第1話

文字数 1,999文字

 ぼんやりと、水もやらずに枯れかかっている、あの観葉植物と私は同じだと思った。
 ベッドの上に横たわり、薄目を開く。テレビ台の上に置かれた観葉植物の緑だけが目に鮮やかに映った。
 部屋には煙が充満している。ベッドにもたれかかる彼の背が目に入った。彼が吸う煙草の煙が、私の目を曇らせている。
 彼は長い息を吐き切り、灰皿に煙草を押し付けると、何も言わずに部屋の外へ出て行った。
 閉じられたままのカーテンが浮き上がり、元の場所に戻った。部屋は再び沈黙に満たされた。
 彼の足音が遠ざかっていくのを確認して起き上がる。肩に掛かった布団が落ちると、途端に世界は冷たくなる。素肌に冷気が突き刺さった。
 床に無造作に投げ捨てられた衣類を身に付け、足音を殺しながら鍵を掛ける。ドアノブがガチャガチャ鳴らないのを確認して、窓を開ける。四角く切り取られた空だけが、私に外の空気をもたらした。
 ずっと、そんな生活を繰り返していた。

 日の光を浴びて起きるのが好きだった。薄いレースのカーテンだけを掛けて、朝の柔らかい光の中で目覚めるのが好きだった。
 今、レースのカーテンの上には厚い遮光カーテンが覆い被さっている。
 テーブルに料理を並べて、他愛もない話をしながら食事をするのが好きだった。
 ここのところ、彼の買ってくる出来合いのものを無言でつついていた。
 テーブルはテレビ台にされ、灰皿と、申し訳程度に観葉植物が置かれている。テーブルのあった場所は彼が寝転がってテレビを見るだけの空間になっている。
 私だけの牙城はいつの間にか彼に侵略されて、跡形もなくなっている。テレビには埃が積もり、観葉植物は枯れ掛かっている。
 観葉植物は買われてから数ヶ月経つというのに、未だ健気に光合成を続けている。
 私はそれに水をやらない。私のものではないから、手は出さない。
 可哀想に、私みたいだね。
 彼の吐く息を吸って、彼の吐く言葉を吸って、彼の吐く嘘を吸って、私は健気に健気に浄化している。
 だけどどんなに健気に光合成をして二酸化炭素を分解しても、彼が吐き出す煙は一向に減りはしない。
 日の当たる場所に置いて水をやらないと、枯れてしまうのに。
 いつか枯れてしまってから後悔すればいい。
 或いは、枯れる前に手厚く保護して生き返らせてほしい。
 それが無理なら、いっそ一思いに葬り去ってほしい。
 そのどれも叶わず、私たちはこの部屋に取り残された。この静謐な窓辺に。

 昔、この部屋は冷たい外の世界から私を守るための温かい揺籠だった。彼は温かな布団のように包み込んでくれていた。だけどいつしかこの部屋は息苦しく、重苦しい真綿で締め上げられる場所になっていた。
 一ミリの隙間もないほど抱きしめ合って、境目がないほど溶け合いたいと願った日々も、遠い昔の話。
 今は繋がっていても貴方の心はここにない。私たちの間に横たわっている隙間にはどんどん埃が溜まっていって、あんなにも大切だったはずの思い出すらも汚れてベタついて、捨てるより他にない。
 きっとこのまま彼と居てもあの頃の綺麗な思い出も、輝かしいはずのこれからの未来も色褪せるだろう。ヘビースモーカーの両親の部屋に染みついたヤニみたいに。いつだって、何だってセピア色に染め上げてしまう。それは私の本意ではない。だから。
「もう、別れようか」
「分かった」
 切り出した別れに、反論することもなく。彼はただ淡々と。コンビニにでも行くような気軽さで出て行って、それきり。
 永遠にも思えた日々は、呆気なく終わりを迎えた。現実感は、ない。
 もうどこにでも行けるのに、まだどこにも行けそうになかった。
 私はまだ怯えている。今にもドアノブがガチャガチャと音を立てそうで。
 彼に侵食される前の部屋のレイアウトに戻そう。もし戻って来ても、もう貴方の入る隙なんてないと証明できるように。
 重苦しい遮光カーテンを外す。灰皿とテレビを床に置き、テーブルを移動させる。最後に植木鉢を置いた。
 閉じ込められても、縛り付けられても。僅かな光だけを頼りに光合成をして健気に生きていた戦友に水をやる。日の当たる場所で、穏やかに生きてくれればいいと願った。
 温かなベッドの中で、私は肌を刺す冷たさに耐える必要はない。床に散らばった服を掻き集める必要もない。腕に残った青痣も色を変え、跡形もなくなろうとしている。もう他人から与えられる水だけを頼りに生きなくてもいい。
 なのに煙が。煙だけが。煙はもうどこにもないのに、部屋にはまだ煙草の匂いが残っていて。私はまだ彼の名残を上手く消し去れそうになかった。
 窓を開けると風が吹いて、カーテンがなびいた。カーテンの隙間から光が差し込む。
 光に照らされた埃があまりにも綺麗で、私は思わず立ち尽くす。
 今やもう塵と化してしまった思い出も、輝いていた瞬間もあったのだと、失くしたもののことを思って少しだけ泣いた。

-了-
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