第1話

文字数 5,084文字

「うちはアメリカ本社のベンチャーだからさ、おもしろいよ」
 二千年を迎えたその春、三十後半の佐野智章は、五歳下で日本法人社長の片桐ジョウに面接開始早々笑顔を向けられた。その後ろの広い窓から大きなモスクが側に見え、日本でないような不思議さを覚える。
 そのオフィースは代々木上原という、智章はそれまで乗り換えだけで改札から出たことがない駅近くのマンションの一室だった。周囲には緑や大きな屋敷が多く、ゆったりとした風が流れ、都内でないような錯覚を初めて訪れる人にもたらしていた。 
 戦略系コンサルティング会社を三か月前に辞めた佐野は、以前活用した転職雑誌からそのスタート・アップの会社を見つけマーケティング・マネージャー職に応募した。前職でデジタルカメラ関連の将来性に目をつけていた。ただベンチャーは初めてで、シリコンバレーに本社があるといっても、どうなるか分からない不安定さが二人の子どもを持つ身としては心配だった。
 今、その求職者は広いリビングに置かれた長いガラス製のテーブルの中央で独りだけの社員と向かい合っている。
「うちの商品は記憶用メディアと呼ばれている、デジタルカメラ用のカードでさ。強味は読み込みスピードが世界最速だってことでさ。あっ、それとこれからはぼくのことをジョウと呼んでね」
 とその半袖に短パンの社長は組んだ足をプラプラさせていた。
「えっ、はい」
 これが最初で最後になるかもしれないのに、そんなことをいわれ方は戸惑った。なにもかもが別世界のような気分にかられる。
「佐野さんのことは、智章だからトミーでいいかな?」
 問われた方は無言で頷く。
「うちのグローバルの基本戦略はプロからアマへ、でさ。日本は世界に類を見ないほどの写真大国だから。毎日、どこかで写真の個展をやっている国なんて他にないでしょ。フランスのフォトフェスタなんて比較にならないよ」
「そうですよね」
 智章はその当たりのことは事前に理解していた。
「ただデジタルカメラ自体、日本のプロはまだほとんど使っていないからさ。だから、チャンスは大きいのよ。その下にぶらさがっているセミプロは、大体、一人五六台の銀塩カメラを持っているのよ、すごいでしょ。これが、ほとんどデジタルに入れ替わるって分けよ」
「魅力的ですよね」
 と佐野は顔を綻ばせた。そんなに伸びシロのあるマーケットはそうそうない。ただ、当然のことながら成功しない場合もあると――。一瞬、家族の顔が頭を過る。かなりのスピードで成果を求められるだろうし、少なくともカメラ業界の経験者でないとダメだろうとも感じた。
「まーその実現にチャレンジしたいですけど、ご存じの通り、この業界は未経験でして……」
「いやーぼくもそうだから、心配ないよ」
「えっ、ジョウさんも」
「そうだよ、ぼくは経営専門だから、後は投資かな」
 片桐の得意は人をその気にさせることだということをそのときの佐野に知る余地はなかった。
「そうなんですか……」
「いろいろ不安もあるだろうけどさ、ストック・オプションも出るしさ、近いうちにニューヨークで上場予定だしさ、人もどんどん雇うしさ、成功すればトミーは副社長だよ」
「そうなんですか……」
 佐野は心地よく畳みかけられた。ベンチャーという頭では分かっていたつもりの世界が今目の前にあり、その扉を押し開けばエキサイティングな人生が待っている気になった。
「じゃーいつから、働けるかな?」
「えっ、もう合格ですか」
「そうだよ、トミー」
 二人は雇用条件を話し合い握手を交わした。
 智章は妻の里菜に直ぐ相談し、よかったじゃない、とあっさりと受け入れられたその二日後。
「さー明日は、ビックカメラの営業相手に研修だよ。しっかり頼むよ」
「えっ、ぼく、商品のこと、なんにも知らないですよ」
「これから本社の資料を翻訳すれば、大丈夫だからさ。多分、今日は徹夜になると思うけれど、まっ、若いから大丈夫でしょ」
「そんな……」
「仕方ないよ、グローバルって、寝れないってことだからさ。あっ、それと、トミーのカウンターパートはマーケティング・ディレクターのキャサリン・シュナイダーだから。本社からこの携帯にどんどん連絡してくるから、トミーからもそうしてね」
「あのージョウさん、ところで、コピー機はどこですか」
「トミー、ベンチャーだからさ、ないよ」
「えっ本当ですか」
「うちはペーパレスだからさ」
「いやいや、ないだけでしょ」
 佐野は鼻で笑ってしまう。
「トミー、いくらだって手段はあるさ。コンビニで出力するとか、客先でやらせてもらうとか」
「いやいや、客先はないでしょ。まーなんとかします」
 片桐はメーカーの社長と会うと行って、姿を消した。
『免許取りたてで、高速道路に急に乗るようなもんやな――』
 と智章は腕を組んだ。
「いやいや、無免許でしょ」
 と心で誰かの声が聞こえたものの、トミーと呼ばれる男には返す言葉がなかった。
 その中途採用者の毎日は地球の裏側とも繋がり、びゅんびゅん過ぎていく。真夜中でも携帯電話は鳴り、夜中三時からの電話会議は当たり前に。技術、営業、WEB、カスタマーサービス、経理人事担当の採用、量販店とネットでの販売開始、メーカーとのイベントや広告など。中でもプロカメラマンへの紹介は極めて重要で、並行してシドニーオリンピックを見据えた新聞や雑誌社との折衝も進めた。
『俺って、こういうことが好きだったんだ――』
 と佐野は自身の新しい側面を見つけた。社会を変える波に乗っていることの楽しさ喜びに無類の満足を覚えた。幼い頃、プラモデルが大好きで、それを組み立てているときの興奮と似ていた。
 当時SNSはなかったので、図書館でカメラマンの協会が発行する名簿やテレビ番組や写真集を調べ、写真家に直接電話したり手紙を書いたりで佐野はその知らない世界と接触を試みた。ほとんど会ってもらえなかった。プロカメラマンの中で、百人中一人くらいしかまだデジタルカメラを使っていなかったこともあり、門前払いは当たり前だった。ただ、物撮りの世界では、撮り直しがいくらでもできるデジタルカメラの良さから急速に進みつつあった。
 そんな中、有名鉄道写真家による清里での写真教室に智章は参加した。
 ある雑誌社の企画で、募集人員五十人が直ぐに予約で一杯になるほどの人気だった。
『えっ、この人があの写真を――』
 智章は爆走する機関車の作品で有名なそのカメラマンがひ弱な学者風で拍子抜けしながら、カードを手渡し、よければ使ってもらうよう頼んだ。
 爽やかな青空の下、参加者たちは草の生えた線路に寝ころんだりしながら撮影テクニックを学んでいた。
『これって、知らない人からすると、集団自殺の場所を探してるみたいな、妙な感じだろな――』
 その光景を佐野は眺め、こういう人たちが日本の写真大国を支えているんだと初めて実感した。
「これじゃ、店頭に置けません」「日本は少しの傷、皺があっても、棚には並べてもらえません!」「本社側でのラベル貼りの精度をもっと上げないと……」「各カメラとの動作確認をしっかりやってくださいよ!」
 と日本の営業、技術、カスタマーサポート担当者が会議室に置かれた大きな電話に向かって英語で叫んでいる。
「アメリカじゃ、なんの問題もないよ」「動くのだから販売できるはずだ」「アメリカ製を排除する口実なんじゃないか」「それを解消した場合に、どれくらい販売拡大につながるか、を直ぐにレポートしてくれ」
 といわれた方も黙っていなかった。
 佐野は品質に対する考えの違いがそんなに大きいとは思ったことなどなかった。言葉では理解していたものの、実際にその壁にぶち当たるとうろたえてしまう。開いた口が塞がらないくらいに。本社から担当者に来てもらい、販売の現場を見せ、カメラマンやメーカーと合わせ、他の社員とともにその説得工作に奮闘した。
 それと並行して、いろいろな問題やクレームが会社に電話やネットから届くようになる。
「データが飛んでしまった。どうしてくれるんだ!」「連写できないぞ」「パソコンが必要だから、貸し出してくれ」「写真の加工方法を教えろ。そこまで責任を持て」「カード・リーダーからパソコンへの転送時間がかかり過ぎだよ」「写真を加工させるような商品を販売するな」「どのカメラでも使えるようにしてください」
 智章らは、本社に問い合わせても、なかなか返答のないこともあり、苦戦を強いられた。
『ひょっとすると、技術的にまだ早いのかも――』
 と佐野はその小さなカードを手にしながら社会に広めれば広めるほど、墓穴を掘るような気になっていた。
 それでも攻勢に出るしかないと、智章は街並みの撮影で有名なカメラマンの石黒のオフィースをアポなしで訪問した。
 五十代の大柄で浅黒いその写真家は西日暮里の土地柄か気さくな感じで迎えてくれた。
気に入ってもらえると、オピニオン・リーダーになってくれそうな予感が佐野に走る。 
「丁度今から、ニコンが本格的に販売するデジタルカメラの最新機でヨーロッパを撮りに行くんだよ」
 とそのプロは革のソファーに座りながらニコリとした。
「えっ、今からですか。そんなお忙しいときに済みません」
「それでさ、最新のメディアを貸してくれるなら、使ってあげてもいいよ。これも縁だからさ」
「あっ、ありがとうございます」
 佐野は礼をいいながら、息を飲んだ。そのカードは持っているものの、各社のカメラと動作確認ができていなかった。普通なら、残念ながら断わるところだった。最悪、撮影した写真が使えなくなってしまったら、どれだけ賠償しなければ分からない。ただ、こんなときに限って、相手は非常に好意的だ。
「持ってないんだったら、いいよ。もうそろそろ出るんで」
 と石黒は大きな体をソファーから引き上げようとした。
「あっ、そうですか……。いや、持っておりまして。こちらになっております。データの読み込み速度と容量は現時点で世界最高でございます」
 と智章はその小さなメディアを鞄からさっと抜き出し、両手で差し出した。
「おー、それはそれは。カメラとの動作確認は?」
 と野太い声の質問が鋭い視線とともに飛んできた。
 佐野は一瞬くらりとしそうになった。無意識に深呼吸を一つして答えた。
「できていると聞いております……」
「ありがとう。じゃ」
 とそのカメラマンは奥の部屋へさっさと消えて行った。
「あのー先生に、可能でしたら撮影前にテストして頂くように、お伝え頂けませんでしょうか。お手数ですが、宜しくお願い致します」
 智章はその場を去る前に若い助手に伝えた。後は運を天に任せるしかない。
『不具合が発生する可能性をいったところで、メーカーの言い訳に過ぎない――』
 佐野はその事務所から出て歩きながら、地に足が着かないどこかふわふわした気になっていた。
「いい加減だね」
 と心で誰かが文句をいう。
「ベンチャーだからさ」
 とジョウの口癖が耳の奥で聞こえる。
 佐野は大きな溜め息を一つついた。
 一週間後、智章が九段下の雑誌社から出てきたとき、携帯にそのカメラマンから連絡が入った。瞬間的に息と動きが止まる。清水の舞台から飛び降りるつもりで、応答した。
「佐野でございます」
「佐野くん」
 相手の低い真剣な声が届いた。
 ダメだと、聞かされた方は体の力が抜けそうになる。
 次の瞬間、
「いやー、助かったよ」
 と今度は嬉しそうな声が響いた。
「えっ、本当ですか。お使い頂けましたか」
 と佐野の声は裏返るほど大きくなった。
 その写真家によると、現地で当初予定していたメディアが盗まれて、智章が渡したカードで全部を撮ったとのことだった。
 話を聞きながら佐野は、ありがとうございます、と路上で何度も頭を下げていた。
「雑誌にメディア名も入るから、これは大きいよ」
 とそのプロは教えてくれた。
『こんなことがあるんだ――』
 と佐野は電話を切った後、空を仰いだ。
 いつの間にか鱗雲が広がっていた。涼しい風が吹き過ぎていく。
 家族の笑顔が脳裏に浮かんだ。
その小さな出来事が会社に飛躍的な成長をもたらすことをベンチャーに翻弄されているその男には知る由もなかった。
                                       (了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み