we are trying to be together

文字数 5,939文字

 まだ雪も高いのに、春のような朝だった。
 澄んだ空気が家の中まで入ってきて、窓の外の色が鮮やかで、生きているのを感じた。
 皿の音や水の音は、とても美しく鳴っていたし、テレビの雑音もいつもほどうるさくはなかった。トーストの焼けるにおいも、バターのにおいも、全部いつもより上等で、上等でないのは友人の女と寝たわたしだけだった。
 わたしは、コースターとコップをテーブルへ持って行った帰りや、ちょっとしたものを取って彼女に渡すとき、彼女の後ろを通るたび彼女のほうへ少し寄って頭の後ろへキスをした。わたしは幸せで、霧の晴れたようだった。ずっと正しくなかったものが、正されたような気分だった。もちろん実際には、一般的な正しさから大きく逸れて、新たな霧がかかりはじめていた。それを知りながら幸福で感覚を麻痺させようとしていたのかもしれない。しかし、この朝の清潔さ、彼女とわたしの心の通った過ごしやすさは、これを誤ったものとはどうしても考えられなかった。
 彼女に彼、つまりわたしの友人がいるように、わたしにもそのとき付き合っていた女の子がいた。どういうわけかそういうことになったが、わたしも彼女も、というのは友人の女のこの彼女も、貞操観念が周囲と比べてとりわけ緩いということはなかったように思う。むしろわたしたちは地味で、どちらかと言えば保守的だった。彼女は大学の成績もずいぶんよかった。大学で成績のいいのは、これも極めて真面目な生活をしているその証拠だと言っていいだろう。一昔前がどうであったかはわからないが、現代では我が国の多くの学生が、大学で学ぶ期間を人生最後の長期休暇だと思っている。彼女ほど成績は良くなかったが、わたしもとくに浮ついてはいなかったように思う。こういうことは、このときが初めてだったし、それからいままで同じようなことは起こっていない。
 その朝、わたしは素晴らしい気分で朝食を済ませて、玄関まで送ってくれた彼女にキスをして、バイト先のある空港へ向かった。空港までは電車で行くので、最寄りの駅まで歩いた。彼女の家から駅までだいたい七分くらいだった。彼女というのは、つまり友人の女なのだが、わたしはロシア文学が好きなので、ここでは仮に彼女をナースチェンカと呼ぶことにしよう。このほうがずっと書きやすいし、温かみがあるし、なにより本来彼女は誰のものでもないのだから。
 いつもより少し混んだ駅の改札を抜けると、いかにも地方線らしい錆びた趣あるホームへ出た。わたしはこの日の駅のホームから見えた空がとても青かったのを憶えている。電車を待つあいだ、白い息が出たり消えたりを繰り返した。日本語では、まともな状態を“冷静”というが、冷静になりなさい、というのを“頭を冷やせ”というし、英語でも“クールダウン”というように、冷えると人間は頭が働くらしい。このときわたしの考えていたことは、タイミングを少し違えるだけで得る結果がまるで違う、ということだった。運命論者はこれを「タイミングを違えたのではなく、タイミングを違える運命だったのだ」というだろうが、これは最終的にことがうまく運んだ者たちや、これからことをうまく運ぶ自信のある者たち、若しくは結果を無理にでも受け入れなければならない者たちの言葉であろうと推測する。少なくともわたしはこのどれにもあてはまらなかったように思う。自信もなく、行動の指針も、決断もなく、ただナースチェンカとの精神的なつながりだけをたしかに感じていた。そんなふうであったから、もっと早くにナースチェンカと打ち解けて、長い時間を過ごせていれば等々考えるのだった。こう書いてみて、あらためて運命論者たちの潔さに感服であるし、また、いまではわたしも彼らと同様の考え方をすることも少なくないが、どうしようもなく過去を悔いるのもやはりまた人間の運命なのであろう。まあ、しかし、このときのわたしはそこまで考えていないし、しばらくすると電車が来た。つまらない主人公で申し訳ないが、電車に乗って揺られて十五分同じようなことばかり考えていた。若い頃は考えることの量は少ないが、考える時間ばかりやたら長かった。長考の末、結論も出せなかった。ただ、このとき考えたことや、タイミングを違えたために生じた苦しみは、なにか教訓めいて、いまだわたしのなかにある。もちろん、いまだにわたしはタイミングを違えている。


 空港の駅に着いてみると、ここで降りる者の多くが海外からの旅行者だった。しかし、これはとくに珍しい光景ではなかった。いまでもそうだが、こんな小さな島国の北の僻地が、スノースポーツを嗜むものにとっては楽園なのだそうだ。というのも、わたしのバイトというのが、まさにその彼らを雪山に運ぶバスまで案内する仕事で、彼らとはよく話した。わたしが小さい頃からここで暮らしているのに、あまりスノースポーツをやらないことを話すと、陽気なダークスキンの男は「おいおい、嘘だろ?ここはベストプレイスなんだぜ?」といって笑ったし、スキー板を背負った婦人も上品に笑って、この土地の雪の素晴らしさについて教えてくれたりした。
 で、そんな人たちの来るこの空港だが、地方空港にしては無駄におおきく、彼らが迷ってしまうほど多くの同業の営業所があるので、バイトで雇われたいくらか英語を話せる者たち―わたしたちが、各便の到着口まで迎えに行き、そこからちょっと離れた営業所まで送り届けるのだけれど、その間に予約の確認をし、出発時間の変更など予約客の要望があれば、着いたときにそれを営業所の人間に伝える、という、早口に説明すればそういう仕事をするバイトだった。わかりづらかったら、ここの理解はスキップしてもいい。これからその仕事中に起こったことを書くから。


 わたしがこの日のことで憶えていることはおおきく三つ。まずは、ナースチェンカとの朝食の幸せ。二つ目は、仕事中に出くわしたちょっとしたいざこざ、このちょっとしたいざこざというのはとても柔らかな言い回しで、正しい日本語では修羅場というのかもしれない。それと、あと小さな女の子とのちょっとしたやりとりだ。
 それでは、ちょっとしたいざこざについて。まず、わたしはこれを背中で聞いていただけだから、彼らの顔や表情を見ていないし、これに巻き込まれもしていない、ということお伝えしておこう。しかし、それにもかかわらずそれを憶えているのだと。
 それはその日バイト先に到着してはじめの仕事だったと記憶しているけれど、もしかすると二つ目かもしれない。とにかくはじめのほうの仕事で、わたしは電車のなかで考えていたこともそれほど気にならなくなり、気力も充分な状態で、予約客の名前が大きく書かれたカードを持って、到着口へ向かった。
 この予約客の便はほぼ定時に着いたのだが、発着場のトラブルだかなんだかで、荷物が出てくるのに結構な時間がかかった。これはこの仕事のちょっとしたコツなのだが、到着口はガラス張りなので、荷物が出て来るのを待っている客で、こちら側を気にしている者を見つけ、名前や、団体であれば人数などから、それらしいのに目星を付けて、こちらからカードを見せてやるのだ。すると、あちらのリアクションがあるから、うまくいくと到着口から彼らが出て来る前に、彼らを見つけることができるのだ。これができると、予約客がこちらに気づかず行ってしまうこともないし、到着口から一斉に出て来る旅客のなかから彼らを探す緊張もなくなる。実はわたしはこれが得意で、あれはマシューらしい、あれはファーガソン一家らしい、というのが、だいたい当たった。このときはダークスキンの好青年で、やはり荷物を待っている間に見つけることができた。彼はこちらを見つけると、笑顔で「それ、おれ」という動作をしてサムズアップした。彼を見つけることができてもう安心だから、あとは彼の視界に居続けながら荷物が出るのを待っていればよかった。わたしはちょっとずつ姿勢を変えて、疲れないようにしながら到着口付近に立っていた。しかし、このときはあんまり待つ時間が長いので、いよいよ近くのベンチに一度座ろうかどうしようかというそのときだった。
 ダークスキンの好青年が荷物の出てくるのを待っているうちに、少しあとに到着した便の荷物が出はじめて、こちらのほうの客が先にぞろぞろ出て来たのだが、そのときすぐ後ろで、丁寧な印象の男性の声が「奥さん。お気を強く持ってください」と、その奥さんに話しかけると、奥さんは少し不安なようで「ああ、どうしましょう。あの人どんな顔で出て来るのかしら?わたし落ち着いていられるかしら?」となにやらただならぬ雰囲気であったが、ダークスキンの青年がこちらを向いてサムズアップして笑ったので、こちらも笑顔で返した。後ろの奥さんがどういう事情かわからないが、なんとなくそわそわし始めたのがわかった。到着口は見ていて、それらしい客は見つけられなかったのだが、後ろの話者が急に増えて四人になった。丁寧な男性と奥さんの声に、夫と若い女が加わった。もっとも、若い女はほとんどしゃべらなかった。
 夫をつかまえたらしい音のしたあと―彼を叩いたかなにかした音のしたあと、奥さんは声にならない声を出した。サムズアップ青年はイヤホンをして音楽を聴きはじめて、しゃれた動きでリズムを取っていた。わたしも音楽プレーヤーを持って来るべきだったと感じた。奥さんは、混雑した空港の喧騒のなかでも、周囲5メートルくらいにはしっかりと聞こえるくらいの声で泣きながら話した。わたしの勘違いかもしれないが、周囲を味方につける、つまり夫と若い女を好奇の目に晒す意図があった印象を受けた。
「あなたって人はどうして…。どうしてわたしにこんな…。よくも。よくも平気で…」
「とにかく落ち着きなさい。これからおまえがどうしたいかはわからないけれど、そんな様子じゃ話せないじゃないか。今日はひとまず家に帰ってどうするか決めよう」
「わたしはもう家には帰らないわ!わたしはこちらの方と話して、いろいろ法律の相談までしてあるんだから!なんでしたっけ…あれ。なんでしたっけ…。もう…こっちにだって…あるの!」
「旦那さん。旦那さんの浮気の証拠は、写真の他にもすでにいろいろとおさえてあります。訴訟をすれば、奥さんはほぼ勝てると思います。そして、しばらく奥さまはご実家に帰られます。奥さん。まだ何か言いたいことはありますか?」
「よくも…よくもわたしをそんな目で!」
 奥さんが夫を叩いたであろう音がした。夫の冷めた目を見て、夫が自分の泣く姿を見ても、まだ若い女のほうにどう見られるか気にしていたのだと気づいたのだと思う。はっきりとは憶えていないが、そういう話があった。それで、今度は敵にできるだけの損害を与えようと、今度は若い女に話しかけはじめた。
「あなたね…。今はこの人にやさしくしてもらっているかもしれないけれど、あなたがね…あなたが、この人の妻になったら、わたしみたいに扱われるのよ。これはあなたのために言っているのよ。こんな人やめておきなさい。家ではやさしい言葉のひとつもかけてくれないんだから…!」
「奥さん。わたし…そんなつもりではありません」
「そんなつもりって?」
「やめなさい!」
「あなた…またそっちをかばうのね!」
「奥さん、落ち着いて…」
 こういうのを聞きながらも、わたしはサムズアップの青年の動向を見ていたから、そろそろ出て来るだろう頃合を見計らって、そこを離れて合流しやすい場所へ動いた。
 ダークスキンの青年はやはりいいやつで、「ずいぶん待たせちゃったね」と言って少しこちらをねぎらうようなことを言ってくれたので、わたしも「フライト疲れなかった?シート狭かったでしょう?ぼくらだって狭く感じるんだから」とか言いながら、心に何かつっかえたまま営業所へ戻った。


 最後の女の子との話はすっきりしている。ちょうど夕陽が沈んでしまって、空港の美しい頃、わたしは二組の団体を迎えに行った。この二組は仲良く一緒に到着口から出てきた。片方は小綺麗な中年の女性とその息子で、もう片方は中年男性と娘だった。別々の予約だったから少し驚いて、配慮を欠いて「みんな一緒?」と聞いてしまった。ちょっと変な間のあったあと、中年男性の娘の小さな女の子が、素敵な笑顔でこう言った。
「ウィ アー トライング トゥ ビィ トゥゲザー」
「一緒に居ようとしているの」と。
 一緒に居ようとしている、その言葉がわたしを奇妙なほど深く打った。この言葉の印象が強かったのは、これからナースチェンカとどう一緒に居たいか、ということについて、そのときわたしが何も考えていなかったからだと思う。もしくは、半ば考えることを放棄していた。素晴らしい物事は自然に続いていく気がしていた。そうではないことを何度も経験して、知っているはずなのに。わたしたちの素晴らしい部屋には、見ないふりをしていた大きな象があった。いつか重みに耐えられなくなるのは明らかで、かと言ってどうしてよいやらわからなかった。わたしにとって大切なものは明らかだったが、彼女の大切なものを問うことには躊躇いと怯えがあった。
 彼らを営業所まで案内して、笑顔で別れたあとも、ずっと女の子の言葉が頭のなかを温かな色で照らして、わたしが意識的に照明を落としていたところに光を当てていた。
 わたしはそのあとも問題なく仕事をこなしてその日の勤務を終えた。支度を終え、電車乗り場まで歩く。売店は閉まっているし、人も少なく、昼に比べればいくらか寂しげかもしれない。だが、空港はいつも新しい。空港にはいつも何か新しい空気が、新鮮な意思がある。わたしはいまでも空港に到着するといつもそう感じる。これから空を飛ぶ者、空を飛んでここへ来た者。サン=テグジュペリの『夜間飛行』に描かれたような人類の飛行が非常に危険だった時代ではなくなったにせよ、空を飛んで移動することは現代の我々にとってもちょっとした冒険に違いない。陸に生まれついた我々は、なぜ危険を冒してまで空を求めたのか。
 最後車両に乗って、わたしは窓から遠ざかる空港を見ていた。無数の光で飾られたあの場所はやはりいつも幻想的だった。輝きはゆっくりと後ろへ遠ざかり、わたしは生活のある方へと進んで行く。光の中からまたひとつ白い機影が空へ向けて飛び立った。
 その夜ひとりの女に電話をかけた。懐かしい声は、わたしがすべてを話し終えると、寂しげな音になった。
 
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