第1話

文字数 3,427文字

 街路樹の緑の綺麗な初夏、梅雨の晴れ間でいっそう緑が溌剌として見える日。
 洒落た店ばかりが並ぶ通りの、喫茶店の前で俺は待ち合わせをしていた。待ち合わせの時刻は十二時で、五分前に到着すると彼女は既に俺のことを待っていた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします!」
 姿勢のいい女の子が、腰を折り丁寧にお辞儀をした。
 深いグリーンのワンピースに、緩く束ねられた髪。背はあまり高くなくて、おそらく平均身長くらい。一見すれば今時の女の子だが、彼女の肩書きはいくつもある。
 プロデューサー、インスタグラマー、アクセサリークリエイター、女優。最近では舞台「ナナカケイチ」や「吼える」にも出演し、活躍の場を着々と広げている。
 そんな多才な彼女だが、驚くべきことにまだ未成年で十九歳なのだった。
 「こちらこそお願いします」と挨拶をして店内へと入り、窓際のソファ席に向かい合うように座る。
 この喫茶店は燻したような木の色が味のある、明治時代に建てられたという古い喫茶店だった。装飾の凝ったランプが暖かい黄色の明かりを灯している。
 壁沿いは本棚になっていて、本の背表紙が大きさの順に整列していた。彼女の視線も本にいっている。どんな本があるのか興味があるのだろう。事前に調べた彼女の趣味に、《読書》の文字があったことを思い出す。
 ここはコーヒーではなくお茶に力を入れているらしい。紅茶店のルピシアとも提携しているとのこと。しかし俺はコーヒー党なので、ブレンドコーヒーをブラックで頼む。
「チーズケーキ食べたいな」
「NYチーズケーキ?」
 この店ではNYチーズケーキを推しているらしい。メニューの表紙には、砕いたクッキーを土台にしたチーズケーキが載っていた。
「いいんですか?」
「いいよ。経費で落とすし、食べてる姿を撮るっていうのもいいでしょう」
 彼女はチーズケーキと本日のオススメのお茶を頼んだ。
 俺はバッグから、愛用のカメラを取り出して準備を始める。
 今日は彼女の撮影のためにこの喫茶店に来ていた。
 ウェブのインタビュー記事用の写真だ。クライアントからは日常の自然な彼女を撮ってほしいとの要望だった。それならばわざわざかしこまる必要は無い。ラフな撮影にしよう。
 この窓際の席に面する大きな窓からは、自然光が入る。女性を撮るならば自然な光の下で、自然な様子を撮るのが、一番自然でしかも魅力的に映る。
 程なくして、頼んだものがテーブルに運ばれてきた。
「美味しいもの最高!幸せ!」
 彼女はチーズケーキの鋭角の部分をフォークで取って一口食べる。ファインダーを覗き、満たされた笑顔を見せる彼女をおもむろに一枚撮った。
「インスタグラムにもよく食べ物の写真上げてるよね。食べることが好き?」
「大好き!」
 そうして、また一口チーズケーキが彼女の口へと消えていく。美味しそうに食べるので撮り甲斐があるし、こんなことなら俺も頼んどけば良かったと後悔しそうになるほどだ。
「もうすぐ誕生日なんだってね。来月だったかな?」
「そう、八月十七日。……二十歳になったら、私はどうなるのかな」
 ふいにチーズケーキを食べる手が止まり、表情が翳る。
 どうやら大人になるという不安が、こんなに肩書きをもつ彼女にも同世代の子達と同じようにあるようだ。
「大人って、どう?」
「色々と考えてるみたいだけど、二十歳になったって何も変わらないよ」
 俺がそう言うと、非難するように表情が変わっていく。すぐに表情がコロコロ変わるところも、彼女のいいところだと思う。
「夢のないこと言わないでくださーい!」
「大人も子どもと地続きだからね。そう簡単に変わらないさ。十八歳から十九歳になるときはそんなに思い悩まなかったでしょうに」
「そうだけどさぁ」
「大人になるのは不安?」
「……大人はすぐに諦めろって言う。そんな大人にはなりたくない」
「夢を追うのは諦めろって?」
「人生はそんなに甘くない。うまくいってるのも今だけよって」
 ふてくされながら、チーズケーキをまた一口。甘味はそれでも彼女のことを癒してくれるらしく、味わっている間は表情が少し柔らかくなる。
「ちょっとした脅しみたいだよな。俺も言われた」
「だよね!?」
「けどね、夢とか好きなものを諦めるなんて俺にはよく分からなかったよ」
 俺が同じように二十歳になろうとしているときのことを思い出す。あのとき俺はカメラを手にして色んなものを撮っていた時期だった。
 「カメラマンになる」と言う俺に、親は「夢ばかり見てないでちゃんと勉強して就職しなさい」と、真面目に聞いてくれることすら無かった。
 うまくいくわけないんだから、と。
 人生は甘くないのだから、と。
 彼女と同じことを言われた。
「木村さんのいっている大人がどんな人かは知らないけど、少なくとも俺はそうだよ?俺は変わらずずっと写真を撮っていた」
 撮ったものを褒められるのは嬉しかったし、何より撮ること自体が楽しかった。自分で満足のいく写真が撮れたときはそれだけで満たされるようだったし、その写真が評価されたときには言葉にできないくらいに胸が熱くなった。
 それに俺は運が良くて、既に夢を叶えて働いている先輩が、背中を押してくれた。だから俺は、今もカメラを構えてここにいる。
「喫茶店は好きだよね?」
「好き」
「本も」
「好き」
「お茶も」
「好きだよ」
「憧れる大人はいるんでしょう?」
「もちろん」
「じゃあ、好きなものは好きで居続ければいいし、憧れている大人がいるならその大人に近付けるように頑張ればいい。それだけだよ」
「そんなもの?」
「そんなもの。それとも何か諦めたい?」
「……分からない。みんな《諦めることを覚えるのも大人のうち》って言うから」
 彼女はつぶやくようにそう言った。
「《諦める》っていうのは、それ以外の選択肢を《選んだ》ってことだから、一概に悪いこととも言えないと思うよ」
「何か諦めたことあるんですか?」
「安定した収入」
「…………そこ?」
「切実なんだよ……」
 普通に就職している人達を見て、若い俺は焦った時期もあった。周りは真面目に働いているのに、俺はこれでいいのか?と。そんな人達が着々と出世しているのを見ていれば、尚更。
「けどさ、人生何が起きるか分かんないし、普通のサラリーマンになったところで会社が倒産するかもしれないし、災害も多いし病気や怪我もするかもしれない。それなら自分の満足する充実した日常を送れそうな選択肢を選べばいいかな、と」
「なるほど?」
「しかも結論から言えば、俺の場合は定期的に収入は入らないけど思ったよりは不安定じゃなかった。何よりこの仕事は楽しい」
 なるほど、と頷く彼女をまた一枚。
 こんなに表情の変わっていく彼女をパチリパチリと、時間を切り取るように写真を撮るのも楽しい。これだから、写真を撮るのは止められない。
「大人らしく何かを諦めたいなら、諦めることを諦めたらいいんじゃない?」
「……それでいいの?」
「いいでしょ。……知らんけど」
「あー!ずるい!関西人め!!それでしめるの!?」
「しめますよ。ほら、撮れた。好きなものを頬張る木村なつみはこんなにいい顔をしてる」
 今日撮った写真を見せると、彼女も満足したようだった。
「素敵な大人になれるといいね」
「なれたらいいな」
 彼女はチーズケーキを食べきって、お茶のカップに口をつける。
「このお茶、美味しい」
 四つ葉のクローバーのパッケージの「Happiness」というお茶だ。ほんのり甘い果実のような匂いがこちらにも漂ってくる。
「いいね、幸せそうな顔してる。チーズケーキも美味しかった?」
「はい!ごちそうさまでした」
 そうして撮影はお開きになった。会計を済ませて、店を出る。
「おつかれさま。また機会があればお願いね。次に会うときは大人になってるのかな?」
「そうかもしれないですね。ちょっと、憧れる大人になってきます」
「いってらっしゃい。大人になったら、また撮らせてよ。新しい木村なつみを」
 そうして彼女と別れる。後ろ姿を眺めて、シャッターを切るように彼女の背中を記憶に収める。まだ大人になる前の、彼女を。
 十九歳、木村なつみ。
 可能性を秘めた若者。
 彼女の活躍に今後も期待だ。
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