セクロピアの樹のうえで
文字数 13,303文字
父さんも夏休みに入ると居間のソファーは父さんに占領される。
ぼくはしかたなく床に座り、父さんのお腹を枕代わりに足を投げ出す。
今日も朝からテレビの高校野球を一緒に見ていて、なんとなくつぶやいた。
「どうしよう……」
「ン?」
「自由研究……」
父さんのお腹がゆれた。
「まだやってないの?」
「ウン、どうしよう」
「ユウタ。夏休みっていうモンは、あっという間に、過ぎるんだぞ」
それは確かにそうで、ぼくにとって毎年の夏休みの課題でもあった。
「でも自由研究だから、やンなくても自由じゃないの。なんか面倒だし」
「なんかヒントない?」
「ヒント…そんな、なまけものはだナ、ナマケモノでも観察してろ、ハハッ」
父さんのお腹がブルブルッと、ぼくの頭をゆらす。
ナマケモノ?…動物園か。頭の中に動物園でなんかしている自分の姿を思い浮かべてみた。それは、案外、気楽そうな表情をしていて楽そうだった。
「決めた。父さん、市営動物園のナマケモノを観察する」
「冗談だよ。動物園はただじゃない」で、終わりそうになった時、母さんがきた。
「母さん、夏休みの自由研究決めた。協力してくれる?」
母さんはカレンダーを見て首を振った。
「もう、半分よ!去年もそうだったじゃない。まったく、で…なにするの?
「ナマケモノの観察」
「ナマケモノ?どこにいるの?」
「動物園のナマケモノだけどさ、少し通って…」
言い終わらないうちに母さんの目がたてになった。
「なに言っているの。どうして自由研究にお金がいるのよ。そんなのダメです!」
「一週間ぐらいでいいンだけどナ」
「あそこは子どもは三百円、一週間で二千円よ。そんな大金、どうしてナマケモノにあげなくちゃいけないの?お母さん絶対出しません」
「いやナマケモノにじゃなくて、ぼくの自由研究にだけど」
「同じことよ、だいたい、なんでナマケモノなのよ」
「だって父さんが……」と、振り返ると、父さんが「アホッ」と、つぶやいた。
母さんはぼくと父さんを交互に見てため息をついた。
「…たく、父さんも適当なことを言って。みんなはもっと身近なもので済ましているんでしょう。なんか作ったり、描いたりとかしたら?」
「だって、苦手だモン。なんか作業が面倒だし」
「ナマケモノなんて、ホント、ネジも回せないお父さんが言いそうなことだわ」と、母さんはハタキでぼくを突っつき部屋を出て行った。
父さんのせいでと思ったのに「本気になりそうだったのにナ…」と口にしていた。
父さんは口元をヒクヒクさせ、お腹は波うっていて、必死に笑いを噛みしめていた。
*
翌朝、居間をのぞくと、ソファーに寝そべって高校野球を見ているはずの父さんの姿がなかった。
「父さんは?」
「気持ちはわかるけど、朝っぱらからごろごろしていたら、身体がなまって、仕事始めがつらいわよって言ったら、素直にどこか出かけたけど。多分、散歩じゃない。」
「気持ちって?」
「いつも車のしんどうでゆれているから、ゆれないところが天国なんだって」
それではと、父さんの代わりにソファーに寝そべった。テレビをつけて、高校野球を眺めていたら、父さんが帰ってきた。ソファーをゆずりながら「どこ行ってたの?」と聞くと、「ホラッ」と紙切れを手渡ししてくれた。
動物園の入園券だった。
「エッ、いいの?」
「明日からやれよ。夏休みはあっという間だ」
父さんの子どもの頃の夏休みも、多分、ぼくと同じだったような気がする。
「ウン、ありがとう」と、振り向くと、カウンターの向こうの母さんは、口をあんぐり、眉をよせ、父さんをにらんでいた。
「お父さん。わたしはお金を使う自由研究なんて、よくないと思う」
父さんはテレビを見ながらボソッとつぶやいた。
「ナマケモノは犬猫のように、そこらにいない」
「ふう、マア、お父さんのお小遣いだからいいですけど」と、今度は、ぼくをにらんだ。
「おにぎりでいいでしょう?モウ、せっかくお弁当つくりから解放されたのに」
「ウン、ぜんぜん平気。ちゃんとやるから」
「あたりまえです」と、いうことで、明日から四日間、城山公園の奥にある古桜市営動物園で開園から午後二時までナマケモノを観察することが決まった。
*
自転車で十五分ぐらいで動物園に着いた。
この動物園はいつかそのうち閉園するといううわさがあったがまだやっている。
ここに初めて来たのは小学一年生ぐらいの時だった。象もキリンもライオンもいなかったけれど、サルだけはいろんなサルがいたような気がする。
多分その中にナマケモノもいたのだろうが特に印象もなく、昨日の朝までナマケモノなんてまったくの無縁の存在だったし、今でもその顔を思い描くこともできない。
父さんの冗談からナマケモノがあらわれた。それはきっとナマケモノっていう名前のせいかもなどと、はやる気持ちで開園と同時に門をくぐった。
ナマケモノはぼくの部屋と同じぐらいの檻の部屋で樹にしがみついて眠っていた。
猫背の胴体はツルンとそのまま黒い鼻につながっていて、耳はあるのかないのかわからない。身体をおおっている毛は緑がまじったこげ茶色のバサバサしてそうなのにねっとりからだに張りついているのが、なんだか汚らしいかんじがする。
でも、手足の爪だけはいように長くて鋭く、かっこいいと思った。
檻のすみに説明文があった。
― ミツユビナマケモノ。南アメリカの森林の樹上に住み、その葉しか食さない。猿の仲間。同種類に、フタツユビナマケモノ ―
ぼくはさっそくそれを観察ノートに書きとめて、ナマケモノを見ていたが、ナマケモノは、いっこうに目覚めてくれそうもなく、仕方なく外に出た。と、いうより、ほかの動物も見たくなったのだった。クマとカンガルーとレッサーパンダを見てからベンチでおにぎりを食べ、ナマケモノのところに戻ってもナマケモノはまだ目覚めていなかった。
サル山のサルを楽しんで戻っても、ナマケモノはそのままだった。
アリクイで時間をつぶし、ナマケモノの檻をのぞいてみたけれど、ナマケモノはあいかわらずで、ず~っとこのまま寝っぱなしだったらどうしよう?と。いやな予感がした。
それで、その日は終わった。
帰宅するとソファーで昼寝していた父さんが目覚めた。
「おう、どうだった?」
「ず~っと、眠っていた」
「そうか、ナマケモノだからな」
*
朝。ぼくは昨日のことを反省して、今日はナマケモノの檻から離れない決心をした。
ナマケモノは昨日とおなじ下から三番目の枝にまたがって、幹にしがみついて眠っていた。
ぼくは檻にもたれかかったり、しゃがんだりしてナマケモノが動いてくれるのを待ちつづけた。何人かの入園者が檻の中をのぞいたりしたけれど「ナンダ寝てるのか」とか「動かないね」とか「つまんないから、サル山に行こう」と、ぼくをチラ見しては出て行ってしまう。
ぼくは心の中で「チェッ」と舌打ちして、檻に手をかけた。
「オイ!ナマケモノいいかげん起きないとダメだよ!」
それでもナマケモノは目を閉じている。
お昼前、ぼくは我慢できなくて、檻から離れてサル山のサルを見ていた。活発に動き回るニホンザルのその表情やしぐさを一匹ずつ目で追っていくだけで、観察ノート一ページ分ぐらいすぐに埋まってしまいそうで、なによりも、あきることがなかった。
でもこうしている間にナマケモノが動くような気がして、愉快なサルを見ているのがつらくなってきた。で、また戻っても、やっぱしナマケモノは眠っていた。
そんなことを二~三回くり返して門を出た。
父さんは相変わらずソファーに寝そべって高校野球を見ていた。
「どう?」
「どう?って…つかれた。ねえ、父さん」
「ン」
「サル山のサルにかえていい?」
「ナマケモノは?」
「…だって動かないもの」
父さんはすこしたってから、短くきっぱりと低い声で言い切った。
「ダメだ」
こういう言い方をする時は本当にダメな時で、これ以上言うとふきげんになって、怒られるからぼくは押し黙るしかなかった。
父さんはつづけて言った。
「父さんの大事なお小遣いはサルのためじゃない」
「ウン」
内心、ナマケモノだって同じサルの仲間なんだけど、と、思ったけど言わなかった。
父さんは簡単にあきらめる観察なんてけしからんと言いたかったのだろう。
食事の時、母さんが助言をくれた。
「困った時は上の人に聞くのよ。飼育員さんに聞けばいいのよ?」
父さんがつぶやいた。
「ナマケモノの毛とか、エサのカスとか、ウンチとかは…」と、口をつぐんだ。
母さんが眉をよせて父さんをにらみつけた。
「やめて!食事中でしょ」
「カレーじゃないからいいだろう」
「バカ」
ナマケモノよりうちの親を観察した方がおもしろそうだ。
*
動物園に通いはじめて三日目。
自転車をこぎながら願った。眠っていてもいいけど、三段目の枝はやめてほしい。他の枝だったら、たしかに動いたという証拠になる。
「そうでなかったら、ぼくの観察ノートは白紙のまま終わってしまいます。お願いします。ナマケモノさま!」
入園してそっと覗くと、ナマケモノは三段目の枝でちゃっかり目を閉じていた。
「ア~ア、まったく、つまンないなア」
思わず檻をゆさぶったが、もちろんビクともしなかった。
少し見ていてトイレにいきたくなった。チョロチョロ出して、ふと思った。
そうだ、今日はもっとこまめに覗いてやろう。
サル山を少しながめてすぐ戻った。
ウサギの頭をなでてすぐ戻った。
キジを少し見てすぐ戻った。
だけど、ナマケモノは動いていなかった。
なのに、動き回ったぼくはお腹がへっておにぎりを食べてしまった。まだお昼前なのに。
ナマケモノの樹の下は水を流して掃除したらしく、ウンチの欠片もエサの残りカスも見当たらない。ずっと樹の上にいるんだったら、地面は雑草だらけにしておけばナマケモノもどれどれと下りてくるかも知れないのに……
母さんが言っていたことを思い出した。
「でも飼育員さんに聞くって、観察とはいえないよナ」
ひとり言を言っているぼくを無視するかのように、ナマケモノは死んだように目を閉じている。「ナマケモノって冬眠とかするのだろうか?」
もっと声をあげれば気づいてくれるかもしれない。
周りを見渡し声をあげた。
「ナマケモノさま!毎日、見にきてくれる、こんないい客、ほかにいないよ。だけどぼくは明日が最後なんだ。下りて来てとまでは言わないけどサ、チョッとぐらい動いてよ!眼もまん丸で可愛いんじゃないの?手でも足でもいいからさ。ねえ、ナマケモノさま、聞いてる?」
檻の中にぼくの声がひびいた。でもナマケモノはまるで樹のコブのようになったまま。
目の前にいるナマケモノとぼくとの距離はたった五~六メートル。なのに、とても遠い遠いところにいるような気がしてきて、なんかさみしくなってきた。
もうあきらめて帰ろうと檻からはなれたら、ほうきを持ったおばさんに声をかけられた。
「毎日、ナマケモノを見に来るなんて、よっぽど好きなのね」
「いえ、好きじゃないけど。観察に来てるんです。でも、ぜんぜん動かない」
掃除のおばさんはフフフッと笑った。
「わたしも動いているとこなんか見たことないものねエ~」
「エッ~!」
ぼくは掃除のオバサンの背をぼうぜんと見送った。
毎日いるのに、ナマケモノの動く姿を見たことないなんて、たった四日でぼくが見られる訳ないじゃないか!
帰りの自転車ペダルは重かった。
居間のドアを少し開けて覗くと、ソファーで仰向けになった父さんが、テレビをつけっぱなしでスースーと寝息をたてていた。
*
動物園に通うのも今日が最後だ。
門をくぐりナマケモノの檻まで、目をつむっても行けそうだと、やってみたら、すぐに、生け垣にぶつかってしまった。落としたお弁当袋と観察ノートを拾い上げる。
「どうせ急いだってナマケモノは眠っているに決まっている」
サル山に行ってサルをぼんやり眺めていたら、ふいに後ろから声をかけられた。
「ナマケモノはもうあきたのかい?」
振り向いたら緑の帽子とジャンバーを着た小柄なオジサンが笑みを浮かべていた。
「そうじゃないけど、動かないから、観察が……」
「ナマケモノはそういうもンだからなア」
「オジサンはなんの担当ですか?」
「ああ、主にサルのたぐいだ。ナマケモノもサルだからやってるよ」
なんか、魚屋さんみたいな言い方だけど、今のぼくにとっては救いの神だ!
「あのオ、何か教えてください」
「たとえば、なんだい?」
「え~っと、いつもウンチの跡がないですけど、ナマケモノはいつするんですか?」
「ナマケモノは動作とおんなじで、食べ物の消化も遅いからな、排便は週に一回ぐらい。つぎは、たぶん明後日あたりだなア」
「エッ、一週間に一回って、ぼくは今日が最後なんです」
「そうかあ。でも、ナマケモノだって君の都合で排便する訳にはいかないからな。まあ、仕方ないな」
「そうだけど…でも観察ノートが」
「じゃあな、すごいことと残念なこと、教えようか?」
「ハイお願いします!」と、ペコリと頭をさげた。
「ナマケモノは一日二十四時間のうち十八時間も寝ていられる。って、うらやましいだろ?」
「ハイ、うらやましいし、すごいです」
「だろ、って、ことは、どうなる?」
ぼくは頭の中であわてて計算しはじめた。起きているのは六時間だ。
「そう六時間ぐらいしか起きていない。しかも夜中。それは君にとっては残念だろ?」
「…じゃあ、昼間の観察なんて無理ってこと?」
「まあ、そう考えたほうがいいな」
「じゃあ、すごいことって?」
「見ざる、聞かざる、言わざる」
「なにそれ?」
「耳も遠いし、目も悪い、鳴きもしない。それで生きていけるって、ある意味すごい動物だろ?わたしはナマケモノを世話していて鳴き声なんて一度も聞いたことがない。まったく変な生き物だよナマケモノってやつは。ハハハッ」
「エッ……」なんの観察するんだよ、と、心の中でつぶやいた。
「マア、私は学者じゃないから詳しくは解らんが、ナマケモノ自身はいろんなことに気づいているかも知れん。そうでも思わんと世話のしがいもないからナ」
「ぼくが毎日来ていることも?」
「さあな。さて、サル山の掃除だ。数が多いから手がかかって大変だ。でもまあ、あいつらは反応あるし、客も呼んでくれるから掃除のしがいもあるが、ナマケモノはナア~…マア、頑張って」
飼育のオジサンはぼくの肩をポンポンと叩いて背を向けた。
「目も開けてくれない。声も出さない、動かない。ナマケモノっていったい何を考えていきているのだろう?」
ぼくはナマケモノの檻に向かって駆けた。
ナマケモノは薄暗い檻の中に沈んでいるようで、ぼくはしばらく見つめていた。
手入れもしてなさそうなべったりした毛をまとって樹にすがっている猫背姿のナマケモノは、樹にあやまっているような、なさけない生きもののように見えてきた。
こんなにのんびりした、おとなしい動物だったら檻に閉じ込めなくても、どこでも町の小さな公園の樹に放してあげても平気だし、そのほうがいいような気がしてきた。
いつだったか、母さんと駅の近くを歩いていたら、汚そうなオジイサンが座っていた。母さんは「見ちゃダメ」と言ったけど、なんかにている。
ぼくは檻をつかんで四日間の思いを訴えた。
「ナマケモノさま。ぼくはここにくるのも今日が最後です。ぼくは忘れませんが、ナマケモノさまはどうですか?もし、知っていたのなら眼を開けてぼくを見てください。アナタの眼が丸いのか三角なのか線のように細いのか、それだけでも知りたいのです。どうか、最後のお願いです……」と、しばらく見やっていたけれど、ナマケモノさまはピクリとも動いてくれなかった。
「……おやすみなさい」
ぼくはその場を離れ、外に出た。サル山のサルとお客さんの歓声が耳に飛び込んできた。
ナマケモノの観察なんてまったくガッカリだ。それでも門のそばまで来てもう一度ナマケモノの檻のほうを振り返った。フッとなんか言い忘れたことがあるような気がしたからだった。
空は雲ひとつない青空なのに心の中は夕方のように寂しかった。
*
居間に入るとソファーに寝そべっていた父さんが顔をあげた。
「で、どうだった?」
「これからまとめるけど、父さんナマケモノになっちゃうよ」
「なれることなら、ぜひ」と、クッと笑った。
「でも父さんはムリ」
「どうしてだ?」
「とりあえず、動くし、しゃべるし、きれい好きだから」
「ナンダそりゃ」
ぼくは二階に駆け上がって、机の上に観察ノートを広げた。
書いてあるのは、檻にぶらさがっていた説明文のまるうつし。毛の色と爪が長かったこと。あとは、掃除のオバサンと飼育のオジサンから聞いたことが数行と四日分の日付だけだった。
ぼくはその観察ノートを見つめてうなった。
「自分の目で見たことがたったの三行だなんて、こんなの六年生の観察ノートじゃない。」
わかっていたとはいえ、何度ページをめくりなおしても文字は増えることもなく、ぼくはベッドにひっくり返って天井をにらんだ。
今はもう、ナマケモノの観察が大失敗したことより、父さんのお小遣いと母さんのおにぎりを不意にしてしまったことが申し訳なくてそのことがぼくを攻め立ててきた。
「どうしよう……」と、頭を抱えて眼をつぶってしばらくしていたら、薄暗い檻の中でひっそりと樹にしがみついているナマケモノの姿だけが浮かび上がってきた。
アイツは今頃、眼をぱちくりさせ、(観察などされてたまるか、ヘヘッ、してやったぜ)と、笑っているかもしれない。そう想ったら腹が立ってきた。
「せめて寝たきりナマケモノの姿だけでも暴いてやる!」と、跳ね起きた。
観察ノートを広げ、思うがまま、いっきに鉛筆を走らせた。
*
夏休み明け、数日たった職員室。
小柄な女性教諭。田辺先生が笑いをかみしめながら土井先生を見あげた。
「土井先生。見てください。うちのクラスのある生徒の観察ノートで、こんなんが出てきましたけど」
「ほう、なんでしょう?」
理科を教える丸眼鏡の土井先生は真面目な顔つきで観察ノートを手に取り、ページをパラパラパラパラとめくって「フンフン」とまためくりなおし、田辺先生を見つめた。
「田辺先生。このノートちょっとお借りしてもよろしいですか?」
「ハア?」
田辺先生は真面目すぎる土井先生のあきれ笑いを見たかっただけで、思ってもいなかったその反応に眼をパチクリさせ焦った。
「いや、それは構いませんが土井先生。この生徒をはずかしめるようなことだけは、絶対なさらないでくださいね」
土井先生は子どもをあやすかのような笑みを浮かべて言った。
「違いますよ田辺先生、その逆ですよ」
*
後日の理科の時間。
教壇に立った先生は一冊の観察ノートをかざした。
「夏休みに提出された観察ノートのひとつがここにあります。丸岡ユウタくん!」
「ヒャイ!」突然、名を呼ばれ、ぼくは頭のてっぺんから変な声を出してしまった。
みんなクスクスと笑っている。
「ユウタくんは動物園に四日間通って、ナマケモノの観察をしたそうだね?」
「ハイ、そうですけど…その」と、声がふるえてしまう。
「ぼくから発表していいかな?」
「いや、先生それは、その…失敗作で」
「失敗?ユウタくん。ぼくはこの観察ノートに感心しているんだよ」
「エッ?」先生なに言ってンの?と、思わず首をすくめて土井先生を見つめた。
そんなぼくの動揺を無視するかのように土井先生は声高に読みはじめた。
そんな大きな声で!
ぼくは耳をふさぎ、机の下に隠れたいほど、いや、窓を突き破って外に逃げ出したかった。
「― 九日。ナマケモノは眠っていた。 十日。眠っていて動かなかった。 十一日。眠っていて動かなかった。 十二日。ナマケモノついに動かなかった ―」
生徒たちが必死に笑いを押し殺している気配がぼくの肌を真赤にさせてきた。
そんなぼくに構わず土井先生は続ける。
「その下に小さな字でこう書いてあります。 ― 檻にあった説明文。掃除のオバサン。飼育係のオジサンから聞いた話はぼくが観察したものじゃないから書きません。動かなかったナマケモノには最初のころは腹が立ったけど今はそう思っていません。それは、必死に樹にすがってなにか謝っているようなナマケモノの格好が情けなかったからです。そんなナマケモノの為についやした大事な父さんのお小遣いと母さんのおにぎりを無駄にしてしまったことは、悔やんでも悔やみきれません。で、ナマケモノなんて観察に値しない動物?だったと断言します。以上、丸岡ユウタの大失敗の巻でした。 ― 以上がユウタくんの観察ノートです」
土井先生が観察ノートを閉じたしゅんかん、教室内は大爆笑に包まれた!
「そんな観察だったらいいよな~楽で!」と、運動だけのミツオがはやしたてた。
「お金かけてそれだけ~!」サッカーのケイもバカにする。
「ナマケモノこそユウタじゃん!」バスケでレギュラーはずれのカズキまで、はやしたてられて、ぼくの顔全体がジワ~っといっきに熱くなってきて膝においた拳を握りしめた。
「静かに!」
土井先生の大声で教室はシーンとなった。
「みんな笑ったけれど。じゃあ、ナマケモノとはどんな動物なのか?ちゃんと説明できる人、いたら手をあげてください」
みんな顔を見合わせヒソヒソしていたけれどそれも消えてシーンとなった。
「はい、いいですよ。じゃあ、ユウタくん。ここに書かなかったこと、飼育員さんなんかに聞いたこと、簡単にでもいいから、みんなに発表してください」
「ハイ」と、ぼくは恥ずかしさと怒りのまじった息をはいて立ち上がった。
そして掃除のオバサンと飼育のオジサンから聞いたことをそのまま話した。
土井先生は軽くうなずいてみんなを見渡しながら言った。
「実は、ぼくは教師になる前、大学で動物行動学を専攻していました。だから、ナマケモノのことも少しは知っています。ナマケモノはセクロピアというたった一つの樹の上の方にしか住まない。食べるのも、その葉っぱしか食べないし、敵もいないし、近寄れないから安全です。そんなスローなナマケモノがわざわざ危険を冒してまで地上に降りるときがあるんだな。なぜなんだろう?」
土井先生はみんなを見渡してウンとせき払いをした。
「出歩かないナマケモノのウンチはすごい刺激的な臭いがする。いくら鼻が弱いナマケモノでも嗅当てられる。それが仲間との随一の出会いの場所で、この樹の上にいるからネという表札のようなもンだ。そして、眼とか耳もほとんど機能していないし声も出さない。たとえばナマケモノの耳元で爆弾が破裂したら、こうしてゆ~っくり振り向いて眼をパチクリさせるぐらい。そんなナマケモノが超スローなのは身体の筋肉がとても弱いからだ。その動きはなんと時速一キロメートル。こんな感じだな」
と、土井先生はスローモーションより遅く歩くまねをすると、みんなはクスクスと笑った。
「ユウタくんが見た毛の緑色は植物です。で、それを食べる幼虫も毛の中にひそんでいる。さらに他の動物のように毛の手入れにまったく興味がない。だからああなります」
「ヒエ~汚ねえ!ナマケモノには草が生えているのかよ~」とミツオが悲鳴をあげた。
「さあ、ここからがこの授業の本題だ。さて、こんな弱い超スローなナマケモノが今話した以外は、ほとんど謎に包まれて、今に至っているのはなぜだろう?」
ぼくはこれしかないと、手を上げた。
「はい、ユウタくん」
「動かないからです!」
「ウ~ン、いいね。だけど違う。だって、考えてみよう。動き回る動物より、動かない動物の方が観察は楽で詳しく調べられるじゃないかな。ン?」
そう言われれば確かにそうだ。動物園は檻があったから近寄れない。でも、動かないぶん、おとなしいし、じっくり観察しやすいはずだった。
「さあ、答えは簡単です」
土井先生はみんなを見渡しながら、ひと言ずつかみしめるように言った。
「なかなか動かない。動いたとしても超スローなナマケモノ。その日常細部を朝昼晩と観察することに耐え続けられた動物学者は世界を見渡しても誰一人としていなかった。それが正解です」
「エエ~うそ、そんなことが理由ですか?!」
「わたしのお母さんはちょっとのことでもイライラするのよ」
「じゃあユウタの四日間じゃ無理なのは仕方ないよな」
「人間の我慢どころじゃないよなア~」
「そうよ、ナマケモノに一生つき合っているわけにはいかないモンネ」
そんなに大変なのかと、ざわめく教室。
ぼくは土井先生を見つめて心の中でウンウンウンウンとなんどもうなずいた。
真面目な土井先生の授業がこんなに楽しかったことはなかった。土井先生はナマケモノに取り付かれた学生だったのかも知れない。ぼくはすごく親近感を覚え、理科が好きになりそうな予感がした。その土井先生は白っぽい髪をかきあげながら言った。
「動物学者にだって生活があるし家族も居る。結果を残して、出世もしたいしな、超スローなナマケモノにつき合って、小言を言われたり、研究費を食いつぶすわけにもいかない。まったく、痛いところをつかれたってことだな」
「土井先生。じゃあ、ナマケモノはこれからもず~っと、謎のままですか?」と、手を上げたのはクラスの優等生ピッチャーのノボルだった。
「さあ、どうなるだろう?でも、ナマケモノの超スローさは人間に対する武器だっていう学者もいるからな。マア、それを超える鈍感な学者が世に出てくればの話だろうな」
それは確かかもしれなかった。長い爪も持っていたけれど、眠りこけても樹から落ちないためだろうと思った。それよりも確かめたいことがあった。
「土井先生、ナマケモノは寝たふりができますか?」
「ほう、面白いね。なぜ?」
「ぼくは寝たふりをして、いろんなことを考えることができます。もしぼくがジャングルに放り込まれたら、とても眠ってなんかいられません。十八時間寝っぱなしなんて考えられない。時々目を覚まして絶対なんか思っていると思います。
「そう。何でナマケモノが思っていると?」
「だって、ジャングルから牢屋みたいなとこに連れてこられても、平気で眠りこけてるなんて変です。そんな気配ありありですよナマケモノって」
「どんなことを思うのかな?」
「だから、どうやってヒトをだましてここから逃げ出そうかとかです」
土井先生は大きくうなずいた。でも、なんでうなずいたのかはわからない。
「動物が何を思い考えているのか、解ったところでノーベル賞はもらえないがね。それでよければぜひユウタくんが大人になったら、ぜひ、調べてほしいね」
「動物の考えてることがわかったらすごいことじゃないの?ノーベル賞ものだよね」と、ショウコが誰ともなく声をあげた。
土井先生はショウコを見てニカッと笑った。
「その通りだって、誰が証明するのかな?」
ショウコはいっしゅんポカンとしてから口を押さえて笑った。
「フフッ、そっか!動物がソウソウなんて、言わないもンね」
「やっぱ、ユウタが動物学者になるしかないって、イヨッ、ナマケモノチャレンジャー!」
はやしたてたヤスをにらみつけた。
「そんな無理だよ!みんな一度、市営動物園に行ってみたらわかるって。石を見てるようでサ、アイツにつき合っていたら自分も相手も悲しくなっちゃうから!」
土井先生が眼鏡に手をそえた。
「どうして悲しいと思ったのかな?」
「あの、自分の観察のこともあったし…はじめ動かないから腹が立ったのに、その姿を見ているうちに、なんか、必死に樹にすがって、ぜんぶあきらめちゃったようで……」
「なるほど。観察が進まない自分の気持ちと、逃げ出すことをあきらめたようなナマケモノの寝姿がかさなってしまったって感じかな?」
「ハイ。そんな感じです」
「ヘ~エ、意外ね」前の席のメガネのカナコが振り向いてぼくを見た。
斜め前のショウコも長い髪に手を沿えぼくを見て微笑んだ。
「ユウタくんて、あんがい優しいかも」
ぼくはショウコとそっと握手をしたみたいで胸が鳴ってしまった。でも、ショウコとだったら動物園のナマケモノ観察は楽しいかもしれないなどと思ってしまった。
土井先生が時計に目を走らせて声をあげた。
「さあ、観察というのは、顕微鏡をのぞいたり、ノートに書くことだけじゃない。その対象によっては、こういう嘘の無い素直な観察もありです。ナマケモノがなんたるかをみんなと共有し、一時間学習しました。ナマケモノの知識においては古桜市の学校のなかでこのクラスの生徒が一番になったと思います。ただし、今回は相手がナマケモノであったからこそ、評価しましたが、それがすべてではありません。みんなも勘違いしないこと。わかったかな?」
土井先生はチョークを手に黒板になにか書きながらぼくに問いかけてきた。
「ところでユウタくんはナマケモノを観察しようとしたきっかけはなんだったのかな?」
突然の問いにぼくは戸惑った。
「エッ、あのオ、えっと、父さん…いや、前に連れて行ってもらったからです」と、父さんがナマケモノみたいだったからです。なんて、思ってもいなかった言葉が出かかって、焦って飲み込み、ひたいの汗をぬぐうと、「ヘヘッ」と頬がゆるんでしまった。
黒板には ― 地球の生きものたち ― と書いてあった。
土井先生がみんなを見渡して言った。
「そう、小学六年生にはまだちょっと読みにくいが、市の図書館にある。写真もきれいだし、ナマケモノはもちろん、他の動物に興味ある人はチャレンジしてみたらいい。それでは、今日はここまで」
「礼!」
椅子を鳴らして立ち上がる音が元気なのはみんな授業が楽しかったせいだ。
土井先生が教室を出て行った後、みんな黒板の文字を写している。
もちろんぼくも写した。 ― 地球の生きものたち ― (ナマケモノ)と。
ぼくは思った。みんな図書館に借りに行くに違いない。特に優等生のノボルは抜け目なく、先生の印象を勝ち取るいやなタイプだ。でもこればかりは、なにがあっても先はゆずれない!
あの観察日誌をほめられるなんて、思いもよらなかった。おまけにショウコにも優しいって言われたりして、下校するぼくの足取りは軽く何処までも歩いていけそうだった。
*
帰宅したぼくはカバンを玄関に放り投げ、自転車に飛びのった。
目指すは今度は動物園じゃなくて、そのそばにある古桜市営図書館だ!
その裏手に広がる山すそがジャングルに見えてきた。
あのナマケモノも、いっそうのことあの山に放してあげても人に危害をもたらすような動物じゃないし、と、思ったけれど、そこは熱帯の陽が降り注いでもいないし、ナマケモノの大好きなセクロピアの樹もありゃしない。
やっぱ、あのコンクリートの部屋の樹にしがみついてなにがあっても動かないのが一番幸せかもしれないかな、などと思い巡らしていた頭のなかをフッと何かがよぎっていった。
ペダルを踏むのをゆるめて山すそジャングルを見やった。
!…そっか!ナマケモノは動かないんじゃなくて、動けないのかもしれない!
陽も届かない薄暗い部屋、許しを乞うように冷たい樹に頭をたれ、必死にしがみついていたアイツの姿がありありと浮かんできた。
図書館の建物がかすんで見えてきた……
― 了
ぼくはしかたなく床に座り、父さんのお腹を枕代わりに足を投げ出す。
今日も朝からテレビの高校野球を一緒に見ていて、なんとなくつぶやいた。
「どうしよう……」
「ン?」
「自由研究……」
父さんのお腹がゆれた。
「まだやってないの?」
「ウン、どうしよう」
「ユウタ。夏休みっていうモンは、あっという間に、過ぎるんだぞ」
それは確かにそうで、ぼくにとって毎年の夏休みの課題でもあった。
「でも自由研究だから、やンなくても自由じゃないの。なんか面倒だし」
「なんかヒントない?」
「ヒント…そんな、なまけものはだナ、ナマケモノでも観察してろ、ハハッ」
父さんのお腹がブルブルッと、ぼくの頭をゆらす。
ナマケモノ?…動物園か。頭の中に動物園でなんかしている自分の姿を思い浮かべてみた。それは、案外、気楽そうな表情をしていて楽そうだった。
「決めた。父さん、市営動物園のナマケモノを観察する」
「冗談だよ。動物園はただじゃない」で、終わりそうになった時、母さんがきた。
「母さん、夏休みの自由研究決めた。協力してくれる?」
母さんはカレンダーを見て首を振った。
「もう、半分よ!去年もそうだったじゃない。まったく、で…なにするの?
「ナマケモノの観察」
「ナマケモノ?どこにいるの?」
「動物園のナマケモノだけどさ、少し通って…」
言い終わらないうちに母さんの目がたてになった。
「なに言っているの。どうして自由研究にお金がいるのよ。そんなのダメです!」
「一週間ぐらいでいいンだけどナ」
「あそこは子どもは三百円、一週間で二千円よ。そんな大金、どうしてナマケモノにあげなくちゃいけないの?お母さん絶対出しません」
「いやナマケモノにじゃなくて、ぼくの自由研究にだけど」
「同じことよ、だいたい、なんでナマケモノなのよ」
「だって父さんが……」と、振り返ると、父さんが「アホッ」と、つぶやいた。
母さんはぼくと父さんを交互に見てため息をついた。
「…たく、父さんも適当なことを言って。みんなはもっと身近なもので済ましているんでしょう。なんか作ったり、描いたりとかしたら?」
「だって、苦手だモン。なんか作業が面倒だし」
「ナマケモノなんて、ホント、ネジも回せないお父さんが言いそうなことだわ」と、母さんはハタキでぼくを突っつき部屋を出て行った。
父さんのせいでと思ったのに「本気になりそうだったのにナ…」と口にしていた。
父さんは口元をヒクヒクさせ、お腹は波うっていて、必死に笑いを噛みしめていた。
*
翌朝、居間をのぞくと、ソファーに寝そべって高校野球を見ているはずの父さんの姿がなかった。
「父さんは?」
「気持ちはわかるけど、朝っぱらからごろごろしていたら、身体がなまって、仕事始めがつらいわよって言ったら、素直にどこか出かけたけど。多分、散歩じゃない。」
「気持ちって?」
「いつも車のしんどうでゆれているから、ゆれないところが天国なんだって」
それではと、父さんの代わりにソファーに寝そべった。テレビをつけて、高校野球を眺めていたら、父さんが帰ってきた。ソファーをゆずりながら「どこ行ってたの?」と聞くと、「ホラッ」と紙切れを手渡ししてくれた。
動物園の入園券だった。
「エッ、いいの?」
「明日からやれよ。夏休みはあっという間だ」
父さんの子どもの頃の夏休みも、多分、ぼくと同じだったような気がする。
「ウン、ありがとう」と、振り向くと、カウンターの向こうの母さんは、口をあんぐり、眉をよせ、父さんをにらんでいた。
「お父さん。わたしはお金を使う自由研究なんて、よくないと思う」
父さんはテレビを見ながらボソッとつぶやいた。
「ナマケモノは犬猫のように、そこらにいない」
「ふう、マア、お父さんのお小遣いだからいいですけど」と、今度は、ぼくをにらんだ。
「おにぎりでいいでしょう?モウ、せっかくお弁当つくりから解放されたのに」
「ウン、ぜんぜん平気。ちゃんとやるから」
「あたりまえです」と、いうことで、明日から四日間、城山公園の奥にある古桜市営動物園で開園から午後二時までナマケモノを観察することが決まった。
*
自転車で十五分ぐらいで動物園に着いた。
この動物園はいつかそのうち閉園するといううわさがあったがまだやっている。
ここに初めて来たのは小学一年生ぐらいの時だった。象もキリンもライオンもいなかったけれど、サルだけはいろんなサルがいたような気がする。
多分その中にナマケモノもいたのだろうが特に印象もなく、昨日の朝までナマケモノなんてまったくの無縁の存在だったし、今でもその顔を思い描くこともできない。
父さんの冗談からナマケモノがあらわれた。それはきっとナマケモノっていう名前のせいかもなどと、はやる気持ちで開園と同時に門をくぐった。
ナマケモノはぼくの部屋と同じぐらいの檻の部屋で樹にしがみついて眠っていた。
猫背の胴体はツルンとそのまま黒い鼻につながっていて、耳はあるのかないのかわからない。身体をおおっている毛は緑がまじったこげ茶色のバサバサしてそうなのにねっとりからだに張りついているのが、なんだか汚らしいかんじがする。
でも、手足の爪だけはいように長くて鋭く、かっこいいと思った。
檻のすみに説明文があった。
― ミツユビナマケモノ。南アメリカの森林の樹上に住み、その葉しか食さない。猿の仲間。同種類に、フタツユビナマケモノ ―
ぼくはさっそくそれを観察ノートに書きとめて、ナマケモノを見ていたが、ナマケモノは、いっこうに目覚めてくれそうもなく、仕方なく外に出た。と、いうより、ほかの動物も見たくなったのだった。クマとカンガルーとレッサーパンダを見てからベンチでおにぎりを食べ、ナマケモノのところに戻ってもナマケモノはまだ目覚めていなかった。
サル山のサルを楽しんで戻っても、ナマケモノはそのままだった。
アリクイで時間をつぶし、ナマケモノの檻をのぞいてみたけれど、ナマケモノはあいかわらずで、ず~っとこのまま寝っぱなしだったらどうしよう?と。いやな予感がした。
それで、その日は終わった。
帰宅するとソファーで昼寝していた父さんが目覚めた。
「おう、どうだった?」
「ず~っと、眠っていた」
「そうか、ナマケモノだからな」
*
朝。ぼくは昨日のことを反省して、今日はナマケモノの檻から離れない決心をした。
ナマケモノは昨日とおなじ下から三番目の枝にまたがって、幹にしがみついて眠っていた。
ぼくは檻にもたれかかったり、しゃがんだりしてナマケモノが動いてくれるのを待ちつづけた。何人かの入園者が檻の中をのぞいたりしたけれど「ナンダ寝てるのか」とか「動かないね」とか「つまんないから、サル山に行こう」と、ぼくをチラ見しては出て行ってしまう。
ぼくは心の中で「チェッ」と舌打ちして、檻に手をかけた。
「オイ!ナマケモノいいかげん起きないとダメだよ!」
それでもナマケモノは目を閉じている。
お昼前、ぼくは我慢できなくて、檻から離れてサル山のサルを見ていた。活発に動き回るニホンザルのその表情やしぐさを一匹ずつ目で追っていくだけで、観察ノート一ページ分ぐらいすぐに埋まってしまいそうで、なによりも、あきることがなかった。
でもこうしている間にナマケモノが動くような気がして、愉快なサルを見ているのがつらくなってきた。で、また戻っても、やっぱしナマケモノは眠っていた。
そんなことを二~三回くり返して門を出た。
父さんは相変わらずソファーに寝そべって高校野球を見ていた。
「どう?」
「どう?って…つかれた。ねえ、父さん」
「ン」
「サル山のサルにかえていい?」
「ナマケモノは?」
「…だって動かないもの」
父さんはすこしたってから、短くきっぱりと低い声で言い切った。
「ダメだ」
こういう言い方をする時は本当にダメな時で、これ以上言うとふきげんになって、怒られるからぼくは押し黙るしかなかった。
父さんはつづけて言った。
「父さんの大事なお小遣いはサルのためじゃない」
「ウン」
内心、ナマケモノだって同じサルの仲間なんだけど、と、思ったけど言わなかった。
父さんは簡単にあきらめる観察なんてけしからんと言いたかったのだろう。
食事の時、母さんが助言をくれた。
「困った時は上の人に聞くのよ。飼育員さんに聞けばいいのよ?」
父さんがつぶやいた。
「ナマケモノの毛とか、エサのカスとか、ウンチとかは…」と、口をつぐんだ。
母さんが眉をよせて父さんをにらみつけた。
「やめて!食事中でしょ」
「カレーじゃないからいいだろう」
「バカ」
ナマケモノよりうちの親を観察した方がおもしろそうだ。
*
動物園に通いはじめて三日目。
自転車をこぎながら願った。眠っていてもいいけど、三段目の枝はやめてほしい。他の枝だったら、たしかに動いたという証拠になる。
「そうでなかったら、ぼくの観察ノートは白紙のまま終わってしまいます。お願いします。ナマケモノさま!」
入園してそっと覗くと、ナマケモノは三段目の枝でちゃっかり目を閉じていた。
「ア~ア、まったく、つまンないなア」
思わず檻をゆさぶったが、もちろんビクともしなかった。
少し見ていてトイレにいきたくなった。チョロチョロ出して、ふと思った。
そうだ、今日はもっとこまめに覗いてやろう。
サル山を少しながめてすぐ戻った。
ウサギの頭をなでてすぐ戻った。
キジを少し見てすぐ戻った。
だけど、ナマケモノは動いていなかった。
なのに、動き回ったぼくはお腹がへっておにぎりを食べてしまった。まだお昼前なのに。
ナマケモノの樹の下は水を流して掃除したらしく、ウンチの欠片もエサの残りカスも見当たらない。ずっと樹の上にいるんだったら、地面は雑草だらけにしておけばナマケモノもどれどれと下りてくるかも知れないのに……
母さんが言っていたことを思い出した。
「でも飼育員さんに聞くって、観察とはいえないよナ」
ひとり言を言っているぼくを無視するかのように、ナマケモノは死んだように目を閉じている。「ナマケモノって冬眠とかするのだろうか?」
もっと声をあげれば気づいてくれるかもしれない。
周りを見渡し声をあげた。
「ナマケモノさま!毎日、見にきてくれる、こんないい客、ほかにいないよ。だけどぼくは明日が最後なんだ。下りて来てとまでは言わないけどサ、チョッとぐらい動いてよ!眼もまん丸で可愛いんじゃないの?手でも足でもいいからさ。ねえ、ナマケモノさま、聞いてる?」
檻の中にぼくの声がひびいた。でもナマケモノはまるで樹のコブのようになったまま。
目の前にいるナマケモノとぼくとの距離はたった五~六メートル。なのに、とても遠い遠いところにいるような気がしてきて、なんかさみしくなってきた。
もうあきらめて帰ろうと檻からはなれたら、ほうきを持ったおばさんに声をかけられた。
「毎日、ナマケモノを見に来るなんて、よっぽど好きなのね」
「いえ、好きじゃないけど。観察に来てるんです。でも、ぜんぜん動かない」
掃除のおばさんはフフフッと笑った。
「わたしも動いているとこなんか見たことないものねエ~」
「エッ~!」
ぼくは掃除のオバサンの背をぼうぜんと見送った。
毎日いるのに、ナマケモノの動く姿を見たことないなんて、たった四日でぼくが見られる訳ないじゃないか!
帰りの自転車ペダルは重かった。
居間のドアを少し開けて覗くと、ソファーで仰向けになった父さんが、テレビをつけっぱなしでスースーと寝息をたてていた。
*
動物園に通うのも今日が最後だ。
門をくぐりナマケモノの檻まで、目をつむっても行けそうだと、やってみたら、すぐに、生け垣にぶつかってしまった。落としたお弁当袋と観察ノートを拾い上げる。
「どうせ急いだってナマケモノは眠っているに決まっている」
サル山に行ってサルをぼんやり眺めていたら、ふいに後ろから声をかけられた。
「ナマケモノはもうあきたのかい?」
振り向いたら緑の帽子とジャンバーを着た小柄なオジサンが笑みを浮かべていた。
「そうじゃないけど、動かないから、観察が……」
「ナマケモノはそういうもンだからなア」
「オジサンはなんの担当ですか?」
「ああ、主にサルのたぐいだ。ナマケモノもサルだからやってるよ」
なんか、魚屋さんみたいな言い方だけど、今のぼくにとっては救いの神だ!
「あのオ、何か教えてください」
「たとえば、なんだい?」
「え~っと、いつもウンチの跡がないですけど、ナマケモノはいつするんですか?」
「ナマケモノは動作とおんなじで、食べ物の消化も遅いからな、排便は週に一回ぐらい。つぎは、たぶん明後日あたりだなア」
「エッ、一週間に一回って、ぼくは今日が最後なんです」
「そうかあ。でも、ナマケモノだって君の都合で排便する訳にはいかないからな。まあ、仕方ないな」
「そうだけど…でも観察ノートが」
「じゃあな、すごいことと残念なこと、教えようか?」
「ハイお願いします!」と、ペコリと頭をさげた。
「ナマケモノは一日二十四時間のうち十八時間も寝ていられる。って、うらやましいだろ?」
「ハイ、うらやましいし、すごいです」
「だろ、って、ことは、どうなる?」
ぼくは頭の中であわてて計算しはじめた。起きているのは六時間だ。
「そう六時間ぐらいしか起きていない。しかも夜中。それは君にとっては残念だろ?」
「…じゃあ、昼間の観察なんて無理ってこと?」
「まあ、そう考えたほうがいいな」
「じゃあ、すごいことって?」
「見ざる、聞かざる、言わざる」
「なにそれ?」
「耳も遠いし、目も悪い、鳴きもしない。それで生きていけるって、ある意味すごい動物だろ?わたしはナマケモノを世話していて鳴き声なんて一度も聞いたことがない。まったく変な生き物だよナマケモノってやつは。ハハハッ」
「エッ……」なんの観察するんだよ、と、心の中でつぶやいた。
「マア、私は学者じゃないから詳しくは解らんが、ナマケモノ自身はいろんなことに気づいているかも知れん。そうでも思わんと世話のしがいもないからナ」
「ぼくが毎日来ていることも?」
「さあな。さて、サル山の掃除だ。数が多いから手がかかって大変だ。でもまあ、あいつらは反応あるし、客も呼んでくれるから掃除のしがいもあるが、ナマケモノはナア~…マア、頑張って」
飼育のオジサンはぼくの肩をポンポンと叩いて背を向けた。
「目も開けてくれない。声も出さない、動かない。ナマケモノっていったい何を考えていきているのだろう?」
ぼくはナマケモノの檻に向かって駆けた。
ナマケモノは薄暗い檻の中に沈んでいるようで、ぼくはしばらく見つめていた。
手入れもしてなさそうなべったりした毛をまとって樹にすがっている猫背姿のナマケモノは、樹にあやまっているような、なさけない生きもののように見えてきた。
こんなにのんびりした、おとなしい動物だったら檻に閉じ込めなくても、どこでも町の小さな公園の樹に放してあげても平気だし、そのほうがいいような気がしてきた。
いつだったか、母さんと駅の近くを歩いていたら、汚そうなオジイサンが座っていた。母さんは「見ちゃダメ」と言ったけど、なんかにている。
ぼくは檻をつかんで四日間の思いを訴えた。
「ナマケモノさま。ぼくはここにくるのも今日が最後です。ぼくは忘れませんが、ナマケモノさまはどうですか?もし、知っていたのなら眼を開けてぼくを見てください。アナタの眼が丸いのか三角なのか線のように細いのか、それだけでも知りたいのです。どうか、最後のお願いです……」と、しばらく見やっていたけれど、ナマケモノさまはピクリとも動いてくれなかった。
「……おやすみなさい」
ぼくはその場を離れ、外に出た。サル山のサルとお客さんの歓声が耳に飛び込んできた。
ナマケモノの観察なんてまったくガッカリだ。それでも門のそばまで来てもう一度ナマケモノの檻のほうを振り返った。フッとなんか言い忘れたことがあるような気がしたからだった。
空は雲ひとつない青空なのに心の中は夕方のように寂しかった。
*
居間に入るとソファーに寝そべっていた父さんが顔をあげた。
「で、どうだった?」
「これからまとめるけど、父さんナマケモノになっちゃうよ」
「なれることなら、ぜひ」と、クッと笑った。
「でも父さんはムリ」
「どうしてだ?」
「とりあえず、動くし、しゃべるし、きれい好きだから」
「ナンダそりゃ」
ぼくは二階に駆け上がって、机の上に観察ノートを広げた。
書いてあるのは、檻にぶらさがっていた説明文のまるうつし。毛の色と爪が長かったこと。あとは、掃除のオバサンと飼育のオジサンから聞いたことが数行と四日分の日付だけだった。
ぼくはその観察ノートを見つめてうなった。
「自分の目で見たことがたったの三行だなんて、こんなの六年生の観察ノートじゃない。」
わかっていたとはいえ、何度ページをめくりなおしても文字は増えることもなく、ぼくはベッドにひっくり返って天井をにらんだ。
今はもう、ナマケモノの観察が大失敗したことより、父さんのお小遣いと母さんのおにぎりを不意にしてしまったことが申し訳なくてそのことがぼくを攻め立ててきた。
「どうしよう……」と、頭を抱えて眼をつぶってしばらくしていたら、薄暗い檻の中でひっそりと樹にしがみついているナマケモノの姿だけが浮かび上がってきた。
アイツは今頃、眼をぱちくりさせ、(観察などされてたまるか、ヘヘッ、してやったぜ)と、笑っているかもしれない。そう想ったら腹が立ってきた。
「せめて寝たきりナマケモノの姿だけでも暴いてやる!」と、跳ね起きた。
観察ノートを広げ、思うがまま、いっきに鉛筆を走らせた。
*
夏休み明け、数日たった職員室。
小柄な女性教諭。田辺先生が笑いをかみしめながら土井先生を見あげた。
「土井先生。見てください。うちのクラスのある生徒の観察ノートで、こんなんが出てきましたけど」
「ほう、なんでしょう?」
理科を教える丸眼鏡の土井先生は真面目な顔つきで観察ノートを手に取り、ページをパラパラパラパラとめくって「フンフン」とまためくりなおし、田辺先生を見つめた。
「田辺先生。このノートちょっとお借りしてもよろしいですか?」
「ハア?」
田辺先生は真面目すぎる土井先生のあきれ笑いを見たかっただけで、思ってもいなかったその反応に眼をパチクリさせ焦った。
「いや、それは構いませんが土井先生。この生徒をはずかしめるようなことだけは、絶対なさらないでくださいね」
土井先生は子どもをあやすかのような笑みを浮かべて言った。
「違いますよ田辺先生、その逆ですよ」
*
後日の理科の時間。
教壇に立った先生は一冊の観察ノートをかざした。
「夏休みに提出された観察ノートのひとつがここにあります。丸岡ユウタくん!」
「ヒャイ!」突然、名を呼ばれ、ぼくは頭のてっぺんから変な声を出してしまった。
みんなクスクスと笑っている。
「ユウタくんは動物園に四日間通って、ナマケモノの観察をしたそうだね?」
「ハイ、そうですけど…その」と、声がふるえてしまう。
「ぼくから発表していいかな?」
「いや、先生それは、その…失敗作で」
「失敗?ユウタくん。ぼくはこの観察ノートに感心しているんだよ」
「エッ?」先生なに言ってンの?と、思わず首をすくめて土井先生を見つめた。
そんなぼくの動揺を無視するかのように土井先生は声高に読みはじめた。
そんな大きな声で!
ぼくは耳をふさぎ、机の下に隠れたいほど、いや、窓を突き破って外に逃げ出したかった。
「― 九日。ナマケモノは眠っていた。 十日。眠っていて動かなかった。 十一日。眠っていて動かなかった。 十二日。ナマケモノついに動かなかった ―」
生徒たちが必死に笑いを押し殺している気配がぼくの肌を真赤にさせてきた。
そんなぼくに構わず土井先生は続ける。
「その下に小さな字でこう書いてあります。 ― 檻にあった説明文。掃除のオバサン。飼育係のオジサンから聞いた話はぼくが観察したものじゃないから書きません。動かなかったナマケモノには最初のころは腹が立ったけど今はそう思っていません。それは、必死に樹にすがってなにか謝っているようなナマケモノの格好が情けなかったからです。そんなナマケモノの為についやした大事な父さんのお小遣いと母さんのおにぎりを無駄にしてしまったことは、悔やんでも悔やみきれません。で、ナマケモノなんて観察に値しない動物?だったと断言します。以上、丸岡ユウタの大失敗の巻でした。 ― 以上がユウタくんの観察ノートです」
土井先生が観察ノートを閉じたしゅんかん、教室内は大爆笑に包まれた!
「そんな観察だったらいいよな~楽で!」と、運動だけのミツオがはやしたてた。
「お金かけてそれだけ~!」サッカーのケイもバカにする。
「ナマケモノこそユウタじゃん!」バスケでレギュラーはずれのカズキまで、はやしたてられて、ぼくの顔全体がジワ~っといっきに熱くなってきて膝においた拳を握りしめた。
「静かに!」
土井先生の大声で教室はシーンとなった。
「みんな笑ったけれど。じゃあ、ナマケモノとはどんな動物なのか?ちゃんと説明できる人、いたら手をあげてください」
みんな顔を見合わせヒソヒソしていたけれどそれも消えてシーンとなった。
「はい、いいですよ。じゃあ、ユウタくん。ここに書かなかったこと、飼育員さんなんかに聞いたこと、簡単にでもいいから、みんなに発表してください」
「ハイ」と、ぼくは恥ずかしさと怒りのまじった息をはいて立ち上がった。
そして掃除のオバサンと飼育のオジサンから聞いたことをそのまま話した。
土井先生は軽くうなずいてみんなを見渡しながら言った。
「実は、ぼくは教師になる前、大学で動物行動学を専攻していました。だから、ナマケモノのことも少しは知っています。ナマケモノはセクロピアというたった一つの樹の上の方にしか住まない。食べるのも、その葉っぱしか食べないし、敵もいないし、近寄れないから安全です。そんなスローなナマケモノがわざわざ危険を冒してまで地上に降りるときがあるんだな。なぜなんだろう?」
土井先生はみんなを見渡してウンとせき払いをした。
「出歩かないナマケモノのウンチはすごい刺激的な臭いがする。いくら鼻が弱いナマケモノでも嗅当てられる。それが仲間との随一の出会いの場所で、この樹の上にいるからネという表札のようなもンだ。そして、眼とか耳もほとんど機能していないし声も出さない。たとえばナマケモノの耳元で爆弾が破裂したら、こうしてゆ~っくり振り向いて眼をパチクリさせるぐらい。そんなナマケモノが超スローなのは身体の筋肉がとても弱いからだ。その動きはなんと時速一キロメートル。こんな感じだな」
と、土井先生はスローモーションより遅く歩くまねをすると、みんなはクスクスと笑った。
「ユウタくんが見た毛の緑色は植物です。で、それを食べる幼虫も毛の中にひそんでいる。さらに他の動物のように毛の手入れにまったく興味がない。だからああなります」
「ヒエ~汚ねえ!ナマケモノには草が生えているのかよ~」とミツオが悲鳴をあげた。
「さあ、ここからがこの授業の本題だ。さて、こんな弱い超スローなナマケモノが今話した以外は、ほとんど謎に包まれて、今に至っているのはなぜだろう?」
ぼくはこれしかないと、手を上げた。
「はい、ユウタくん」
「動かないからです!」
「ウ~ン、いいね。だけど違う。だって、考えてみよう。動き回る動物より、動かない動物の方が観察は楽で詳しく調べられるじゃないかな。ン?」
そう言われれば確かにそうだ。動物園は檻があったから近寄れない。でも、動かないぶん、おとなしいし、じっくり観察しやすいはずだった。
「さあ、答えは簡単です」
土井先生はみんなを見渡しながら、ひと言ずつかみしめるように言った。
「なかなか動かない。動いたとしても超スローなナマケモノ。その日常細部を朝昼晩と観察することに耐え続けられた動物学者は世界を見渡しても誰一人としていなかった。それが正解です」
「エエ~うそ、そんなことが理由ですか?!」
「わたしのお母さんはちょっとのことでもイライラするのよ」
「じゃあユウタの四日間じゃ無理なのは仕方ないよな」
「人間の我慢どころじゃないよなア~」
「そうよ、ナマケモノに一生つき合っているわけにはいかないモンネ」
そんなに大変なのかと、ざわめく教室。
ぼくは土井先生を見つめて心の中でウンウンウンウンとなんどもうなずいた。
真面目な土井先生の授業がこんなに楽しかったことはなかった。土井先生はナマケモノに取り付かれた学生だったのかも知れない。ぼくはすごく親近感を覚え、理科が好きになりそうな予感がした。その土井先生は白っぽい髪をかきあげながら言った。
「動物学者にだって生活があるし家族も居る。結果を残して、出世もしたいしな、超スローなナマケモノにつき合って、小言を言われたり、研究費を食いつぶすわけにもいかない。まったく、痛いところをつかれたってことだな」
「土井先生。じゃあ、ナマケモノはこれからもず~っと、謎のままですか?」と、手を上げたのはクラスの優等生ピッチャーのノボルだった。
「さあ、どうなるだろう?でも、ナマケモノの超スローさは人間に対する武器だっていう学者もいるからな。マア、それを超える鈍感な学者が世に出てくればの話だろうな」
それは確かかもしれなかった。長い爪も持っていたけれど、眠りこけても樹から落ちないためだろうと思った。それよりも確かめたいことがあった。
「土井先生、ナマケモノは寝たふりができますか?」
「ほう、面白いね。なぜ?」
「ぼくは寝たふりをして、いろんなことを考えることができます。もしぼくがジャングルに放り込まれたら、とても眠ってなんかいられません。十八時間寝っぱなしなんて考えられない。時々目を覚まして絶対なんか思っていると思います。
「そう。何でナマケモノが思っていると?」
「だって、ジャングルから牢屋みたいなとこに連れてこられても、平気で眠りこけてるなんて変です。そんな気配ありありですよナマケモノって」
「どんなことを思うのかな?」
「だから、どうやってヒトをだましてここから逃げ出そうかとかです」
土井先生は大きくうなずいた。でも、なんでうなずいたのかはわからない。
「動物が何を思い考えているのか、解ったところでノーベル賞はもらえないがね。それでよければぜひユウタくんが大人になったら、ぜひ、調べてほしいね」
「動物の考えてることがわかったらすごいことじゃないの?ノーベル賞ものだよね」と、ショウコが誰ともなく声をあげた。
土井先生はショウコを見てニカッと笑った。
「その通りだって、誰が証明するのかな?」
ショウコはいっしゅんポカンとしてから口を押さえて笑った。
「フフッ、そっか!動物がソウソウなんて、言わないもンね」
「やっぱ、ユウタが動物学者になるしかないって、イヨッ、ナマケモノチャレンジャー!」
はやしたてたヤスをにらみつけた。
「そんな無理だよ!みんな一度、市営動物園に行ってみたらわかるって。石を見てるようでサ、アイツにつき合っていたら自分も相手も悲しくなっちゃうから!」
土井先生が眼鏡に手をそえた。
「どうして悲しいと思ったのかな?」
「あの、自分の観察のこともあったし…はじめ動かないから腹が立ったのに、その姿を見ているうちに、なんか、必死に樹にすがって、ぜんぶあきらめちゃったようで……」
「なるほど。観察が進まない自分の気持ちと、逃げ出すことをあきらめたようなナマケモノの寝姿がかさなってしまったって感じかな?」
「ハイ。そんな感じです」
「ヘ~エ、意外ね」前の席のメガネのカナコが振り向いてぼくを見た。
斜め前のショウコも長い髪に手を沿えぼくを見て微笑んだ。
「ユウタくんて、あんがい優しいかも」
ぼくはショウコとそっと握手をしたみたいで胸が鳴ってしまった。でも、ショウコとだったら動物園のナマケモノ観察は楽しいかもしれないなどと思ってしまった。
土井先生が時計に目を走らせて声をあげた。
「さあ、観察というのは、顕微鏡をのぞいたり、ノートに書くことだけじゃない。その対象によっては、こういう嘘の無い素直な観察もありです。ナマケモノがなんたるかをみんなと共有し、一時間学習しました。ナマケモノの知識においては古桜市の学校のなかでこのクラスの生徒が一番になったと思います。ただし、今回は相手がナマケモノであったからこそ、評価しましたが、それがすべてではありません。みんなも勘違いしないこと。わかったかな?」
土井先生はチョークを手に黒板になにか書きながらぼくに問いかけてきた。
「ところでユウタくんはナマケモノを観察しようとしたきっかけはなんだったのかな?」
突然の問いにぼくは戸惑った。
「エッ、あのオ、えっと、父さん…いや、前に連れて行ってもらったからです」と、父さんがナマケモノみたいだったからです。なんて、思ってもいなかった言葉が出かかって、焦って飲み込み、ひたいの汗をぬぐうと、「ヘヘッ」と頬がゆるんでしまった。
黒板には ― 地球の生きものたち ― と書いてあった。
土井先生がみんなを見渡して言った。
「そう、小学六年生にはまだちょっと読みにくいが、市の図書館にある。写真もきれいだし、ナマケモノはもちろん、他の動物に興味ある人はチャレンジしてみたらいい。それでは、今日はここまで」
「礼!」
椅子を鳴らして立ち上がる音が元気なのはみんな授業が楽しかったせいだ。
土井先生が教室を出て行った後、みんな黒板の文字を写している。
もちろんぼくも写した。 ― 地球の生きものたち ― (ナマケモノ)と。
ぼくは思った。みんな図書館に借りに行くに違いない。特に優等生のノボルは抜け目なく、先生の印象を勝ち取るいやなタイプだ。でもこればかりは、なにがあっても先はゆずれない!
あの観察日誌をほめられるなんて、思いもよらなかった。おまけにショウコにも優しいって言われたりして、下校するぼくの足取りは軽く何処までも歩いていけそうだった。
*
帰宅したぼくはカバンを玄関に放り投げ、自転車に飛びのった。
目指すは今度は動物園じゃなくて、そのそばにある古桜市営図書館だ!
その裏手に広がる山すそがジャングルに見えてきた。
あのナマケモノも、いっそうのことあの山に放してあげても人に危害をもたらすような動物じゃないし、と、思ったけれど、そこは熱帯の陽が降り注いでもいないし、ナマケモノの大好きなセクロピアの樹もありゃしない。
やっぱ、あのコンクリートの部屋の樹にしがみついてなにがあっても動かないのが一番幸せかもしれないかな、などと思い巡らしていた頭のなかをフッと何かがよぎっていった。
ペダルを踏むのをゆるめて山すそジャングルを見やった。
!…そっか!ナマケモノは動かないんじゃなくて、動けないのかもしれない!
陽も届かない薄暗い部屋、許しを乞うように冷たい樹に頭をたれ、必死にしがみついていたアイツの姿がありありと浮かんできた。
図書館の建物がかすんで見えてきた……
― 了