竹林の古書店

文字数 3,882文字

たった一度のしくじりだった。

その一件で周囲からの私への評価は、「敗北者」へと転落した。
元より、妬みや嫉そねみが噴出した部分もあったのかもしれない。けれど、私にはどうであっても同じだった。というより、関心がなかった。
私への評価は、暴落した。そしてそれは自分自身に対しても、同様だった。

挫折知らずは自覚していたが、それを自慢に思っていたわけではない。
事実、私にとりたてて才能はない。たまたま自分に根気強さ、あえて言ってみれば、努力の才能と幸運があったというべきか。

本来は口下手だが、業務に支障のない範囲でコミュニケーションにも気を配ってきた。正直なところ好きでそうしていたわけではないが、この時代、それなくして業務は進捗するものではない。可もなく不可もなしの人望ではあったのだろうが、少なくとも積極的に嫌われるいわれはないはずだった。

仕事には手ごたえを感じていたが、生き甲斐ではなかった。ならば何が楽しくて生きているのかと問われれば、何もなかった。

あるのは結果だけ。何でもいい。何かしら残る結果だけが、私の時間が無為ではなかったと証明してくれる。努力とは、私にとって、単に自分の空白を埋めるための作業だったのかもしれない。周囲が推察していたような上に昇るための行いではなく、単純にそれ以外の生き方が分からなかっただけなのだ。

そのうえ、「楽しい」という感情も、未だ実感したことがない。
成果さえ出せば認められる社会生活において、巧妙に擬態していたが、私にはどこか、つながりや評価を欲して生きる人としての、欠陥があるのかもしれない。

とはいえ、生活は続く。どれだけ周囲の視線が冷たくても、出社し、目の前の業務に邁進まいしんしなくてはならない。昇進の話は取り消しになりそうだというが、もとより私にはどうでもいいことだった。求められれば全力で応じるし、求められなければ黙ってそこにいるだけだ。慣例のようなものだ。そこに感情はない。

時折私をして、『冷めている』と評する者がいた。飲みの席だったと、記憶している。笑ってみせたが、内心はぎくりとしていた。その都度場にふさわしい態度を心がけていたつもりだったが、温度が感じられないということだろうか。もし仮に、この心性を『冷たさ』と呼ぶなら、この『冷たさ』はどこに起因するのだろうか。

可笑(おか)しい』という感情が、私には希薄だ。

代わりにあるのは、『間違いか否か』という判別と、その判断に要する労を惜しまないことだけだ。あるいはこれをひとは、『生き甲斐』と呼ぶのだろうか。

ならばなぜ私には、空白が残るのだろう。埋められることのない回答用紙を、ずっと私は目のあたりにしているような気がする。

これまでは、「結果」という二文字がその空白を埋めていた。
巻き返しはきくだろう。けれどそれまでの時間をつつがなく過ごすことに、私は以前ほどの力を感じることができなくなっていた。

そんな私に、変わった習慣ができた。
古書店に立ち寄ることである。そしてその店番をしているのは、難しい顔をした狐である。

エキノコックスを持っていないか心配なので近しくしたことはないが、晴れた日は木造の店舗の日陰に、ござと古書を広げている。

この場所は、たまたま見つけた。住宅街から外れた、奥まった竹林の中である。
その古い家屋が店舗だと分かったのは、客が来ているのを時折目にするからだった。

客層はいろいろである。おそらく生きている人間(これも、客層はいろいろである)であることもあるし、おそらく生きていないであろう(たいてい、透き通っていた)人間であることもあった。だが、たいていは動物であった。今まで確認できたのは、烏カラス、猫、狐、リスなどであった。狸たぬきの姿は、これまでのところは目にしていない。

「あんた、客かい」

数度目に訪れたとき、不意に声をかけられた。

「見世物じゃないんだけどね」

人語を解するのか。ああ、そういえば人間の姿もあった。
本に目を落としたまま、心なしか不愉快そうに言う狐に、非礼を詫びる。
反射的に名刺を出そうとして、今日は私服であったことに気がついた。

「すみません。他意はなかったのですが、珍しくてつい・・・・・・」

追い払われるかと思ったが、狐は「ふん」と鼻を鳴らしただけだった。
風がそよぎ、竹の葉の擦れる、さわさわとした音がした。

「こちらは、長いんですか」

気詰まりになり、思い切って質問をしてみた。

「そうでもないね」という素っ気ない返事が返ってきた。

「まだこっちの質問に答えてもらってないね。あんた、客なのかい」

「私は・・・・・・」

さしたる答えがなくて、返答にまごつく。いや、即席の客になってもいいのだが、元より動物が好きというわけでもないし、野生の狐に接触することへの不安もある。

前足立ちして座っている狐の前には、開いた古書が数冊広がっている。
中味が非常に気になるが、近づくにはいろいろと勇気がいる。

「あの、そちらの本は、どのような・・・・・・」

「気になるなら拒みはせん。来て確認するがいい。それとも、近づくのが怖いか」

それは怖いだろう、いろいろと。とは思ったが、口には出さなかった。

「その、店主さんは、お稲荷様か何かでいらっしゃるのですか」

来る途中に、そういえば小さな祠ほこらがあった。

「そのような上等なものではない。ただの狐だ。少しばかり長生きしただけだ」

「さようですか・・・・・・」

訊きたいことはいろいろあるのだが、口にすることははばかられた。意味もなく頭を搔いていると、狐のほうから口を開いた。

「誰でもがここに来れるというわけではないようだ。お前、何をしにここに来た」

こっちが訊きたい。というのが正直なところだが、意識外に私の口から出たのは、別の言葉だった。

「分からないものが、分からないのです」

初めて狐が、半分ほどこちらを向いた。木漏れ日が落ちた眉間に、しわが寄っている。

「これだから人間は面妖(めんよう)だ。いや、面倒だな。わけのわからないことばかり言う」

「すみません」

おそらく人間が相手でも、相手が哲学者やカウンセラーでもない限り、同じようなことを言われたであろう。だが、他に言葉が出てこなかった。

「言っておくが、そのような胡乱うろんな問いに答えるようなものなぞ、うちでは扱っておらんぞ。行くなら、よそに行ってくれ」

それはそうだろう。ここに、そんな自己啓発のような本が在庫しているとは思えない。

「では、こちらに来られるお客さんは、どのようなものを・・・・・・」

狐は、今度はこちらを真正面から見据えた。毛皮に覆われてはいるが、心底珍しいものを見たという顔である。

「決まっている。生き残るための本だ。他に何がある」

「生き残る・・・・・・」

「生きているなら、当然だろう。腹は満たさねばならんし、先祖の知恵も必要だ。頑丈な住処すみかづくり、避けるべき場所、病の分類、いくらでもある」

どうやら、動物にも、人間のいう「本能」では済まない世界があるらしい。
一息置き、狐は続けた。

「人間だけだ。わけのわからないことを言うのは」

「・・・・・・」

「気の毒にな。いらぬ感情を持ちすぎたか」

「それは・・・・・・」

いらぬ感情。そう言われてみて、初めて自分の中でかすかな違和感がした。
私にも、感情はある。けれどこれは、何だろう。いつの間にか無味乾燥になったとばかり思っていた、この胸に訪れた、この名づけられない感覚は。

「いらない、わけではなかった・・・・・・はずです」
「ほう」と言い、狐は続けた。
「そのようには見えなかったが。私の見当違いか」

「そうかも、しれません・・・・・・」

なぜかは分からない。いつの間にか、片側の目から涙が滴っていた。
私は、私は―――。

「―――寂しい・・・・・・」

行ってみれば、たったの4文字だった。そしてその4文字が、私がついぞ口にできなかったことであったのだ。
結果を出せば、人は集まる。地位は得られる。けれど自分には、何もなかった。
欲していた。けれどその溝は、あがいても埋まらなかったのだ。

「ならば、探せばいい。みな、そうしている。人間には、できぬのか?」

できなかった。けれどそれは、私が私の気持ちに、蓋をしていただけではなかったのだろうか。私は他者に対してよりもまず、本当に自分と対話したことが、あったのだろうか。

「失礼だが、店じまいさせてもらうよ。日が強くなってきた。日焼けさせるわけにもいかないのでね」

なおも言葉を続けようとした私に向かって、狐はそういって背を向けた。
気がつくと、私は陽の降り注ぐ竹林の中で、声をあげて泣いていた。

その後のことについて言えば、特に変わったことはない。
日々は淡々と過ぎていき、風評はなだらかに無害なものへと変わっていった。
変わったといえば、ふと立ち寄った古書店で出会った気難しい店主と、時折言葉を交わすようになったことくらいだ。

竹林の奥。
あの最深部に、切り立った崖があることを知ったのは、それから数年後のことだった。



付記:本作の表題には、「転がる石には苔が生えぬ」という格言をもじって使用しています。これは元々はイギリスの格言で、『一所に居つかない者には大成はない』といった否定的な意味合いがある言葉だとされています。

対して、米国ではこの言葉に対し、『活発に活動するものは、時代に取り残されない』といった、肯定的な意味合いが付与されているそうです。

今回の作品を執筆するにあたり、筆者はこの格言に個人的な意味合いを付与し、表題といたしました。その内実については、皆様のお感じになったものをそのまま当てはめていただければと思います。
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