第1話
文字数 868文字
『死にたい』
そう声が聞こえた。
隣の住人の声だ。
俺は小さく舌打ちをした。
住人と言ってもここはアパートやマンションじゃない。
声が聞こえるほど薄い壁に限られるだけの狭い空間。いわゆる漫画喫茶っていうやつだ。
『死にたい』
また声が聞こえた。
右隣のやつ。
苛立ったって他に行く場所なんかないので、気分転換にと空のコップを持ちブースを出る。
ドリンクバーのジュースはどれも甘いけど、現実はそう甘くはなかった。
母親の小言と父親の無言の圧力に耐えかね、何の蓄えもないまい始めた一人暮らし生活は一年で終わりを告げた。
まず電気が止まった。水道も止まった。
おばっか使えば誤魔化せると思ってた家賃滞納は3ヶ月でアウトだった。
家を無くして住所不定になった俺を、バイト先の店長はあっさりと切り捨てた。
あのハゲ。一本残らず眉毛まで抜けてしまえ。
何とかなると思ってた。
でも何ともならなかった。
マジか、と思う暇もなく俺は家なし職なし付け足すならば恋人なしになった。
『死にたい』
ブースに入るなり聞こえる声。
俺は弱い力で壁を叩く。
実家に帰れば針の筵だ。それだけは絶対にしたくない。
結婚しろだの就職しろだの、そんな針を耳から入れるようなことばっかり聞かされてたら俺が針山になっちまう。
財布の中身は今日の日雇いで稼いだ13000円。まだ大丈夫。まだここでなら生きていける。明日の仕事は決まってないけど。大丈夫。大丈夫。
目下の悩みは一つだけ。
『死にたい』
隣から聞こえるこの声だ。
同じようにこの漫画喫茶で暮らしているのか、毎日のように聞こえるこの声。
最近は特に増えている。
やめろやめろ。
こっちまで鬱になる。
黙ってればいいのに他人を巻き込まな。
死にたいなら勝手に死ね。
ストローで喉の奥突き刺して死ね。
本日5回目の『死にたい』に耐えかねて、
俺は隣のブースのドアを叩いた。
「あの、迷惑なんですけどーーー」
勢いよく開けた先には、
誰もいなかった。
『死にたい』
ああ、なんだ。
俺の声か。