第1話
文字数 1,993文字
彼の住む団地には野良猫が多かった。昔老婆が多頭飼いに悩まされて放ったのが原因である。
猫西は野良猫が嫌いだった。濁った目付きと汚れた毛並みに威嚇されている心地がして駄目だった。
学校帰りに出会った野良猫は、しかし他と違った。
その野良猫に出会ったのは、給食で一番嫌いなパンをランドセルに隠した日であった。
猫西がパンをちぎりながら帰っていると、ブロック塀から野良猫が突然飛び降りたのだ。
恐る恐る覗くと、垂れ耳と伸びた灰青色の毛と
「あ、食べた!」
それ以来、猫西は給食のパンをちぎって帰るようになった。
数週間後。
いつものようにランドセルからパンを取り出してちぎっていると、灰青色の野良猫が再び姿を現した。
じっとする野良猫に、猫西は屈んでパンの欠片を撒く。
野良猫は優雅に歩き、彼の足元に座った。
「僕、怖くない野良猫に会うの初めて。君に会いたくて、学校にも毎日通えるようになったんだ」
野良猫のグルグルと鳴く声は低く、品がある。
「僕たち友達になれるかもね。なんて、さすがに図々しいか」
グルグル。月のように淡い光を持つ瞳がまっすぐ見つめる。きれい、と猫西は思った。
「……僕たち、友達だ」
パンをふんふんと嗅いで口に含む野良猫。愛おしい仕草に猫西は微笑んだ。
帰宅後、親を説得して野良猫を迎える許可をもらった。しかし、再会することはなかった。
○
大学生になった猫西は、野良猫を保護する部活動に入った。
部では大学や大学近辺にいる野良猫の保護に加え、餌やりや検査費が部費と部員の自費で賄われていた。
猫西はアルバイトで得たお金を全て部活動に使い、次第に奨学金もつぎ込み、一心不乱に励んだ。
ある日、公園のベンチに腰を下ろした。近くのスーパーで買ったおにぎりは三口でなくなった。所持金は――。
鳴き声が聞こえた。公園を見回せば、滑り台の影でぐったりしているキジトラの子猫を発見した。
立春を迎えたばかり。子猫の体力を奪うには十分な寒さだ。
今月はすでに部費に余裕がなく、保護するなら猫西負担となる。
左手にある全財産は182円。助けようにもこれでは共倒れだ。
活動を始めて一年近く経っても保護の断念に慣れない。息苦しく、「ごめん」が口を衝いて出た。求められてもいないのに。
「おい、餌をやるな!」
突然の怒声に驚き、猫西は振り返る。
中年男性が立っていた。腹だけ太り、髪の間から頭皮が透けた長身の男。
猫西は立ち上がり、やってませんと否定すると、男は睨んだ。
「今見てたじゃないか」
「見てただけです」
「じゃあ、そこ退け」
男はゴミ袋とガムテープを持っている。
「何するんです」
「今日こそあの猫を捨ててやる」
「やめてください!」
取っ組み合いになり、男に顔面を殴られて転倒する。男は彼の胸ぐらを掴み、野良猫への不満をぶちまけながら揺する。
猫西は男の声が聞こえていなかった。猫の保護費と自身の治療費が頭の中で回り、計算していた。
貯金は底をつき、子猫を保護するだけのお金も病院に駆け込む手段もない。考えることが無意味なのだと気付き、自嘲した。
不適な笑みを見た男は殴る手を止め、猫西は男を押し倒す。
形勢逆転だ。
「傷つけるなんて、どうかしてますよ」
猫西の言葉に男が唾液混じりに喚く。しかし無視した。
拳を高くあげる。
懐かしい声がした気がして、猫西は途端に固まってしまう。その隙に男は彼を押し退けて逃げた。
顔をあげると、灰青色の曇り空が猫西の前に広がっていた。その濃く、深い色は灰青色の野良猫を思い出させ、同時に恥を刻む。
「どうかしてるのは僕のほうだ。あの男と違わない……」
蹲って項垂れる。目を閉じても、体の震えは止まらなかった。
――次に目を開けたときは、空が茜色に染まっていた。
女性の小さな悲鳴に猫西の視線が泳ぐ。地面に転がる餌と目を見開いて棒立ち状態の女性一人が見えた。
猫西は地面に頭を擦りつけた。
「お願いです。家で飼えないなら餌を与えないであげてください」
「そ、それよりも手当てを」
「僕は昔同じことをして野良猫が姿を消しました。傷つけてしまったんじゃないか。死なせてしまったんじゃないか。毎日夢に出るのです。毎日悔やむのです。あなたには背負ってほしくない。お願いです。どうか。……っ、どうか」
猫西自ら発した言葉がかつて犯した言動を蘇らせ、顔を歪ませた。忘れてしまえたら、と考えて拳を握る。爪が皮膚に食い込む痛みで過去から現実に意識が戻ってくる。
子猫が滑り台の影から顔を出し、しま模様を
猫西の伏せた顔は汗と涙で濡れていた。