第1話

文字数 1,061文字

「あなた、可愛いね」道端に落ちていた私に、この人はそう話しかけてくれた。
ずっと寂しかった。持主は、外れ落ちた私に気づかず、そのまま立ち去ってしまった。落としたことに気づいてそのうち戻ってきてくれると信じていたけど、とうとう彼女は現れなかった。駅地下のお店でひしめくライバルたちの中から「これ可愛い!」と言って取り上げてくれた人なのに。
今では私に変わるお気に入りができて、とっくに私のことなど忘れているのだろう。そう腐りかけていたとき、目の前の喫茶店の奥さんが私を拾い上げてくれたのだ。
奥さんは、ひとりでお店を切り盛りしていた。寂しかったのか、拾った時からしきりに私に話しかけてくれた。
「もし落とし主が現れなかったら、私がもらってもいい?」そう言われたときは、びくっとした。一瞬、ご主人のことを思い出した。心がチクリとして、返答に迷った。いや、返答などできないのだけれど、私は心の中でひそかに「お願いします」と頭を下げた。
すると、奥さんは「ありがとう。大事にするね」と笑いながら返事をした。人間の言葉を発したわけでもないのに、伝わったのだろうか?
それからというもの、私はアンティーク調の店内の飾り棚に飾られて、インテリアの一部になった。暇なときはよく奥さんの話し相手になった。「あなたと話していると何だか楽しくなるわ」そう言ってくれて、とてもうれしかった。
奥さんは何でも私に話してくれた。孤独だったけどあなたが来てくれて本当によかった、とまで言ってくれた。私は恩人である奥さんの心のよりどころになればいいと思い、真剣に耳を傾けた。時々自分の話をすると、不思議と通じ合えたような気分になった。
この人なら、ずっと私を大事にしてくれるかもしれない、そんな気にさせてくれた。
日曜の雨の日だった。扉が大きく開かれて、懐かしい顔が目の前に現れた。前の持主だった。彼女は落とし物の確認に訪れたのだった。私は忘れられていなかった。
私は元の持ち主の手に帰ることになった。もちろんうれしかった。けれど、さみしい思いも残る。「よかったね」奥さんはそう言って微笑んでくれた。心なしかさみしがっているようにも見えた。
私の背中は、マイホームとも言うべきバッグにしっかり付けられた。懐かしい繊維の匂いだ。
お店の外へ進んだとき、奥さんと向かい合った。心の中で、こう叫んだ。
「ありがとう。私のこと、忘れないでね」
「忘れないよ」とは返してくれなかったけど、黙って見送る奥さんの表情はやさしかった。
奥さんの話し相手から、もとの缶バッジに戻っても、ずっと忘れない。











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