名探偵はもう答えている

文字数 1,829文字

「彼女ならいないぞ」

 黒革なめしの椅子がぎいぃと軋む。くるりと背凭れが回転し、座った彼が私に向き直った。事務所に入ってすぐ右に庶務机があるが、そこにあの女性事務員の姿はなかった。

「今度、彼女の親戚が結婚するそうだ。それで今は里帰りしている」

 机の上は昨日まできれいに整頓されていたのだろうが、今は領収書や書類がちょうど黒革椅子から投げてよこしたみたいに散らばっている。日付は今日のものだった。

「用件があるなら聞くぞ」

 椅子を軋ませて立ち上がる。私に長椅子を勧め、彼はその向かいに座った。早くしろ、と指先で机を叩く。

 私はどう切り出そうか考えあぐねていた。鞄には依頼内容の資料もあるし、ことの要点も把握している。あとは口を開いて、実は、と切り出すだけなのに。

 最初の一言が出ない。

「例の事件なら犯人は庭師だ。川底をさらえ。そう遠くない場所に凶器が落ちている。明後日には雨が降る見込みだ。それまでに動くのが賢明だと判断するが」

 いつも彼はこうだった。ここへ来たのが私でなくとも同じ態度で接する。
 実在する名探偵。IQは200とも300とも噂されて、名門大学を飛び級で卒業したとか真偽不明の評判まで飛び交っている。でも、ずば抜けて頭がいいのは確かだ。

 入室して私はまだ一度も口を開いていない。だというのに鞄の中にある依頼は解決済みだった。

 相手が尋ねるより先に答えを口にする。それが彼の名探偵たる証左だ。

 来客の第一声は、どうもありがとうございました。それがこの探偵事務所での常識だ。そんな彼らに比べれば、座れた私は長居できた方だと思う。

「用件があるなら聞くと言ったんだ。今の一件だけじゃないだろ」

 席を立とうとした私はその一言に引き留められた。

「好物のパスタを食べたのは気分をあげて、少しでも饒舌に話せるようにするためだな」

 どうして、それを。訊こうとして彼が先に答える。

「襟にソースが跳ねている。色合いと君の好みからしてナポリタンであるのは間違いない。加えて、君は思い悩むと些細なミスをするきらいがある。ここへ来るまでソースの染みに気づかなかったのも他に考え悩むことがあったからだ」

 小説にでてくる探偵役みたいなことを言う。でも確かにブラウスにはオレンジ色のソースが飛んでいた。

「人間は悩んだり落ち込んだりすると口数が減り、顔も俯き加減になる。今日の君は目を伏せがちだ。いつものコンタクトではなく眼鏡をかけてきたのも注意をそらすためか」

 はっとして咄嗟に手で眼鏡を隠してしまう。あの事務員の女性がいなくてよかった。

「そのダサい眼鏡を選ぶ人間がこの世に二人もいた事実には驚きだが、まあそれはいい」

 てっきり眼鏡は彼の好みだと思っていたが、私の勝手な勘違いだったらしい。頰が熱くなる。構わず彼は続けた。

「問題は外見ではなく、むしろ内面の方だ。ナポリタンで無理に気分をあげようとしたり、眼鏡をかけて注意をそらそうとしたり、そこまでして他人に知られたくない悩みがある。だというのに君はここへきた」

 心を手にとられているみたいだった。

 ここに来ると、私の心は透明なガラス玉になってしまう。胸の穴から机のうえに転がり落ちて、彼は宝石を精査する宝石商のようにつぶさに観察する。裸の心はガラスであるから中にある想いまで丸見えで、360度どこからでも見えてしまう。

 恥ずかしくないといえば嘘になる。でも彼にだけなら、という気持ちもあった。

 初めて彼と会ったときも彼は私より先に口を開いた。尋ねるより早く、先回りして疑問に答えられてしまい、私は困惑したのだったけ。その後も何度か顔をあわせる機会があった。

 唾を飲む。この気持ちだけは自分の口で伝えたい。でも、その前に訊かないといけないことがある。例え返答の次第によっては諦めることになったとしても。

「最初に言ったはずだ」

 黒革椅子に戻った彼は背凭れをくるりと回転させる。ブラインドの隙間から日が差していた。逆光で表情は見えない。

「彼女ならいないぞ」

 ぞんざいな口調だ。普段ならどうやって先読みしたかの推理を語るはずなのに、今日の名探偵はやけに寡黙だった。まるで自信のない自分を隠そうとしているみたいで、私には今の彼が初めて恋を知った少年に見えた。

「……いたこともない」

 その性格なら、そうでしょうね。

 いつの間にか私の唇は微笑んでいた。席を立って、黒革椅子の正面に回る。窓の外に目を向けた彼に、私はずっと秘めていた想いを告げた。
 
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