第1話

文字数 3,839文字

 その招待状が木村春美の家に届いたのは大学四年生の夏のことだった。
 「木村なつみ第一回写真展」と印刷されたその招待状には、期間や場所の地図などの諸々の情報の他に、手書きのメッセージが添えられていた。「こんにちは。お久しぶりです。写真展を開くことになりました。謝りたいこともあるので、ぜひいらしてください。」という文章が綺麗な字で書かれていた。
 木村なつみは高校一年生の時の同級生だ。友達というほど深く付き合っていたわけではないが、とてもよく覚えている。
 「謝りたいことって何だろう。」と春美は思った。全く思い当たることがなかった。

 「木村」という呼び声に、「はい」と答えた声が四月初めの教室内に二つ響き渡った。
 春美は驚いて、前の席を見た。春美と一緒に「はい」と答えた女の子のすらりと伸びたロングヘアが静かに揺れている。
 「ああ、すまん。木村は二人いるんだな。」と教卓の横で出席簿を広げて名前を読み上げていた中年の男性教諭が苦笑して、もう一度名前を読み上げた。
 「木村なつみ」
 「はい。」と落ち着いたよく通る声が前の席のロングヘアの女の子の席から聞こえた。
 「木村春美」
 「はーい。」と春美は大声で返事をした。
 「なんだ、なんだ。名前、似ているなあ。ひょっとしたら姉妹か。」と男性教諭がからかうように声をかけた。
 前の席からは特に返事がなかったので、春美は「違いまーす。」と大声で答えた。周りから軽く笑いが起きた。
 「なつみと春美か。季節だと春が先なんだが、あいうえお順だとなつが先なんだな。」と男性教諭が独り言のように呟いた。
 気づくと、前の席の春美と同じ苗字のロングヘアの女の子が後ろを振り向き、春美を見つめていた。
 「うわあ、すごい美人。」と春美は思った。そして、彼女に小さく両手を振った。木村なつみは小さく笑った。

 そんな印象的な出会いではあったが、春美は木村なつみと話をした記憶はほとんどなかった。春美は体育会系の陸上部で、木村なつみは文化系の写真部で、付き合う友達もはっきりと分かれていた。
 だから、春美にとって、木村なつみの印象は前の席に座っているその美しい後ろ姿だった。春美は彼女のロングヘアを眺めて授業を受けていたから。窓からの風に揺れる彼女の長い髪の毛と漂ってくるかすかないい匂い。それが高校一年生の一学期の彼女の思い出だった。

 春美は就職活動の会社訪問の帰りに写真展に寄ることにした。写真展の会場のある表参道に行くのは初めてだった。
 表参道駅から少し歩いた古めかしいコーヒーショップの隣の白いビルの1階がその写真展の会場だった。入口のところに「木村なつみ第一回写真展」のポスターが張り出されていた。
 入口のドアを開けて会場に入ると、右手の受付に40代くらいの落ち着いた雰囲気の女性が座っていた。春美はその女性に招待状を渡して「すみません。木村なつみさんはいらっしゃいますか。」と尋ねた。
 「本日は仕事の関係で、まだ来ておりません。」と受付の女性は答えた。「そうですか。」と春美は答えた。残念なような気もしたし、ほっとしたような気もした。
 「失礼ですが。」と受付の女性は招待状のあて名を見て、春美を見上げ、「木村春美さんですね。」と念を押すように尋ねた。「そうです。」と春美が答えると、「いらしたら、電話をするように言われています。」と受付の女性はにっこりと微笑んで言った。
 そして、彼女は奥の事務室に入ってしばらくして出て来ると、「あと1時間くらいで来られるそうです。しばらくお待ちいただけますか。」と言った。
 「すみません、お忙しいのに。ありがとうございます。」と春美は恐縮して答えた。ああ、やっぱりリクルートスーツではなく、もうちょっとお洒落な格好をしてくれば良かったかな。
 「それまで、ぜひ写真展をご覧になってください。」と受付の女性はにっこりと微笑んで言った。「きっと気に入りますよ。」

 写真展の順路の一番最初のところに、木村なつみの紹介がパネルに書かれていた。彼女は高校卒業後に美術大学に進学し、在学中にコンクールで新人賞を受賞し、女子大学生カメラマンとしてメディアにも頻繁に取り上げられ、今回の第一回写真展を開くことになったということが簡潔に書かれていた。
 春美はため息をついた。やっぱり才能がある人は違う、私は毎日就職活動でリクルートスーツを着て会社訪問をしているのに。
 平日の夕方にもかかわらず、写真展はなかなかの盛況だった。特に学校帰りの女子高生たちの姿が多く、写真を見ては友人同士でひそひそと話し合い、くすくすと笑い合っていた。有名なティーン雑誌に連載を持っているということが先ほどの紹介に書かれていたことを春美は思い出し、なるほどねと納得した。
 そんな女子高生たちを見ていると、高校時代に、同じクラスの友人の猫田しのぶとした、木村なつみについての会話が懐かしく思い出された。

 「辻本に聞いたんだけど、クラスの男子が春美のことを木村A、木村さんのことを木村Bと呼んでいるみたいよ。」
 「何、それ、どういう意味。」
 「木村さんのBはわかるでしょ。美少女の「B」。」
 「じゃあ、私のAは?」
 「アンパンマンの「A」。」
 「なるほどねって、こらあ。アンパーンチ。」
 「私に怒ってもしょうがないでしょ。」
 「確かに私はショートカットで、顔は自他ともに認めるまんまるですけど。」
 「最近、陸上部の練習で日焼けして、いい感じの焼き具合だしね。」
 「なるほどねって、こらあ。アンパーンチ。」
 「木村さんと比べられちゃうからしょうがないね。春美も可愛いんだけどな。」
 「でも、木村さんは確かに美少女よね。その上、頭もスタイルもいいし。」
 「知ってる?写真部の今年の新入部員が去年の倍になったのは木村さんが入部したかららしい。」
 「へえ。」
 「しかも、木村さんのお父さんって有名な動物写真家なんだって。」
 「うわあ、血統書付き。」
 「この間、見せてもらったけど、凄いカメラ持ってるよ。レンズもすごく大きくて。」
 「ああ、そういえば校庭でカメラを持ってる彼女を何度か見たことあるかも。」
 「でも、何食べたら、あんなに美人で頭よくなるのかしらね。」
 「ほんとだよね。あこがれちゃう。」
 「絶対、写真を撮る側じゃなくて、撮られる側だけどね。」
 「ほんと、ほんと。」

 木村なつみが家庭の事情により急遽転校したということが担任の教諭から告げられたのは、夏休み明けの二学期最初の朝礼でのことだった。「マジで!」と男子生徒の一人が叫び、教室中に動揺が広がった。
 高校一年生の二学期、春美の前の席は空席になった。風に揺れる黒いロングヘアの髪の毛も、そこからかすかに漂ういい匂いも夏とともになくなってしまった。そのことを春美はとても寂しく思った。そして、もっと彼女と話をしておけば良かったと思った。

 春美は展示されている何十点もの写真を順に眺めていった。そして、その写真の美しさにとても惹かれた。様々な人物の写真が多かったが、中には風景を捉えたものもあった。春美は木村なつみがカメラを首からさげて、学校内や校庭を背筋を伸ばし、さっそうと歩いていた姿を思い浮かべた。そうだ、ひょっとしたらあの頃の高校の風景を写した写真もあるかもしれないと思った。
 それぞれの写真の横にはタイトルがつけられたプレートが貼ってあった。「横浜」という場所がタイトルになっている夕焼けの観覧車の写真もあったし、「夏の思い出」という抽象的なタイトルの海辺を走っている楽しそうな女子高生たちの写真もあった。
 それらの写真のひとつひとつが春美の心を満たし、ざわつかせ、染み込んでいった。これらがすべてあの木村なつみの目を通して、写真という表現でこの世に誕生したのかと思うと、春美は心から感動し、彼女に尊敬の念を抱いた。
 本当に来てよかった、でも、なぜ私に招待状を送ってくれたのだろう、それから謝りたいことってなんだろう。写真を眺めながら春美は改めて考えた。

 更に進んでいくと、一番奥の部屋の正面に他の写真よりもサイズの大きな写真が2枚掲げられていた。
 その一枚に春美の高校の校庭の一部が写っていた。
 わあ、懐かしい、と思ったあと、その写真の左下に移っている人物に気づいた。
 そこに写っていたのは春美だった。真剣な表情で100メートル走のクラウチングスタートのポーズをしているのは間違いなく高校生の時の自分だった。
 しばらくその写真を見つめた後に、春美はもう一枚の写真を見た。
 もう一枚の写真に写っているのは、おそらく走り終わった後の、ユニフォームを着た春美の立ち姿だった。その写真の中の春美は両手を腰にあて、満足そうな表情を浮かべつつ、強いまなざしでどこか遠くを見つめていた。
 その写真には高校時代の自分のすべてが詰まっているような気がした。自分が知らないものも含めて。
 あの人は私のこんな顔を見ていたのか。私のこんな表情を知っていたのか。
 春美は写真の隣に貼ってあるタイトルのプレートを見た。
 そこには「あこがれ」と書いてあった。

 「ごめんね、勝手に写真を撮ってしまっていて。」と春美の後ろから落ち着いたよく通る声が聞こえた。
 振り返ると、春美と同じ苗字のロングヘアの女の子が、春美を見つめていた。
 「やっぱり、すごい美人。」と春美は思った。そして、彼女に小さく両手を振った。木村なつみは小さく笑った。
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