第1話

文字数 11,512文字

 リリアからの電話が鳴ったのも、ベッドの上で熱に浮かされているときだった。ホルモンパネルをいじればすぐに状態を安定させることも可能だったが、レニはその間、せめてその電話が終わるまでの時間は、そのままにしておきたかった。全身が火照って節々に痛みを感じ、まぶたを閉じて深呼吸をしても頭がかち割れそうになって震えは治まらない。だが、それだけは今唯一たしかに感じることのできるものだった。

 試合の後はいつも疲れ切って、熱が出る。それをしてレニは自分の存在、物質的な身体の輪郭や体重を、実感していた。そして、時々にはあちら側にトベることもあった。そんな夜がかろうじて数えられるかというほど繰り返された。夜は静かに横たわるレニを見守った。

 今、その電話の向こうでリリアの声は、いつになく優しく落ち着き払ってレニに語りかけていた。そういう時には、別れの言葉が発せられた。受話器を置くとレニは、これで1つ悩み事が減ったな、と思った。

 2人の結婚生活はとうに破綻していた。特に、リリアの方は何事にも妥協することがなく、そこにはレニの努力も立ち入る隙がなかった。パリの同じ地区で育って大きくなったので、2人の感情には恋よりも先に、お互いに対する愛が存在していた。それは今も変わってはいない。そして、恋が始まったのか、病が始まったのか、あるいは恋が病だとすればそのどちらもあり得たが、それは徐々に2人の精神をすり減らしていった。

 まだ15の小僧だったレニが警官を撃って彼に犯罪コードが課せられた時から2人の逃避行は始まり、それは、マルセイユ、マドリード、イスタンブールと来て、東京にまで及んだ。その長い旅の間に結婚の誓いが立った。だが、長い間2人で居すぎたことで、お互いがお互いの顔を、ニキビだらけの不潔顔だと思うようになった。まず、レニに限界が来た。彼にとってはいつからかその逃避行が、彼女からの逃避行にも思えた。その逃避行が実行されるよりも先に、東京の警察が彼らを見つけて捕まえてしまった。

 その後でレニが逃げ込んだのは、フットボールだった。

                      ◆◆
 
 刑期を終えたのは85年の冬だった。とは言っても、当時のレニには少年法が適用されたので、実質3年とそこらでシャバに出てくることができた。前科持ちに用意された仕事は2つしかなかった。刑務官、もしくはフットボール選手。

 レニと4ヶ月同部屋を過ごしたユーゴが、先に出所してから東京でフットボールの試合に出ていると聞いていたので、レニはそのツテを頼って第7地区のスタジアムに足を運んだ。日本人とアメリカ人の親から生まれたユーゴだったが、名前はレニのいたパリでも聞く名前だったので、二人は仲を深めた。だが、それ以上に彼のことは知らなかった。誰もが、誰のことも知らなかった。

 スタジアム近くの駅前でユーゴと合流した。

 駅の改札を出てすぐに、けやき並木の大通りが正面に見えた。けやきの木には葉がついておらず、その先にガラス張りのスタジアムとそれに反射した青い空が見える。レニは、ようやく外に出たのだな、と思った。

 「四次元フットボールを見たことはあるか?」とユーゴが聞く。

 「フットボールってのは、足でボールを扱うやつだろ?」

 「それは質問に答えてない」ユーゴが意地の悪い笑みを浮かべる。ムショに居た時とは違って髭は剃っており、歯も隅々までしっかり手入れが行き届いていたので、レニの目にはまるで別人のように映った。「つまりさ、俺らがやってるのは四次元空間を移動して攻め合いを繰り広げるゲームなんだ。だから、それを、目で見たことがあるか?って話だ」

 スタジアムの前に来ると、相手チームと思われるジャージの集団がたむろしている。ユーゴが試合前にカフェインを入れたいと言うので、入口横に併設されているバーに向かう。

 「いいか。青い空に騙されちゃいけない。あの外では夜が広がってるんだ。月は明るく俺らの星を照らしてるように見える。ところが、実際に照らしてるのは太陽で、月の表面は冷たく暗い。地平線を見渡せる場所では、どこまでもその平面が続いてるって思う。ところが、地球は丸くなって反対側で結ばれてんだ」

 レニには、フットボールも、宇宙も、興味のない話だった。ただ、今は職にありついてリリアの元に金を持って帰らなければならなかった。

 「チームとの契約を結べば、お給料は出るんだろ?」

 「この仕事に保証なんてものはないさ。勝てば金はもらえる。それだけだ」

 レニは刑務官の制服を着る自分の姿を浮かべた。あの、下っ腹の出っ張った看守長の野郎。口から血を吐くまで警棒でぶっ叩いてくれやがる。

 「四次元フットボールではな、選手は同時に混同された時空間を縫ってポジションを取るんだ。座標が全てさ。五秒も前からあえてそのポジションで待ち伏せするってこともできる。まあ、そんな三次元的な発想では先を読むことなんてできないがな」

 レニは、ユーゴの手に持っているカップからこぼれたコーヒーの跳ねっ返りが、自分のシャツを汚したことが気に食わなかった。「そのポジションってのは、何を頼りに見つけるんだ?」

 「重力だよ」ユーゴはコーヒーをすすり、謝りを入れてから机の紙ナプキンでレニのシャツのシミを拭き取る。「フィールドを見た時に、人が多い場所と少ない場所の違いはわかるよな?それと一緒だよ。量子には濃度があって、それは確率で決まってくるんだ。ボールがここにあるのは何%、あっちにあるのが何%って具合に。つまりさ、熱を探せばいいわけ。それがエネルギーの量だからな。感じちゃうんだ」

 「そいつはどうにも、俺には見つけられそうにないな」

 「バーの娘がいるよな?あそこに。彼女の胸を見てみろ」ユーゴの白い歯にもコーヒーのシミが見える。「あれは重力異常だ」

                      ◆◆
 
 観客席からは三次元空間に再変換されたフィールドの上で、22人の選手がプレーしている様子が見物できる。2つのゴールとボールがあって、その中で選手たちの動きだけは、時空を跳んでは行ったり来たりを繰り返した。その様はそれぞれがデタラメに見えたが、実際には11人が大まかに連携していて、勘の良い者ならば、選手たちが移動しているある程度の座標を予測して見ることもできた。

 短いパスが左サイドで繋がれている内に、既に右のサイドバックは最前線にまでポジションを取り直し、中央の1人は相手がコースを塞いでパスカットを狙ってくるのを予測して、少し低めのポジションを維持しながらスペースを埋める。ボールホルダーはそのタッチのリズムで仲間にタイミングを知らせる。

 「終わったミスを取り返そうなんて考えちゃだめだ!」とレニが指示を出す。

 デイビッドとスタンの2人は、まだボールばかりを目で追っていて全く効果的なポジションを取ることができない。案の定、その2人の間にスペースができて相手の8番がそこを一気に突破したところから、レニのチームは失点を食らった。

 「起こったことを変えるためのものじゃないんだ。使うのは、次の動作へのサイン、相手の誘導だ」

 レニが芝を蹴った足でホールに飛び込むと、その裏から5ー7ー1を叩き、相手の2番のパスを待って、3ー3ー0に出る。レニの狙い通り、2番はレニの出したサインから中盤へのパスをカットされるのを恐れて、安易な横パスを選んだ。しかし、そこにはレニが先回りをしている。あっという間に同点に追いついた。ほとんどレニ個人での突破だった。だが、1人の力強いプレーは、人の深層心理に対する重力の如く、その後の試合の流れを大きく変えうるものである。そして、その通りに相手チームは2点目を焦ったがために軽率なミスを重ね、レニのチームはその流れのきっかけを自分たちの元に手繰り寄せた。

 前半は、3―1でレニのチームが折り返した。

 ロッカールームに戻ってきた選手たちは、熱を帯びたスパイクを脱ぎ捨て、大量の水分を摂取して回復に努めた。重力異常を起こすことで、もちろん表面はユニフォームが守ってくれたが、四肢は熱に晒された。

 監督が、三次元ホログラムのフィールドに線を引っ張る。横は左のサイドラインから0,1,2,3,4,5,6,7,8と番号が振られ、縦は自陣のエンドラインから0,1,2,3,4,5,6,7,8,9,10といった具合。更に、高さは地面を0としてその上に1,2,3,4。その数字の重なりで座標が表されていた。チームによっては、戦術上、これに二つずつ線を足す監督もいた。

 「後半の立ち上がりは、ディフェンス時の最前線はゾーン6まで下げろ。高い位置でボールが奪えれば一気にショートカウンターだ」監督がタッチペンで座標を繋ぐと、そこに赤の色が着けられる。「3ー8ー0、5ー8ー0、この二つにボールを運べ」

                      ◆◆
 
 試合は3−3の引き分けに終わった。あれだけの試合展開をしてから同点に追いつかれるとは、試合としてこれ以上不甲斐ないものはない。だが、リーグはまだ長い。

 バーの表でリリアがコーラとパンを持って待っていた。

 「試合の後には糖分が欲しいでしょ?帰りは私が運転していってあげる」そう言うとリリアは、レニのうねった癖っ毛を無造作に撫でて熱が逃げるようにしてやった。

 国道からすぐに高速道路に入ったが、どちらにせよ渋滞は避けられなかった。ラジオからは単調なコード進行が繰り返される日本の歌謡曲が流れていた。レニは、初め東京に来た時には退屈だと思っていたが、今ではそのループが生み出す宇宙的な広がりにすっかりハマっていた。歌詞の意味も、ほとんど聞いて理解できるほどになっていた。

 「車でもホールに入れたら良いのにね。そしたら、家まですぐだわ。パリにだって行けるのよ」リリアはサングラスをかけて西日を避けた。

 「冗談言うな。あんなに不安定なものに鉄の塊で入っていくなんて正気じゃないね。大体、出て戻ってこられる保証だってない」

 「あなたにはちゃんとルートがわかってるんでしょ?出るのも入るのも自由だわ」

 「あれだけ小さなスタジアムに、特別な条件で設置された空間で、ならの話だ。それに、あそこでだってまだ何が起こっているか、全てが明らかにされているわけじゃない」レニは危うくユーゴの名前を出しそうになったが、寸でのところで言葉を飲み込んで、冷えたコーラの缶を額に当てた。

 「量子論、わかるか?」レニが言う。「2つの箱の中の片方にボールを入れて蓋をする。開けると、それが左の方に入ってる。開ける前はどっちに入っていたかって話だ」

 「左にあるに決まってるじゃない」

 「開ける前っていうのは、どっちもあり得るんだ。誰かが見たっていう作用が起きない限り。ボールはどこにでも存在し得る。ただ、その位置は確率的ににしか特定できないんだよ」

 リリアはわかったような顔をした。少なくともレニはそうあってほしいと思った。

 「ユーゴみたいに?」

 「そうだな」

 砂塵でフロントガラスが覆われ始め、ワイパーを使う必要に迫られた。ラジオからは、砂嵐の警報が出ていることが伝えられた。

 試合が行われるフィールドは、そこ自体重力異常を起こして四次元空間を作り出している。ホールの中というのは、絶えず流動するスライムのように表は裏、内側は外側でもあるので、それを目にするとすれば、その形状は拡大と縮小を繰り返す球体に近い。観客席からは三次元に再変換されたフィールドが見える。選手がホールを通って違う座標を目指す時には、実際にはピッチを縦や横に走るのと同じようである。もちろん、足の速さは影響するし、多く走れる者もそれはそれで優位な点である。

 レニにおいて、彼が最も優れていた点は、他でもなく先を読む力だった。正確には、彼は先を読んではいない。先が分かるのだ。彼は、ボールや相手の動き、それから試合全体の流れを、視覚や触覚といったものを超えた、もっと高次元なところで感知していた。だが、本人も気づいてこそいたが、それを理解できてはいなかった。

 彼の才能を早くに見抜いたのは、ユーゴだった。彼も同様に、フットボールが何なのかということを、少なからず感覚的にわかっていた。彼ら2人が揃えばリーグ優勝は固かった。

 それでももちろん、試合に負けることはあった。それでこそフットボールだった。そして、週刊誌の巻末で職業占いが言うように、フットボール選手とは負けず嫌いで自己中心的な上に嘘つきだった。レニは嘘つきではなかったがその素質は大いにあったし、ユーゴに関しては全くもってその通りの性格だった。

 ある試合の後半戦で、1点のビハインドの試合展開の中でレニのチームは冷静さを取り戻せずにいた。両チームの差は、1点それ自体よりも大きかったのである。特にユーゴは、リスクを厭わず攻め込んでいた。

 ホールの中でレニが座標を指示すると、ユーゴはそれを無視して更に時空を跳んだ。加速していくと熱エネルギーも上昇し、その負荷に耐えきれなくなる恐れがある。レニはぎりぎりまでそれについていった。2人を見つけられる者は、もはやピッチには一人としていなかった。意識が薄れる中、2人は自分たちの身体の重みを感じていないことを発見した。その意識の薄れは、更なる高次元からの引力によるものだった。自分たちを構成している物質の、量子たちが解体されつつある。一度そちらに持っていかれれば、二度と戻っては来れないだろうことは、ぼやけたレニの脳でもはっきりと分かった。既に自分たちは、導かれている。

 途端に、周辺の明るさが増した。だがそれは、時空の歪みからの引力が、光を飲み込んでいることからくる、逆説的に起きた現象だった。レニは、光の先にボールを見つけた。いや、波だ。音に近い、波がレニを呼んでいて、身体はそれに押しやられるようにして引っ張られ、ボールのあるところまで連れて行かれた。その声はリリアのものだ、とレニにはわかった。

 68×110のメートル四方のフィールドの上に、21人の選手たちとボールが一つ転がっていた。レニは意識を失った。

 「結局、実験がしたいだけなのさ。犯罪者を使えば、失敗も許されるからな」レニは赤ワインを持ってきて、リリアに栓を開けるよう頼む。

 「今日は良い試合だったわ」リリアの頬に赤いニキビができていた。皺も寄って、少し顎のところがたるんできたようにも思える。「あなたが出ている試合はいつも良い試合よ。勝っても負けてもね」

 「アルコールでも入れなきゃ、今日は眠れないよ」

                      ◆◆
 
 リリアからの連絡が途絶えてしばらく経っていた。正確には、まだ1ヶ月前後だったが、2週連続で悪天候の影響によるリーグの中止が決まると、レニは他にすることもなく、考えることもなかった。

 東京23区を襲う砂嵐は、電波障害をも引き起こしていた。それは、特にフットボールのフィールド環境にとっては致命的な要因となり得た。熱風を伴う砂嵐は、ただでさえ不安定な高次元時空間の歪みに予期せぬ刺激を与える。

 第11区に位置する連盟本部の地下の会議室では、残り2節だけを残したリーグを強行終了するための策として、特別ルールによる4チーム対戦の試合を組む旨が決定された。4つのゴールにボールは2つ。総勢44名のフットボール選手たちである。最も得点を挙げたチームの勝ち。ポイントも給料も総取り。
 この知らせを自宅で受け取った時、レニはベッドの上で30時間以上を過ごしていた。今度ばかりは全く熱が下る気配がない。試合後のフットボール選手は、興奮状態、過剰な神経の使用によって発熱を起こすことが多く報告されていたが、今ではホルモンパネルの導入により、人為的に数値を調整して鎮めることが可能となっていた。だが、それでもレニの熱は下がらなかった。

 中断期間の間、外は毎日砂嵐に見舞われた。リリアがこの部屋に戻ってくることは一度もなかった。その代わりに、レニの手当にはバーの娘の、エリがやって来ていた。

 「ホルモンパネルはいじらないでおいてね。感染症の場合、経過が分からなくなっちゃうから」エリがペットボトルをレニの口に当てて電解質溶液のドリンクを飲ませる。

 「その胸で寝かせてくれりゃ、すぐに落ち着くんだがな」とレニ。

 「あなたの熱には耐えられそうにないわ。こっちが参っちゃう」

 窓に砂塵が貼っ付いて真っ赤に染める。おかげで部屋の中はほとんど真っ暗で、レニはかろうじて意識をこちら側で繋いでいる。

 「まったく茶番だな。そんなフットボール誰が見たい?」

 「お客さんは入らないのよ。客席の安全までは配慮できないから、無観客試合にしなくちゃならないの」

 「サポーターのいない試合なんて、試合じゃないな」

 またすぐに熱が上がる。レニは、エリが食べさせてくれた白粥も、薬も、全て戻してしまった。部屋が伸び縮みして、頭が重力に耐えきれず持ち上がらなくなる。視界の端でエリの姿が揺れる。また、その逆もあり得る。

 水の中にいるみたいに、周りの物質は揺らめいている。そこに固定されているようだが、かすかに動きを止めない。流れ続け、入れ替わり、それぞれがお互いに押し合ったり引きつけたりしながら、じわじわとその境界線は交わって溶けていく。身体は熱を帯びているが、安心させてくれる感覚だ。景色はホールの中にいる時の、あの感じに似ている。まただ。ほんの少しずつだが、あちら側の引力によって自分が引きずり込まれている。そっちの方、先の見えないカーブの深淵に目をやると、奥に何かが見える。光は吸収しつくされて目には映らないが、かすかに温度感がある。黒の中にそれを感じる。レニにはそれが、ユーゴか、あるいはかつて彼を構成した一部の何かであるとわかった。それに比べれば、ひどく自分は冷めてしまって、まるで死体のそれのように思える。寒く、孤独だ。

 汗でシーツはびっしょりに濡れていた。隣ではエリが寝ぼけた顔で瞬きをしている。

 「すっかり寝てしまったわ。状態はどう?」エリが言う。

 「もうすっかり元気だ。礼を言わなきゃな」

 「朝飯を食べたい?」

 「ああ。だが、その前に少し河川敷を走りたい」

 「無理をしちゃだめよ。もう少し休みが必要」

 「朝飯前さ」外の砂嵐はすっかり収まっていた。「長い夜の後だったけどな」

                     ◆◆
 
  スタジアムのフィールドには、ゴールが4つ、ボールが2つ、選手が44人並んだ。もちろん、空間内では座標を頼りにしただけのランダムな配置だった。

 「まったく茶番だな」レニが言った。

 デイビッドとスタンの2人は、病気や親の都合なんかで公に学校休みを許された子供のように、自由を得た顔だった。

 試合が始まると、あとは運に任せるしかなかった。

 レニには2つ選択があった。このゲームがどのような様相を見せるか様子を見る。あるいは、先に自分がやってしまうか。

 当然、この場合は待っていても仕方がないことを、レニはわかっていた。ボールの1つを味方が持っているのを確認すると、迷わずにスペースへ走り出した。サインは仲間内にだけ分かるよう、予めの監督の指示に従って行う。だが、レニはそれ自体をフェイントに使った。チームのフォーメーションが展開されると、他の3つのうち、ボールを保持していない2つがこれに呼応した。レニへのパスコースを作っている中盤が既にマークされている。そのままボールを奪われないようにしていると、全体のラインが引き下がって、レニと他の選手との間には距離ができてしまった。しかし、レニは加速をやめない。ボールは2つある。

 ボールを保持しているもう1つのチームは、手薄になった反対サイドを攻めようとボールを高い位置に運んでいた。そこに突然、レニが現れる。彼は1人で43人を手玉に取り、あっという間にそのボールを奪ってみせた。これによりレニのチームがボールを2つ保持する状況となった。その一瞬間、全員の動きが止まり、気がついた時にはボールは2つともレニの近くの座標に運ばれていた。開始1分、先制の2得点が同時に決まった。

 実況席は、往年の名選手の名前のいくつかを挙げ、レニを彼らに例えた。

 「フットボールにおいて常に重要なのは」解説者が解説をした。「何を選択をするかではなく、相手に何を選択させるかなんですよ」

 それからは、ポジションの連携はあってないようなもので、全チームが入り乱れて攻守が繰り広げられた。その中で全体観をもって試合を進められたのは、やはりレニだけだった。

 先に気がついたのは、キーパーだった。レニのシュートを立ちすくんだまま見送ると、あっさりと失点を許す。これで更に他のチームを引き離す展開となった。だが、キーパーはゴール白線の上に両足をピタリとくっつけたまま右か左か、前にも後ろにも、どっちへ行ったらいいのか分からなくなっている様子だった。それから、風が吹いた。風はあらゆる方向を向いていて、視界を一瞬で遮っていった。砂嵐だった。

 時空が膨張していき、レニは背中の方から熱の風を感じた。

 運営側の判断で空間が閉じ始めた。それによって、選手たちはもとの三次元空間へと吐き出されていった。

 レニは頭痛に頭を抑えた。砂嵐は、重力差の狭間で火花を散らし、それは金属音のような音を立ててレニの頭に響いた。ただ過ぎ去るのを待つしかなかった。

 ホール出口のぎりぎりまで来て、急激な発熱に全身が焼かれている気がした。砂嵐による温度の上昇で、レニはまたあちら側の感覚を思い出していた。その感覚自体が時空間の引力を呼び起こしているようでもあった。更なる高次元へのホールは、常に遠いようでレニのすぐ側で口を開けて待ち構えていた。

 フットボールをしている時だけは、レニは自由でいられた。ただ、ボールの行方を探り、ポジションを見つけ、時間と、試合の流れを身体に打ち付けていく。座標を目指している間は、考えるよりも先に感覚が自分を導いている。それは、波やリズムだった。それに身を任せるだけで良かった。ひょっとすると、ユーゴはその先で開放されているのかもしれない。自分の一切を委ね、身体の呪縛からも放たれ、ただその感覚だけが続いている。彼は自由を勝ち取ったのではないか。

                      ◆◆
 
 「帰りを送ってくださる?」

 エリがシャッターを閉めたバーの前に立っていた。

 結局、試合は前半の内に中止になった。今シーズンに関して言えば、リーグの再開は厳しいように思われた。

 倦怠感で今にも倒れてしまいそうな状態だったが、レニは前髪をかき上げてバーの娘に愛想を振りまいた。レニの運転で、夜の首都高速を走り抜けた。地面の白線は砂でほとんど見えなくなっている。道路の端に向かって段々と砂が重なって山になっていて、風が吹くとそれらが舞い上がる。砂は街灯に照らされて赤い。その上に浮かぶのは、まばゆいビルたちの光と透き通る空気、夜の東京だ。夜の東京はレニの部屋にまで少し漏れて、シーツの上で残骸がまだ時間を引き伸ばしていた。ベッドからエリが顔をひょっこりと出す。たしかに彼女は美しい見た目だった。

 「あなたは1人が大丈夫なのね」

 レニは溶けた氷で薄まったウイスキーを飲んで喉を潤し、ベッドに潜ってエリの横に戻った。「1人だったことは刑務所の中でだってない」

 「彼女のこと待ってるのね。あなたはきっと本当の男なんだわ」

 「それはちょっと違う」レニが言う。「待つのはイイ女さ。イイ男は、去るんだ」

 まぶたを閉じて、開ける。全身が熱を帯びて、まだベッドに馴染むことができない。試合のすぐ後では、男と女は良い話題ではなかったが、それをこの部屋に持ち込んだのは自分自身だったとレニは気がついた。

 レニが両手の人差し指を宙に掲げる。

 「男っていうのは、愛するんだ」

 右の人差し指で左の人差し指を叩く。

 「女っていうのは、愛される」

 それから説明を始める。

 「男は一度愛すると、際限なくそれを与えてしまうんだ。女はそれを求める。一度求めれば、それに終わりはない。だが愛しすぎてしまうと、時にそれは相手を傷つけてしまう。相手を縛りつけ、痛めつける」

 「それを知ってるから、男は他の女と浮気をして、女は他の男と浮気するのね」エリは目を瞑っている。

 「イイ男は去るんだ」

 レニは身体を起こしてベッドの縁に腰掛け、数秒間部屋の隅を見つめる。それから音を立てずに立ち上がって、顔を洗いに洗面所に向かう。

 「下で1杯だけ飲んでくるよ。そのまま寝ていても構わないし、勝手に部屋を出ていっても構わない。タクシー代なら机の上から取っていってくれ」そう言うとレニは、小銭入れだけをポケットにしまって、上からシャツを羽織り、部屋を後にした。

 通りの反対側で飲み屋のネオンが光っていた。外に出てみると、少し雨が降ってきていた。濡れた砂の上を、小走りに抜けて店の中に駆け込む。扉を開けた瞬間にラムの甘い香りと、昔のジャズのスタンダード曲を電子音でいじり込んだのが聞こえてきた。カウンターで酒を注文して待っていると、奥に若者が数人、暗がりの中で立ち話に興じているのが見える。

 「今シーズンは終わりだな」カウンター越しにバーテンダーが言う。

 「俺の知った話じゃないね」レニが返事をする。

 奥の若者たちは、女を囲んで飲んでいるようだった。自分の方に気を引こうと、男は優しさと少しの勇気を見せ、女はそれには見向きもせず、ただ周りの男どもの視線を自分の身体のラインに這わせる。

 「煙草があったら1本くれないか?頭が痛くって、今日は酒だけじゃどうしようもないんだ」レニはバーテンダーと乾杯をすると、一口つけてから氷の入ったグラスを額に当てて体温を冷やす。散々だった。フットボールが上手くいかない日は、まったくもってだめだった。

 煙草を吸うと、目の前が少しフラついた。頭が後ろの方に引っ張られ、そのまま重力に任せてぐるりと回して右の方を見ると、さっきの女が覚束ない足取りでトイレを探し歩いていた。肩のところで短くまとまった巻き髪に真っ赤なリップは、その辺でお目にかかれるタマじゃなかった。だがそれよりも、暗がりに目を凝らすとなんとそれは彼女、リリアだった。リリアはドアを向こう側に押し開けながら、自分もその中に落ちてしまいそうだった。

 レニは駆け寄ると、彼女の両腕を後ろから支えて便座のところまで連れて行ってやった。彼女を座らせて扉を閉めると、そこで腰に手を当てて鏡の方を向く。しばらくして用が済むと、扉を開けて彼女の顔を見た。彼女はレニの顔を見た。それから笑って、目を瞑った。

 「ごめんね。いつもここまで来て、部屋には入れないの」

 「俺ならここにいるさ」

 レニは脇から手を通して彼女を起こしてやる。少し後ずさって、自分で歩けるか、と聞く。彼女からは返事がなく、両手が彼の腰に巻いて、力なく掴む。

 外で流れている音楽に少しだけ身を任せて揺れてみた。彼女を腕に抱きながら、静かに足を引きずってステップを踏む。横に振れながら、ゆっくりとその場を回っていく。彼女の頬に触れると、とても冷たく感じられた。だがそれは逆に、レニ自身が熱をもっていたからだった。レニは自分の肉体の内側から来る熱を感じ、足が触れている床を感じ、手の先のリリア、彼女の鼓動を感じた。頭の中では、深く暗い弧の深淵を描き、その中心を覗こうとした。そこへ自分は既に飛び込んでいるのか、もしくはあちら側から引き寄せられているのか、彼には区別がつかなかった。



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