第1話

文字数 2,493文字




「これ、待たれよ、ならぬ……!」
 激しい気性で知られた尾張藩主織田信長は、その頃、二十四歳。
「何ぞ? この子供は?」
 ゆるりと歩かせていた馬の前に、命がけで飛び出して来た童女を、鋭い眸で、見降ろした。
「ご、御無礼をお許しください、殿。これなるは前田利家が妻女、まつ殿にございます」 
「──又左の嫁か。えらく小さいな」
 黒髪も艶々しい娘は、どう見ても十歳かそこらだ。
 この時代の武士は、親の都合や、政治の都合で結婚するのが常であるから、七歳の嫁がいてもおかしくはないのだが。
「それで、破門した男の妻が、今更、何の用ぞ?」
 前田利家は槍の又左衞門と呼ばれた戦上手の二十歳の美丈夫で、つい先ごろまで、信長が寵愛していた武将だ。
 だが、事もあろうに、又左衞門は、信長の面前で、信長が寵愛していた茶坊主の拾阿弥を切り捨てたのだ。
 拾阿弥と又左衞門のあいだに諍いがあったことは聞いた。
 拾阿弥が又左衞門の笄を盗んだことも。
だが、信長の許しもなく、眼前で、信長の臣を斬った者を許せる道理がない。
「の、の、信長様──」
 少女は、馬上の信長を見上げるだけでも、恐ろしいのか、いまにも気を失いそうだ。
「お、お願いでございます、御慈悲を。信長様のお心を失っては、我が殿は生きていけませぬ。短慮な犬千代様ではございますが、我が夫は、ひとえに……ひとえに信長様に命を捧げたいと思っております」
 だが、どうやら、ひどく、賢い少女らしい。
 怯えながらも、年齢には似合わぬ口調で、信長に、夫への許しを懇願しだした。
「慈悲なら、かけた。命は奪わず、破門とした。俺の意志に背いた者には、破格の待遇だ。なので、子供、おまえの男は殺さぬ。──安堵して、退ね」
「唯一無二の主君を失って、何処へ参れましょう?」
「知らん。戦乱の世だ。戦さ上手な男を欲しがる者など幾らもおろう。何処へなりと行け」
「天にも地にも、信長様以外の主君なぞおらぬ──この上なき主君に仕えられる俺はなんという幸せ者よ、と十五歳で信長様に御仕えして以来、兄様は……、いえ、我が夫は、ずっとそう申しておりました。命ながらえようとも、信長様の御傍を追われては死んだも同然……」
 大きな、黒目がちな眸が、涙に濡れている。
 兄様、と言い間違えるくらいだから、前田家の血縁の娘なのか、その何とも言えないもの言いたげな眸と美貌は、又左衞門を思いおこさせた。
(──信長様!)
(必ずや、天下は我が殿の手に!)
 戦さ場で先陣切って敵に切り込む四歳年下の又左衞門を、信長はひどく気に入っていた。
 頭の良さでは、猿、と愛称をつけている羽柴に譲るが、勇ましさと美貌では又左衞門が
勝っていた。
 又左衞門は、信長の真似をして、傾いた派手な装束をよく身に纏い、それがまたよく似合っていた。
「俺は、賢い者、強い者は好きだ。生まれも育ちも気にせぬ。優れた者のみを、俺の傍におく。──だが、俺の意に反する虚けは、俺の城にはおけぬ」
「ああ、どうか……、どうか、いつの日か、信長様のお怒りがとけますように。信長様の御声さえあれば、我が殿は、何処からでも飛んで戻って参ります……、」
 無論、信長とて、十九歳のときから五年間、ずっと傍に仕えた又左衞門を失うのは、面白いわけがない。
 だが、本来なら、又左衞門の所業は、死罪に値する。
 放逐で許すのは、最大限の温情だ。
「子供、おまえは賢い娘だ」
 これは賢い、勇敢な娘だ。
 尾張の者なら、誰でも、信長の苛烈な気性を知っている。
 どんな身分の者であれ、才を認めれば出世させるが、機嫌を損ねれば、問答無用で斬って捨てる。
 父親の葬儀で、位牌に、線香を投げつけた信長だ。
 鬼神のような、激しい若い主君。
 その激しい気性を、誰よりも傍近く仕える又左衞門から、この娘は伝え聞いて知っている筈だ。
 なのに、恐らくは命がけで、夫の許しを請いに来たのだ。
 まだ親に甘えているはずの十歳やそこらの娘が。
「又左は虚けゆえ、おまえ、苦労するぞ」
 信長は、少し笑った。
武門に秀でていても、世間知らずで強情な又左衞門は、職を失って、恐らく困り果てるだろう。
 この幼い童女と二人で。
 それは、憐れだった。
 あの美しい男とこの少女が、惨めに落ちぶれるさまは見たくない。
「──かまいませぬ」
 少女は、不敵にも、信長に少し笑い返した。
「天にも地にも、この方以外はおらぬ、と四歳のときから、恋焦がれた婿殿にございまする。まつの魂を鬼神に売り渡してでも、犬千代様に不自由はさせませぬ」
「何とも、又左は、強い娘を嫁にしたものだな」
 明るい、強い娘。
 この娘は、又左衞門を守り抜くだろうか。
 主君の寵を失い、これから、友を失い、銭を失い、多くのものを失っていくであろう男を。
「必ずや、犬千代様をお支えします。いつかふたたび、我が夫は、信長様の御許しを得て、御傍に戻り、信長様の御役に立ちます」
 真っすぐに、少女は、信長を見上げた。
 利家に許しを、と宥めるどの家臣の声も、信長の心を余計に冷えさせたが、さすがに、こんな無謀な子供の野心に否という気にもなれなかった。
 そう。
 それは、信長の好きなかたちの野心だった。
少女も野心を抱くことを、その幼い子供は、そのとき、信長に教えた。
「言うわ。小娘。いつのことになるのやらな!」
 信長は愛馬に鞭を与え、声をたてて笑いながら、その場を離れた。


 尾張の守り神の鬼神が去ったあと、張りつめていた緊張の解けた小さな娘が、腰を抜かしたようにへたり込んだことを、信長はもちろん知らない。

 このとき、前田利家の妻、まつは僅か十二歳だった。



 後に、加賀百万石の主となる前田利家、現在は二十四歳、主君信長の怒りを買って浪人、いまでいう無職の槍の又左衞門が、桶狭間の戦い、森部の戦いと二つの戦役に無断で参戦し、功績をあげ、敬愛する君主信長の許しを得るまで、これより三年の時を有する。





 
 













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