第1話

文字数 20,704文字

 「愛してるわ、あなた」
 「何言ってるんだ。それじゃまるで終わりみたいだぜ」
 「これで終わりよ」
 「なんでそんなことを言う?」男は手を前に持ってきて、手のひらを女に向けてかざす。その先では女の手の中で銃口がこちらを睨んでいる。「なんできみがそんなことをする必要がある?」
 「あなたを愛してるからよ」女は引き金を引くのに全身を強張らせて、力いっぱいにやった。血と涙が流れた。
 
                     ◆◆
 
1. 流れよわが涙
 
 夢でも勘弁してほしい。自分が死ぬ夢の後には、奇妙な胸騒ぎだけが布団の上に残った。眠りにつけば必ずこれだ。おまけにいつも同じあの女が出てくる。女の顔には悲しみと喜びが同居している。あの目は、オレの事をオレ以上に知っている。だが、実際そんなこともあり得るだろう。今のオレに残っている記憶はここ数日の出来事だけ。それ以前のことは、セピア色のピンボケ写真のように曖昧でとっ散らかっている。途端に詳細な場面を思い出すこともあったが、他人のもののようにも思えた。あるいはまるっきりその逆。今ここにある身体はオレのものではなく、セピアの記憶のほうが正しいのかもしれない。その中の登場人物の一人があの女である。女の名前はレイナで、オレのことをリキと呼んでいた。
 フェンスから出てきたときに腕についていた紙切れには、何桁かの番号とニジムラチョウジとあった。リキにもチョウジにも馴染みはなかった。とにかく今のオレの最初の記憶はフェンスである。あそこは何らかの施設で、オレがあの施設の厄介になっていたのは間違いない。格好といい、真っ白な部屋といい、いかにも映画に見た通りである。政府だか、どこかの金持ちの作った秘密研究機関だかの実験体。ひょっとするとオレは、何かしらの特殊能力を仕込まれた人間兵器なのかも。人造人間、クローン…、何者もあり得た。だが、今のところなにか変わった様子は見られない。それに、今がいつでここが東京の片隅であることもはっきりと分かる。こちらが夜なら地球の反対側は昼で、食事の後には歯を磨き、梅雨があってその後に夏が来ることも分かる。車の運転も、女の子の喜ばせ方も覚えている。相対性理論だって、触りだけは理解できる。ただ、自分が何者なのかは分からない。
 腹が減ってたまらない。当然、食べるものを買うお金は持ち合わせていないので奪うしかない。ここの家の住人にも出ていってもらった。彼には悪いとは思うが、それは彼の運である。多摩川の河川敷で酔いつぶれていた彼の運。そこをオレが通りかかった運。自分が何者でもない時、人は簡単に残酷になれるものだ。オレがもとより持ち合わせていた性分なのかもしれないが、自分がそうだと相手も何者でもない存在で、その身体はただの器にしか思えなかった。東京湾に流れ着いた死体が発見されれば、ここに踏み込まれるのも時間の問題だったから、あまり長居もできなかった。だが、不思議とテレビをつけてもニュースではそのことは報道されていなかったし、この世田谷の住宅街は閑静なままで、辺りは学生がうろついていた。彼らの平凡な暮らしぶりを見ると、かつて自分が手にしていたはずの平和に恋焦がれたが、そんなものは永遠に失われてしまった。たとえこの先どこかのタイミングで過去の自分が顔を出したとしても、疑いが晴れることはない。今のオレにはこの世界の全てが仮想のゲームに見えたし、その裏で誰かの陰謀や目論見が遂行されていることを疑わざるを得なかった。表の八百屋も、フェンスの連中も同じだった。たまたま役回りがそうであっただけで、誰もが他人を操ろうと蜘蛛の糸を張り巡らしていた。ここにいても個人の自由は存在しない。それでも、今のオレには個人すら与えられず、少なくともそれを取り戻す価値はあった。
 その日の午後には、部屋はそのままにアパートを後にした。コンビニで万引きした惣菜パンをむしりながら、次のプランを考えた。どこから始めればいいのか、とにかく手がかりが必要だった。唯一あるのは、レイナとリキという二つの名前。その矢先に、もう一つの名前が浮上することになる。それは、雑居ビルの広告モニターに映し出された小太りの男の下に並んだ「虹村慶次」の四文字。オレの名札と同じ名字。広告は虹村院長の病院で推し進められている最新の再生医療。こいつがゲームの首謀者に違いない。
 
                     ◆◆
 
 死と向き合うには若すぎた。結婚生活にも慣れきれていない一年目に、話すべき話題は子供のこととか将来についてだろう。しかし、それは一般的な家庭の話であって、今只野家で起こっている事態はそんな生易しいものじゃなかった。慎ましい妻は、夫よりも少し早く仕事を終えて帰宅し、夕食の支度をする。愛する夫の帰りを鼻歌交じりに待ち望んでいる。玄関の方で鍵を鍵穴に突っ込む音が聞こえる。それは、期待と歓喜と、そして趣味の悪いいたずら好きの悪魔が私たちにはどうすることもできない運命の報せを持ち込む音だった。私たちはただそれに翻弄されるしかない。小走りに玄関まで行き、私は彼を笑顔で出迎える。いつもそこで彼は同じように笑うと、私の額にキスをする。その日もいつもどおりの慣習が行われる。しかし、彼の顔に浮かべられているのは、再会に対する喜びと安堵ではなく、心配と不安、こちらに救いを求めるかのような顔色。
 「あなた、何かあったの?」私が言う。
 「何もないってことはないよ。とにかく、玄関先で話すことじゃないな」そう言うと、彼はネクタイを緩め、荷物と一日の疲れを部屋に下ろす。急いで食事の支度に戻るが、胸のざわめきで手元が落ち着かない。全ての料理が机の上に並ぶと、二人向かい合って席についた。「会社の健康診断があったんだ」彼の箸が何度かつついていると、きれいに秋刀魚のはらわたが開く。「MRIの項目で脳におっきい影があるって。今週末に詳しい検査をして調べなきゃいけないんだけど、このサイズの腫瘍があるとしたらあらゆる事態を想定しなければならないでしょうって…」
 「まだそんなに悪いって決まったわけじゃないでしょ?とにかくお医者さんの話を聞かないと…」
 「一緒についてきてくれ」
 「もちろんよ」
 「まだ二七だぜ?この歳で癌なんて考えたこともなかった」
 「気を強くもって」
 「心配させて悪いな。オレならきみが思ってるより大丈夫だ」
 「心配するわよ」
 「美味いなこれ!」彼は机の向こうで笑っている。ご飯をかきこんだ勢いで頬に米粒がついてしまっている。それを私が取ってあげる。思わずこちらも笑みがこぼれる。
 
                     ◆◆
 
 週末にはもう一度検査があって、更に二週間後にその結果を聞きに病院に行った。その間は仕事も家事もろくに手がつけられなかった。集中はすぐに途絶え、意識はあちこちに飛んでいった。時計の針の音が気になり、コーヒーの湯気が視界を曇らせた。いつも寝ている寝室はどこか違う部屋になった。隣では夫があまりに静かに眠っているので、呼吸に耳をすませて生きているのかを確かめた。かと言って、誰かに相談することもできなかった。何もかもが想像の範疇で、誰にもどうすることもできなかったからだ。それでも、当日に真四角のでかすぎる病院の建物を見た時にはある程度の覚悟が決まっていたつもりでいた。
 「事態は深刻ですね」担当医は間も置かずに淡々と癌の進行具合を説明して、余命を告げた。余命?
 「ええ。何も処置をしないで半年といったところでしょうか。もちろん治療次第ではいくらか伸びます」
 「もう助からないみたいに言わないでよ!」自分の中で抑えていたものが一気にこみ上げた。
 「ですが、奥さん。逆にここまで放っておいたのが信じられないくらいですよ。仕事に行くのだって辛いはずです」
 私は医者に向けた眼差しをそのまま、今度は夫に向けた。
 「仕事疲れ程度にしか思ってなかったんだって。きみが思うほどオレは悪くないさ」
 「死ぬって言ってるのよ?まだ三〇年も生きないで、その心臓は止まって脳みそは仕事をやめるのよ?どうして強がったことを言うのよ」本当は私がしっかりして夫の背中を擦ってあげなければいけないはずである。しかし、その場で私は声を出して泣いてしまった。自分の無力さを思うと、一層涙が流れた。
 医者は、まだ話には続きがあるからとにかく一度待合室で待っていてほしい、と言う。これ以上話を聞くだけの心の容量はもう残っちゃいないわ。他にまだ悪い報せがあるって言うの?もったいぶらないで今すぐここで言ったらいいじゃない。残された時間はその間にも過ぎていくのよ。ただもうそれは期限付きの時限爆弾になってしまって…。思考を巡らせれば巡らせるほど最悪が更新され続けた。死ぬことがどういうことなのかも、まだちゃんと分かっていないままだった。
 待合室ではたくさんの患者が自分の順番を待っていた。程度は違えど、どれを取って見ても何かしらの問題を抱えて今ここにいた。できることは結局、気の持ちようだけなのだ。私が泣き叫んだところで時間が伸びたりするわけでもないし、少なくともまだ二人には幸せな日々があるのも事実だった。それは院内の壁の白ほどに明白だった。床には各診療科へと続く導線のテープが引っ張られていて、あらゆるところで一つになったり、枝分かれしたりした。それでも迷って右往左往している老人が困り顔をして誰かの助けを求めている。手術室に向かうであろう患者が運ばれてくると、それに道を空けるために端に寄って縮こまった。目を瞑るとまぶたの裏が熱かった。少しは鼓動も落ち着き手足の震えも収まったが、まだすぐそこで感情の暴れ馬が眠っている。この人なしにはとても生きていけそうにない。私はこれほどまで弱い人間だったのだろうか。流れよ涙、と頭の中で呟いた。
 「只野さん…只野零奈さん」
 振り返ると先程の担当医が薄ら笑いと眼鏡を顔面に貼り付けて立っている。その後ろでは、もう一人男が杖をついてこちらを見下ろしている。杖の持ち手には金色の獅子の飾りがついている。
 「院長の虹村慶次と申します」
 
                     ◆◆
 
 2. 浮上する疑惑と焦りとあくび
 
 列車は加速し続ける。目的地には程遠く、過ぎ去る景色は延々と代わり映えしない。ひたすら荒野が続き、どこかでコヨーテが遠吠えする。貨物列車なので他には誰も乗っていない。ランデブーならば最高だ。この世の涯てへと続く逃避行。男が下で女が跨って上だ。しかし、状況は少し違う。上で女は似合わない四四口径のぶっ太いマグナムを男の頭に突きつけている。それなのに目からは涙を流している。
 「人の顔の上で泣くな」
 「ごめんなさい」
 「謝るな」
 女だったが、華奢な身体にぴったりのシャツとカウボーイハットはジョン・ルーリーさながらにキマっていた。男は泥棒なのか、強盗なのか、とにかく悪党の目つきで、絶体絶命のこの状況にもまるで怯む様子はなく、むしろその女にある種の信用を置いているようだった。
 トンネルに入ると真っ暗になって列車の音が耳を支配した。二人は大声で何か会話をするが、聞き取れない。しかし、二人にはしっかり分かっている。涙は顔の上に落ちて乾く。先の明かりが見えて、外の風が吹き込み、静かになる。
 「さよならしろ」
 
                     ◆◆
 
 そろそろ追手が来てもいいはずだ。施設から逃げ出したのだから、オレの存在は重要機密であって、捕まえるにしろ、殺すにしろ、早急な対処が必要なはずである。町中が怪しく見えたが、疑惑は疑惑のままで、実際のところ危害が加わることはまるでなかった。おそらくオレがどう出るかを少し離れたところから観察しているのだろう。もしかしたら、脱出自体が想定されたシナリオで、どう足掻いてもオレはゲームの中から抜け出せないのかもしれない。フェンスの中のことも、どうやって抜け出したかも、意識が朦朧としていたのであまり覚えてはいない。そのせいで、あの施設がどこにあるのかも分からなくなってしまった。まずは何より院長に接近することだ。動くとすぐに腹が減る。飯を食って腹が満たされると眠気がくる。やるべきことは山積みのはずなのに、その眠気にはすっかり勝てなかった。
 しばらく公園のベンチで眠ってしまっていた。かいた汗が乾いて肌寒くなった。しっかり日に当たってしまったので日焼けしたところが突っ張っている。おそらく、オレが眠りこけている間にも様々な事態が進展していたことだろう。もうとっくにオレの代わりのヤツが何らかの成果を挙げて国の栄誉賞だか何たるかの褒章にあやかっているかもしれない。そうすれば、本当にオレなんかは用済みで一生ここで葉っぱの色が変わっていくのを眺めていても誰一人咎めないのではないか。まったく、寝起きのまどろみの戯言である。しゃんと目を覚まさなければ。重い腰を上げて、たとえその先には後に退き下がりたくなるような結末が待っていたとしても、今は前進を止めてはいけない。今やるべきことは、確固たる真実の探求。脇目も振らず、一個でも多くのピースをかき集めパズルをはめていくこと。そう思いながらも、依然として背中はぴったりとベンチの表面にくっついたままだった。すると、ちょうど同じ目線のところに幼子の顔がきた。
 「ボウズ、おうちに帰る時間だぞ」
 男の子はしかめっ面で鼻水は垂らしっぱなしだった。くしゃみをしたので、その全部がオレの顔にかかった。汚え、何しやがる!
 「おじさん死んでるの?」
 「そうだ。殺人事件だぞ。お金を欲しがった強盗に後頭部を一発殴られて、打ちどころが悪くてな。傷跡見るか?おじさん、見た目よりはまだ若いんだ。未来ある若者は突然の悲劇に見舞われてしまって、全てを失ってしまうんだ。記憶もぶっ飛んで駆け寄る恋人の顔も分からない。その腕の中で徐々に意識は薄れて…」
 「ぼくが遊んでる間ずっと寝てたよ」男の子の鼻の穴から新たな泉が湧き立ち始める。左と右とで、どちらが先を行くかの競争が始まった。「背の高いおじさんに聞かれたけど、ぼくは何も知らないって答えたんだ」
 「背の高いおじさん?」
 「その人が、おじさんのこと死んだ人って呼んでたんだよ」
 まだ少し頭がはっきりしなかった。上体を起こして、血が全体に流れていくようにしてやった。「そいつはどんなヤツだった?」
 「背が高くて、サングラスかけてた」
 「ボウズ」オレは少し考えた。新たな登場人物である謎の男は、追いかけるべき存在なのか、はたまたオレは今すぐここから逃げなければいけないのか。こちらへの接触がないとすれば、特別危険視する必要もないのか。しかし、相手方に主導権が握られているのがどうにも気に食わない。そいつの魂胆はともかくとして、もはや自分は二四時間常に誰かに監視されている可能性が高いことが分かったし、こちらからも何とかして向こうのしっぽをつかむきっかけがなければいけない。まるで安らかな眠りが妨げられたかのように思えてきて、無性に腹が立ってきた。「何か食うもの持ってるか?」
 男の子が片方の手を差し出して開くと、中からはあんぱんが出てきた。しっかり握りしめていたせいで皺が寄って少し中身がはみ出してきている。
 「交換だよ。何か欲しい物があるなら、それと同じだけの物と交換しないとダメなんだよ」
 「分かってるよ。これでいいか?」財布の中を探ると、奥からプロサッカー選手のカードが出てきたのでそれを引っ張り出した。前の持ち主が大事に取っていたのだろう。薄いビニールがかけられて新品のように折り目もついていない。
 「何これ」
 「レアカードだぞ!ほら、裏がキラキラ光ってる。こいつを持ってると、ラッキーが回ってくるぞ」
 「おじさんはいいの?」
 「おじさんはもう使っちまった。一人一回までだ」
 地下鉄の駅に向かうと、途中から帰路につく人々が合流してきて、すぐに道幅いっぱいになった。孤独な群衆。彼らは孤独の記憶をもつ。記憶がなくても…、やはり孤独だった。それは、夜になると一層浮き彫りになっていった。誰かは誰かを探し、あるいは去っていく。皮肉なことに、オレはオレを見失って迷子になっていたし、オレからは逃れることもできなかった。遠くから月に照らされる。夜の深みにハマらないように。
 改札は前の人が通り抜けるのについて入った。人は周りにも大勢いたし、うまく距離を取っていれば一人くらいいてもいなくても誰も気づくまい。そのことに注意を払っていたおかげで、実はすぐ後ろにサングラスの男がいるのを、危うく見逃すところだった。まだ彼はこちらが気づいていることに気づいていない。どこかのタイミングで逆転だ。それならば、電車に乗るタイミングを利用したい。階段を降りると、一瞬死角になったところで柱の脇に身を滑り込ませた。案の定、向こうは辺りをキョロキョロと見渡している。どの顔を覗き込んでも、みな手元のスクリーンに夢中でよく顔が見えない。真横の壁では、水着の女の子がポスターの中で笑っていた。ちょうど目の前に小麦肌のケツが来る。そこでオレは、しばし南のビーチに旅行する。砂浜に寝転ぶ若い女たち。寄せては帰る波打ち際。その向こうから背の高いサングラスが歩いてくる。ベルが鳴って電車が流れてきた。ドアが開いたと同時に、オレは後ろからサングラスの手首を掴むと、背中のところで固めて車両の中まで押し込んだ。どちらにせよ、車内は人で溢れかえり二人とも全く身動きが取くなっていた。会話も憚られ、仕方がないのでそのままで降りる駅を待った。人の密集した密室は、すぐに空気が薄くなった。電車の揺れる度に隣の人とくっついたり離れたりして、次第に落ち着いた。背を向けていたこともあってか、緊張の糸はぷっつり切れてしまった。あと六つ、五つ、と数えている内に、オレは眠ってしまった。
 
                     ◆◆
 
 路地裏に迷い込んだ一匹のネズミ。とうとう追い詰められてしまって、後はない。窮鼠猫を噛むとは言うが、ネズミの方にその気がなければそれまでである。今となっては存分に繰り広げられた追走劇、高尚なゲームの駆け引きにも満足した様子で、その場でゆっくりと振り返ると、両手を広げて追手を迎え入れた。立場が許されるのならば、その手に抱いて敵への敬意と親しみを示したいほどである。追手も似たような気持ちを抱きつつも、決着をつける意に変更はないようだ。
 「何か言い残すことはある?」
 生ゴミのすえた匂いが辺りを覆う。その上に煙が立ち込める。
 「きみに殺されるのなら本望だ」
 「地獄に堕ちても?」
 「ああ」男はネクタイに手をかけ、それから首筋に溜まった汗を指で拭い取った。「ただ故郷へ帰るだけだ」一方、追手の女は両手でしっかりと拳銃を持って、男の心臓部分を捉えたままぴくりとも動かない。両者ともに黒のスーツに身を包んでいる。かつてはお互いに全幅の信頼を置けるほどのパートナーだったのかもしれない。少なくとも、その間には他人には立ち入ることのできない特別な感情があることは確かだ。「きみに会えなくなるのは寂しいな」
 女は優しい笑みを浮かべ、その後で歯を食いしばった。「すぐに会えるわ」
 
                     ◆◆
 
 先ほどとは違う立派な部屋に通された。四角い部屋の一辺が丸々窓ガラスになっていて、そこからは東京タワーとスカイツリーの両方が見えた。奥の方には大きい机と革の椅子があって、その組み合わせを見ただけでここが院長の部屋であると分かる。私たちは真ん中でソファの向かい合っているところに案内された。来客の定位置はこちら。
 虹村院長はまず、ご自慢のエスプレッソマシンの説明を始めた。イタリアから取り寄せた代物らしく、それから何たるかの島でしか取れないという豆を目の前で挽いた。エスプレッソを淹れると、今度は同じ温度にミルクを温めて、三杯分のコーヒーそれぞれにそれをカップいっぱいのところまで注いだ。机に置く前で一度立ち止まり、その叡智、文明の開ける香りを自分で楽しむ。目は瞑っていた。それから、「どうぞ」と言って私たち二人にコーヒーを勧めた。夫はスプーンで表面の泡を掬い取ってから、院長と同じほど優雅な所作で一口目に取りかかる。その落ち着き具合には、自分の限りある命に対する心配など皆無である。この一週間のうちのどこかで、例えば、顔を知っている者の訃報とか、深夜の野生動物の弱肉強食を扱ったドキュメンタリーやなんかを見て、自分に降りりかかる運命に対しての達観に至ったのだろうか。見たことないほどの青ざめた顔で玄関に立っていた時を思い出すと、少し腹が立った。今もなお混乱と焦燥に駆られているのは、こちらだけなのだろうか。完全に院長のペースである。どうにかして、この空間を占めている地中海の空気と、馴れ合った雰囲気を一変させてやりたかった。
 虹村院長は、夫との世間話を続けながら、今度は後ろの棚からLP盤を取り出した。ジャケットは、ピアノ越しにピアノを弾いているピアニストの顔写真。目は瞑って、顔は少し上気させている感じ。その隣で肩に手を置く赤いドレスの女性。彼女が向こう側から微笑みかける。その昔、自分の母が町の小さなジャズクラブで歌をやっていたことを思い出す。母はピアニストに恋をしていた。その男はいつも目を瞑って、甘い音を部屋中に響き渡らせる。何も言わないでピアノを弾く時だけはそれで良かった。だが、ひとたび口を開けば、まったく口だけの男だった。その男は私を母に産ませて一年も経たずに町を出ていって消えてしまった。そんな話はもうこりごりだ!裏切りが常の世、いつでも半信半疑。うまい話の奥に隠された下心にうんざりさせられる。それでも何かを期待してしまう。この局面を打開する起死回生の一手があると言うの?もしかすると、夫はそれをすでに確信しているのかもしれない。この院長が次に持ち出してくる提案に、たとえそれに見逃せないほどのリスクが伴おうとも、彼は丸っきりそれに乗っかるつもりでいるのだ。果たして本当にそれを信じていいのだろうか。彼の勇敢さにはいつも助けられてきたが、もしそれによって彼が自分自身の身を滅ぼしかねない状況があるのだとしたら、その時に彼を救えるのは私しかいない。しかし、今はまず院長の出番だった。院長が彼を助けるための案を提示する、それが筋書きだった。それを待って、私は私の役目が来るのを待って、その時に正しいことをするしかなかった。レコードに針が落ちる音が心臓を貫いた。夫は、レニー・トリスターノが好きだ、と言った。くたばれ音楽!
 「再生医療についてはどれほどご存知で?」
 夫と院長とのの世間話が、いつの間にか核心へと近づく道のりへと方向転換を始めていた。始めの方は少し聞き逃してしまっていたが、つまるところ虹村院長の持つこの虹村総合医療センターでは、再生医療の研究に重きを置いていて、その分野は国からの援助を受けるほどに今社会の脚光を浴びているとのことだった。そして、時は満ちた。夫はまさしく、その成果が発揮されるこのタイミングで病院へやって来た未治療の、新規の癌患者だったのだ。夫は再生医療を選び、再生医療は夫を選んだ。
 「再生医療っていうのは、ダメになった細胞を新しく培養した健全なものと取り替えるってことですか?」私が質問した。
 「まさしくその通り!交換ですよ、古いものから新しいものへとね。そうすれば、癌どころかまったくの健康体になれますよ。いずれは老いることもなくなるでしょう。死んだ細胞は取り替えればいいんですから」
 「夫から何らかの形で採取した細胞組織を使って、その培養体は作るんですか?」
 「その逆です」虹村院長はコーヒーをずずずっと音を立ててすすった。「替わってもらうのは、旦那さんの中身の方です」
 
                     ◆◆
 
 人の流れで自然と外まで身体が運ばれた。逃げ出すつもりはないと分かったので、サングラスの拘束を解いた。問答は道中で進めていくことにした。
 仕事帰りのエキストラたちには頃合いを見計らって退散してもらった。外を歩いているうちに、気がつけば街明かりの乏しい路地裏に来ていた。おおかたは病院のある方角に間違いはなかったのでよしとしよう。地下にいる間にこちらでは一雨あったようだ。水たまりとはいかないまでも、至るところが濡れて黒く光った。
 「こそこそ後をつけやがって。てめえは何者だ?」
 「聞きたいのはそこじゃないだろ。自分こそ何者だ?」
 背の高い男が上から見下ろしてくるのが気に食わなかったので、オレはそいつのサングラスを取って道の端へ投げ捨てた。斜視だとも思ったが、よく観察すると右目は作り物だと分かった。
 「お前は何を知ってる?おれの何を知っている?」
 「きみは自分の何を知ってる?」
 「くだらねえ哲学問答はやめろって!」
 「大事なことなんだ」まばたきをすると、偽物の方の目がゴロゴロと動いた。「全てを忘れたわけじゃないだろ?きみがどの部分かってことが分かれば、他の部分も探せるはずだ」
 「施設で目を覚ます前のことは分からねえ。あそこでされた実験のせいなのか?虹村って名字は何なんだ」
 男が立ち止まって後方を確認する。それからオレの腕を掴むと、その手に力が入る。
 「そこまで分かってるなら十分じゃないか。今から病院に突入ってわけだな。自分で確かめるといい。そうさ、きみはそうしなければいけない。自分の足で結末に辿り着かないといけないんだ。それがこのゲームのルールさ。私はただの案内人に過ぎず、きみが病院まで行くのを見届ける」
 「ああ、そうするつもりさ。お前が何者かなんて知ったこっちゃないからな。今すぐ消え失せてもらっても結構」
 「虹村の病院がやってるのは再生医療だ。つまりさ、古い細胞に代わって使える新しい細胞に交換するって話。それには捨てられるものも要るってわけだ。意味分かるか?私は用済みになったんだ。あとは廃棄されるだけの」男は胸の小さいポケットから縮れた紙切れを取り出して広げた。何桁かの番号、その後にニジムラコウジとあった。「それが嫌なら」男は続けた。「失った部分を取り戻すことだ」
 夜風が露出している肌をさらった。目の前を見据えてはいたが、頭を働かせすぎたせいか疲労感が襲って、それは眠気に変わりあくびを誘発する。男が耳元であらゆる名前を呼び続ける。角を曲がってようやく病院の裏手に出た。オレの言った通りに、男はたちまちどこかへ消え失せてしまった。
 
                     ◆◆
 
3. 廃棄される夢
 
 「古い方…そんな言い方はしたくないけど、つまり必要なくなった方はどうなるんです?」
 「廃棄ですよ。失礼致しました。言葉遣いに気をつけなくては…。なにせこの分野はまだ浸透しておらず、その全てが今までの常識を覆すものですから。扱い方が難しいわけです。ご遺体はしかとした形式をとって弔いの儀を行うのもよろしいでしょう。とにかくそこは個人の自由であります」
 私が知りたいことはそんなことではない。たしかにそれも重要な事項の一部ではあるが、まずどこからこの不条理のパズルの空白を埋めていけばいいのか途方に暮れてしまっているのである。今となっては、院長の慎重なまでの事の運び方、私たちに対する気遣いが分かって、その親切心に心を打たれてすらいる。彼は、私たちがこの得体の知れない奇想天外なプロジェクトを最小限の摩擦の内に飲み込めるよう限りを尽くしてくれたのである。
 「つまり、この身体にはさよならして、全てデータを移行するっていうイメージなんですね?コンピュータみたいに」夫が言った。
 「その通り」
 「でも、本当に可能なんですか?オレは機械仕掛けじゃないんですよ?」
 「細胞一つ一つに記憶が、つまりデータが蓄積されているわけです。これを別に用意した身体に転送していくんです。この、別に用意するのは、いわばプロトタイプ。人間の原基形態です。そこに只野さんのデータが取り込まれれば、数週間で現在のご年齢まであっという間に成長して完全に復旧します」
 「途中でデータが消失してしまったら?」私が言った。
 「それがリスクです」虹村院長が言った。
 しばしの沈黙。それぞれが以上の会話に対して己の脳みそがどういった反応を示すかを待って、それからそれを相手にどう伝えるかを様々な足し算と引き算の末にまとめた。
 院長曰く、記憶を司るデータはエネルギー体だというのだ。それがどういうものなのかはさておき、身体はそれを留めておく、いわば器で、その器に問題が生じたのならば、それを捨ててまるごと取り替えてしまえばいいというのが話の筋だった。まさしく、新しいモデルのコンピュータにデータだけを移行するかのように。新しいハードとの相性だとか、前モデルへの愛着などはたしかに想定しうる問題ではあるが、全てが失われるわけではない。むしろ、一度はダメだと思ったものが、100%ではないにしろ失われることなく元通り戻ってくるのだ。今隣にいるこの人と私との間に設けられた制限時間は更新され、それは今から考えれば永遠に近いほどの数字にまで膨れ上がるのだ。
 今の私には、あまりの突拍子のなさが逆に一縷の望みのオレンジの灯火に見えた。あまりに現実味がなく、劇的展開過ぎる。しかし、先の見えない投薬だとか放射線に比べれば、よっぽど希望をかけられるように思えた。それに、私も夫も、元来の冒険好きがここにきてひょっこり顔を出し始めていた。お互いに顔を見合わせると、思わず笑みをこらえきれずにいた。私たちは本格的にこの深宇宙旅行行きの船の切符に手をかけていた。その様子に味をしめたのか、虹村院長は細胞分裂とエネルギー体、電気信号についての説明を話し始めた。しかし、それについては何一つ分からなかった。曲をかけ終わったレコードのターンテーブルが後ろで回り続けた。その真上には、絵があった。絵には、何もない土地に列車のレールを敷いている人々の働く姿が描かれていた。西部開拓時代には、アメリカ大陸を横断する鉄道の開通が新たな時代の礎となった。彼らはそれを、フロンティア精神と呼んでいた。
 「記憶の転送には展開と集結が必要です。つまり、一度バラして別々のルートを辿って、最後に器の中で一つに収まるわけですね。実感としては眠りについて目を覚ますのと何ら変わりないでしょう。ただし、転送にはかなりのエネルギー負荷がかかるので、MCH神経の活性が起こるでしょう。記憶の整理にはどうしても必要な作業なのです」
 「難しい言葉は使わないでよ!それじゃまるで分からないわ」
 「夢を見るってことですよ。しかも、分散して違うルートを通るそれぞれのデータが違う夢をね。おそらく目を覚ましてしまえば忘れてしまうので、知らなくてもいい話ですが…」
 「癌は完全に断ち切れるんですよね?つまり、オレが言いたいのは…、癌の記憶が細胞に転送されてしまったんじゃ、新しい身体でもそれがまた増殖して同じことが繰り返されてしまうんじゃないかって…」
 「もちろんその心配は要りません。万全を喫して、不要な部分の除去はこちらで行うことが可能ですから。もちろん不要な部分という判断が難しいわけで、それによる多少の誤差は避けられません。例えば、ほくろの位置とか指の長さとか、本当に詳細な点において同一人物とは言い難いですが、それでもこれが自分であると疑いなく自覚できるほどまでに精度は高まりました。一定のリハビリ期間を経て、何一つ遜色なく以前の生活に復帰できるのです」
 これで一通りのやり取りが終了した。多少胸のしこりは残っているものの、もはやこれ以外に最適な方法などあり得ないとすら考えた。始めのうちは、細胞が替わってしまったらそれはクローンであって、本人とは言えないのではないだろうかとも思ったが、私たちは新陳代謝の後にわずか何ヶ月だかの時間で全身の細胞を入れ替えているという話もある。この身体はただの器に過ぎない。大事なのは、その内側に宿る魂、自分自身だと認める自我である。唯一、それを確かめる方法は私たち二人の間に築かれてきた関係性だ。自分に向けられる愛情があれば、相手に覚える思いやりの感情があれば、それがすなわち自分という存在を確固たるものにしてくれる。それさえあれば、形はどうあれ私たちが死んでどこかへ消えてしまうなんてことは起きないのだ。ようやく腑に落ちてきた頃になって、次にやって来るのはそれを超える不条理だった。唐突に突きつけられたその新たなる試練には、完全に面を喰らってしまった。
 虹村院長は夫だけを先に部屋から追い出した。ほんの五分少々だけのお時間をいただきたいという彼の言う通り、その提案は単刀直入に届けられたが、私が二つ返事でそれに応えることはできなかった。
 「生きている人間の身体とエネルギー体の分離というのはとても難しいんですね。一度離れてしまえばあっという間に転送が始まるのですが、それにはまず、とても強力な起爆剤となるショックが必要になります」虹村院長が言った。「只野零奈さん。あなたはあなたの旦那さん、只野力さんを殺さなくてはいけません」
 
                     ◆◆
 
 これほどの長さのビーチは世界でも指折りである。おまけにどこまで行ってもキメの細かい白い砂浜で気持ちがいい。このシーズンにはすっかり観光客で埋め尽くされている。エリアが分けられて、左側が遊泳、右側がサーフィンとなっている。
 「こんな場所で死ぬのか?」
 男は海パン一つで、露出している部分は全て小麦色。並んで女もビキニ姿で、通り過ぎる男どもは一人残らずケツに釘付けである。
 「死ぬ夢だって分かってるでしょ?あなたは私にこれで殺されるの」女は下敷きのバスタオルからもぞもぞとコルトを取り出す。銀色の銃身が反射して眩しい。
 「きっとオレは前にもこうやって死んだんだ。不思議といつも幸福感に満たされて。繰り返し」
 「気がついちゃうのは、珍しいんじゃない?」
 「前々から疑ってはいたんだ。でも結局さ、夢だって現実だってどっちでもいい」
 「次来る時はバカンスがいいわね。借りた車にランチボックス積んで、持ち運びのスピーカーで音楽を垂れ流すのよ」
 いつの間にか二人の間に置かれているランチボックスからポートワインがはみ出ている。それを男は取り出して胸のところで抱える。
 「そしたらまた、殺してくれるか?」
 二人は唇を重ね、それが終わると、銃声、瓶の割れる音、こぼれるワインの赤、出血。辺りの人々はまるで気にも留めていない様子。木陰や、パラソルや、日差しの当たる箇所で、眠りこけていた。
 
                     ◆◆
 
 手術当日には、11時30分に院長が直接案内に来るということになっていて、それまで病院の待合室で待たされた。長椅子に二人腰掛けて、特に会話はなかった。。今は、11時23分。夫と私とでは、それぞれ質の違う緊張の面持ちだった。そして、それに気がついているのは私だけだった。院長からは、必要な書類一式を渡されていた。ほとんどは一般的な手術への同意書と何ら変わりはない。「これが殺人に当たるのか、法律で取り決めてもらうのには一番手間がかかりましたよ」虹村院長はこう説明していた。「本当は医師免許のある者が行うのが正当なんですけどね。先程も申し上げたように、ショックが必要ですので…。それはもちろん、身体とエネルギー体の乖離のためですが、データの復元が行われる過程にも効果を示します。実を言うと、こちらの方が重要なのです。つまり、記憶にはインパクトが大事なんですね。眠りに就く前の最後の記憶が鮮明でショッキングなものであることによって、記憶が正確に復元される可能性は高くなるはずです」
 向かいの長椅子には、首を固定している患者が座っていた。鼻のてっぺんは切れ、目にも青たんができてしまって元の顔が分からない。「Surreal(超現実)」というロゴのTシャツを着ている。サーファーの間で最近人気のブランドだ。
 「大変なお怪我ですね。事故にでも遭われたんですか?」夫が話題をふる。彼が誰かに親切を働く時は、自分に余裕がない時である。
 「サーフィンですよ。こればっかりはやめられなくて」サーファーが言った。
 「しばらくはできそうにないですね。せっかくシーズンに入ったのに」
 「こないだの医者には安静するように言われました。でもね、ここの先生は少ししたらどんどん動かせって言うんです」首が動かないので、上半身をひねって時計に目をやる。11時28分。「まあ、どっちでもいいんですけどね」
 「医者の言うことなんて聞く必要ありませんよ。ご自分で決めたらいい」
 「それをするのが嫌なんです」
 視界の端に、金色の獅子が見えた。二度角を曲がって、エレベーターに乗って違う階へ行った。そこから真っ直ぐ伸びた廊下の突き当りに部屋があった。そこで夫とは一度別れ、私はすぐ隣の部屋に入った。
 その部屋からはガラス越しに夫の様子を全て見ることができた。服装も着た時のままでベッドに寝かされ、至るところに貼られたり刺されたりして、管が通された。できるだけ眠りに就く前の記憶が鮮明に残されるようにという説明が、私にされた時と同じように虹村院長から夫にされた。ショック、起爆剤、乖離の部分は除いて。
 虹村院長が部屋を後にすると、こちらの部屋のドアが開いて、彼が入ってきた。しばらくはそのままにしてリラックス状態を作り出さなければいけないらしい。二人で並んで向こうの部屋の夫を眺める。リキは静かにただ時の訪れと経過を待っていた。底の知れない暗闇が目の前で構えているというのに、彼は勇敢だった。その奥にはとびきりタチの悪い悪魔が潜んでいるかも知れない。愛する者の待つわが家の温もりには触れることができないかもしれない。ただ冷たくなって、そこからは孤独の世界。私はそばにはいてあげられない。今みたいに、たとえその全てを把握していたとしても、ただ身を悶えて沈黙を決め込むしかない。
 院長からモデルガンが手渡された。重さはないが、細かい所の施しまで精巧に造られていた。
 「やりすぎくらいがちょうどいいんですよ」院長はこちらに無駄な緊張を与えないよう、軽い口調を保った。「引き金を引くと、電気ショックのスイッチになります。彼からしたら撃たれたも同じですよ。それで心臓が停止したら、一気に転送作業に入ります。血流が停止すると細胞も壊れますので、その頃には転送も完了すると思います。早くて三時間ですね」
 モデルガンを手にした直後から、脳内では何度もシュミレーションが行われた。彼はどうんな顔をするだろうか。最後になんて言葉がけをするべきだろうか。逆に何も言わずにいられるのだろうか。もしも、データの転送が上手くいかずに途中で損なわれてしまったら。あるいは、新しい身体との整合性が取れず、私のことを忘れてしまったり、関係を修復できなくなったら。これが彼に会える最後だとしたら…。私は彼を殺したの?
 遂に幕は上がった。舞台となる部屋には三人。虹村院長がドアのところに立って、私、リキがベッドに寝そべっている。彼は私の姿が見えると、何も言わないが笑いかける。それはこちらを安心させるためにするものだ。私もそれに応える。手を握る。そうするのが精一杯である。私は私の役を、今こそ演じきらなければいけない。
 「だめだよ。リラックスした状態じゃないといけないんだって。心を乱しちゃいけないんだ」
 夫の静かな声が部屋中に響き渡る。目を閉じれば、玄関先の優しいやり取りがすぐに思い出された。
 「これできっとよくなるわ。全てが、うまくいくのよ」
 「そうだ。オレの言った通りだろ?大丈夫だって」
 一歩後ずさって、隠していた銃を握っている方の手を前に持ってくる。それを彼に向けた途端に、彼の顔色が変わった。
 「一体なんだそれは?」
 ここですぐさま撃つべきだ。今なら彼はとてつもないショックの内に深い眠りに入って、次には病室のベッドの上。しかし、手が震えてしまって指が絞らない。その震えは肩までせり上がって、全身を覆い尽くし、目からは涙がこぼれ落ちる。
 「どういうわけか説明してくれよ!きみは何をしてるんだ?」
 「あなたを殺すのよ」
 「なんだって?」
 「愛しているから!」
 彼には到底理解の追いつかないことだろう。戸惑いは隠せず、驚きの中で少しずつ疑いが沸き起こってきて、その全てに翻弄されている。縛られてはいたものの、彼が力を込めればすぐに拘束を解いて私を止めるなり、余所へ避難するなりもできたはずだった。だが、彼は私から目を離さず、その様子を見ているうちにその言葉の意味を理解した。というよりも、信じた。それが何であるかは投げてしまって、ただ今から私が彼にすることを信じた。ああ、なんと勇気のある目つきだろうか。私は、この場面でさえも彼に勇気づけられていた。
 「レイナ」彼が言った。
 「リキ」私は意を決して再び拳銃を彼に向けた。涙が乾いて頬に貼り付いていた。「愛しているわ、あなた」
 彼は銃口をまっすぐ睨んで、にっこりと笑った。「それは最後に取っておけよ」
 彼の心臓の鼓動が止まった。
 
                      ◆◆
 
4. おめざめのときも、すやすやなるときも
 
 いつか書けなくなる時が来るだろう。書くことが病気だとすれば、書かなくなることは快復とも言えるのかもしれない。書くことは誰しもが陥る病である。作家でなくても言葉を必要とする職業はいくらでもある。誰かに伝えるために、自分の考えをまとめるのに、書くことになる。今オレが取り組んでいるのは後者である。いや、誰かに伝えるという思惑もあるかもしれない。相手がいるわけではないが。もしかしたら、あの女に向けて書いているかもしれない。レイナという名前の女。彼女がもしも本当に存在して、オレがそれを思い出したのならこれを読む機会も訪れるかもしれない。しかし、その頃にはこんなものはとっくに必要なくなっていることだろう。読むためではなく、書くために書いている。恐れているから書くのだ。消えて失くなる記憶に、精一杯の親愛を込めて。
 結局、病院に突入を決めたのは二日後だった。その夜はやり過ごして、次の日には一日中人の出入りを見ていた。小太りの院長の姿を確認することはできなかった。ありがちな患者の往来、救急車、営業の薬売り、医者とホステスのデートがあった。明るくなって昼が過ぎる頃に、角のカフェで一杯コーヒーを嗜んだ。その末に、机に置かれた会計伝票の紙の裏に、徒然なる思いの丈を書き綴ることになる。少し文章を練り上げるにはスペースが足りなすぎたが、それくらいで終わらしておくのがちょうどいい。おかげでしっかりと踏ん切りがついた。
 
  長いこと注意を引いているきみの存在が
  深い森で見えなくなって
  その末に
  空が白けてしまう
 
 男が消えてから、男の言ったことを考えてみた。再生医療とはまさしく等価交換。すなわち、オレたちは誰かのリペアとして作られたということか。健全なパーツを、病に冒された部分と取り替えるために。あるいは、オレは既に整備済みの新しいヤツなのかも。ちょっとその過程で不手際があったか、新しい身体と馴染むのに時間が少々かかってしまって色んなことを忘れているだけなのだ。そうだとして、オレは院長を引っ張り出してきて何を問いただす?答えは単純だ。オレが何者なのか。ただそれだけを明らかにしてしまえばいい。記憶を回復させる装置やなんかも用意してくれるかもしれない。それができなかったとしても、自分の名前が分かれば次に何をすべきかが見えてくるというもの。少なくとも、あの小太りと同じ名字ではいたくない。ようやく、この引き延ばされ続けてきたストーリーをもう一歩核心へと踏み込ませるところにきた。病院の裏手から出てきた車の中に院長の姿を見た。
 病院には簡単に侵入することができた。あまりに多くの人が、多くの役を演じていたからだ。オレは場面場面であらゆる立場になり変わり、少しずつその最深部へと近づいていた。途中、配達屋が手一杯になって床に置いた段ボール箱をくすね、それを使って院長室への入室の認可を得た。
 「外出中にこの荷物を運び込めって言われて…」
 「ご苦労さまです」
 部屋に入ると、一面のガラス窓に東京の街並みが映っているのが印象的だった。そう長い時間は許されていなかったので、あちこちをひっくり返して手がかりになり得るものを探し出した。コツコツと音が立った。振り返ると、そこには杖をついた小太りの男が立っていた。ドアの開く音も閉まる音も聞かなかったはずだ。だが、既にそこに彼がいる。杖を地面にコツとやる。
 「きみがここに来ることを知らないとでも思ったか?」
 「わざと招き入れたみたいに言うなよ」
 「それが筋書きだからね」院長が杖で真ん中のソファを指した。「そこに座って、話を前に進めようじゃないか」
 「ゆっくりしに来たんじゃない。オレが質問をして、あんたが答えて終わりだ。その答え次第では、その杖をひったくってあんたを痛めつけなければいけないかもしれない」
 「座る必要はないな。話は単純で、すぐに終わるわけだし…」
 オレは机の上のペットボトルを取って、中の水を飲んで捨てた。こちらが手段を厭わないことが本気であると示すために、できるだけ乱暴に振る舞った。
 「オレの名前はなんだ?」
 「いっぱいある。なんでもいいが、多分その中で重要なのは只野力という名前だろう」
 「どういう意味だ?オレは何者だ」
 「つまり、何者でもいいってことさ。きみが本当は何者だろうと関係ないってこと」
 「でも、何者かではあるべきだろう」
 「それを知りたいなら、そこのドアを開けて自分で確かめるといい」
 院長の杖が今度はオレの方を向く。しかし、それはオレに対してという意味ではなく、その後ろにある入口とは違う別のドアのことだった。ここだけは最後にとっておいて、まだ中を見ていなかった。彼からは目を離さないようにしながら、ドアの方へと近づいてドアノブに触れた。開けるのに戸惑いはなかった。眠気も、今はどこか遠くの方にあった。
 「ああ」
 オレは隙間から流れ込んできた風を思い出した。匂いと音と景色が、それぞれ横をすり抜けていった。何もない白い部屋に、レイナと二人だった。後から院長が入ってきてドアを閉める。そこはどこでも良かった。見晴らしのいい丘でもいいし、土埃の荒野でもいい。いつか二人で旅行した沖縄の島の風景なんかだったら最高にお気に入りだ。だが、これだけはダメだ!何もない部屋の中で、白い壁に迫られて押しつぶされてしまう。他のどこかでないとダメなんだ。
 「思い出した?」レイナはこの時を何年も待っていたかのようで、今にも泣き出してしまいそうだった。
 「オレのことも、きみのことも」
 「楽な道のりなんてなかった」レイナの目からゆっくりと涙が降りて輝く。「私には待つことしかできなかったんだから」
 「待たせてしまって悪かったね」
 オレはレイナの額にキスしてやる。二人とも笑っている。安心させてやるために彼女の手を握ろうとする。探っていると、手に触れるのは柔肌ではなく、冷たく固まった鉄だ。
 「どうしてこんなもの持ってる?」
 「あなた、まだ夢の途中よ」
 院長の杖をつく音が近づいてくる。すぐ後ろのところで立ち止まって、一つ咳払いをする。
 「きみはきみの一部にしかすぎない。また向こうでその他の部分と集まって一つにならなきゃいけないんだ。この夢を終わらせてね」院長の言葉が鳴っている間も、オレたち二人は見つめ合っていた。「それから残念な報せだが、これは廃棄される夢だ」
 彼女の頬を再び涙が、同じ経路を辿って落ちる。それをオレが拭ってやる。銃声は一発。
 
                      ◆◆
 
 男は静かな病室で目を覚ます。花瓶がすぐ横に置かれている。反対側に頭を持ってくると、女がじっと見つめて、男が何か言い出すのを待っている。
 「長い夢を見てたよ」
 女の目には、少し疑いの影がある。この人は私のことを分かっているのだろうか。何も異常はないのだろうか。それには男も気がついていて、微笑みかけてその心配が無用であることを教えてあげる。
 「どんな夢だったの?」
 「もう忘れちゃったよ」
 男と女は手を取り合う。女は彼の手の甲に頬を擦り寄せ、そこから漏れ出る匂いを吸い込む。
 「本当に、何も問題ないの?」
 「ああ、今のところ何も問題はないと思うね」
 男は女を腕に抱き寄せる。それから二人、口づけを交わす。間に女の涙が紛れ込んできて男は塩っぱいと感じる。実際、疑いは拭いきれなかった。これが現実のやり取りなのか、お互いは本当にお互いを認知し、想っているのか。だが、その疑いこそ実感となった。最初の再会こそぎこちなかったか、「次にはオレがきみを殺す番だな」と男が言うと、途端にそれまでの勘繰りが可笑しく思えて笑えた。二人にはそれを楽しむ勇気があった。
 男がリハビリを終えて退院すると、二人だけで葬式をすることにした。葬式は誰もいないどこかの丘陵地帯で行った。遺体を燃やして灰にすると、それを崖からばら撒くのがいいか、お墓を立てるべきかでしばらく話し合いがされた。結局、男が本当に死んだ時にお参りがややこしくなるからという理由で、ばら撒く方が選ばれた。海も見える見晴らしのいい崖を見つけると、ついでにピクニックをしていくことにした。オリーブとポートワイン、音楽である。
 「自分の葬式をするとは思わなかったよ」
 「そうよ」女が言った。「あなたはもう死んだの。私に殺されちゃったの」
 「あれだけはもう勘弁!思い出すだけでも胸糞悪くなっちゃうぜ」男は笑った。
 「愛してるわ、あなた」
 「ああ、本当に。まったくその通りだよ。オレも同じさ」
 二人はそれを崖に向かって誓った。そうでなければ、今すぐここから飛び降りて死んでしまっても構わないつもりでいた。
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