第1話

文字数 2,000文字

 昭和二十年二月、フィリピンルソン島で海軍第四航空隊所属の航空兵であった私は、マニラ陥落の翌日、広島県北部山女町に新設されたばかりの三四一〇航空隊へ転属を命じられた。すでに敗景は誰の目にも明らかで、国土全体が戦禍の中に沈み、本土決戦を叫ぶ声が遠く近くに聞こえはじめていた。私は幸運にも輸送機で鹿屋まで送られ、そこからトラック輸送で山女まで移動することができた。すでに燃料は危険なほど枯渇しており、これは特別待遇であった。こんな状況下でも現役の航空兵は貴重なのである。
 
 私は本部で赴任の申告を済ませると、戦隊長から僚機搭乗員として明石一飛曹を紹介された。この頃の戦闘機は二機一組で戦うことが常識となっており、このような場末の航空隊でもそれに習ったのである。明石は私よりもひとつ年下の大柄な男であった。短く刈り込んだ頭の形が美しく、やや神経質そうな目つきながらも口元には柔らかな笑みを浮かべ、
「よく来られました。小さい所ですが案内しますよ」
と言い、簡素な施設内を見せてくれた。
 山女航空基地は峻険な山間地にぽっかりと空いた盆地に急拵えの滑走路を設けたものだったが、周囲の山村風景にとけ込んだその様は、仮に上空から見ても直上にまで来なければ判別できないのではないかと思われた。私がそのような所感を述べると、彼は相変わらず微笑みながら、
「そうですか。まあ、敵さんが本土にやってきた時、特攻を出すにはよい場所かもしれませんが、それまで隠し通すのは無理でしょう。実はすでに何度も敵の偵察機が上空を飛んでいるんです。わざわざ攻撃するほどの脅威はないと見くびられているのかもしれません」
と言い、さらに先を歩いて行った。

 滑走路横の林に行くと、その中には機体が分散配置されており、見える範囲で五機の古びた九六艦戦が認められた。初老の整備兵が二人、カウルを開けてエンジンの様子を見ている。明石が、
「向こうでは何に乗ってましたか」
と聞くので、私は簡単にそれまでの乏しい戦歴を話した。すると、
「お聞きになっているでしょうが、私たちの目的は敵機の撃墜ではありません。松山の三四三空を攻撃する敵を牽制し、攻撃を妨害することにあります。そういう任務にはこの九六艦戦がうってつけなんです。こいつで旋回機動しているかぎり弾は当たらんのです」
と言い、さらに
「だけど気を付けてください。この基地には猫が一匹住み着いているんですけど、出撃前、そいつに膝の上に乗られると、その者は必ず戦死してしまうんです。皆その猫を死神と呼んでいますよ。まあ迷信でしょうけどね」
と笑いながら話した。  
 確かに私は敷地の中を我が物顔で歩き回る一匹の白猫がいることに気がついていた。ただそんな曰くつきの猫ならどうしてさっさと追い出さないのであろう、私は笑顔の明石を見ながらふとそう思ったのだった。
 
 二日後の早朝、宮崎沖を敵編隊が北上中との通報を受け、私と明石は出撃を命じられた。通常ならば与えられる機種変更に伴う慣熟飛行は無く、そのかわり出撃時に少し遠回り飛行し、そこで機体の感覚をつかむようにとのことである。無論これも燃料不足の影響であった。
 出撃の打ち合わせが終了し、私たちは兵舎前の長いすに腰掛け煙草をのんでいた。受領した命令は明石が話していた通りであった。勝負の伴わない出撃に緊張感が無いのは当然であり、明石は
「まあ、気楽にやりましょう」
と言いながらゆったりと煙を吐く。と、その時、傍らから突然白猫が飛び出し、瞬く間に明石の膝上に飛び乗った。
「うお」
 明石はうなり、あわてて白猫を払いのけた。が、見る見る内に彼の顔から血の気が消えてゆき、体は小刻みに震え初める。私は少なからず驚いた。猫は迷信だと笑っていた本人が、これほどの動揺を見せるとは思わなかったのである。私は彼の狼狽が、この後の戦闘に影響してしまうのではないかと危惧したのだが、その懸念は現実となってしまう。
 
 出撃した私たちは松山上空で敵艦載機と遭遇、空中戦となった。長機明石の飛行は攻撃的で、牽制にはほど遠いものだった。TBFの編隊をとらえた明石は、敵機後上方から緩降下攻撃を仕掛けた。だがこれは私たち山女航空隊でよく知られた危険行為であった。TBFの強力な旋回機銃の射弾を浴びた明石機は黒煙を吹き、瀬戸内の島影に没したのである。
 
 帰還した私は兵舎の裏手で何者かに殺害された白猫の骸を見つけた。遺骸は傾き初めた日の光を背中いっぱいに受けながら大きな岩の上に横たわっていた。その遺骸と岩が作り出す影は黒々と地表に伸び、その先端は兵舎の入り口にまで達している。一方でその真っ白な背中は、反射した光で眩いばかりに輝きながら、あたり一面を柔らかに照らしているのだった。きっと明石が白猫に見たかったのはこの光だったのであろう、私はそう思いながら、天使のように煌めく白い背中にそっと指をはわせた。
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