歯科医せよ!

文字数 5,000文字

 まず、タイトルですが、“はかいせよ!”と読んでください。
 私の中には、何人か私がいるのですが、そのうちのひとり、比較的まともな私は、はやくも「これ以上書くのはやめておけ!」と言うわけです。「お前が書いてきたもののタイトルのなかでも、群を抜いて良くないぞ!」とかね。まあ、それほど理性的でない私からも、支離滅裂な私からも呆れられています。それほどに良くないタイトルだ。
 ただ、私がずっと“良くない”と表現しているので、勘の良いひとたちは、「なぜ“趣味が悪い”、“センスがない”、“ダサい”のような明瞭な言葉を使わないのだろう?」と考えたことでしょう。ご明察です。良くはないけれど…ということです。つまり、私は無謀にもこのタイトルのまま書き進めようとしている!破滅の足音が聞こえるが構うものか!だって、私はこんなに気分がいいのだから!
 
 
 どこから話をはじめたものか。まずは、絶望の話をしよう。感動のとなりにはいつも絶望があるわけですから。絶望のない感動はどこか空虚です。もちろん、実生活では、絶望はなく、感動だけがあったほうがいいに決まっていますが。テレビには、インスタントな絶望や、インポテントな感動がアバンダントで…嗚呼、なんだか説教くさいな。とにかく昨夜の絶望から話をはじめます。
 私は基本アナログな人間なのですが、その私の行動にひとついくらか現代的なものがあって、それは、小説投稿サイトに出来損ないの文章を投げて創作意欲を発散する、というもので、文字に起こすとこれまた悪趣味で鳥肌が立つわけです。私に好意を寄せる女性たちがいたとして、これを打ち明けたなら、彼女たちの九割がずいぶん血圧を下げることでしょう。
 まあ、そういうことをしていて。そこに詩人の友人がいるわけですが、彼が私の不出来な作品群には過分に思えるほどの言葉をくれるわけです。もちろん、彼はそれを詩で書くから、ほんとうに私の作品に言及しているのかどうかはわかりませんが、とにかく私は彼の詩を読むと、私の作品へ向けられた言葉のあるような気がするのです。
 で、昨夜もまた、ちょっと文章を直して、例のサイトにあげたわけですが、詩人の友人がずいぶんうれしい言葉をくれたのです。まあ、もちろん、私に向けられた詩かわからないわけですが。私は彼の言葉のおかげで満たされてゆくのを感じました。「評価より大切なものがあるじゃないか!私の言葉はしっかりと誰かへ伝わっている!これが表現の喜びでなくてなんなのか!」、と。そして、この短い充実が終わると、私はあるとても恐ろしいことに気が付くわけです。私の周りを不気味にうごめいていた力が消えている!私を永いあいだ苦しめ、活かしてきた力が!私の精神の強靭な自由の四肢が!私のもうひとつの世界が!消えている。あの力が私から離れてしまった。
 先に説明した、私の中の私のうちの気の弱いやつが、小さい声で「おわった…」と言うわけです。矢も楯もたまらず、というより、もうやけくそでメディテーション、つまり瞑想をしてみたりするのですが、これが逆効果で、あたまのなかが整理されて、自己肯定的な私が「いいじゃないか!呪いから解放されて、きみはこれから新しい人生を生きられるんだ。よかったじゃないか!」と言いはじめる始末でした。ただ、彼の、まあ、私ですが、の言葉は慰めにも気付けにもなりませんでした。あの邪悪で神秘的な力、こどもの頃の全能感のようなものを失ったその喪失感というのは、これは言葉では言い表せません。いや、書いているのだから、表現すべきか。そうだな。それは例えば、土偶やはにわのように内部が空洞になって、そこを通る空気の流れが感じられるような。そういう喪失感。熱意に反して意外に月並みな表現だったな。
 まあ、とにかく私は夜眠ることができなかったわけです。しかも、私は高校の途中から学問を疎かにして、海外の大学を中退したせいか、もしくはもっと深層の問題のせいか、テレビ局の半端なところに安月給で勤めていて、早朝の仕事の手伝いをしなければならなかったから、一睡もせずにタクシーに乗って明け方のほの暗い街を滑り、職場へ向かいました。
 嗚呼、大学を中退したときの話をしたいようです。私は恐らく、あのときの母との和解を生涯忘れることはないでしょう。私からやっとコルセットが外れて自由になったあのときのことを。母の理解と愛情を。私はあのときやっと一匹の野性の獣として野に放たれたのです。あれもひとつの夜明けだった。
 まあ、しかし、文章には流れがあるようだ。
 そう。で、実はこのタクシーですが、今日に限って、予定していた出発時刻のギリギリまでつかまらなかったのですが、それでそちらにずいぶん気が行ってしまって、喪失感はずいぶん薄まりました。生活は忘却なのです。ただ影が薄まるだけで、それがなくなるわけではありませんが。将来の不安のように漠然と、しかし力を維持して、私の視界の端で、こちらの様子を伺っているのです。私はタクシーの窓から流れてゆく景色を眺めているようでした。
 街は朝早くから動いていました。都市は麻痺していました。やすらかに眠るものたちや、立派な建物のすぐそばに、ブルーシートやダンボール、路上の生活がありました。無感動。無痛。同じ電車、同じ地下鉄に乗ってぐるぐるぐるぐる。あたまがおかしくなりそうだ。
 タクシーに乗っているあいだ、私はずっと時間の心配をしていたけれど、着いてみればまだ時間に余裕がありました。大抵、私の心配は過大です。ただ、ほんのすこし油断すると、おおきく失敗します。
 また、職場の人間は皆、私に優しいです。ちょっと気の利いたことをすると、大抵は予想の十倍ぐらい感謝してもらえます。今日もやはりそうで、それは嬉しいことではあるのだけれど、その生ぬるい空気のなかにいると、向上心みたいなものは次第に消えていきます。もちろん、焦りはあります。私は落伍者ですが、開き直ることはできていません。家族や親戚がまだ私への期待を捨てていないからです。「良い子だ」、「真面目だ」、「優秀だ」、「立派だ」、「将来何者かになるはずだ」、いまは悲しき音たちの、いまだ残響のあるようだ。
 無心で仕事をしていると、外が深い水色になり、ゆっくりと朝日が昇って、やっと空腹を感じました。寝ていないうえに、食べてもいなかったのです。私は休憩をもらって外へ出ました。局内の食堂はまだ開いていない時間でした。外は残暑で、世間は週末でした。太陽のもと楽しげにしている人々を横目にしながら歩いていると、私の携帯が振動しました。転職サイトのお知らせメールに混じって、留学していた頃の友人のホストマザーから連絡がきていました。友人のホストマザーです。私は寮にいました。私が大学の寮にひとりでいて、窓を開けて、ブラインドを閉めて、読書ばかりしていた頃、彼女は私にもっともよくしてくれた人物のひとりでした。いま思えばこの友人も出不精の私をよく外へ連れ出してくれたなあ。すこし横暴で、デリカシーのない人間だったが。しかし、楽しかったな。この友人に引っ張り出されて、遅くなるとよく彼らのところに泊まりました。寮に戻らないで五日ほどここに泊まっていたこともありました。ここへ引っ越さなかったのは、寮のほうがガールフレンドとフールアラウンドしやすかったからだが、しかし、やはりそれでも引っ越せばよかったと思うこともある。それくらい居心地がよかった。
 で、この友人のホストマザーですが、私が帰国したあともたまに連絡をくれるのです。ここのところしばらく連絡がなかったので、彼女も高齢で心配だし、こちらから連絡しようとはずっと思っていたのでした。ただ、ずっと連絡しなかったせいで、変にコミュニケーションの筋肉がこわばって、簡単なことが、彼女にただ「調子はどう?」とメッセージを送ることが、なかなかできなかったのです。それはまたひとに調子を聞くほど、私自身の調子がよくなかったということもあるかもしれません。
 ですから、彼女からメッセージが送られてきたことが、私にとってとても嬉しいことであったのは言うまでもありません。私はすぐにメッセージを返しました。
「そうだよ。まだ同じ職場だよ。転職は考えているけどね。でも、周りはよくしてくれているよ。仕事は順調だけど、もっとチャレンジングなことがしたいんだ。って、これ文法大丈夫?しばらく英語は使ってないから…。それと、ガールフレンドはいないよ。ガールフレンドを作れるほど、まだ立派じゃないんだ。ラフアウトラウド。娘さんと離れて暮らしているのは心配だけれど、不便はない?調子悪かったりしたら教えてよ。いつでもメッセージ送って。それか、こっちからメッセージ送るよ。安否確認の。週に二、三回くらい。もっと多くてもいいけど。それとあと二時間くらいで仕事終わるんだけど、あとで電話していい?」
 彼女と何度かやりとりをして、家へ帰ってから彼女へ電話することになりました。だから、大体、三時間後か四時間後に。こうなった理由はふたつあって、ひとつは私が早朝勤務だったところを気遣ってくれた彼女の提案だったし、もうひとつは、私があまりひとのいるところで英語で話したくなかったからでした。局内では目立つし、職場のひとに見つかって、あとからそれについて説明するのも億劫でした。とにかくそう決まりました。
 私はメッセージがきたのが嬉しくて、道端に突っ立ってメッセージを返していたから、休憩の時間がなくなって、急いで食べて局へ戻りました。一瞬、ブランチなんて言葉が頭をよぎりましたが、はずかしいばかりです。まったくそんな上品な語感の言葉をつかうには値しない食事でした。
 そうして休憩から戻って、場面は飛んで、退勤まで一時間を切ったころ、上司があることに気付くわけです。この時間には来ているはずの社員が来ていない。上司が電話をかけると、案の定、時間を間違えていて、一時間ほど遅れて来るとのこと。オンエアへの対応が必要だということで、なぜか急遽、私が駆り出され、彼の到着してからもいろいろあって、結局一時間半くらいの残業になった。ホストマザーへは連絡をしていて、やはり熱の冷めないうちに話したい様子で、仕事の延びたのはすこし残念そうだった。私はできるだけ急いで帰ろうと思った。
 私はやはり局内で英語を使って電話をするのは避けたかったので、とりあえず一度、局を出ようと思いましたが、思い直して屋上のテラスへ出ました。私の気にしていることがちっぽけだったからです。私の声を聞きたくて待ってくれているひとがいるのだから、すぐ電話をすればいい。それはシンプルだった。
 外は気持ちよく青空で、彼女の声は変わらず温かく、嬉しそうで、私の英語もめちゃくちゃだが、話をするぶんには問題なく、素晴らしい時間だった。電話をしているあいだ、私の目の前を、ケセランパサランが飛んだ。それはタンポポの綿毛かもしれないし、科学的に正体を明かされた何かかもしれなかったが、私にはケセランパサランだった。久しぶりに彼女と話せたことをあとで母に伝えると、母も嬉しそうにしていました。
 私はそのホストマザーとなんだかんだ三十分くらい話して、電話を切って、送れと言われたセルフィーを撮って彼女に送ると、大きく深呼吸をしました。あの不思議な力が戻っていました。
 おそらく、私はこれからもまたこの力のせいで苦しむでしょう。それは外へ向けて発揮される力でなく、内へ内へと向かう力だから。私がはじめて自分の意思で文章を書いたのは苦しかったからだけれど、いまはどうだろう?私の表現は、誰かに話しかけているのかもしれないし、ひとりで叫んでいるのかもしれず、また、それを知ろうとしているのかもしれない。
 私の奥歯はいまひとつ欠けています。留学前に治そうとして、インプラントかブリッジか悩んで、結局どちらにもできないまま出国して、いまもまだ石膏が詰まっています。しかし、歯ブラシが早く開くくらいの不便しかない。
 で、なんだっけ?昨日今日と書いているけれど、一昼夜で書いたものではないから、忘れてしまいました。まあいいか。さて次は何を書こう?
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