Prologue 3 煉瓦①

文字数 4,566文字

 午前の授業は座学。
 初日から授業はあったが必修科目……俗に一般課程というものが翠陽にはある。
 この日も午前は現代文と数学、英語、日本史。
 参考書と板書と教諭たちの解説とのにらめっこ。
 さすが名門だけあって驚くべき情報量が短時間に詰め込まれる。桜太郎は頭が沸騰しそうな思いをした。
 何せスポーツ推薦入学。文学は好きなので国語や英語はともかく数学や科学といった理数系はあまり得意ではなかった。とはいえ桜太郎は最初から勉学の成績に関して期待されているわけではないので運動部はじめスポーツで結果が残せればいい。そういう点では他生徒より気楽だった。だが、根はまじめなのが桜太郎だ。必死に勉強についていこうと努力は惜しまなかった。
 しかし、限界は感じる。そういうときに都合よく思い出すのはシリカ。覚えている限り彼女も勉強は得意ではないはず。中学までは一夜漬けが得意で碌に授業を受けていなくても点数だけは高かった。
 ……そう思っていたのは入学してすぐのころまで。
 見れば居眠りすることなくシリカは真面目に教諭の話を聞き熱心に板書を写していた。
 幼馴染といえど桜太郎はそういう姿を茶化すような性根はしていない。ただよく知っている彼女の姿とは違うことに少しの驚きと感心があるだけだ。
 だから、今はシリカを見て挫けそうな精神を奮い立てている。
 本日午前最後の日本史の授業。終了の本鈴が鳴る10分前。
 担当教諭が腕時計を確認して言った。
「よし、少し早いが本日はここまで」
 ざわつく教室。柏手を打ち教諭は生徒を制止する。
「ホームルームで連絡があったと思うが今日から選択学科の授業がある」
 三枝教諭もそんなことを言っていたっけ。
「この授業中に事務の方が昇降口のみんなのロッカーに個別のカリキュラムのプリントを貼り付けているはずだから、休み時間が終わる前に必ずロッカーに寄るように」
 律儀に生徒たちは返事する。さすが名門校。統率が取れている。
「福祉科と情報科、調理科、工業科、美術科、音楽科の生徒はB棟で。引き続き一般課程の授業があるが後日改めてここまでの内容をゆっくり復習する時間を設けるから安心してくれ」
 ここで安堵の声がいくつか上がる。
 入学式からの数日。詰め込み授業に参っていたのはどうやら自分だけではなかったらしい。
 ……では今までのスパルタとも思える詰め込み授業は?
「かなり詰め込んで厳しい思いをさせたと思うが、今挙げた学科はここから多少余裕ができる予定だ」
 ?
 桜太郎は思わず首を傾げる。
 じんぎかは……?
 教諭の指した学科名に桜太郎の選択したらしい学科はなかった。
 本鈴の後参考書とノート、授業のプリントを挟んだファイルを揃えて深い息をつく。疲れた。
「おつかれさま、桜太郎」
 ねぎらう声と共にふわりと甘い香りがした。疲れが吹き飛んだ。
「ああ、ニナは疲れなかったか?」
 ニナは腕組みして天井を見る。
「どうだろう。詰め込みには慣れてるから。桜太郎が通ってた小中学校はのんびりしてたのかな?」
「そういうもんか」
 納得する。
 最近は小中学校から詰め込み教育があり児童生徒のストレスになっているとニュースで聞いたことがあった。桜太郎たちの学校はまだその影響を受けていなかったから、詰め込み教育経験者からすればこの授業ペースもそれなりに捌けてしまうのかもしれない。
「まあ毎日あんな感じだったら確かに参っちゃうかもね」
「ああ。そういえばニナは今日から登校、なんだったな。勉強大丈夫か、こんな調子だったけど」
 ふと進捗を振り返ると今日まででなんと参考書の半分を超えていた。一月で一年分の授業が終わるのではないかと心配する勢いだった。
「ノートとか見る?」
「お、綺麗にとってあるね。すごいね桜太郎。でも大丈夫」
「そうか?」
「受け取った参考書の内容はもう家でやったからね」
「まさか、全部か?」
「そのまさかさ」
 気を失いそうになる。この、二倍の量を、一月でやった。
 ニナはそれを誇るわけでもなくさらりと言った。只物ではない。
 桜太郎は素直に尊敬した。
「でも何故こんなにハイペースなんだろうな」
「それはね。刃技科の生徒は座学より大事なものを学ぶことになるからだよ」
「大事な?」
「そう。ここまでの無茶な詰め込み授業はこれから一般課程をほとんど学ばなくなる刃技科の生徒に合わせたもの、だろうね。刃技科を持つ学校はどこもそうだろうけど。でもさすが名門だよ。一日受けて分かった。すごく質が高い授業だ」
 自分のノートを開いて眺めると深く頷く。そこに嫌味はない。
 これならもっと早く登校を始めてもよかったかな。そんな呟きからもそれは感じられた。
「ニナはじんぎか、なんだよな」
「そうだよ。だから今日から登校。刃技科を学ぶために入学したから」
 それは本格的に選択学科を学ぶ日まで翠陽に来る意味がなかった事を指す。それ以外に興味がなかった、とも言える。
 褒められることかといえばそんなことはないのだろうが。
 ニナはそれだけその分野に真摯に向き合おうとしている。桜太郎はそう感じたしニナという人間がとてもかっこよく見えた。
「そういえばさっき聞きそびれてたっけ。桜太郎は何科なの?」
「あ、そうだった。俺は」
 三枝教諭とのやり取りを思い出す。
 そうだ。俺も……。
「じんぎか……」
「本当!?そうしたら三年一緒だね」
 ニナは胸を撫でる仕草をして心底嬉しそうに笑う。
 三年……三年間ニナと一緒の学科。
 言われてじわじわと感動が湧き上がってくる。
 翠陽の選択学科は一度選ぶと手続きをしない限り学校生活の三年間通して学ぶことになる。その分野のプロフェッショナルになり社会に羽ばたく、あるいはさらにその分野を極めるべく進学することを翠陽では求められるのだ。
 ……桜太郎はそこまで深く考えていないようだが。
 (ありがとう、母上)
 桜太郎は母に深く感謝していた。脳裏に浮かんだ母の像は慈母のようだった。思わず手を合わせる。
「?」
 ニナはなんだかよくわからないがまた面白いことをし出した桜太郎を見てくすくすと笑い、榊邸のゆらは盛大にくしゃみをして対面で会議していた御剣の顔を唾まみれにした。
§
「なあ、お前ここが名門だって知ってた?」
 昼休み。ゆらお手製の弁当を広げながら聞く。
 シリカは今日からニナの席が使えなくなったので向かいの席を勝手に陣取っている。
「知ってたよ。本当にすごい大変だった」
 勝手に桜太郎の卵焼きを口に運ぶ。弁当はないくせに箸は持参している。シリカはそういう生き物でいつものことなので言及しない。
「でも一夜漬けで入ったって言ってなかったか」
「う~ん、うん。いつもよりハードな一夜漬けだったなあ……思い出したくないくらい。入学してからなんて追いつくの大変だし」
 さすがの私でも一夜漬けじゃ間に合わないよ、こんなの。
 中学生までのスタイルでは通用しないと悟り真面目に授業を受けている、シリカは続けた。
 そこまでしてシリカにも学びたいものがあったのだろうか。そういえば福祉科だったか。……シリカが福祉科。なんとも想像しがたい組み合わせだ。
「すごいな、お前」
「そうでしょ~。でも毎日毎日疲れるよね、ほんと」
 シリカは疲れた顔を隠そうともせず唐揚げに手を伸ばす。
 反射的に桜太郎の箸がそれを遮った。
「あ!」
 声を上げ軌道を変える。唐揚げを狙うシリカの箸。しかし狙われた唐揚げを桜太郎はすかさず口に放り込む。
 咀嚼している隙を突いて鋭く飛び込む箸の一閃。その切っ先が刺さった唐揚げを弁当箱へ桜太郎の箸が叩き落す。
 罪深いことにゆらの手作り唐揚げは、うまい。
「お前……ッ!それはダメだろ!」
「え~~、いいじゃん!そんなにいっぱいあるんだから一個くらい!お母さんだってそのつもりで作ってるでしょ!」
「そんなわけないだろ!食べ盛りなんだよこっちは!」
「一個だけ!一個だけだから!」
「お前昨日それで半分食ったろ!今日はまじでそれだけは許さねぇぞ!卵焼きで我慢しろ!」
「ケチーーーーっ!」
 弁当箱の上で桜太郎の箸とシリカの箸が行儀悪く空中戦を繰り広げる。
 その騒ぎに注目が集まる。
 ほとんどの生徒は購買や食堂で昼食をとるため数こそ少ないが桜太郎はすっと箸を引っ込め居住まいを正す。そうなると他人の目を気にしないシリカに軍配が上がる。
「……一個だけだぞ」
「やったー!おいひ~!」
 やっと唐揚げを頬張って上機嫌になるとシリカは弁当箱に少しだけ分けられた白米を口に運ぶ。
「お前さ、お金大丈夫か?」
「全然大丈夫じゃないよ!」
 言って校舎内にある自販機で定価80円の紙パックのイチゴジュースを飲む。もうほとんど空になっていてじゅうという音だけがストローから鳴る。
 シリカが自分で買うものと言えば毎日これと、運がいいときにコンビニで買ってくる総菜パンくらいだった。
 幼馴染のよしみというか。いたたまれずこうして弁当を分けている。別にそれは構わない。自分が弁当を分けなければ容易に行き倒れる姿が想像できるから。
「バイトしたい!お金ほしい!」
 シリカもそんな現状をなんとも思っていないというわけではないらしい。高校生になってから隙があればバイトを探している。バイトが見つかっていないというわけでもなさそうなのだが。
 何故こんなにも金欠なんだろう。
「私のことはいいって。それよりニーニャは?」
「ニナは購買を見てみたいって出てった」
「ははーん、ふられたか」
「ふられてない」
 むっとしながら唐揚げに手を伸ばす。
「……お前……ッ」
「ふえ!?
 桜太郎に頬をつままれて伸ばされる。
「食ったな!」
 弁当箱の唐揚げコーナーの底が見えている面積が明らかに広がっていた。
「ふぃふぁふぃーっ!ふぁふぁふぃふぇーっ」
「一個だけって言ったろ!放す前に答えろ、何個食った!」
「ふぃっふふぇふー!」
「三個も!?
 頬を伸ばされたままびえんびえん泣くシリカ。
 早すぎる。その間1分も無かったのに。
 解放するとシリカは頬をさすりながらすんすんと鼻を鳴らした。
「ごめんーー……っ、おいしかったからーーっ!」
 ごめんと言いつつまったく悪びれない。
「お前、すごいな……」
 もはやそれ以上責める気にもならなかった。
「桜太郎……」
 不意に後ろから落ち込んだ声がする。
 半身振り返る。ニナがとぼとぼと自分の席に移動していく。
「……どうした?」
「購買っていうのは戦争なんだね」
「へ……。あ」
 ニナの手にはイチゴジュースの紙パック。
「あの、食べ物は」
「はは……。まさか食堂の注文にもラストオーダーがあるなんて思ってなくて」
「……唐揚げ食べる?」
 シリカがいつの間にか唐揚げと新しくよそったらしい白米と卵焼きを弁当箱の蓋に乗せて差し出していた。
 弁当箱はそれで空だ。
「虎杖さん……いいの?というかそれ、桜太郎のお弁当じゃ、」
「いいのだともニーニャ……。空腹は敵だからね。ね、桜太郎」
 桜太郎はなにも言えなかった。ただ頷くことしかできなかった。
 礼を言っておいしいおいしいと声を上げて食べるニナの姿を見て胸がいっぱいになるのと同時に、満たしきれなかった腹を無意識にさする。
 母に明日からの弁当と唐揚げの量を増やしてもらうようお願いしようと固く誓うと共に静かに涙をのむばかりであった。
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登場人物紹介

虎杖シリカ


 桜太郎のロー幼馴染。

 「終わりだあ~ぁ!」が口癖。なにかしらいつも終わっている。

 すぐ欲しがる、すぐ羨ましがる、すぐ不満を漏らす。低次元な部分ではとても意地汚く邪だが、どこか憎めず桜太郎もなんだかんだで世話を焼いてしまう。

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