第1話

文字数 5,646文字

 強い風が、通学路の桜の木から花びらを巻き上げていった。今日中に散ってしまうんじゃないかなと思うと悲しいけれど、光をのせたまま青空を舞う花びらはとても綺麗で、しばらく立ち止まって見とれてしまった。
 長い坂道を登る。もう一時間目の授業は終わっている時間だ。二時間目が始まる前に教室に紛れ込めたらいいなという淡い期待を他所に、足はうまく動いてくれない。このまま後ろを向いて家に逆戻りしたいけれど、一日休んだらもう二度と学校に出てこられなくなる気がする。強い風が前から吹いてきて、転がされないように足を踏ん張る。
 一歩一歩坂を登っていくと、校門前に人影があった。先生かと思って一瞬どきりとしたけど、違った。桜田光だ。彼は僕に気が付くと、大きく手を振った。
 「待ちくたびれたよ。登校時間過ぎても全然やって来ないんだもの」
 「僕を待ってたの?学校は?」
 髪についた桜の花びらを払ってやりながらきくと、彼はそれには答えずズボンのポケットから紙切れを取り出した。
 「一緒に来てほしいんだ」
 顔を近づけてくしゃくしゃの紙を見る。強風に煽られて読みづらかったけど、「クルージング無料」と書いてある。場所は、学校からバスと電車を乗り継いで一時間以上かかるところ。
 「無理だよ、学校があるんだ。お前はなぜ、学校に行かないの?」
 光ははにかむように俯いた。
 「実は、転校するんだ」
 僕は絶句した。テンコウ。寝耳に水だ。
 「転校って……どこへ」
 「遠いとこ。たぶんもう会えないから」
 なんでもっと早く教えてくれなかったんだよ、と言った自分の声が不覚にも泣きそうで、慌てて下を向いた。対する光は「ごめん」と言ってやはり照れたように笑った。
 「綾彦」
 名前を呼ばれてしぶしぶ顔を上げると、ひときわ強い風が吹いた。
 びゅうっと唸る風が、彼の亜麻色の髪の毛や制服のワイシャツをはためかせる。太陽の透明な光が、冷たい風の中で翻る。強風に煽られながら、彼は僕に手を差し出した。
「一緒に来てよ」
 知らず知らずのうちに、僕はその手を取っていた。もしかしたら、明日から学校に来れなくなるかもしれない。不登校。ひきこもり。どうとでもなれ。
 光は笑って、僕と繋いだままの右手を、青い空に振り上げた。
 「よし、じゃあ出発!」

 光と初めて会ったのは、ぴかぴかの小学一年生だったとき。日直の作業に手こずってしまい、やっと帰れる……とため息をつきながら学校を出て数分、通学路の桜並木に人が倒れているのを発見した。
 「だいじょうぶ?」
 大きな木の陰にぐったりと身を横たえていたのは、その頃の僕と同じくらいの年齢の少年で、倒れた時にできたのか脚と腕に擦り傷があり、青い顔をしていた。私立の小学校の制服や、髪や頬には散った桜の花びらが無数にくっついていた。
 少年はうっすら目を開けると、僕を見て「きみやさしいね」と言って呑気に笑った。
 「家、近く?」
 彼はふるふると首を振った。僕の家も結構遠かった。どうしようかと思って周りを見渡すと、学校の保健室の窓が開けっぱなしになっているのが見えた。ランドセルを手に持って、少年を背負って走った。
 「すみません」
 網戸ごしに保健室に声をかけたけど返事がなかったので、靴を脱いで部屋に入った。先生はやっぱりいなくて、不用心だなと思いながらベッドに少年を降ろす。靴を脱がせて窓の前に揃えているところで、先生が戻ってきた。
 「あら」
 「ぐあいわるいんです」
 「そうなの。何年何組、名前は?」
 「一年一組の寺田綾彦です」
 「寝ている子は?」
 「二組の桜田光です」
 咄嗟に思いついた名前を言った。他校のこどもだとわかったら、追い出されそうな気がしたのだ。
 「それじゃあこの紙に、どこがどんな風に具合が悪いのか、書いてあげてね」
 先生は僕に簡単なカルテのようなものを渡し、少年に体温計を渡したり、簡単な問診をしていた。家の電話番号をきかれていたが、知らない、と言っていた。
 僕は彼の目が覚めるまで一緒にいてあげるつもりで、ベッドの横の椅子に腰かけて図書室から借りた本を読んでいた。途中でうとうとしてしまって、はっと目を覚ました時、ベッドはもぬけの殻だった。
 少年の電話番号を調べに行っていた保健室の先生が職員室から戻ってきて、この学校に桜田光なんて男の子はいないと言った。僕は驚いたふりをして、先生はキツネに抓まれたみたいな顔をしていた。

 後日、彼は再び僕の前に現れた。やはり制服を着ていたので、一目でわかった。放課後、校門の前で待っていて、僕に気づくと大きく手を振った。
「この前はありがとう」
 僕が目の前まで来ると、彼はぺこりと頭を下げた。
「君、いきなりいなくなっちゃうから、心配したよ」
「もう大丈夫。元気になったよ」
 その日は一緒に下校した。僕が本当の名前はなんていうのかと聞いても、「僕は桜田光だよ」と僕が勝手につけた名前を言ってはぐらかした。同じ方向に歩いて、僕の家に着くと、彼は手を振って、さらに遠くを目指して歩いて行った。毎日の登下校が大変な距離だと思った。
 それからたびたび、彼は校門の前で僕を待っていた。僕が友達と連れ立って歩いているときでも、物おじせずに会話に参加し、すぐ輪に溶け込んだ。
 中学校に上がってからも、一か月に一度くらい、彼は僕に会いに来た。そんなわけで、初めて会った時からもう7年も経っている。僕は未だに彼の本当の名前を知らない。彼は遊びに誘っても首を振るばかりで、下校して家に帰るまでの30分くらいしか話をすることができなかった。登下校の距離を考えるとそれも仕方ないかと思ったが、そもそも彼がどこに住んでいるのかもわからなかった。別れたあとにこっそり尾行しても、必ず巻かれてしまうのだ。
 彼だって成長しているはずなのだが、初めて見たときの幼い印象が抜けない。僕も同級生も、正直でいるのは格好悪いとわざと乱暴な言葉遣いをしてみたり、斜めに構えたりしているのに、光の話す言葉はいつも綺麗で、当たり前のようにまっすぐ僕の目を見てしゃべる。 中学校に入ってからどこか居心地が悪く、いじめられているわけでもないのにまともに登校できず、部活を辞め、罪悪感からだんだん同級生たちともうまく話せなくなってきた僕には、そんな光が、眩しい。

 光は、バスに揺られながら、こそこそと話をした。主婦らしい女の人や、大学生みたいな見た目の人が、僕らの制服をちらちらと見ている。僕はすこし決まりが悪くなるが、光はそんなこと気にならないらしかった。
 駅前でバスを降り、どうにか所持金で間に合いそうだと思いながら、電車に乗り換える。海に向かう電車は空いていて、僕らの他には観光客らしい外国人がふたりいるのみだった。向かい側の席に人がいなかったので、トンネルを抜けたあと車窓から海が見えた。空より数段濃い色の波は、陽光を浴びて、きらきらしていた。
 目的地に到着し、電車の扉が開くと、早速潮の匂いがした。風の通りがいいプラットホームで、光は大きく息を吸い込んで伸びをした。
「やっと着いた。僕、海来るの初めてなんだ」
「そうなの?」
 この近辺は校外学習でよく来るイメージだ。やはり私立は違うのだろうか。もっとも、彼がどこの学校に通っていたのか、僕は知らないのだった。彼の制服は、近隣のどの私立の中学校のものとも違っていたからだ。
 改札を通って表に出、透明な日差しのなか海沿いを歩いていくと、すぐに船着き場が見えた。古そうな、こじんまりとした船が、ロープで繋がれている。光は本当に海を見るのは初めてらしく、「海だ!船だ!」とはしゃいで、危なく海に落っこちるところだった。
 受付に行くと、まもなく船が出るということだったので、光はくしゃくしゃのチケットを差し出した。かなり古い紙だったにもかかわらず、それはちゃんと受理された。船頭のおじいさんは僕らの学生服をちらっと見たが、特に何も言わなかった。
 僕らの他には、電車にいた外国人と、食べ歩きをして船の出発を待っていたらしい関西弁の観光客3人がいた。僕らは一番後ろの席に座って、何年も前から使い古されている単調な音声ガイドをきいていた。エンジンの振動がぶるぶると身体に伝わる。
 船がゆっくり動き出すと、観光客と光がわあっと歓声をあげた。たかだか田舎の船くらいで、と斜に構えてみたものの、久しぶりの船に乗る感覚に、僕も少しどきどきしていた。
 船は悠々と海を進んでいく。さまざまの小島を通りすぎ、昆布の養殖場を通り過ぎ、さらに沖へ。
窓に吸い付くようにその光景を見ていた光は、おもむろに席を立った。
「デッキにいこう」

 デッキはすごい風だった。屋内にいるとかなりスムーズに進んでいると思われた船は、波を果敢に切り裂き、ざぶざぶと飛沫をあげながら、進んでいく。風に押されて、光が波に落ちてしまわないか心配だが、彼は意外と平気そうだった。眩しそうに眼を細めている。
「これが、海なんだ」
「なんていうか、寒そうな色だよね。いつもそう思う」
 久しぶりに大きい声を出した。そうしないと、エンジンの音にかき消されてしまう。
「うん。でも、この下でたくさんの命が、生きているんでしょう。すごいよね」
「そんな、大げさな」
 光は柔らかく笑った。
「大げさじゃないよ。生きているってすごいことだ。栄養を取り込んで、自家発電して、ひとつひとつが光っている。昔はみんな海の中にいたんでしょう?だったら、人間だって植物だって海から出てきたんだ。だから、ここに来たのは初めてなのに、懐かしい気がするのかな」
 光は欄干に腕をのせ、その上に顔をのせた。波の飛沫が顔にかかる。風に煽られた髪の間から、額に陽光が差している。
「どうしても海に来てみたかったんだ。海の生き物を見て、波の音を聞いてみたかった。いつも、夏休み前になると、みんなが海水浴に行く話をしていて、僕も来てみたかったんだよ」
 そのまま目を閉じてしまう。あんまり端にいると危ない気がしたし、かといって欄干を離してもバランスを失って危ない気がした。
「光、危ないよ。中に戻ろう」
「綾彦。僕ね、海の中で、咲いてみたかったんだよ」
 その声は、ささやくようだったのに、なぜかちゃんと僕の耳に届いた。
「いいと思わない?海底に根を張って、珊瑚や海藻と並んで花を咲かすんだ。いつか僕みたいな仲間が次々できたりして。そんなこと想像すると、楽しかった。動けなくなる前にどうしても海に行ってみたくて、結局辿りつけなくて元居た場所に戻って、その時初めて綾彦に会った。それまでは子供がきらいだったんだよ。だって好き勝手枝を折るし、花を散らすために幹を蹴ったりする。僕の病気もそれが原因だったかもしれない。でも君は優しかったね。小さい時から君は優しいまま」
 歳を重ねるごとに、薄々感じていた。光は人間ではないのかもしれないと。それでも、彼が放課後、会いに来てくれるとほっとした。学校生活で何一つうまくできない僕が、生きていてもいいと、許される気がした。
 彼は遠い所へ行くといった。もう通学路を、一緒に歩くことはない。もしかしたら一生会えないのかもしれない。
「今度はほんとにほんとに時間切れ。あの時からもう一度海に来るために、ずっと力を蓄えてきたけど、他に新しい夢ができたんだ」
 手を出して、と言われても、僕は欄干から手を離さなかった。そしてずっと下を向いていた。手を離したら落ちそうだったし、何より泣いていることに気づかれたくなかった。でも彼にはばればれだったようで、困ったように笑っていた。
「綾彦、手を出して」
 再度そういわれて、やっとのことで欄干から手を離す。流れるままになっていた涙と洟が顎から滴り落ちていく。両手を差し出すと、彼も両手で僕の掌を握った。
「僕はずっと君の傍にいるよ。願わくは、君もどうか僕のことを忘れないで」
 僕は何度も頷いた。何も言えなかったけど、手にぎゅっと力を込めた。それだけで彼は、わかってくれると信じていた。顔を上げて、僕もちゃんとまっすぐ、彼を見つめた。彼は柔らかく眩しい笑顔を浮かべて、言った。
「君に幸運を」
 風が光った。透明に、きらりと。
 僕の両手を包んでいた彼の掌は無数の花びらに変わり、空高く巻き上げられていく。花びらは遥か上空で乱反射するように舞い、不規則な風にのって、海に、船に、僕に、落ちてくる。僕はデッキに座り込んだ。薄く色のついた花びらを浴びながら。ざぶん、ざぶんと、波のリズムが、花の降りしきるデッキに響いていた。

 港に戻ると、観光客は興奮したようすで突然現れた桜の花びらのことを話しながら、船を降りて行った。僕はデッキに座ったまま、しばらく動けないでいた。後ろに船頭のおじいさんが来たことも気づかなかった。
「行ったか」
 僕はのろのろと振り向いた。てっきり、早く降りろと言われるものだと思っていたので、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。おじいさんは船に残った花びらを見つめながら、目を細めた。
「綺麗だったな」
 僕は呆然と頷く。彼にはわかっていたんだろうか、光が人間ではないことが。思考を読んだかのように、おじいさんは言った。
「わたしにも昔、同じようなことがあってね。あんたはいい貰い物をしたな。わたしは何にも形になるようなものは、残せなかった」
 そう言われて初めて、手に温かい感触があることに気が付いた。淡い花びらの色をして、柔らかそうな卵型だった。でも改めて触ってみると、硬質な感触がした。
「桜瑪瑙だな」
と、おじいさんは言った。
 空にかざすと、その輪郭は風の色に光った。


 校庭の周りの桜並木はすっかり花びらが落ち、代わりに若草色の葉が出てきている。
 久々の無人ではない通学路にどぎまぎしてしまうが、僕のことを気にしているひとは誰もいない。
 僕は手に持っていた石に意識を集中した。すると、坂道には風の色。僕は深呼吸して、大きく一歩を踏み出した。
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