第1話

文字数 2,172文字

 肩幅を隠してしまう程のストローハットが、微風に煽られた。
彼はツバを片手で押さえて目の前のロッドに集中しているのか、
それ以外は全くの静か。
水面も穏やかで、今彼はこの川中で駆け引きの真っ最中である事がよく分かる。
「智秋くん!」
ほんの少し驚かせるだけのつもりで、
彼の釣り場に足を踏み入れたのがいけなかった。
水面に大きな波紋が広がる。

おや……?
『…おじさん!マナー違反。魚が逃げちゃうだろ?』
はぁぁ~、と重いため息を彼につかれて私は我に返った。
この、釣りが好きな彼は私の遠縁の親戚で。
夏季休暇前にあるけれども夏休みの予行練習だと、
いかにも彼らしい事を言って片田舎の私の住む町にやって来ている。
電車で県を跨いで1時間で来られる距離ではあったが、
行動派の彼にしてみればうたた寝してる間に着いちゃった。
と、やはり子供は楽観的だとしか思えない。

羨ましい反面、あの小さな体で飛び回っていて疲れないものかと。
そんな心配をしてしまうあたりが、私の事を彼が
『おじさん』と呼ぶ事に起因しているのだろうか。
「えっ?あぁ…ごめんごめん!いつも智秋君には驚かされてるから。私もつい、童心に返ってしまったね。取り逃がしてしまったかな、申し訳ない。」
スーツ姿で河原に来た私を、彼は凝視している。

『汚れちまうぜ?いっちょうら…』
全く、弁がたつのか…口が減らないと言うのか。
「いっちょうらね、そうか。確かに場には相応しく無かったかもしれないな。
参ったなぁ、智秋君は鋭いったら。」
あはは、と後頭部を掻きながら私が苦笑いをすると彼が静かに微笑む。
『いいよ、もう気にして無いからさ。んで?なんか用、
まさか本当に驚かせに来たわけでもあるまい。』
「えっ、あぁ、もちろん。そうそう、もうお昼だからね。
私も今日は会社が午前で終わりだったから呼びに来たんだよ。」

河原の少し離れた場所に実家がある。
歩いて十分足らずの、智秋くんからすれば上等の場所だと褒められた。
『そーめん?』
「どうだろ?とりあえずお湯は沸かしてるはずだね、もう夏だからきっと麺類は違いないかもね。」
『仕事さ、スーツで半袖って。おじさんの仕事なんだっけ、久しぶりだから忘れちゃったな。』
手際よく、釣り具を片しながら彼は、はにかむ。

きっと嘘なんだろう、だからかな?すごく楽しそうで。
見ていてこちらも微笑ましくなる彼の柔らかい嘘は私と話をしたいが為の嘘かもしれない。
この暑い中でも、色白の彼は長袖長ズボンを通す。
それは山や川に行く人にしてみれば当たり前のことだろうが。
辛抱し難い事もある。いくら頭では分かっていても。
彼は、きちんと守り通す。

今はまだ初夏だから、これからの盛夏を思うと…
とてもとても私は耐えられないかもしれない。
大人の私が、だらしない話で。
今だからか、私は智秋くんに様々な事を改めて教わる。
大人の様に、端折れない年頃ではある。
1つ1つに熱心に向かい合ってぶつかる。
時にそれは、痛々しくも映る光景だが、確実に私の心を捉えて離さない。
大きな熱量を感じる。

ズルさえせずに、丁寧な程に取り組む。
私が彼に教えられる事なんてもう、あまり無いだろう。
子供の成長はあまりに早い。
あと数年もしたら、きっと彼は私と口もきいてくれなくなるだろうから。
許される今の内に、楽しく過ごせれば良い。

「忘れちゃったのかい?いいよ、じゃあ今回は…そうだなぁ、郵便局に勤めてるかな。」
『前は、町役場だった。ほんっと、からかってるし。』
お互い様だと、2人で笑う。
私の手を離れた弟達は自立してしまい、1人実家に祖母と暮らしていた。
いつ、誰かが帰って来ても迎えられる様にと。
祖母が心配なのが半分、あと半分はやはり弟達と過ごしたこの家が愛しくて、離れ難いからだ。

三十路を迎えて、いつだったか親戚の葬儀に黒い服に身を包む大人達に紛れて智秋くんは、
お焼香の香りが立ち込めるお寺の玄関先に立っていた。
このぐらいの歳の子が参列すれば、嫌でも大人は子供を注視して、どこの子だと騒ぐものだ。
私は、彼の心を慮って側に寄って行き我が弟のように接した。
勘違いされる方がまだ楽なのだ。
ズラリと並ぶ黒い靴、下足箱にさえ入らなかったのか。
智秋君は、もしかしたら救われたと感じたのか表情を緩めた。

『おじさん、顔見た事あるよ。』
「おや、私もだよ。確か智秋くんだったよね。」
『そっ。うちの親、先にお焼香したみたいで…俺まだだからさ、ちょっと行きづらい。』
精一杯気を使う性格なのか、彼は視線を泳がせて声をひそめた。
「大丈夫、まだ私も出来ていないから読経後に行こうか。それに、ちゃんと説明もあるからね。」

知った私の顔を見て、智秋くんは大きく頷いた。
そんな彼が、また少し大きく成長して帰って来た。
私はまだ、生き甲斐を失わずに済む。
ふと、心で思いながら彼のバケツを持って家路に着く。
残念ながら、釣果ゼロ。

智秋くんはそれでも楽しそうで私はふと、空を仰ぐ。
あぁ、そろそろ降りかけている。間に合って良かった、雲行きが良くない。
今週はぐずついているとは予報で聞いた。
せっかく予行練習をしに来た智秋くんには申し訳ないが。
お楽しみは、夏休みの本番までお預けになるかもしれない。
今晩泊まって、明日の夕方には帰る彼とは、その後しばらくのお別れになる。
また、遊びに来るのは7月末の週末からだろうか。確認しておかねばならない。
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登場人物紹介

主人公。

智秋の親戚。年齢は30代。

家に祖母と共に暮らしている。

面倒見がよく、お人好し。

智秋。主人公の遠い親戚。

釣りに興じたり、オジさんを振り回したりと

しているが……。

母親と2人で暮らしている(オジさんはこの事を知らない)

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