青い空、白い雲。

文字数 2,724文字

 青い空、白い雲。これほどまでに清々しく胸がすくような思いにさせてくれる表現って他にあるのかな。青い空、白い雲。こうして瞼を閉じてその光景を思い浮かべるだけで、底に溜まった淀みがさぁっと洗い流されて、一歩前に踏み出したくなるような気持ちにさせてくれる。なのにどうしてか。瞼を開け、目の前に広がる、青い空、白い雲。には、馳せる思いが何も無いのだ。

 授業をサボって屋上の塔屋の上で寝転がる僕。もうヤバすぎるでしょ。今の僕をここに連れて来た今までの僕に感心しちゃうくらい。さっきまで、すっごくドキドキしてて、ようやく落ち着いたところだった。

 それは、屋上からの風景をスケッチするという、美術の授業でここに来たときのこと。普段は立ち入り禁止の、屋上へと続く塔屋の扉の鍵が意外と簡単に、つまみをひねるだけで開くことを知ってしまって、すぐに思い立ち、それからというもの頭からずっと離れないでいた、何もかもが報われなくて、もはや諦めしかない学校生活への〈壮大なレジスタンス計画〉だった。そして今日。僕は朝のどさくさから弾かれるように屋上へ続く階段を駆け上がり、鍵をひねり、扉を開け。それは見事に遂行されたんだけど。

 そんな僕に与えられたのは一瞬の高揚感と、そしてこの、青い空、白い雲。それは、必死に求め辿り着いた黄金郷が、実はただの無人島だった。そんな戸惑いと虚しさ。果てに、こんな半端なことしかできない自分への憤りだった。瞼を閉じて、また開く。湧き上がってくる落胆を、待ち構えていたように吹いてきたそよ風が持ち去って、空っぽになった頭で考えるのは、この計画の後始末を始めるための、次のどさくさはいつなのか。ただそれだけで。

 目に映る、青い空、白い雲。の遥か遠くを、カーソルみたいなジャンボジェットが右から左へちびちびと位置をずらすようにして飛んでいく。それを目ざとく見つけた僕は、あれが真っ逆さまに墜落したら、どれだけ遠くに落ちるんだろうか。とか真剣に考えるふりをして気を紛らわせるだけだった。

 チャイムが鳴りだした。それは耳を覆いたくなるほどに、いつもより大きくはっきりと聞こえてくるものの、それが何を告げているのか〈知る由もないしどうでもいい〉だけど、この思いは、すぐさまチャイムの音に跳ね返され、そっくりそのまま僕の元へと戻ってきた。〈知る由もないしどうでもいい〉それはまるで、僕がここに居ることに対しての、この下にいる人たちの総意みたいに。というか、きっとそうで。チャイムが鳴り止んでもその余韻は消えないままでいた。

 突然、すぐ下から些細な騒めきを感じると扉が開く、鈍く軋む音が静かに響いて、僕は途端に焦りだす。うつ伏せになって奥の端へと身をずらしてうずくまり、息を止めて防御姿勢をとった。

「屋上ってこんな風になってるのか。」

「そっち行ったら、下から見えるって。」

 声からして、女子二人組。一体、何しに来たんだよ。自分のことは棚に上げ、ここからは見えない、屋上の様子に耳を澄ます。「いい天気だね。」ひとりが言って、しぃんとなった。もしかしたら、ふたりにとっての壮大な、何かしらの計画を遂行する時なのかもしれない。立ち入り禁止の屋上とは、まさにそういう場所なんだ。接近するふたりの距離。秘密とか。禁断とか。妄想が過ぎると解っていながら、さっきまでのドキドキが湧き上がってきた。「ねぇ。」ひとりの呟きに、僕は身を固くする。

「あの雲見てみ。」「なに?」「唐揚げみたい。」「まあ見えるわな。」「・・・あっちの雲見てみ。」「なに?」「唐揚げみたい。」「・・・唐揚げみたいじゃない雲探すほうが難しくない?」「じゃあ、あっち。」「なに? 唐揚げじゃないんだろうな?」「ファミチキみたい。」「ケンカ売っとんのかーい。」

 ・・・そしてふたりは、意味不明ってくらいに、果ての見えない勢いで笑いあっている。いつまでたっても、ただそれだけで。とりあえず見つかっちゃうから音量下げて。そして、たった今消え去った僕のドキドキを返してくれ。そんな思いが頭を掠めながらも、僕はうずくまった腕の中で独り必死に笑いを堪えていた。きっと、笑ってはいけないこの環境が、特殊にそうさせているんだ。だってこんなの普通じゃ絶対笑わない。一応、青い空に浮かぶ、白い雲のファミチキ具合はちょっと確認しときたいってくらいで。とはいえ、仰向けになった途端に堪えてる笑いが一気に吹き出しそうな気がするから、ここは色々我慢して。それで何だかふと思った。ふたりの女子が見ている、青い空、白い雲。の下に僕も居て、目に映るそれもやっぱり同じ、青い空、白い雲。なんだと。

 チャイムが鳴った。「あ!やば!」バタバタとこっちに向かってくるふたり分の足音が止むと、鈍く軋む音がして、それは軽い衝撃音と共に消えた。 〈カチャン〉 そして、チャイムが鳴り止むと、辺りは完全に無音になった。 〈カチャン〉って。僕は途端に焦り出す。逸る気持ちで思い通りに動いてくれない身体をなんとか操ってはしごを下りて、扉へ向かいノブを掴んだ。だがしかし。回らない。掴んだところから、どんどん血の気が吸いとられ、身も心も青ざめていくのが解ったけど。これから手を離すわけにはいかないことも解っていた。汗が吹き出して、待ち構えていたように吹いてきたそよ風で冷めた身体がぶるっと震えた。

 大きなため息をして、これから僕が通らなければいけない〈荊の道〉を想像してみる。開けてくれ、助けを求め、悪目立ち、生徒指導室、当然怒られて、圧迫取調、反省文、家に電話。一歩一歩、前に進む度に地雷を踏み続けるような絶望感。その果てに、周り全てが〈傍観者〉という教室に生半可に放り込まれ、遠巻きからの白い目や嘲笑や、無関心に晒されながら、この出来事が黒歴史としてガリガリと胸に刻まれる疼きを黙って耐えなくてはいけないなんて。最悪でしかない。

 だから今、僕はここに来たときよりも、もっと大きな決心が求められている。瞼を閉じて、また開く。見上げれば、相変わらずの、青い空、白い雲。だけど、少しムカついているように見えるんだ。こっちに多くを求められても困るんだよって。俺はただの、青い空、白い雲。でしかないんだからって。

 まさにそれ。最近流行りの自己責任。諦めしかないとか言っておいて、実は諦めきれていない、往生際の悪さが招いた結果とでもいうべきか。それなら僕は、それでも諦めない往生際の悪さを持つしかないということか。誰かひとりでもいいから面と向かって大爆笑してくれないかな。「お前、やっちまったなぁ」って。

 そして、僕は力の限りドアを叩く。それが新しい世界への扉だと思って。
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