旧友の話②-3  きっかけ

文字数 3,457文字

 しゃらっ。しゃらっ。しゃっ。俺が本を捲る音だけが部屋に響いている。文字の世界に浸っていると時間の流れが曖昧になり、この部屋は世界から切り離されていく。こんなにゆったりと読書したのはいつ以来だろうか。いつまでも無職ではいられないが、しばらくこうして贅沢な時間の使い方をするのもいいのかもしれないな。
 あっという間に文庫本を読み終えた俺は、伸びをするとキッチンへと向かう。集中が途切れた事で、俺の体が思い出したかのように急激に喉の渇きを覚えていた。
 狭いキッチンには飲みかけのコップ以外ほとんど何も置かれていない。働いていたときは忙しくて帰ったら寝るだけの生活で、食事は全て外食で済ませるのが常だった。とはいえ、料理ができない訳ではない。これでも学生の頃は結構料理にハマっていて、凝ったものを作っていたものだ。時間もあるし今日は気分転換に久々に料理でもしてみようか。
 気づけばいつの間にか溜まっている飲みかけのコップ達をぼんやりと見つめながら何を飲もうか悩んでいると、突然郵便受けが大きな音を立てる。今日の郵便配達の時間はもう過ぎている筈だが、誰かが小包でも入れたのだろうか。俺は嫌な予感がして、音の正体を確認するために急ぎ玄関へと向かった。
 郵便受けには俺の予想通り一通の小包がいれられていた。差出人は不明で、郵便局の消印もない。正方形の箱に申し訳程度に白い紙が貼り付けられているだけだ。やはり誰かが直接投函したらしい。持ってみるとずっしりとした重みで手が下に振れた。こんな小さな箱なのに何でこんなに重いんだ?お中元を送ってくるような関係性の相手もいないし、インターネットで商品を頼んだりもしていない。目の前にあるのは明らかに不審な荷物だった。
 他に可能性として考えられるのは、配達員が隣の部屋と間違えていることくらいか。このアパートは部屋番号が書かれておらず、住民たちは俺も含めて表札を出していない。そのため、他の人の郵便物が紛れ込むのはよくあることだった。
 勝手に捨てると後々トラブルになるかもしれないよな。
 怪しげな小包だけにあまり気乗りしなかったが、良好な隣人関係を維持するために仕方なく中身を確認することにした。
 俺は念のため破れないように丁寧に包装紙を剥がしにかかる。静寂の中、包装紙を剥がす音だけが部屋の中に響いている。
 しかしこれ、本当に開けても大丈夫なんだろうか。まさか爆弾とかじゃないよな。
「ふっ」
 自然とそう考えた自分がおかしくて、俺は思わず吹き出した。
 いやいや、何考えてるんだ俺は。外国でもあるまいし、せいぜいカッターの刃くらいのもんだろう。…ああ、何かの化学物質で開けた瞬間意識を失うとかもなくはないか。
 物騒な想像とは裏腹に、中から出てきたのはなんて事はないただの木箱だった。海苔なのかテープなのか、やたら粘着力が強くて面倒になって途中で破いてしまったが、もし隣の部屋の荷物であれば後で謝ればいいか。
 木箱は開けた時から四隅が欠けていて、所々表面にも傷がついていた。随分年季の入った代物だな。もし間違いで配達されたのなら、この傷や欠けた状態の説明が面倒そうだ。
 しかしこれ、本当に開けて大丈夫なモノなのか…?普通こんなものを郵便受けに入れないよな。とりあえず一旦外に置いておいて周りの様子を見るべきか?
 散々悩んだ挙句、俺は腹を括って木箱を開けることにした。木箱の淵に手をかけると、一気に上へと蓋を持ち上げる。この重さなら壺や皿の類いが入っているのかと思いきや、中に入っていたのは骨董品なんかではなく綺麗な人間の手だった。
「…え?」
 俺の思考が一瞬停止する。バラバラ殺人事件?
いやいや、そんな事現実には早々起こるはずがない。脳裏に浮かぶ最悪の事態を俺はすぐさま否定する。
 あんなのはドラマや映画の中だけだ。これはきっと精巧なレプリカを使ったタチの悪い悪戯に違いない。
 俺は手のような物をもう一度良く見てみる。自分の理解を超える物事が起きた時、得てして人間は冷静になるものだ。
 手の女優のように白く細長い指をした右手。その断面は血のように赤い。艶々と光を帯びているのは、蝋細工か何かで出来ているからだろうか。手と木箱の隙間を埋めるように、中に沢山の白い石が詰められている。
 指は反りかえるほどに真っ直ぐ伸び、隣同士がぴったりと合わさっていて、親指だけが深く内側に折れている。
 まるで片手で祈っているかのような見た目だな。
 人差し指から小指までの爪には平仮名の「ね」の文字が刻まれている。悪戯というよりも、どこか神秘性のある宗教的な遺物といった印象を受けた。
 俺は試しににその腕を掴んでみる。ひんやりとして、蝋燭のような感触。結局これは何なんだ?俺は部屋の中を腕を掴みながら徘徊する。考えないようにしているのに、思考がどうしても悪い方に流れていく。
 どう考えてもこれは…。やめろ。切り刻まれてバラバラにされて。考えるな。断面は鮮やかなピンク色の。思考を止めるんだ。ヒトノテ。ああっ。あああああああっ!気持ち悪いっ。誰の腕だよこれはっ。殺人?脅迫?早く警察に連絡しないと。いやまて、状況的に俺も疑われるんじゃないか?何だっけ。そうだ、死体遺棄。
 大体脅迫しようにも俺に大事な人などいない。だったらこれは一体誰なんだ?何で俺ばかりこんな目にあわなければいけないんだっ!
 俺は持っていた腕を勢いよく地面に叩きつけた。べきっと乾いた音がして、手は明後日の方向に転がっていった。
 …少し落ちつこう。こんな偽物にいい大人が踊らされるんじゃない。俺は落ち着くために深呼吸をすると、飲み物を取りに再びキッチンへ向かおうとした…のだが。
「ぴぃんぽぉん」
「うわっ」
 突如インターホンが鳴り、俺は心臓が飛び出るほど驚いた。偶然にしてはタイミング余りに出来すぎている。
 インターホンにはモニターがついていないので、ドアの前に誰がいるのかはわからない。かと言ってドアを開けて確認するのは危うい気がした。
「………はい」
 俺は恐る恐る返事をしてみたのだが、やはりというか、向こうからの応答はなかった。やれやれ、不審な荷物の次は不審な来客か。二つが無関係とは思えない。悪戯の主として真っ先に思い浮かぶのはあの女だ。これまでもあらゆる場所で付き纏われているし、このアパート特定されていたとしても不思議ではない。
 それに、もしあの女であればこれまでのことも全て合点がいくというものだ。まるで呪いのように行く先々で遭遇したのも、初めて会った日にアパートを特定されたからこそだったという訳だ。
 さて、相手は分かったとしてここからどうするべきか。
 このまま出ないで部屋にこもる選択肢もあるにはあるが、部屋を覚えられているなら焼け石に水だ。今日を境に毎日家に押しかけられたらたまったもんじゃない。
 あの女とはもう二度と関わりたくないと思っていたが、平穏な生活を送るためにこちらも覚悟を決めなければならないようだ。警察だって流石に証拠さえ押さえればストーカーとして認定してくれることだろう。
 俺は玄関の前で深く息を吐き、一呼吸置いてから勢いよくドアを開けたのだが、もうそこには誰もいなかった。
 辺りを見回してみるが、特に怪しい人影もない。俺の考えすぎで、ただの何かの勧誘だったのか?
 仕方なく部屋に戻ろうとしたとき、視界の端に何かが動くのを感じた。慌てて振り向くと、ゴミ置き場の側に立つ電柱から僅かに黒いものが見え隠れしている。
〈あの女だっ〉
 俺は考えるよりも早く玄関を飛び出していた。
 ところが、いざ近づいてみると果たしてそれはただの黒いゴミ袋だった。どうやら風で飛ばされたものが電柱の足場に偶然引っかかっていたようだ。俺は自分の勇足を恥じると、すごすごと背中を丸めて家に戻った。
 駄目だな、あの女のせいで随分神経質になっている。このまま神経内科に通院しようものならますます仕事復帰から遠のいてしまう。あの女の事は早く忘れて正常な日常を取り戻さないと行けない。
 部屋に戻った俺はひとまずソファに腰掛けると、床に転がっている手首に目をやった。
 さて、まずはこれをどうしようか。
「こんにちは」
「えっ」 
 不意に背後から声がして、俺は慌てて振り向こうとしたのだが。
 その瞬間、電撃殺虫機で蛾が焼けるような音が頭蓋に響き首筋に燃えるような痛みを覚えた。  
 目の奥に火花が飛び、体が瞬時に脱力する。
 笑顔の女を前にして、俺の意識は暗転した。
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