第7話、昔風景画家を目指していた
文字数 3,836文字
松安先生はヨウカンをフォークで切り分け食べながら言った。
私はいつものように先生の話を聞き流しながら、ヨウカンを食べた。甘くてぷりんとしている普通の味だった。
私は名古屋で買ってきた、ういろうを先生に渡した。名古屋は独自の食文化を発達させていた。天むすは普通として、コーヒーにあんこがついてるし、エビが好きだったり鶏が好きだったり、味噌が好きだったり、極端にとんがった食に対する静かな情熱を感じる。あまりにも異質すぎて、わりと普通のおみやげを買ってきてしまった。
そう言いながら、私はういろうを食べた。ヨウカンとはまた違う食感、甘足らん感じが、微妙である。
先生は、自慢げに、ぼて腹をたたいた。
先生は目を細め、眉をキリリッとさせて言った。
風景画家という言葉に、私はなぜかショックを受けた。
松安先生の学生時代の写真を見せてもらった。がりがりである。細い目だけは今のままだ。ちょっとびっくりした。先生がやせていることにもだけど、人間こんなに変わって、うーん、私も変わってしまったか。昔の私を知らない人に、私が、昔痩せていてなんて言っても、誰も信じない。人のこと言えないなー。
「若かったんだねぇ。自分の中で、価値観ができていなかったんだ。絵は習っていたんだ。美術学校にも行った。プロの画家になろうって思ってたんだ。風景画って言うのは、抽象画や人物画に比べて高尚なもののような気がしていたんだ。若かったんだね。それでも、がんばったんだよ。人を感動させるような風景画を描くんだって、日本中あちこち放浪したんだ」
昔の話だ。
僕は、美大を卒業して、アルバイトで生計を立てていた。貧乏だったよ。写真の通り、がりがりでね。今じゃ考えられないんだけど、やせてると、あんまり腹が減らないんだ。腹が減っても平気だったしね。それで、バイトのお金がある程度たまったら、風景画を描くために旅に出ていたんだ。人が感動するような風景画を描いてやる。そんなこと考えてたね。で、東北の方に旅をしていたんだ。山の高いところから出る立派な滝があるって話を聞いたんでね。それを描いてやろうとしたんだ。滝の近くまでいけるバスがあったんだけど、お金を少しでも節約しようと、滝を目指し山を歩くことにしたんだ。どこをどう歩いたか、迷ってしまった。
それで僕は、川沿いを歩くことにした。当初の目的通り滝を目指すことにしたんだ。目的地の滝まで行けば帰りはバスで帰れると思ったんだ。甘かったね。いつまでたっても川なんだ。川の音だけが聞こえ、木が川に沿って並んでいて、僕が川から外れ山の中に入り込むのを拒否してるようだったよ。山の中は、暗くなるのも早いんだ。少しくらくなったな、と思ったら、扉が閉まるようにぱたんと真っ暗になるんだ。
川を頼りに、奥へ奥へ、休み休み二日ぐらい歩いたね。昔は軽かったから、岩場なんてひょいひょいだよ。滝をあきらめ下った方が良いじゃないのかって思ったよ。でも、足が止まらなくてね。下った方が楽だし、何でだったんだろう。今考えると不思議だねぇ。意地だったのかなぁ。とにかく、滝を目指して上へ上へ歩いたわけだよ。ところが川が突然ぷつんと切れた。
意地悪だね、小さな水たまりがあって、たまった水の底から、砂をかきあげ水が噴き出してるんだ。ふふふっとね。源流だね。きれいだったかって? そりゃもう絶景だったろうさ。いやもう感動的だったろうね。普段ならね。
川に沿っていけば、滝に出れて、帰れるって思ってたんだよ。それが、ちっこい水たまりだ。また別の川探して、滝を探さなきゃいけないって事だよ。別の川だって、滝に続いているのかもわからないんだよ。そんなときにきれいもくそもない。風景画なんて描く気分にもなんないよ。そもそも僕は風景に感動した事なんて一度もない。きれいだなとか大きいなとか、その程度の感想しか抱いたことはないんだ。自分が感動できないものをいくら描いたって、その絵を見た人が感動してくれるとは思えないよ。その時そう悟ったね。絵はあるよ。人が感動するような絵はね。でもそんなもの、画家の技量でしょう。僕が今まで感動していたのは、風景じゃなくて風景画なんだ。すごい風景を見ればすごい絵が描けると単純に思っていたんだね。
それで、しばらくそこで休むことにしたんだ。魚とか泳いでいたし、かにもいたしね。スケッチブックの画用紙をまとめている。くるくるっとした奴を引っこ抜いて、ぎゅっとして釣り針にしたんだ。それを靴紐に結びつけ、えさは、捕まえた沢ガニを使って魚を釣った。結構とれたよ。山奥だったから、魚も釣られ慣れしてなかったんじゃないかな。ライター持ってたから、それで火をおこして、魚を焼いたんだ。でも、塩がないから、あんまりおいしくなかったな。
それから十日ほどかな、食料を確保しつつ、辺りを探索しながら、帰り道を探したんだ。あれだよ。川を下っていけば、山から下りれるんじゃないかって、思うでしょ。ところがなぜかそうはならないんだ。上るときは気づかなくても下るときは途中で川がわかれてたりするからね。実際、川を下っていくと池に出ちゃったからね。川は信用できないよ。高いところに登って、町の方角を確認して、印をつけ、地図を書きながらちょっとずつ、町に近づいていくんだ。人里に出たときはうれしかったな。朝方、竹林の中で、ひょいひょいと動く腰の曲がったおばあさんを見つけたんだ。その、おばあさんを捕まえて、何か食べさしてくださいって、厚かましくも頼んじゃたよ。今じゃとてもそんなことできないけどね。いや、できるかな? まぁ、そのおばあさんいい人で、ご飯をたくさん食べさしてくれたわけよ。結局、半年ぐらいそのおばあさんのうちで、ご飯たべてたんだ。絵のことなんかすっかり忘れてね。その結果、これだよ。君と同じように、太ってしまったんだな。
先生はおなかをさすりながら言った。
私は意味のない反論をした。
「それで痛感したんだよ。やっぱり食べ物はおいしいってさ。当たり前だね。でも、感動したんだ。きれいとかうつくしいとか、人はいろんなものに感動するでしょ。おいしいってのも、その感動の一つだって気づいたんだ」
確かに、おいしいって言うのは、一番身近な感動なのかもしれない。
「うん、そうだよ。食べ物の絵はいいよ。世間的にはあんまり評価されないけどさ、僕の絵を見た人が、おいしそうだなぁ、おなかすいてきたなぁ、今日何食べようかなぁってさ、そういう、なにかのきっかけにでもなってくれればそれでいいよ」
松安先生は笑った。
じゃなければ私も、こんなに太りません。
私もやせていた頃は、おいしいそうな物を見ても、ああ、おいしそうだなー、今度の休みにでも食べに行こうかなー。といった、空約束に近いものがあった。今は違う。目の前にあれば頼むし、近くなら行くし、遠かったら、似たようなものを探す。物の価値というものは、欲求によって変わってしまうものだ。
松安先生は、ういろうにもヨウカンにも飽きたのか、ういろうとヨウカンを交互に挟み、ミルフィーユ状にして食べた。
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