第1話

文字数 11,011文字

 華燭(かしょく)の典

 フォルティシモのドが響く。トロンボーンを担ぎ、髭をたくわえた男性がすっと息を吸い込んで勢いよく吐き出すと、その音が堂々と響いた。メンデルスゾーン作曲の結婚行進曲だ。大きな木製の扉が開くと右から左から拍手が沸き起こる。真っ白なスーツに身を包んだ男性が、真っ白なドレスをまとった女性の手を取ってゆっくりと歩いてくる。ゆっくりと歩きながら、男性は満面の笑みを配っている。時折軽く頭を下げながらも歩く速度と笑顔は忘れないようだ。もうすぐ歩き終わる、そんな頃に新婦の頬に一滴。そんな彼女の頬を、彼が笑いながら親指でそっと、拭った。

  聞いてほしい 

 ポストを開けてガス料金のお知らせを手に階段を上り、鍵を開け、ワンルームの明かりを点ける。
「ただいま」
 チカはそう言うと、ベッドの上のそれを抱えた。
「ただいま、マチコさん。聞いてよマチコさん、先月ドイツの会社と契約にこぎつけたのはさ、ほとんど私の仕事だったんだよ。資料を作ったのも、相手と交渉をしたのも、勉強したのも、全部私だった。部長はそれを眺めて時々ハンコを押しただけ。なのにさ、部長が昇進するんだってさ。私の番は、いつになったら回ってくるかな。」
 そう言うとチカはマチコさんをぎゅっと抱きしめた。マチコさんは何も言わない。何も答えない。ただぎゅっと抱かれている。
「ちゃんとお給料を貰えれば、気にならない人もいるんだろうな。大学の時のことも、ただ先輩が好きってだけで何も気にならない人もいるんだろうね。でも私は許せないんだ。」
 大学二年の夏、チカは慕っていた先輩の卒部制作を手伝った。チカが所属していた映像研究サークルの先輩だ。就活が始まる三年生の夏までに一人一つ、好きな映像を作って卒部するという伝統があった。例に漏れず先輩も映像を作ることになった。ジャンルは何でも良い。先輩は映画が好きだったのもあって短編映画を撮ることになっていた。先輩が脚本を書き、サークルの後輩たちを集めて演じさせる。これも、このサークルの伝統だった。後輩は先輩の卒部制作を手伝うのだ。チカは役者にはならなかった。しかし、全てのカットを撮り終えて、あとは編集だけだという時、例年より早くインターンシップの募集が始まった。撮影にも遅れが出ていたので、先輩の制作は卒部に間に合いそうになかった。
「チカ、ごめん、ちょっとこのシーンだけ編集しててくれない?絵コンテ見てもらって、細かい所はチカの好きなように編集していいから。」
 後輩が編集まで任されることは、このサークルの伝統では無かった。
「任せられるの、チカしかいないんだ。」
 そう言われて引き受けた三つ目のカット。インターンの選考が終われば落ち着くと言っていた先輩の就活は、一向に落ち着く気配を見せなかった。
「ごめん、その次のシーンまでやってくれる?」
 先輩がそう言うごとにチカが編集したシーンは伸びていき、先輩が編集したシーンより長くなった。もう夏休みも終わるころ、先輩の就活はやっと一区切りついて、先輩は映像の総仕上げに取り掛かった。完成した映像作品を鑑賞する会をもって三年生は卒部となる。チカは、何十回と観た先輩の映画を、極めて新鮮な気持ちで眺めた。先輩が最後に足したエンドロール、そこにチカの名前はなかった。同学年の役者陣の名前、そして監督として先輩の名前。チカは怒った。怒ったが、誰にも何も言わず先輩を見送った。どうしてその先輩を慕っていたのか、チカはもう忘れてしまっていた。その時の怒りは今もチカの中にある。今回の部長の昇進は、その怒りと混ざり合った。
「マチコさん、私を慰めて。寂しくてたまらないんだ。」
 マチコさんはまた何も言わない。けれどその大きめに縫われた目がじっとチカを見つめ、肯定する。マチコさんはもう二十年近く、毎日チカの吐露を受け止めてくれているので、何も答えなくても、チカにはマチコさんの声が聞こえる。
「許せなくて大丈夫だよ、怒って当然だよって言ってるんだよね。チカは独りじゃない、いつまでも傍にいるよって、言ってるんだよね。」

  猫橋チカ、三十三歳

 チカの人生は、たいてい思い通りにならない。小学生の頃、苦手な先生に限って担任になった。友達と三人で歩くと、通行人をよけているうちに決まって二人を後ろから追う形になった。全校集会で表彰されてみたいと思っていたが、賞状を手にしたことは一度もない。チカが自信のある作文の校内コンクールでは、転校してきた小説家の息子に一位を奪われた。中学生の頃、初恋の人に告白したが、その人には他に好きな子がいた。少し茶色がかっていた地毛を校則に合わせて黒く染めた。同じく中学生の頃、チカが赤ん坊の頃から育ててくれたマチコさんが退職してしまった。チカがその児童養護施設の中で唯一気を許した人だ。マチコさんは最後の日、チカに大きな大きなムーミンのぬいぐるみをプレゼントして去っていった。高校の頃、また好きな人ができたが、今度は告白する前に相手に恋人ができた。大学受験を控えた三年生の夏、数学の成績が一向に上がらなかった。奨学金や授業料免除制度について調べたり、書類を準備したりするだけで時間はどんどん過ぎて行った。大学受験、第一志望の大学に落ち、第二志望の大学に進学した。施設を出て一人暮らしを始めた。出来上がったハンバーグはテーブルに運ぶ間に皿から滑り落ち、床でつぶれた。大学に入る少し前から感染症の世界的な流行が始まった。大学の授業は全てオンラインになり、家に籠って授業を受けた。アルバイト以外の時間は常に家に籠り、フィンランド語の宿題をこなした。漫画を描いてTwitterに投稿した。その日見た夢の日記を付けた。映像研究サークルは活動が制約を受けたことで実質卒部制作をこなすだけの活動になった。三年生の時チカは後輩の手を一切借りることなく一人でアニメーションを作って卒部した。アルバイトで夜勤をこなした後、帰宅途中に三十代くらいの男に襲われた。チカは誰にも何も言わないまま、というより誰にどう話せばよいか分からぬまま、その痛みを押し殺した。パンデミックのせいで享受できる楽しみは半減したのに、痛みの量は変わらなかった。心の通じ合うような友達もできず、飲み会も知らず、文化祭も無く、留学にも行けず、そして就活というイベントだけは律儀にやってきた。漫画やアニメが好きだったチカは、出版社やアニメ制作会社を一通り受けるが、一社も通らなかった。
「他人を巻き込んでチームで何かを成し遂げた経験は無いの?」
 そんなものは無かった。この時点で好きなことを仕事にしたいという情熱とは決別し、語学力を買ってくれた専門商社に入社した。チカは自分で想像していたよりも仕事ができた。案件ごとに取引先国の言葉を勉強し、市場を調べ把握する地道さと独創的な発想によってプロジェクトを成功に導くことが多かった。しかしチカは同僚たちの間で一定の評判を得るばかりでそれ以上の見返りはなかった。いつも得をするのは直属の上司やそれより上にいるおじさん達だった。給料は初任給の頃からいつまで経っても上がらなかった。
「四人を殺害し自らも命を絶った犯人は、借金を抱えて困窮していたようだ。」
 テレビで流れている刑事ドラマからそう聞こえてくる。チカは、自分にその勇気は無いなぁと思いながら聞き流していた。どんな死に方をしようと途轍もなく痛いだろうことが恐ろしかった。また、怒りを全く関係のない他者に向けるという発想もチカにはなかった。チカは、誰にも見つめられないその人生を生きるしかなかった。せいぜい、誰もいない小道で石ころを思い切り蹴とばしながら歩くことしかできなかった。

  にこにこ老爺とマチコさん

 風が光り、桜の花弁が舞う中を自転車で走る。本格的なカメラを構える五十代くらいの男性や、レンズが三つ付いたスマホを掲げる大学生たちが満開の桜に夢中だ。その下を歩く中学生の集団は、咲き誇る桜には目もくれずお喋りに夢中だ。横断歩道を渡ってしばらく進むと、小さな自転車屋が見える。チカは、タイヤの空気が抜けるといつもそこに立ち寄った。百円で空気を入れてくれる。自転車を押して空気を入れるスペースに入る。誰もいない。
「こんにちはー。」
 と声を張ると、
「はーい、今行きまーす。ちょっと待っててぇ、すみませんねぇ。」
 と返ってくる。しばらく待っていると、奥から老爺が現れる。老爺はにこにこしている。
「ごめんごめん、ちょっと寒くて着替えてたの。こういう時に限ってお客さん来るんだよねぇ。トイレとか行ってる時に限って来るのよ。」
 老爺はそう言って笑っている。それだけでチカの心は満たされる。この老爺のにこにこ顔が好きで、チカは自転車が重くなると必ずここに立ち寄る。タイヤの空気がそれほど抜けていない時も、老爺はにこにこ顔のまま黙って空気を入れてくれる。タイヤに空気を入れるその手は、職人の手だった。彼の手の皺を見ていると、チカは必ずマチコさんの手を思い出した。チカはマチコさんの、血管が浮き出た手の甲が好きだった。唯一、チカの頭を優しくなでてくれた手だった。
「うん、これでよし。百円でぇす。」
 百円玉を渡す。パンパンになったタイヤ。
「ありがとうございます。」
 チカはそう言ってサドルに跨りひと漕ぎすると、
「軽くなった。」
 と呟いた。

  余命半年のストール

 桜は散り、少し前まであちこちにあった水溜りも乾きつつあった。人は腕をむきだしにして歩いている。チカは部屋に入るとクーラーをつけた。
「聞いてよマチコさん、今日とんでもないことが起きたんだよ。」
 そう言うとベッドの上に置いてあったマチコさんを抱えるチカ。その目に映っているのは、大きな大きなムーミンだ。
「急にさ、実のお母さん?が来てさ、しかも余命宣告されて会いに来たって言うんだよね。死ぬ前に会っておきたいって、私のこと放棄しておいてさ。昔のこと詳しく話したいから、また週末に来るってさ。私はさ、お母さんだとは思えないんだよ。あの人より、マチコさんの方が、ずっとお母さんだもん。」
 マチコさんはいつも通りチカをじっと見ている。
「あ、でもあのストール綺麗だったなぁ。」
 その夜、チカはマチコさんを抱きしめたまま眠った。
 猫橋サチ、六十一歳。夏でも長袖のシャツを着て、花柄のストールを首に巻いている。二十八歳の時、チカを産んだ。その頃サチは夫が継いだカレー屋を夫婦で営んでいた。街の小さなカレー屋さんで、近くにあった会社のサラリーマンたちが常連だった。しかし、第三次平成不況の波にのまれ、サラリーマンたちはこだわりのカレーから五百円かからないフランチャイズのハンバーガーに流れた。経営に行き詰っていたころ、夫が病に倒れる。サチはしばらく一人で店を切り盛りしていたが、経営状態は悪くなる一方だった。多少景気が回復しても、一度去ってしまった常連はもう戻ってこなかった。とうとう銀行からの融資が打ち切られ、サチはカレー屋を畳んだ。アルバイトで生活費と入院費を稼ぐ毎日が続く中、サチは何を食べても味を感じなくなった。忙しさのあまり好きなテレビ番組も忘れた。化粧をしなくなった。朝起きれない日が続くようになり、お風呂に入れなくなった。働けなくなり、チカを育てることはできなくなった。親族は皆サチを責めた。チカは児童養護施設に預けられた。夫は数年間入退院を繰り返した末に死んだ。それからサチは通院を続け、生活を立て直し、ようやく自立してきたころ、難治性血液がんの成人T細胞白血病(ATL)と診断された。その時、余命半年を宣告された。
 帽子をとった時に覗いた手首の内側を見て、チカはサチがこれまでに耐えてきた痛みを想像した。チカはサチを赦した。お母さんと、呼んであげることにした。それから毎週日曜日に二人は一緒に夕食を食べた。最初の頃はチカの家やレストランで、しばらくするとサチの病室で。チカは会うたびにサチのストールを褒めた。サチはほとんど知り合いがいない。だから話題に上るのはいつも亡き夫か、病院の先生か、市役所のケースワーカーだ。
 そんな日曜日の夜を、二十四回以上重ねた。もうすっかり風は冷たくなっていた。病院の待合室には、控えめなクリスマスツリーが飾られている。サチはまだ生きている。
「チカは仕事一筋なのね。結婚したいとは思わないの?」
「思うけど、今は仕事が忙しくて、そういうことは考える余裕が無いんだよ。」
「そろそろ結婚しないと、子ども産むのも難しくなる歳じゃないの。」
 チカが三十四歳になるころ、こんな会話が増えた。
「恋人がいたらいいな、とか家族を持てたら良いなと思うこともあるけど、このまま一人で生きていける気もするんだよ。」
 チカがそう言うと、
「そんな寂しいこと言わないで。」
 と返ってくる。ちょうどその頃、サチの話題に登場する人物に四人目が現れた。アユト君だ。
「例のパン屋さんでね、また会ったのよ、アユト君に。週四日は会ってるよ。楽報堂に勤めてるんですって。」
 例のパン屋さんとは、最近随分と早起きになったサチが開店と同時に行くパン屋のことだ。そして楽報堂勤めのアユト君も、朝出勤前にいつもそのパン屋に立ち寄るらしく、人のいない時間帯なのですぐに顔見知りになった。
「アユト君ね、独身で恋人もいないんですって。」
「え、それ本人に聞いたの?他人にそんなこと訊かない方が良いよ。」
 この半年でうすうす分かってきたが、サチにはデリカシーに欠けるところがある。
「話の流れでね。それにアユト君とは結構親しいのよ。」
「そう。ところで足の具合はどう?」
 チカは、抗がん剤の影響でサチの足が不自由になっていることを心配していた。足の話題に移ると、サチの表情は一瞬にして曇ってしまう。
「良くなることは無いの。でも、抗がん剤は止めて、ホスピスに入ることにしたから、これ以上は悪くならないよ。」
 医者の宣告通りなら、もうそろそろ、だ。チカには、サチに死の気配をあまり感じなかったが、本人が覚悟していることなので口は挟まなかった。ホスピスに入れば、知り合いの少ない母に、新しく友人ができるかもしれない。出来るだけポジティブな気分で過ごしてほしい。
「ホスピスはもう決まったの?」
「決まったよ。今月中には今の部屋を引き払う予定なの。」
 サチの身辺整理と引越しはチカが手伝った。ホスピスに移っても、サチは相変わらず綺麗なストールを首に巻いている。何故ストールを外さないのか、チカには分かっていた。チカはやっぱり会うたびにストールを褒める。最初にそれを褒めた時と同じ気持ちで。
「今日のストールも綺麗だね。似合ってるよ。」

  邂逅

 年が明け、東京にも雪が積もる日。サチはまだ生きていた。チカとお喋りすることもできる。死の気配はまだ感じられなかった。
「初めまして、佐藤アユトです。お母さまにはお世話になっています。」
「初めまして、猫橋チカです。こちらこそ、母がお世話になっています。すみません、わざわざお見舞いにまで来ていただいて。」
「いつもサチさんからチカさんのお話を聞いていて、一度お会いしたいと思っていたんです。サチさんにも、お世話になったので。」
 アユトはこう言うが、実際には半ば強引に引き合わされた。サチが、どうしても死ぬ前にチカの花嫁姿を見たいと望み、互いを紹介したのだ。
「私が生きているうちにチカに幸せになってほしいの。」
 と繰り返すサチに、
「今でも充分幸せだよ。」
 とチカは返すのだが、サチは聞き入れなかった。
 その夜、チカは帰宅すると化粧も落とさず、ワンピースのままマチコさんを抱えた。
「マチコさん聞いて、アユトさんと食事してきたんだけどね、少し狭い道を歩くときに車道側にいてくれたり、駅のホームが混んでいるときに線路から遠い方に誘導してくれたり、満員電車に乗ったときに後ろに立ってくれたり、そういうこと、全部ね、初めてだったからね。ふふふ。それでね、アユトさんもヤマシタトモコの漫画が好きでね、話が弾んじゃった。ふふ。」
 心なしか、マチコさんの瞳の色も明るい。
「でもね、不安になるよ。こんなに上手くいったこと無いからね。今日の楽しかった分、いつか壊れちゃう気がするんだよ。私の人生は、幸せの容量が決まっている気がするんだよ。その容量、結構小さくて、今日のでもう溢れちゃうんじゃないかって気がして、ちょっと怖いんだよ。」
 マチコさんの瞳の色は変わらない。
「そうだよね、大丈夫だよね。私にはマチコさんがついてる。だから何があっても大丈夫。マチコさんがこうやって傍にいてくれれば、私はそれだけで幸せだ。」
 そう言うとチカは立ち上がってジャージに着替えた。化粧を落として帰りに買ったアイスにかじりついた。
 それから衣替えをしてこたつをしまう時期になっても、サチはまだ生きていた。桜が咲き始めた。チカの幸せの容量は一向に溢れることは無かった。チカが思っていたより、容量は大きかったのだ。アユトとチカは何もかも上手くいっていた。会うたびに互いを好きになった。それぞれの仕事も順調だった。チカが、他人の人生ではないかと思うほど、上手く行っていた。そしてその様子に、サチも喜んでいた。チカの気が晴れない時に励ましてくれるのがマチコさんだけではなくなった。
「チカは面白いよ、最高だよ。フィンランド語話せる人なんかそういないよ。夢日記欠かさずつけてる人もそういないね。利きコーヒーはそれなりにいるかな。でもコンビニコーヒー限定でできる人はそういない。漫画が描ける人もそういない。こういうこと、全部持ってる人は、チカしかいないんだよ。だから僕は、チカだけが、大好きだよ。」
 それから二人で花見をして、雨がその花を落とし、水溜りが乾き、チカもアユトも腕をむきだしにするようになり、高尾山に紅葉を見に行き、また空気が冷えて、こたつを出した頃。
「マチコさん、私、結婚することになったよ。春からは、私とアユトとマチコさん、三人で暮らすことになるよ。お母さんもすごく喜んでた。これで安心させてあげられる。」
 サチはまだ健在だった。アユトはサチのことをよく知っていたが、チカはアユトの両親に会ったことが無かった。アユトもあまり話したがらなかったので、どんな人なのかも、チカはよく知らなかった。結婚するなら挨拶を、とチカは何度も言ったが、アユトは気乗りしないようだった。
「僕さ、父とあまり仲良くないんだよね。特に何かがあった訳では無いんだけど、どうしても価値観が合わないというか…。父はどう思ってるか分からないけど、僕が父のことを好きになれないんだ。」
「うん、どういう所が好きになれないの?」
「うーん、上手く言えないんだけど、例えばね、父は現役で働いてた頃、あ、銀行に勤めていたんだけど、新人が入ってくるたびに、夕食の時にその人のことを、意外と使える奴だとか全然使えない奴だとかって話すんだ。一緒に買い物をすると、父は会計の時、トレーにアメックスを投げ入れた。一緒に外食すると、味が気に入らないと言って作り直させていた。父が銀行で担当していたお店がね、不景気で経営が傾いてしまったことがあって、父はすぐに融資を打ち切ったんだ。あそこの奥さんは経営のことなんて分かっちゃいないから将来性が無いとかって家で話してた。そういうことが全部積み重なった結果、僕は父のことが好きになれないんだ。」

  灰燼(かいじん)

「マチコさん聞いてよ、今日ね、アユトの実家に挨拶に行くんだけどさ、すごく緊張する。どうしよう。結婚のこと認めてくれるかな。何も起きないといいな。それと、来週からアユトのマンションで暮らすんだよ。その時はマチコさんも一緒だよ。」
 アユトの両親への挨拶は日取りを決めるのに時間がかかった。二人とも仕事が忙しく、何よりしばらく帰省していないアユトの決心がつくまでに時間を要したのだ。その日は、チカの不安を拭い去るかのように澄んだ青空だった。チカはコートを羽織り、マフラーを手に取ってしばらく迷ったあと、クローゼットに戻した。テレビを消して、マチコさんの頭をぽんぽんと軽く叩いて、
「行ってきます。」
 と言って洗面台の電気を消し、かかとの高い靴を履く。階段を降りると、アユトの赤い車が見えた。まだ約束の時間より随分と早い。落ち着かなくて早めに家を出たチカよりもさらに前に、アユトは到着していた。アユトの両親は都内に住んでいるが、チカの家からは少し離れたところだ。途中のコンビニでコーヒーを買って、二人はのんびりと実家に向かった。
 実際に会ってみると、両親とも結婚には好意的だったのでチカは拍子抜けした。アユトの父親が、
「チカちゃんの方が年上なのか。女は若いに越したことはないけどね、三十前半ならセーフだな、ははは、冗談だよ、冗談。」
 と抜かしたときは鳥肌が立ったが、そういう時アユトは真剣に怒った。アユトが怒ると父親は驚いた顔をした。母親は少し笑う。チカはアユトの母親と仲良くなった。初めて、他人から料理を教わった。二人で里芋の煮っころがしを作っている間、アユトは何度も台所に手伝いに来た。アユトはそのレシピを既に知っていて、作れるのだが。そしてチカも得意料理である麻婆豆腐のレシピをアユトの母親に伝授した。帰り際、母親は
「今度うちに来たときは、また得意料理の教え合いっ子しましょうね。式もとても楽しみにしているからね。」
 と言った。父親は、
「次の楽しみは孫だな。チカちゃん、頑張ってくれよ。仕事は無理しなくてもアユトが支えるからな。はははは。」
 と言っていた。聞き流す能力が身に付きそうだ、とチカは思った。
 挨拶は成功だった。両親とも二人の結婚を祝福してくれたのだ。帰りは行きよりも会話が弾んだ。二人はまたコンビニに寄ってコーヒーを買い、のんびりとチカのアパートを目指した。
「なんだか騒がしいね。これ何のサイレンだっけ。近くで何かあったのかな。」
 チカの最寄り駅に差し掛かった時、アユトがそう言った。
 アパートに到着すると、アパートが燃えていた。救急車に黒く焦げた人が運ばれていく。口にハンカチを当ててしゃがみ込んでいる人もいる。テレビカメラを持った人もいる。二人は、言葉を失った。チカは数秒炎を見つめていたが、突然車から降りた。アパートに向かって走り出している。アユトは慌てて後を追う。
「え、ちょっと待って。チカ、待って、危ないよ!」
 そう叫びながら追いかけるがチカには聞こえていないようだった。
「マチコさん、マチコさんが中にいる!」
 チカは自らを制止する消防士にそう訴えている。
「チカ、落ち着いて。危ないから、離れていよう。」
 チカは泣き叫んでいる。
「中にマチコさんがいます、助けて、お願いします!」
 消防士も必死でチカを止める。アユトも後ろから腕をつかむ。
「落ち着いてください。中にいた人は全員外に誘導しました。意識を失っていた方も、全員搬送されました。もう中に人はいませんよ。」
「マチコさんがいます、助けて、マチコさん!」
「チカ、マチコさんって誰?ご近所さん?」
「ずっと一緒に暮らしてるの、まだ中にいる、助けて!」
「え?」
 チカのルームメイトなど知らないアユトは訳が分からないが、ひとまずチカをなだめることに集中する。
「大丈夫、マチコさんも逃げたはずだよ。それか病院に運ばれたかも。向こうにいる警察の人に訊いてみよう。とりあえず、ここ危ないから、ね?」
 アユトはそう言うと、納得しない様子で泣き続けるチカを強引にアパートから遠ざけた。車に戻って、チカをなだめる。チカが落ち着きを取り戻した頃、アユトが言った。
「チカ、マチコさんってルームメイト?初耳だから僕もびっくりしてるけど、取り敢えず警察の人に訊いてくるから、ここで待ってて。」
 そう言って車のドアを開けようとすると、チカに腕を掴まれた。
「違う、マチコさんは、自分で逃げられない。救急車にも乗れない。マチコさん、人形だから。だから、まだ部屋にいるはずなんだよ。」
 アユトは一瞬言葉に詰まる。ここまで取り乱したのだから、その人形をよほど大切にしていたのだろう。でも、人じゃなくて良かった、とアユトは安堵した。
「人形だったら、また買おう。すごく悲しいだろうけど、僕が新しいのをプレゼントするよ。どんな人形か教えてくれたら、全く同じものを用意してあげる。だから大丈夫だよ。予定より少し早いけど、今夜から僕のマンションにおいで。」
 それから数日後、二人が暮らすマンションに新しいムーミンが届いた。マチコさんと全く同じ色の目をした、全く同じ大きさの。チカはそれを抱きしめてみた。でも、マチコさんの匂いはしなかった。アユトは、気落ちしているチカを気遣って、毎日の夕食にチカの好きな物を作り、仕事の帰りにはチカの好きなアニメのDVDを借りてきた。結婚のことも
「チカが元気になるまで籍を入れるのも式の準備も延期しよう。今は傷を癒すことだけ考えよう。」
 と言って待ってくれた。でも、その傷が癒えることはないとチカは分かっていた。今ベッドの上にいる人形はマチコさんではない。こういう時、いつもチカの本音を聞いてくれたのはマチコさんだ。マチコさんが灰になった今、チカは、誰にも何も言えなかった。ただ、元気を取り戻したふりだけが、日に日に上手になった。
 一連の出来事をサチに話すと、
「辛かったねぇ。でも、傍にアユト君が付いていてくれて本当に良かった。本当に優しい人だねぇ。火事のことは、出来るだけ早く忘れて、アユト君との生活を楽しむのよ。チカは今、幸せを掴んでいる最中なのよ。」
 そう言って慰めてくれた。火事は、十七歳の少年たちによる放火が原因だった。チカの下の階に住んでいた七十歳のお年寄りが一人、逃げ遅れて亡くなった。その他に六人が火傷を負った。子どもが起こした放火殺人事件として数日間ニュースの話題に上がった。ニュースでは、亡くなった人の家族や近所の人が涙ながらに取材に応じている。
「母を返してください。火を付けた人のことは、絶対に許せません。」
「たまにすれ違うと、挨拶しましたよ。いつも笑顔で優しい人でした。」
 身内を亡くしているときに取材を求められるのは辛いだろうな、とチカは思う。幸い、チカのところには一度も取材は来なかった。チカは、家族を失ったわけでは無かったからだ。チカが失ったものは、人の命に比べれば、取るに足らないものだったから。

  華燭(かしょく)の典

 フォルティシモのドが響く。トロンボーンを担ぎ、髭をたくわえた男性がすっと息を吸い込んで勢いよく吐き出すと、その音が堂々と響いた。メンデルスゾーン作曲の結婚行進曲だ。大きな木製の扉が開くと右から左から拍手が沸き起こる。真っ白なスーツに身を包んだアユトが、真っ白なドレスをまとったチカの手を取ってゆっくりと歩いてくる。ゆっくりと歩きながら、アユトは満面の笑みを配っている。時折軽く頭を下げながらも歩く速度と笑顔は忘れないようだ。もうすぐ歩き終わる、そんな頃にチカの頬に一滴。そんなチカの頬を、アユトが笑いながら親指でそっと、拭った。
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