲んで叫んだり暴れたりしたようで、アパートの人に通報された。そして、アル中を治療する施設に入院させられた。中学生になったツキは何とか学校に通うようになったけれど、心はほとんど死んでいた。クラスメートたちのひっきりなしのおしゃべりや弾ける笑い声、無駄にあふれるエネルギーが煩わしくてたまらない。気の合う友だちもできなかった。身体はみんなと同じ教室にいるけれど、心はどこかにさまよい出ていた。学校から帰るとぐったりして寝込んだ。熱を出したり頭痛やだるさに襲われて度々長期欠席した。そんな時、そばにいてくれたのは綾子さんだった。夜、寝つけないと言うとこんな話をしてくれた。
 「私も子どもの頃眠れない時があってね、そんな時は欲しいものを空想してた。その頃一番欲しかったのは自分の部屋。狭い貸家に六人住んでたから、広い家が欲しかったの。二階か三階建てでね、屋根裏部屋がある家。大きな天窓から空が見えて、夜には月や星を眺めるの。望遠鏡があればもっと素敵。ずうっと遠くを、何万光年も離れた世界を見るの。そして、今度は逆にずうっと遠くから小さな屋根裏部屋にいる自分を見るの。逆から見るのはうんと年を取ってから覚えた技だけどね。その頃はいつでも自由に一人でいられる部屋が欲しかった。好きなだけぼうっとしてても怒られない場所がね」
綾子さんは不思議な人だ。読書家で聡明でおまけに美人なのに結婚もせず、いつも優しく控え目でお手伝いさんの仕事を毎日楽しそうにやっている。あの気難しく威張った祖父にも気に入られて信頼されていた。祖父が余計なお節介をして「いい」縁談をもちかけた時も、丁重に、しかしきっぱりと断ったらしい。その断り方に一本筋が通っていてさすがの祖父も怒ることをしなかったという。
 「綾子さんはどうしていつもそんなににこにこしてるの?毎日掃除や洗濯や料理ばかりで嫌になることないの?」
 きりりと締まった唇から透き通った声が答えた。
 「掃除も洗濯も料理もみんな好きなことだもの。掃除や洗濯をすれば汚れたものがきれいになってすかっとするし、料理に工夫をすれば旦那様や奥様が美味しいと言って喜んでくれる。特に有紗さんが喜んで食べてくれると本当に嬉しいわ。夜は自分の時間で好きな本を読んだり音楽を聴いたりできるし、休みの日には旅行やショッピングを楽しむこともできる。私は好きなことしかやってないもの。嫌になる理由がないじゃない」
 「ふうん。人生の達人なんだね。あたしはとてもそんなふうにはなれないな。すごく落ち込んで、だるくなって何もやる気がなくなるし、嫌な人のこと考え出すと、ぐるぐるエンドレスになって呪い殺してやりたくなる。綾子さんはそんなことないんだ」
 綾子さんの顔にいつもとは少し違う微笑が浮かんだ。
 「それは違う。大違い。私はもう何人も呪い殺してきた。それで、どん底を味わった」
 どんなことがあったのか、そのどん底はどんな味がしたのかについては何も教えてくれなかった。聞いてはいけない気がした。綾子さんはこう付け加えた。
 「一人でどん底まで降りることができて良かった。どん底に降りたからこそ這い上がって俯瞰する時がやってきた。すごく長い時間をかけてね」
ツキはママの声を思い出した。「有紗、降りておいで。もっと、もっと下まで」「俯瞰」というのは鳥の目になって高みから眺めることらしい。そうすると、自分がどんな場所でどんな穴に落っこちていたか、その穴はどうしてそこにあったのかまで見えてくるそうだ。ツキには謎だ。鳥の目になれたら、何も考えずただ気持ちよく空を飛んでいたい。どん底まで落ちるのもできれば避けて通りたい。
「一人でどん底に降りるのなんかやっぱり嫌だな」
「うふふ。そうよね。でも、そういう目に遭わないと、すぐそばに幸せがあっても気がつかないみたいよ」
「ふうん、そんなもんかなあ」
綾子さんを見ていると、確かにたくさんの幸せに気づいているとツキは思った。ツキは中学校ではほとんど嘘をつかなくなった。嘘をつくエネルギーと心の余裕がなくなった。嘘をつくにも元気が要る。口数が減って、朝からぼんやり外を眺めていると、綾子さんがさりげなく料理や掃除を手伝わせたり、散歩に誘ったりしてくれた。
 嫌なことは次々起こる。学校で札付きの不良女どもに目をつけられた。男の暴走グループとつるんで夜な夜な遊び歩いているらしい。あいつらに睨まれるとやっかいだから気をつけていた。あいつらがそばに来たらできるだけ気配を消して教室の備品かごみ箱にでも変身したつもりでいたのに、ついにばれてしまった。リーダー格のSが肩でど突いてきた。そのまま逃げようとしたら家庭科室の裏に連行された。「ずっと気になってたんだよな、三浦のこと。あんたさ、いつも自分にはなんも関係ねえような涼しい顔してさ、ほんとはうちらのこと、馬鹿にしてんだろ?はっきり言えよ。まじ、むかつく」馬鹿になんかしてないと言っても、「ああ、そうだったの、御免」なんて言う相手じゃない。無視すればよけいに反感買うだけだし、困った。どうしたらいいだろう。その時は下手に出て大人しくしといたから解放してもらえたけど、これからいろいろ難癖つけられたり、たかられたりするかもしれない。ここは気配を消すより姿を消す方が得策だと思う。そう、逃げるが勝ち!そうやって、体調不良を理由に何日か続けて欠席し、出席してもなるべく連中に近づかないように目を合わせないように注意した。
二年生になって転校生がやって来た。目元の涼しいショートカットの女の子で、ちょっと見には男の子のような雰囲気があった。自己紹介では蚊の鳴くような声で名前と「よろしく」しか言わなかった。先生が黒板に大きく板書してくれなかったら、名前すら聞き取れなかっただろう。宝田千尋は居心地悪そうに廊下側の前から二番目の席に座った。その後ろがツキだった。千尋は不用意に後ろを振り向いたりしなかったし、隣の男子に話しかけることもせず、いつもじっと前を向いていた。ツキは彼女の細いうなじに小さな黒子があるのを見つけて、ぼんやり眺めていた。他のクラスメートにはないその静けさがツキの興味を惹いた。話しかけるきっかけを作ろうと思っていると、意識過剰になって返ってチャンスを失った。隣の男子も何となく敬遠ぎみで話しかけようとはしない。ある日、千尋の消しゴムが落ちてツキの方に転がって来た。すぐに拾って渡すと千尋は小さな声で礼を言ったが、驚くほど無表情だった。ついでに何かしゃべりたかったけれど、声が喉の奥に引っ込んでしまった。彼女の存在が気になったおかげでツキの登校日が増えた。休み時間や体育の時もこっそり彼女を観察した。そのうち、彼女の方でもこちらを気にしてちらちら視線を送って来ることに気づいた。彼女は必要な口は利くみたいだが女子たちのかしましいおしゃべりに参加することはなかった。すると、心配していたことが起こった。女子から露骨にシカトされるようになり、郊外学習のグループでも仲間外れになった。それでも、彼女はわれ関せずという涼しい顔で淡々とやるべきことはやっていた。それがあの連中の気に障った。ある時、理科室の骸骨のガラスケースの前で千尋が連中の四人に囲まれているところを目撃した。リーダー格のSが千尋の肩を小突いて吠えた。
「おら、おら!こっちから挨拶してんのに、無視かよ。いい根性してんじゃん。挨拶は一番大事だってこの学校でも先ちゃんたちが毎日耳にタコができるほど説教してるよね」
「そうだよ。うちら模範生だからちゃんと挨拶してんだよね」
「まあ、それを何でしょう。宝田さんたら、無視するなんて、なんて生意気!」
「生意気!」
「生意気!」
千尋は四人に代わる代わる小突きまわされながら、唇をきっと真一文字に結んでいる。
「なんか言ったらどうよ」
「なんか、答えてよ、宝田さん」
次第に小突く力が強くなっていくようで千尋の頭が大きく揺れている。
「あんたたち、いい加減にしなよ」
気がついたら踏み込んでいた。五対の目が一斉に注がれた。Sが言う。
「誰かと思ったら、いつも体調不良の三浦さんじゃん。びっくりしたあ」
「今日もお休みかと思ったら、いたんだね」
 ツキは神経が高ぶった。
「ああ、いたんだよ。悪かったね。転校生いじめるの、やめなよ」
「キャー、かっこいい。正義の味方の嘘つきツキさん」
「そうだよ、嘘つきツキだよ。なんか文句ある?」
「わあ、自分で言ってるって、ほんとだったんだ」
「嘘つきは泥棒の始まり!体調不良も嘘に決まってる」
「そうだよ。学校さぼって遊んでるんだよ。体調不良じゃなくてただの不良さ!」
 ツキは吹き出した。
「Sさんたら、うまいこと言うね。今の百点」
すると、意外にもSが笑った。
「ほんと?ほんとに百点?」
「ほんとに百点だよ」
「わあ、百点もらったことないんで、嬉しいなあ」
「え?まじ?リーダー、そんなに喜んじゃだめじゃん」
突然高い笑い声が響いた。千尋だった。千尋がお腹を押さえてクツクツ笑っていた。ツキはSからいっそこっちのグループに入って不良になったらどうかと誘われたので、考えておくと返事をした。札付きの不良女は単純で意外といい奴だった。その日、ツキと千尋は一緒に帰った。千尋は飼っているダンゴ虫の話をした。ダンゴ虫がくるんと丸くなるところを見るのが好きだと言った。ダンゴ虫のため息が聞こえることがあるとも言った。
祖父の家からカーサ・リバーサイドのある川岸までは徒歩三十分ほどかかるので、堤防の道を散歩する頻度は少なくなった。ある初夏の夕方、久しぶりに学校からの帰り道にわざわざ土手道を通って遠回りしてみる気になった。ツキが土手道に置かれたベンチの前にさしかかった時、「やあ!」と言って片手をあげた人がいた。
 「やあ、お嬢ちゃん、久しぶりだね。私だよ。ほら、そこのアパートに住んでて、オオイヌフグリを……」
 瞬時に記憶が蘇った。
 「ああ、オオイヌフグリのおじさん!」
 フグリのおじさんは髪が真っ白になって目袋もいっそう深くなり、今度は桜の花が一つずつゆったり入りそうだった。ツキは並んでベンチに座った。
 「どうしてわかったの?ずっと会ってないのに」
 フグリのおじさんが一笑すると、両の目が目袋の中に落っこちた。
 「雰囲気でわかったよ。私は人を顔や姿じゃなくて、その人の出している雰囲気というか、オーラみたいなもので見分けるんだ。人だけじゃなくて動物や植物もその時々に固有のオーラを出している。オオイヌフグリみたいな小さな花でも、ちゃんと固有のオーラを出しているんだ。蝶々が来て蜜を吸ってくれた花とまだ来なくて待ちくたびれてる花ではその雰囲気が違うからわかるんだ」
 「へえ、あたしには全然わかりません」
 「お嬢ちゃんも待ってるんだろ?」
 「え?」
 「何かを待ってるオーラが出てるよ。蝶々じゃないと思うけど」
 ツキの戸惑う様子を楽しむようにおじさんは続けた。
 「大丈夫。焦ることはない。待ってるものは向こうからやって来るよ。蝶々みたいに」
 「でも、自分が何を待ってるかもわかんない。蝶々じゃないことは確かだけど」
 おじさんは喉の奥で声を転がすように笑った。
 「だから、焦ることはないと言ったんだ。本当に待ち望んでいるものが何だかわかるまでにはうんと長い時間がかかるんだ。場合によっては何十年もね。それで、待ってたものがもうだいぶ前に来ていたことがわかったりする。面白いだろ?」
 全然面白くなかった。この人はやっぱり胡散臭いと思う。そんな思いを見透かしたようにおじさんが言った。
 「まあ、変なおじさんの言うことだ。あまり気にしなさんな」
 そんな調子でツキが高校を卒業して祖父の家を離れるまで、雪のない季節の一か月にいっぺんくらいはフグリのおじさんに遭遇した。そろそろおじさんがベンチに座っている頃かなと思ってそこへ行く。いないとがっかりした。会えた時にはかたつむりやみのむしの生態をタネに、要点のよくわからない話を仕掛けてきては、ツキを煙に巻いた。おかげで虫や植物が好きになった。

          18
 中学三年の秋だった。冷たい雨が色づき始めた木々の葉を濡らしていた。むずむずと書きたい気持ちが湧きあがってきてどうしようもなくなった。ところが、あの『本』は手元にない。質草になっているはずだから。「世にも素敵なプレゼント」はゲットできないかもしれないけれど、もうそんなものはどうでもよくなっていた。とにかく、書きたい。それだけだった。そこで、何の変哲もない自分のノートを出して書きつけた。
 「人生最悪の日だった。猫婆さんが亡くなった。脚の付け根を骨折して入院したことは知っていた。気丈な人だからリハビリを頑張って杖をついて外にも出るようになった矢先、土手道でバランスを崩して運悪く石の階段から転げ落ちた。家の人に急を告げたのは白猫だったそうだ。普段はほとんど鳴かない猫が妙に鳴くので、外へ出たら、石段の下で倒れているお婆さんを見つけた。お婆さんは頭を打っていて搬送された病院で亡くなってしまった。お線香をあげに訪ねて行った。遺影の猫婆さんは皺も少なく頬がふっくらしていた。お葬式には思いの外多くの人が駆けつけたそうだ。土手道にパイプ椅子を出して座って、通りかかる人に声をかけていたから、みんなに親しまれていた。猫たちの姿が一匹も見えないので聞いてみたら、猫たちは葬儀が済んでからいなくなったそうだ。みんな婆ちゃんに命を拾われて可愛がられていたから、みんなで家出して婆ちゃんを捜しに行ったんじゃないかって家族で話してるって。堤防の道を歩きながら猫たちが隠れていそうなところを見て回った。鉄橋の下のあたりも。そこにあった小さな窪みは今はもうコンクリートで頑丈に塗り固められていた。『ノスコー!イグノス!』何度も何度も呼んでみたけど、草むらはそよとも動かない。ノスコーの金色の目やイグノスの黒い前足がのそりと現れることもなかった。自分だけ置いてきぼりにされた気がした」
一気にここまで書いて、まだ書き足りない気がしたけれど、それが何なのかわからなかった。それからも折に触れノートに書き続けた。週に二、三度書くこともあれば、一か月近く何も書かない時もあった。千尋は思ったとおり面白い子だった。自分は植物や動物と話ができるので、人間とはあまり話をしなくてもいいのだと言った。
「小さい時から木や花がしゃべってるのが聞こえたんだ。長くはないよ。短い一言。たとえば、いい気持ちとか、水、足りない、とか、独り言みたいにしゃべってる。水、あげようかって言うと、頼むって答えた。動物は向こうから話しかけてくるよ。みんなにも聞こえてると思ってたら、そうじゃなかった。四年生の時、お母さんに今飛んでいった雀が今日はおなか一杯で最高って言ってたよって教えたら、いつまでも幼稚園児みたいなこと言うのはやめなさいって怒られた。前は、まあ、そうなの、よくわかるのねえ、とか言って感心してたのにさ」
ふいに、オオバコに事情聴取していたうさぎのことを思い出した。千尋はもしかしてうさぎの仲間かもしれないと思った。数日後、ノートを開いて書く。
「今日は人生最悪の日だった。千尋とけんかした。お弁当を持って桜丘公園に遊びに行った。そこはお花見スポットで桜の木のトンネルがある。ハーブ園もあって、ラベンダーとかレモンバームとかカモミールなんかのいい香りがする。千尋の家でもハーブを育てているそうだ。ハーブがしゃべった話なんかを聞きながらお弁当を食べた。そのうち好きな本の話になった。千尋も本が大好きにちがいないと思って、ナルニア国物語やゲド戦記の話を夢中になってした。あいづちも聞こえず自分一人がしゃべっていることに気がついた時には、千尋はすごくうんざりした顔になっていた。さっさとお弁当を片づけると、立ち上がった。『そんな夢物語、意味ないじゃん』と覚めた声で言ったので、『意味なくないよ。そんなこと言うとは思わなかった。ハーブの声が聞こえるのに、どうして物語が意味ないなんて言うの』と言ったら、『ハーブの声が聞こえるのは、現実で、作り事じゃないけど、物語は全部作り事の嘘でしょ。そういうの興味ない』って。死ぬほどがっかりした。そんな想像力のない奴だとは思わなかった。帰りは別々に帰った。最悪、もうさよならだ」
二週間後、ツキはまたノートを開いて鉛筆を執った。
「最悪はまだ続いた。綾子さんがうちのお手伝いさんをやめて、別の町へ引っ越すことになった。結婚するのだから、最悪なんて言ったら悪いけど、綾子さんがいなくなる、そう考えただけで心に大きな穴があいてスースー寒い。心が煮詰まった時、綾子さんなしでどうしたらいいんだろう?困った。いよいよ綾子さんが家を出る時、精一杯突っ張って平気なふりをしたけど、見ぬかれていた。綾子さんは新しい住所と電話番号を書いた紙を渡して、私の背中をポンポン叩いて言った。『大丈夫。有紗ちゃんは大丈夫。何の根拠もないけどね』って。突っ張り棒が外れて思いきり抱きついて泣いちゃった。ほんと、最悪」
新しいお手伝いさんは中年の太ったおばさんで、やたら元気で声が大きかった。祖父の耳が遠くなったので、声の大きな人を希望したそうだが、ツキには耳栓が必要だった。 
ある日、ツキは祖母に呼ばれて茶室に行った。祖母は以前からやっていた茶道を再開して、今までも何度かお茶をご馳走になっていた。ツキは祖母が丁寧に立ててくれたお茶を神妙にいただいた。茶室の狭さが祖母との距離を縮めていた。祖母が口を開いた。
「いつか話そうと思っていたことがあって、今日はあんたを呼んだんだよ。実は、お母さんが亡くなる前にあんたに手紙を書いていたのよ。当時、小学生のあんたにどんな内容かわからない手紙を渡すわけにはいかなかった。二重にショックを与えることになったらいけないと思ってね。それで、悪いと思ったけど、まず、私が代わりに読んだのよ。それで、これはまだ有紗には読ませられない、もう少し大きくなってから様子を見て渡そうということに決めたの。お婆ちゃんの一存でね。ほかの人はこの手紙のことを知らない。有紗も大きくなったから、私が元気なうちに渡しておこうと思ったわけ」
「元気なうちって、お婆ちゃん、どこか具合が悪いの?」
祖母は笑い飛ばした。
「そんなことはないよ。ただ、お爺ちゃんも年を取って腎臓が悪いし、認知症の症状も進んできてるしね。誰しもいつまでも元気で生きられるわけじゃないからさ」
祖父の言動がおかしいのには気づいていた。何度も同じことを聞いたり、突然わけのわからないことを言っては怒鳴っていた。話をしても嫌な気持ちになるだけだから、ツキはそれまで以上に祖父を避けていた。祖母は紫色の袱紗から白い封筒を出してツキに差し出した。ママの角張った字で「三浦有紗様」と書いてある。手紙の封は切られていた。
「読んでごらん」
促されてゆっくり手紙を開いた。そんなに長いものではなかった。すぐに読み終わった。読み終わってからもただじっとママの筆跡を見ていた。祖母が心配そうに聞く。
「有紗、大丈夫かい」
「大丈夫だよ。なんて言ったらいいかわかんないだけ」
「ちょっと変なことも書いてるけど、気にしないで」
手紙を封筒に戻し、お辞儀をして部屋に戻ろうとすると、呼び止められた。
「お父さんのことだけどね、施設を出たことは話したね。それから、グループホームで暮らしてたんだけど、そこも出ることになったんだって。でも、元のアパートにも戻らないし、ここにも来ないって手紙が来たよ。有紗をよろしくって書いてあった」
「パパはもう帰ってこないつもりなのかな」
「お父さんも今はまだ自分のことで精一杯なんだろうよ。そのうち会う日も来るさ」
「別に来なくてもいいよ。あんな人」
ついと立ち上がって自分の部屋に戻った。まばゆい夕日がカーテンから斜めに差し込み、秋の陽がまもなく燃え落ちようとしていた。その光の中でもう一度ゆっくり手紙を読んだ。

有紗へ
 あなたに手紙を書くのはこれが初めてですね。そして、最後になると思います。こんなふうにていねいな言葉で一度あなたに話しかけてみたかった。「あなた」って書くの、ちょっと恥ずかしい気がするけど。今、窓からリラの木が見えます。白い花がたくさん咲いています。看護士の鈴木君に確かめたら、たしかにリラの花だそうです。白いリラもあるそうです。鈴木君は今日はイケメンです。昨日は吸血鬼でした。明日はわかりません。主治医の女医先生は残念なことに、昨日も今日も毎日オニババです。この人は恐ろしい人です。もう逃げられません。
 リラの花はいい香りがしますね。どんな香りだったかはもう忘れました。今日はリラの花がリラの花に見えます。そのことが嬉しい。リラの花がリラの花に見えないことがよくあります。何に見えるかって?いろいろです。毒きのことか、白ヘビの頭とか、おぼれ死んだ人のふくらんだ顔とか。今日は頭がすっきりしていて、気分がいいです。こんな調子のいい時はめったにありません。そこで、あなたに手紙を書くことにしました。
 ママはこれからどんどん悪くなっていくと思います。めちゃくちゃに壊れてしまうと思います。それで、そうなる前にあなたにきちんと謝らなければいけないと思いました。ママは今までたくさんたくさん悪いことをしました。だから、こんなことになったんです。こういうのを自業自得っていうんですね。だから、それを引き受けるしかありません。馬鹿な親で御免ね。これからもっと悪いことをするかもしれない。そんな気がして怖いんです。だから、今、いっしょうけんめい力をふりしぼって楽しかったことを思い出そうとしています。
 ああ、思い出しました。あなたが四歳か五歳くらいの夏のことです。パパと三人でどこかの海に行ったことがありました。砂浜で追いかけっこしてはしゃぎました。それから、あなたとパパが二人でママに砂をかけて埋めようとしました。顔だけ残してすっかり砂におおわれて砂風呂に入ったみたいになって、ママは黙って埋められていました。パパがアイスクリームを買いに行った後、あなたが何度呼んでもママは目をつむって死んだふりをしました。そしたら、あなたは本当に死んだと思って大泣きしました。アイスクリームをなめながらまだ泣いていましたよ。ああ、面白かった。ママの腕の中で泣き疲れて眠ってしまったあなたはとても可愛かった。あの時のあなたの閉じたまつげを思い出します。ぴくぴく動く柔らかいまぶたを思い出します。
 それと、ポテサ。あなたもパパもあれが大好きでしたね。実はあの意地悪爺さんもあれが好きなんですよ。あれだけはね。もう一度作ってあげたかった。でも、もうムリ。自分で作りなさい。              五月二十五日        ママより

ツキは放心したように虚空を見つめた。ひたひたと余韻が寄せてきた。随分長い時間が経った気がした。秋の日はすっかり暮れて、部屋は暗闇に占領されていた。突然、キーンと耳鳴りがして、ラジオの周波数が入り乱れるような神経に触る音がした。思わず目と耳を閉じた。しばらくして異様な静けさに目を開けると、残照に映える廃墟のような光景が広がっていた。ツキは朽ちかけた教卓のようなものの前に立っていた。支配人の声がした。
 「では、報告会を始めよう。どんなふうに話してもいい。そなたがここで解読したことを何でも自由に話すがいい」
赤い蝶ネクタイの支配人の隣には青い蝶ネクタイのうさぎがいた。うさぎは急に大人になって鼻の下に濃い髭を蓄えていた。リベルはやはり真っ青なエプロンをつけていた。ただ、姿は真っ白いあご髭を胸まで垂らした長身のお爺さんに変わっていた。それについてはもう驚かなかった。驚いたのは、あとからもう三人が加わったことだった。それは、花屋の少年と帽子屋の主人、そして質屋のお爺さんだった。六人はそれぞれ壊れたソファーや朽ちかけた椅子や脚が一本取れて傾いたベッドなど好きなところに腰を下ろした。
「あのう、ええと、私はここでママの写真を見つけました。子どもの時のママです。あの深緑色の素敵な帽子、それ、私、なくしてしまったんだけど、ママはそれと同じ帽子を被っていました。ママにも子どもの時があったということは考えてみれば当たり前なんだけど、そのことを発見してちょっとびっくりしました。何だか不思議に思いました。大人のおばさんになったママしか知らなかったから。そして、二つ目の発見は子どものママも私と同じように何かを悲しんでいたということです。心がひりひり痛くてとても不安だと私に言いました。パパや周りの人と喧嘩するママは嫌いでした。家出ばかりするママは迷惑でした。だから、ママなんかいなくてもいいって言いました。そんなことを言ったから、ママは本当にいなくなったんです。世界に一人しかいないママだったのに。ママが化け物みたいになって、それから、自殺したのは、私の、私の、せいなんです」
 それ以上言葉が続かなくなった。激しく泣きじゃくるツキの耳に支配人の声が届いた。
 「出席者の皆さん、御意見をどうぞ。どなたでもご自由に」
 最初に手を上げたのは花屋の男の子だった。
 「僕のママも死んじゃったんだ。村で戦争があって僕を守ろうとして僕の身体に覆い被さって死んだんだ。僕も大怪我をして今も生死の境にいるんだ。ママはお花が大好きだった。畑仕事の合間にその辺に咲いてる花を摘んでは僕にくれたよ。だから、僕も誰かに花をあげる人になりたかった。それで、ママのいる世界に行く前にここでこうして花屋になったんだ。あなたは僕と違って、元いた世界に戻る人だって支配人さんから聞いたよ。大丈夫。あなたはもどってまたスタートできるよ。まだ若いんだし」
 そこで出席者は全員頬を緩めた。彼はほんの四、五歳で、みんなの中で一番若かったから。ツキはいっそう泣きじゃくりながら、少年を抱きしめたいと思った。
 「あの帽子はね、」
 次に話し出したのは帽子屋の主人だった。やはり黄金色の飲み物が入ったグラスを手にしている。
 「あれはドイツの職人が特別に作った帽子で、古物屋で売られていたものなんだ。それをあなたのママのお父さんが見つけて娘のために買ってやった。元々由緒ある貴族の令嬢のもので、その子は大きくなってうんと年を取ってから詩人になったよ。長生きしてたくさんいい詩を書いたよ。もう別の世界にいる。この帽子にはミューズの女神の祝福があるのさ。そんな有り難い帽子をなくしてはいけない。せっかく手に入れたのに。さあ!」
 大柄な帽子屋の主人は、ななかまどのコサージュのついたフェルト帽を手品のように懐から出した。ツキは涙と鼻水でくしゃくしゃの顔をあげた。
 「そ、それ、どこにあったんですか」
 「その帽子がね、俺の店に戻って来て言ったんだ。私がかぶさる女の子の頭が消えてしまって、とても困ってるってね」
 帽子屋の主人はそう言っていたずらっぽくウインクした。
 ツキが泣き笑いの顔で「うそ~!」と叫ぶと、みんな笑った。いかめしい顔の支配人まで。ツキは帽子をかぶった。知恵と勇気が湧きそうな気がした。帽子もかぶさる頭が戻ってきて喜んでいると思った。リベルが手を上げた。
 「ふくろう図書館には文字では書かれていない、文字を残さなかった人たちのさまざまな思いが満ちている。ここに仕事をしに来る者は、すべての人々の思いを発見することはとうていできない。その人に一番必要な人からのメッセージを発見すれば、それ以上の収穫はない。どうでしょう。支配人様、この娘は立派になすべき仕事を果たしたと思いますが」
 洋服箪笥の上に座った支配人はゆっくりと首を右に回し始めた。
 「しかり。そなたが自分の仕事、課題を果たしたように、そなたの母も自分の課題を果たした。それがどんなことであっても、誰のせいでもない。だから、自分を責める必要はない。そなたの母は自由になってそなたを見守ることとなった。それゆえ、心安らかに生きなさい。ただし、覚悟しておきなさい。本当の試練はこれからだということを」
 そう言って一回りすると、支配人の左側の耳にぶら下がっていた三角形の金貨がきらめきながら飛んできて、ツキの手の中に収まった。すると、質屋の主人が前に進み出た。
 「その正三角形は支配人様だけがお持ちの十タナー金貨です。それで、あなたの質草の財布と本、ほら、ここにありますよ。これを請け出すことができます」
 ツキがぼうっとしていると、そばからうさぎが手を出して十タナー金貨を質屋の主人に渡し、質屋が持ってきた赤いがまぐちと『本』をツキに差し出した。うさぎが言った。
 「この本を図書室の棚の後ろ側に落として、あなたに発見させるように仕組んだのは僕です。僕ももう自分の仕事を果たしました。これでお別れです」
 「うさぎさん、どこへ行くんですか」
 「ここでもなく、ツキさんのいた世界でもなく、また別の世界へ」
 ツキの目に再び涙があふれた。
 「うさぎさん、行かないで!どこへも行かないで!お願いだから!」
 うさぎは長い睫毛に覆われたアーモンド型の目で微笑んだ。
 「幸せな人とはどういう人のことかわかりますか」
 ツキは泣きじゃくりながら首を振る。
 「幸せな人とは、必要な時に必要なものだけを与えられる人のことです。多すぎず少なすぎずきっちり必要な分だけね。僕はもうあなたにとって必要ではありません。もう不必要なのにまだいたら、あなたの幸せの邪魔になります。だから、さよならです。それがお互いにとって一番幸せなことなんです」
 支配人の声が厳かに聞こえてきた。
 「ミネルヴァのふくろうは夕暮れ時に飛び立つ、とな。ツキとやら、おまえさんの夕暮れ時はまだまだ先のようだがな。とりあえず、イグノスの呪文を思い出させてやろう。カサ・ボナウェントーラ」
 支配人の首がゆっくり左側に回り始めると、風が起こり、風はつむじ風となり、天に昇る螺旋階段のようになった。うさぎがたくましい足でその階段を駆け上がって行った。うさぎの足跡は光を放ち、明滅しながらうさぎを追った。ツキも空中に巻き上げられ、くるくる回転しながら俯瞰した。ふくろう図書館は果てしなく広がる解読されるべき『本』の集積場だ。まだまだ解読しなければならない「昨日」があると思った。文字のない『本』を解読して自分の『本』に書かなければと思った。まだまだ続く人生最悪の日々の記録を。
そして、ツキは書いた。来る日も来る日も『本』に書き続けた。最後の頁まで書き終われば「世にも素敵なプレゼント」がもらえる。ついにあと一頁というところまで来た。そこを書き終えて『本』を閉じ、次の日わくわくして開く。プレゼントが届いているかと期待して。ところが、あろうことか白い頁が一枚増えている。仕方なくまた書き加える。翌日になるとまた一頁増えている。詐欺だと思って腹が立つ。それでも諦めずに書き続ける。そんなことが続いてもういい加減嫌になった頃、突如、「後書き」が現れた。
 「さて、前書きにこう書かれていたのを覚えていますか。あなたはこの本を所有し、この本はあなたを所有しますと。実はあなたがこの本を所有しているというのは見せかけです。本当のところはこの本があなたを所有している、つまり、あなたはこの本から自由になれないということです。つまり、あなたは書くことをやめられない、書き続ける人になる。ほら、もうなってるじゃありませんか。実際、この本が手元になくてもあなたは自分のノートに書いたでしょう。書かずにはいられなかったでしょう。それこそが『世にも素敵なプレゼント』であり、ギフトなのです。そして、それはもうあなたの手中にあるのです。では、御機嫌よう」

19
ツキは突然高熱を発して緊急入院した。何日か眠り続けてようやく目が覚めて人心地がついた時には、長い過酷な旅を終えたように疲れ果てていた。夢の中で巻き毛の少年を抱きしめていた。その子の細いうなじから匂い立つ土の香り。その記憶がまた土を触りたいという思いを呼び覚ました。フグリのおじさんの花壇の土。筋肉がやせ衰えて歩くのさえぎこちなかったけれど、平熱になると日増しに食欲が出てきた。面倒を見てくれた祖母が急に年老いてやつれていて心が痛んだ。祖母はママの手紙を見せたことが病気の原因と思って後悔していたので、ツキは見せてもらって本当に嬉しかったと言って、祖母を慰めた。退院する前日になって千尋が見舞いに来た。彼女はあまり愛想の良くない声で言った。
「ナルニア国物語とゲド戦記、読んだ」
「え?二冊とも?」
千尋はうなずいて、うっすら笑みを見せた。
「面白かった。意外と」
そう言って、リボンのついた紙包みを置いて行った。それは、ゲド戦記の最新版で、ツキはそれが出ていることさえ知らなかった。やられた。
十二月。風花のような雪が舞い降りる午後、堤防の道まで歩いた。ほどなく雪は本格的になり、歩いている人は一人もいなかった。ベンチにはフグリのおじさんの姿もない。カーサ・リバーサイドの前に佇んでいると、パパが錆び付いた階段を足早に降りてくる姿が見えた。車の鍵を確かめるようにいつも右手をズボンのポケットに入れて動かしていた。ツキはパパに向かって手を振った。パパはツキを見ない。遠くを見ている。もっとずっと遠くを。頬に吹きつける雪風がパパの幻を消し去った。見る見る白くなっていく道をゆっくり歩く。ふと立ち止まって川面に目を凝らす。大きな白い鳥が二羽細い首を優雅にたわませて浮かんでいる。二羽は仲良く寄り添って川面を滑る。一羽がついと前に出るとすかさずもう一羽が追いつく。ツキの視界はたちまち滂沱の涙に閉ざされた。
家に帰ると祖父が騒いでいた。最近では夕食後二、三時間経つと決まって腹が減ったと騒ぎ、食事に出かけようとするのだが、今日はまだ三時過ぎなのに、なじみの店の名前を言って予約を入れろと言って聞かないそうだ。お婆ちゃんがもう予約したと嘘をついて部屋に戻そうとしている最中だった。
「お父さん、そんなパジャマ姿じゃ華燭亭には行けませんよ。もっとぱりっとした格好でなくちゃ。さあ、部屋で着替えましょう」
ツキも「そうだよ、お爺ちゃん。ちゃんとネクタイ締めて」と調子を合わせる。
祖父は何とか言うことを聞いて部屋に引き上げた。夕飯に好物の刺身と中華雑炊を食べると、ひとまず落ち着いた。ツキはママの手紙に書いてあったことを思い出した。実はあの意地悪爺さんもポテサが好きだということを。ママは書いていた。「もう一度作ってあげたかった。でも、もうムリ。自分で作りなさい」
 日曜日の午後、ツキは台所に行ってポテサの材料を調べた。お手伝いの絹子さんに足りないものを買ってきてもらって、ポテトサラダを作ると宣言した。ポテサを作るのは六年生の夏休み以来だ。絹子さんはツキの耳元で「お嬢さんがポテトサラダをねえ!なんと楽しみでございます」と大声で言った。綾子さんと一緒に作ったことを思い出しながら、材料を下ごしらえし、たっぷりのマヨネーズと昆布塩であえて頬張る。完璧!絹子さんに試食してもらうと、豊かな頬を押さえて「もう、ここが落っこちそうで」と目を細めた。祖母もひとくち食べて驚きの声を上げた。大成功。夜になって祖父が騒ぎ出すのを待った。
 八時半ごろ、階下で祖父が大声を出しているのが聞こえてきた。ツキは綺麗なガラスの器に形よく盛り付けたポテサを持って祖父のところへ行った。祖父のたらこ唇は以前よりしぼんでだいぶ薄くなっていた。
 「お爺ちゃん、外食なんかしなくてもここに美味しいポテトサラダがあるよ」
祖父は不思議そうにしげしげとツキを見つめた。
「お嬢ちゃん、どこから、来たの?」
しゃべり方が以前より随分とゆっくりになっている。返答はよどみなく出てきた。
「ふくろう通りから来たんだよ。ふくろう通りのじゃがいも屋さんでじゃがいもを買って、このポテサを作ったの」
「ああ、ふくろう通りか。知ってるよ。じゃがいも屋もあったなあ」
「すごい!お爺ちゃん、ふくろう通りを知ってるなんて、すごい!」
「そうさ。わしは何でも知ってるさ。メートヒェン」
「メートヒェンって、何?」
「ドイツ語だ。女の子って意味の」
「へえ、ドイツ語も知ってるの」
「知ってるとも。ドイツで仕事をしてるからね。明日またドイツへ行くんだよ」
「すごいね。あのう、これ、食べてみて。私が作ったんだよ」
祖父は「ほう」とガラスの器を覗き込むと、スプーンでたっぷり掬って頬張った。
「こりゃ、美味い。カルトッフェルだ。美味い、美味い」
様子を見守っていた絹子さんが「まあ、旦那様、よかったこと」と目を細める。祖父はかきこむようにしてあっという間に平らげた。最後のひと口を飲み込みながら、器をツキの方に差し出した。ツキは絹子さんを制し、急いでお代わりを持って来ると、祖母の声がした。
「え?そこですか。そこの壁にりりこが?にこにこしてる?おや、そうですか。」
祖父が腕を伸ばしてベージュ色の壁の一点を指さしている。目が異様に据わっている。
「お父さんたら、そこにりりこがいるって言うんだよ」
「あああ、あああ~」
突然甲高い悲鳴のような声を出して、祖父がベッドから降りようとした。泣き笑いのような感極まった表情で。祖母と絹子さんが慌てて駆け寄った時には、祖父の身体はベッドからずり落ちていた。ツキも加わって三人がかりで何とかベッドに寝かせたが、まだ壁を指さして何かわめいている。祖母が宥めすかして睡眠導入剤を飲ませた。あまり早く飲ませれば朝早く起きてしまうので、いつもは九時ごろまで待つのだという。
「最近、しょっちゅうりりこがいるって言い張ってね。そうすると、今みたいにそっちの方へ行こうとするんだよ。りりこが呼ぶのかねえ」
ツキの心臓がどくんと大きく脈打った。
「あの子は昔、北海道の人と駆け落ちしたの。でも、大反対のお父さんに見つかって失敗して。その人のお母さんはアイヌの人だった。お父さんの方はアイヌじゃなくてじゃがいも農家をやってて、その人もじゃがいもを作ってたんだよ。結局、二人は無理矢理引き離された。そのすったもんだの最中にその人が事故で亡くなってしまって、りりこは……」
祖母ははっと息を飲んで口に手を当てた。
「やだ、こんなこと話すつもりはなかったのに。うっかりした。またあんたに余計なことをしてしまったね。ごめんよ」
ツキは黙って首を振った。どうにも受け止めようがなかった。どこか遠い国の見知らぬ人の物語のようだった。「母さん」と祖父が素っ頓狂な声を上げた。
「母さん、あの泣き虫は、もうシューレから帰ったかい?」
「りりこなら帰って宿題をしてますよ。ドイツ語の」
「おお、そうか、そうか」
祖父は心底ほっとした表情になった。祖母が耳元で囁く。
「とにかく、何でも話を合わせていれば無駄に興奮させないで済むんだって、看護師さんから教わったのよ」
それから急に声を大きくして言った。
「あ!絹子さん、忘れてた!あれ、お願い。有紗、ちょっとここにいてくれるかい」
二人は急いで部屋を出て行った。ツキが枕元に座ってポテサのお代わりを勧めると、これは誰が作ったのかと聞く。
「だから、私が作ったんだよ!」
祖父は目を見張ってツキを凝視した。
「ほう、そうか。りりこが作ったのか。りりこが。どれどれ」
目を細めて一気にかきこむ。口の容量を超えたポテサが端からぽろぽろ落ちる。
「おお、美味い。美味い。で、りりこ、明日はシュミット先生と面談があるだろ。パパな、相談したいことがあるんだ。りりこにはドイツ語の家庭教師をつけてやろう。先生にいい人を紹介してもらうんだ。そうすれば、もっと授業もわかるし、友達もできるだろ?」
こぼれたポテサを始末しながら、嘘つきツキコはりりこになった。
「ああ、ありがとう。お爺……じゃなくて、パパ、大丈夫だよ。自分でちゃんと頑張るから、大丈夫。パパはなんも心配しないでいいよ」
「ほう、そうか、そうか。泣き虫、りりこも、しっかり、して、きた、なあ」
たいそう間延びした声でそう言うと、悲鳴のような欠伸を一つしてこくんと首を垂れた。慌てて駆け寄り肩を揺さぶる。何か意味のわからないことを一言二言大声でしゃべった。まだ死んでない。ほっとして器を取りあげて寝かせるとすぐに地響きのような鼾をかき始めた。祖母も絹子さんも戻ってこない。祖父の鼾は鉄橋を渡る電車の轟音みたいに響いた。目を閉じると、教室からふくろう通りへと続く入口の洞穴が開ける思いがした。ツキは唐突に立ち上がるや、大きく窓を開け放った。鋭利な冷気が一斉に顔を刺しに来た。夜のしじまを白い花びらが次々に舞い降りている。背後の光の中では高く低く鼾がうねる。心の中で何かが動いた。ああ、そうだ、やることがあった。この雪が忘却の砂に変化しないうちに。解読。そう、ここもまた図書館だ。文字に表されていない本の。
その仕事は、今、このポテサの夜から始まる。
                                    完
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