第2話

文字数 2,498文字

———細い雨が、音ともなく降っている。 雨はいい。
 なぜなら、すべてを消し去ってくれる———後には、恐ろしいほどの静穏な世界をもたらし て。
 この世にある傲慢も、欲望も、御託も、余計な計算も、意味を成せない言葉も。
 そうして雨は、ヒトビトからすべてを奪い、己の忌まわしい過去を思い出させる唯一の自然 現象である。
 夕方から降り始めた雨は、一時視界を奪うほどであったのだが、日付を越えるころには勢い が弱まり黒い針のような雨に変わり、夜が明けた今もその形をかえていない。
 頬を伝う黒い針が、血を流してくれる。
 そうして足元に大きな水たまりをつくっていく——だが、その水たまりは赤黒い。
 その原因は彼の足元にあった。
 既に命を落とした、よく肥えた男が彼の足元に転がっていた。
 水たまりは死んだ男を中心にできており、そしてその赤黒い男の血は、青年の靴を汚してい る。
 そのことを意に介すわけでもなく、また、自ら犯した罪を特別嘆くわけでもなく、青年は細 い雨を降らせている空を見上げている。
 その時、青年は別の世界にいた。
 幼子が餓死したり、年端もいかぬ女子が暴力を振るわれていたりする、血と灰色の煙で成り 立つ路地裏ではない。
 ただ暗く、耳が痛くなるほどの静寂に満ちた彼だけが住む世界だ。

 片足を動かすと、水音がして、一気に自分だけの世界から引きずり出される。 その赤黒い水たまりの中から、今にも魔物がはい出てきそうな気配を感じる。
 そう、その魔物はひどく醜く、人の形をしたヒトではない化け物だ——そしてその手が、今 にも自分の足をつかもうとしている——。
 だが、そんなことはない。 それは自分の妄想が生み出した、ありもしない気配を感じ取っているだけだ。

 ———血煙をあびて生きてきた。そうして、灰の煙を吸って、血を吐いてここまできた。

 空を見上げ、そっと瞼を閉じる。
 すると、銃火器が火を噴く音に満ち、あちらこちらから声なき絶叫にも満ちた世界から隔絶 され、一気に彼の世界に潜り込む。
 大きく息をすう。

——吸ったのは、灰色の煙だ。

 大きく息を吐く。

——吐いたのは、鉄味の血だ。

 いつだったか、視察のため街へでた時、軒先の本屋で見つけた小説の、こんなフレーズが頭 に浮かんだ。

——人が人たらしめる所以は何だろうか? 人が人である理由。

 つまり、獣と人間を差別する理由。
 「ある者は理性と答えた。また、ある者は想像できる手をもつことだ、と」 そのまま覚えた言葉を、頭の中で再現し、口にだす。理性。
 欲望を押さえつける、人間に備わっている機能。
 創造できる手。
 獣にはできない高度な建物を人間はいとも簡単に造りだす。
 もし、もし、自分がその問いへの答えを出すなら、なんと答えるだろう。
 ふと、人の声が近づき自分がいる路地のすぐそばを仕立てのいい黒服を身にまとい、小銃火 器を携えた男達が走り去っていく。

——探しているのは、きっと彼らの主であり、その主をさらい嬲り殺した自分だ。
 見つかれば、自分も殺されるだろう。
 だが、決して無計画な殺しをしたのではない。
 すべて、理性的で計画的な殺しに。青年が男を殺し、また、男が死ぬことこそが、神が定め たことといっていいだろう。
 そしてこの男はこの都市の議員だ。 いや、議員だった。
 その議員を苦労してさらった時、その肥えた腹には一体何がつまっているのだ、と愕然とし た。
 だが、いざ開けてみるとたいしたものは何一つ入っていなかった。

 では、あれほど肥やしていた私腹は何だったのだろう? 考えてもむなしく、答えが出ないので途中で考えることを放棄した。 殺す直前、議員が言った。
『畜生、俺をだれだと思っているんだ!』と。 彼は、彼であるから今夜殺されたのだ。それに、畜生だと? 畜生とは、はたして、自分のことだろうか?
 だとしたら、いいのだ。
 俺は、人間の象徴である理性を持ち合わせている。 ただ万物を創造する、人間としての手を失っているだけなのだ。
 この手は、既に血で汚れすぎており、その点肉をむさぼる獣の方に近いだろう。
 それでもいい。それがいい。 元もと獣のように他人の血でできた手であっても。
 俺の計画には一切支障はない。
 青年は、血と雨でぬれた靴をそった脱ぎ、血だまりの中に残した。

 ケモノな自分ならば、これがふさわしいだろう。
  ケモノな自分には、金などいらないだろう。
  ケモノな自分なら、上等な服などいらないだろう。  ケモノな自分ならば、安心して目をつむれる建物などいらないだろう。

 ケモノな自分なら、喜びなど—いらないだろう。
 ましてや、共に喜びを分かち合いたいとか つて思っていた仲間を失った自分には。
 青年は、目を閉じたまま、軽く足を開き、静かに雨と血を吸い込んで濡れたこの星を感じた。
  ひんやりとした感触が足の裏ごしに伝わる。
  この冷たいという感触は、ケモノである自分が冷静な証だ。 きっとこの冷たさを感じている限り、俺は俺を見失わない。

——血煙をあびて生きてきた。そうして、吐いた血の中から一匹の復讐に燃えるケモノが誕 生した。

 教えてやれ。 自分は人間であると、声高らかにのたまう傲慢なやつに。
  血煙より生まれたケモノの存在を。

——人間が人間たる所以は何であるか?

 簡単だ。
 ヒトもケモノもなに一つ違いはしない。
  次第に雨が弱まり、雲の切れ目から細い光が彼を照らした。
  青年は、そっと目を開けた。
  その瞳は雨上がりの空のように澄んでいて、非常に冷静だった。
  太陽の細い光が、青年の頬にあたる。


 あぁ、どうか見届けておくれ。仲間たちよ。
 その澄んだ空の奥で。
 今から、俺というケモノがもつその生を全うするのだ。

————こんな風に、雨上がりの気持ちの良い日は、ケモノによる人間への......... 「絶好の、革命日和だ」

END
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