第1話

文字数 1,906文字

 私は人から不平不満を聞くのが嫌いだ。
 亡くなった祖母から言われたことがある。

『自分の機嫌は自分でとれ、他人を当てにしてはいけない』

 私はその教えを守ってきた。
 愚痴を言いたくなったり不愉快な思いをした時は、誰にも漏らさずに自分の力でどうにかしてきた。
 今度も私は努力して自分の居心地の良い場所を作った。
 みんなそうすればいいのにと思う。

 ヘトヘトだった。
 休日の一日が丸潰れだ。
 コインランドリーから帰ってきた私は、まだ生乾きのタオルや衣服をベランダに干した。
 一度に大量に詰め込みすぎた。
 滅多に使わないから分量がわからなかったのだ。

 洗濯物を干していたら、大きな満月に手が止まった。
 月など見上げるのは久しぶりだ。
 疲れで鈍化していた気持ちが一気に軽くなる。
 だが、しばらく見惚れていたのがいけなかった。

「こんな時間に洗濯したの?」

 隣のベランダから声をかけられた。
 女が隔板から身を乗り出して、こっちを見ている。
 六十前後。私の母親と同世代の女だ。
 どうもと、とりあえず私は頭を下げた。

「今日も仕事だったの? 遅くまで大変ね。今時の若い人は女の人でもフルタイムで働いてる人が多いわね」

 私はまた頭を下げて部屋に入ろうとした。
 この後もやることがたくさんある。
 ()しのイベントが始まるのだ。

「うちのヒロがね」

 まだ話すのかと、私は振り返った。

「暴れんのよ」

 女はまだこっちを見ている。
 腕を見せてきた。古いのや新しいのや切り傷だらけだった。

「普段はおとなしい子なのに、満月になると私に刃向かうの。男の生理かしら?」

 まずいと思った。
 このまま話を聞いて、厄介に巻き込まれたくない。
 警察に相談したらどうかと言いたいが、そうなると私もあれこれ訊かれることになる。
 面倒だ。

「誰がきいても、同情してくれるような難産だったのよ」

 女は自分がいかに苦労して息子を産んだか、育てたかを語り始めた。
 早くこの場から逃げたかったが、少しこの人が可哀想になってきた。
 私の母のように他に話す相手がいないのかもしれない。

 まあ私も生身の人と話すのは久しぶりだ。
 昨今の事情でリモートワークが始まり、人と会話する機会はめっぽう減った。
 支払いもほとんどカード。会計の時に一万円札を取り出して、『大きくてすみません』とか『細かいお金あります』と小銭を漁ることもなくなった。

 でも寂しいとは思わない。
 私にはSNSで繋がっている友人たちがいる。同じ推しを愛でる仲間たちだ。
 楽しく充実したリアルが私にはある。
 母やこの人とは違う。

 私の母は友人もいない、趣味もない人だった。
 いつもお金がないとこぼし、芸能ゴシップが大好きだった。
 自分は不満だらけの日々を送りながら、彼氏もいず二次元キャラに入れ込む私をバカにした。
 自分で自分を幸せにしてあげようと、努力しない女だった。

「満月が近づくとね、息子を殺しちゃおうかな、なんて思うのよ」

 突然そう言うと、女は顔を引っ込めた。
 さすがに気になり、私は隣を覗いた。
 女はタバコに火をつけていた。

「吸う?」

 と私にタバコを勧めてくる。
 結構ですと、私は身をひいて部屋に入ろうとしたがまた声をかけられた。

「あなた、いい子ね」

 振り返ったら、女がタバコを手にしてこっちを見ていた。

「洗濯物の干し方、丁寧だし、几帳面なのね」

 笑っていた。

「向こう隣のおじさん、私がベランダでタバコ吸ってたら、臭いがこっちにやってくるから止めろって、怒鳴ってきたのよ」

 あなたはそういうこと言わないのねと、女はまた笑った。

「また、話ししようよ」

 と、お隣さんは姿を消した。

 サッシの扉が開き、閉まる音がした。

 私も部屋に入った。
 ほんのちょっとだけ、胸があったかい。
 母は亡くなった。もう会えない。
 適度な距離でいられるなら、またお隣さんとおしゃべりしてもいい。

 私が傷つかないちょうどいい距離。それが何より大事だ。

 ずいぶん時間を取られてしまった。
 もうすぐイベントが始まる。
 私は服を脱ぎながら浴室に駆け込んだ。
 身をきれいにしてから推しに会う。
 これは私の儀式だ。

 私が住んでいるのは古い団地だ。
 浴室に洗濯機が置いてある。
 中には苦労して細かくした母親が入っている。
 あれをどうやって溶かすかは、後でゆっくり考えよう。
 まずはイベントだ。

 急いで体を拭いてスマホを手にして、気がついた。
 隣の部屋との間の壁を見る。

 息子が暴れると言っていたが、私は今日、作業中に一度も隣から大きな物音を聞いていない。

 さてはあの人も、ちゃんと自分の幸福を自分の手で掴んだのか。

 やるじゃん!

 今度会ったら、名前を聞こう。
 
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