離婚させてもらえない女と、その男の手紙

文字数 5,751文字

次の手紙は、かつて私が尊敬した先生への手紙です。

私から先生への手紙

拝啓、ご無沙汰をしております。
先生、お元気でしょうか。

今、この手紙を書いている旅館の庭先には、美しい花々が咲いております。
美しいはずのその花々が何故か寂しげに見えるのは、
私の心がそれを感じているせいかもしれません。

この手紙を受け取り、先生がこれを読んでいるときに、
私達はもうこの世に存在していないかもしれません。
先生がこよなく愛された元の奥様と共に。
私の傍には今、彼女が私に寄り添っております。

いきなり、このようなお手紙を差し上げることをお許し下さい。
先生には、今までに大変お世話になりながら、その恩を返さないばかりか、
人として許されない私の行為をこの手紙で知り、
さぞ驚くと同時に私を蔑すみ、非難をすることでしょう。

何も知らなければ、過ぎたこととして、今までと同じ時間が過ぎていくのでしょう。
しかし、私はどうしても、先生に黙っていることに耐えられず、このペンを採りました。

本来なら直にお伺いし、直接お話ししてお許しを請うのが本筋なのですが、
それは先生と私自身が対峙するのはお互いに適切ではないと考え、
敢えてこの手紙で告白し、お詫びに代えさせていただくことといたしました。

しかし、わたしがこう申すまでもなく、
私の想像では、もう既に先生は一部始終を察知しておられると推察しております。
先生のもとから、奥様が先生のお家を飛び出して私のところへ走ったのも、
偏に、私が原因であるというのも分かっていることと存じております。

私が、先生の教えを請う為に先生のお宅を訪れたのがことの始まりでした。
その頃の先生は相変わらずお忙しく、大学での講義や講演会等で殆ど家を空けておられました。
先生には、私以外にもお付きの書生の方が何人かおりました。
その中でも私は、先生にくる葉書や書類の整理等、目立たないことをしておりました。

ですから、先生はそんな私のことなどあまり関心がないのでしょう。
はっきりと言えば、私のことなど憶えていらっしゃらないかも知れません。
そういう中で、先生の奥様の君恵様と、私と二人だけでいる時間が多くなっていました。

書生の私は、奥様のお世話や、料理も担当していました。
その料理の仕方も初めの頃は、実は奥様から優しく教わったのです。
そんな時の奥様は嬉しそうでした。

今、私がこのようなことを言う資格はないのですが、奥様はいつでもお優しい方でした。
このような私に優しくして頂き、いつも感謝していました。


実は、その奥様との関係をここでお話ししなければなりません。
それをお知らせしたい為に、この手紙を認めたのかも知れません。
その顛末をここで告白しなければ、この情況を先生が理解できないと思うからなのです。
はっきり言いますと、私と奥様とは道ならぬ関係になってしまったのです。

一言だけ、言い訳がましいのですが、私から奥様を誘ったのではありません。
奥様は、いつも寂しがっておられました。

先生が著名になり、殆ど家にいることが無く、外泊が多いと聞いておりました。
それを奥様が私に告白したからなのです。

奥様は、この若い私なら安心なのでしょう、
或る日から、私は奥様のお世話係としても接しておりました。

奥様は、そんなとき若い頃のことをよく話されておりました。
縁日で買った手提げ袋や、耳飾りなどを手にして嬉しかったこと。
春の日の河原で遊んだ思い出とか……。
そんなことを私にお話しする奥様は嬉しそうでした。

そして、或る日に奥様は、ぽつりと私に言ったのです。
「ねえ、私は寂しいの……尾上君はわかる?」

いきなりの言葉に私はその意味を計りかねていました。
「いえ、私にはあまり……」
「そうよね、あなたには、こんな女心等、わからないのよね」
と寂しそうに言いました。
「す、すみません、奥様……」
女性を知らないその頃の私は、奥様の返事にどう返して良いかわからないのです。

「せつなくて、苦しいのよ……尾上君」
「そうですか、私には良く分かりませんが」
「そうでしょうね、私は女だからかも……」

そう言いながら、悲しげで寂しそうな奥様を見ていると私も切なくなっていました。
お美しい奥様を私はお慕いしていましたから。
しかし、今になって思うことなのですが、人の心とは不思議な物だと思いました。
お慕いする奥様を、いつからか私は(おんな)として見ていたのです。

或る暑い日に、奥様は私を部屋に呼びました。
「尾上君、私……凄く汗をかいてしまいました、手が届かないから背中を拭いてくれる?」
「はい、わかりました」
夏でしたので奥様は浴衣を着て、私に背中を向けて肩のところをずり下げました。
たしかに、奥様の背中は汗ばんでいました。
私が手拭いで拭いていると、気持ち良さそうに「前もお願いして良いかしら……」と言います。
「は、はい」

私に向き合った、奥様の乳房は眩いばかりに美しく、目が眩みそうでした。
私は言われるとおりにそこを拭いていました。
あとは想像にお任せいたします。

それをきっかけで、先生と他の書生がお出かけになると、奥様は私を呼びました。
そして、奥様のベッドで熱い関係を続けていました。

奥様と関係を持ちながらも、私は罪悪感に囚われていたのです。
私と奥様との関係がばれないかと、いつも恐怖感に怯えていました。
それにいたたまれず、私は先生の家を出ることにしました。
すると、奥様は泣きながら、私に縋りつきました。

「お願い、尾上君、私を連れて行って……」
「いいえ、奥様、こんな私と一緒では苦労するだけですから」
「良いの、このままこの家にいるくらいなら、私は死にます!」
私は奥様の強い心に打たれて納得しました。
「そこまで奥様がおっしゃるのなら……」
「ありがとう、尾上さん」
奥様は、初めて私を(尾上さん)と言ってくれました。

いま、君恵は私のそばで眠っています。
私の隣で、布団の上で横たわっているのです。


私と君恵とで昨夜お話しをしました。
先生に大変お世話になりながら、裏切った私をお許し下さい。
私と君恵は二度と先生とお目に掛かることは無いでしょう。

そして、誰にも会うことはないでしょう。
永遠に……。
さようなら。
これが私達に与えられた罪に対する償いだからです。

先生へ
    尾上真二郎



私の女になった前の奥様から先生への手紙

お久し振りですね、あなた……。
今、先生をあなた……と呼んで良いか私には分かりません。

今でも、あなたは彼と私との関係を憎み、離婚届けにサインをしてくださらない以上
私は今でも、実態のないあなたの妻となっております。

私は不思議に思うのですが、
こんな私を、何故に妻という眼に見えない鎖で堅縛するのでしょう……。

こんな堕落をした女をさっさと離婚して、新しい妻を娶ればいいのでは。
と私は単純に思うのですが、どうやらそんなに簡単ではないのでしょうね。
あなたの蛇のような、怖ろしいほどの仕打ちを、
私はこの後もずっと背負わなければならないのでしょうか。

確かにあなたの妻となった当時は、私は良い妻であろうと務めていました。
本当にあの頃は、あなたという立派な肩書きや経歴などを尊敬しておりました。
今では言えることですが、その当時はそれらを含め、
「あなたを愛していた」と言う思いは確かにありました。

しかし、それはあなたの外見的なことであり、本当のあなたを私は知らなかったのです。
ただ、私は美しいお人形のように大事にされていました。

無知な私は、それを(愛)と思いこんでいたのです。
しかし、それは違っていたようです。
あなたの男としての考え方と、私の女としての思い……。
それらが、ずれていることに気が付いたのは彼を知ってからなのです。

あなたは私を抱いていても、心の中では私はその中にいないことを感じていました。
あなたに抱かれていても、逝くことを知らない私……。
それが普通の夫婦生活だと私はずっと思っておりました。

ただ抱かれて、身体を触れられて、心地よい感触はありましたが、
私はそんなものかと思っていたのですが、それは違っていました。
後で、知ったのですが、(愛とは、セックスとは)もっと激しいもの。
狂おしく、心乱れるものであり、それが生きる為の活力になるのです。
それを教えてくれたのは、今の彼……尾上さんです。
私達は或る関係を持ちました。

そのことは、前に彼が、あなたにしたためたお手紙を読んで頂ければお分かりでしょう。
動機はどうであれ、私と彼とは磁石のように引き合ったのです。

それは火花を散らすような激しい恋でした。
目も眩むような、その(恋)に私は目覚めてしまったのです。
始めて女としての快楽を知ったのです。
あなたの時のように、肌に触れていてもそれがまるで違うのです。
身体に電流が走ったとはこのことを言うのでしょうか……。

頭の芯から突き抜けるような衝撃、体中から汗が噴き出るような痺れ。
こんな経験は初めてでした。
それはお互いが、男女が心から信じ、愛し合う心から生まれることを私は知りました。

そして、私は今は幸せです。
かつてのように、あなたの妻として存在していた頃に比べ、全てを失いました。
今、私が持っている物、それはほんの一握りの私の持ち物だけです。
正直に言いますと、辛うじて生きる為だけのものしかありません。

あなたのお屋敷から身一つで飛び出した私ですもの。
いまさらながら、私の未知の自分に驚くばかりです。
好きなものは何一つ買えない今の生活ですが、私は後悔しておりません。

物質とは何でしょう……。
物の価値とは、その価値とは誰が決めるのでしょう。
私には、いえ……私達にはそのようなものは必要はありません。

本当に必要な物、それは(お互いを信頼し、愛し合う)ことなのです。
私はようやくそれに気が付いたのです。
時々、お米を買うお金が無いときが多々あります。
彼の細々とした稼ぎでは、それもままなりません。
彼の書く出版社への原稿料も微々たる物でした。

無いときには近くのコンビ二で買った物を二人で分け合い飢えを凌ぐ。
そんなことも少なくありません。それでも、私はそれを不幸せとは思っておりません。

そして、やせ我慢でもないのです、本当の気持ちです。
心さえ繋いでいれば、心がそれを癒してくれる。
そう思って私達は細々と生きているのです。

もし、それで朽ち果てたとしても私は本望です。
しかし、それは私の思いこみであり、私の為に彼を死なせてはならないのです。

ですから、私は彼に内緒であることを決意しました。
私で出来ること、私で少しでも二人の生活で糧になりこと。
それにはまず、私が働かなければなりません。

苦しんでいる彼だけに負担を負わせることは出来ないのです。
私に出来ること……それを考えてきました。
お店で働くこと、それをしました。

しかし、それは駄目でした。何も知らずに育った私などを雇ってくれる所はありません。
両手で数えるほどのチャレンジをしたのですが、答えは(ノー)でした。
そんなとき、私でも働いて少しでもお金になる或るお仕事を見つけたのです。

これは、口が裂けても彼には内緒にしていることなのですが、
どういうわけか、あなたにはそれを告白したくなったのです。
それは、離婚届にサインしないあなたに対する腹いせではありません。
生まれて初めて、好きな人と共に生きる為の私なりのやり方を見つけたのです。

それは私にとっては或る究極の選択なのです。
次のお手紙で、そのことを書きます。
それをあなたが読もうが破ろうが、お好きなように……。
では、失礼いたします。

かしこ

大河内君恵



元奥様から先生に宛てた次の手紙


少しずつ季節が春を目覚めさせてくれる今日この頃です。
あなた……と言って良いのでしょうか、
今は先生と言った方が、あなたには良いのかもしれません。

寒さにあまり強くないあなたですが、お風邪などを引いていませんか?
喉などを痛めていませんか?
そんな時には、暖かい格好でお過ごしください……。

とはいっても、こんな私のことなどは、気にも掛けてはいないのでしょうね。
もう、あなたに抱かれることも、お話しすることも無いと思いながらも、
不思議にあなたを思い遣る気持ちが少しでも私の心の中にあると思うと、私自身が驚いています。

女とは、一度……夫婦として交わってしまえば忘れられないものなのです。
どんなに冷たくされようが、相手にされなくても……。
いっときは、熱く愛されたことは事実なのですから、
その消しがたい事実と記憶……これがわたしとあなたを繋ぐ架け橋となるのです。

でも、それはわたしの独りよがり、独善とでもいうのでしょうか。
すみません、つい愚痴になってしまいましたね。

そうそう、この手紙でわたしのことをお話しするお約束でした。
ただただ、わたしのこの一方的な手紙だけで、わたしの思いを述べているだけです。
でも、あなたが黙々とこの手紙を読んで下さっている気がするのです。

どんなに、わたしが蔑んだ女となろうとも、どんなに惨めな女になろうとも、
わたしは今でもあなたの妻となっているのですね。
それをあなたが望むから……。
こんなわたしを離婚して、さっさと縁を切ればいいのにあなたはそうなさらない、

その本心をわたしは分かるようでいて、分からないのかもしれません。
揺れ動く男心……ごめんなさい、それは女性に対する表現でしたね。
でも、今はそれが本当にあなたの偽らざるお気持ちでは無いでしょうか?

わたしは離婚届にサインをして、あなたのもとへ送りました。
役所で確認した所、相変わらず戸籍は綺麗なままでわたしは妻と記録されています。
もし、あなたがその気になれば、その瞬間から
こんな淫らな女に成り下がったわたしと、完全に縁を切ることが出来ますのに。

それは、わたしに対するあなたの(愛情のかけら)なのかしら?
それとも(憎しみ)なのでしょうか……。

さて、わたしが身を崩したお話しをしなければなりません。
どうしてそうなったのかをあなたはとても知りたいはずです。
一時でも、或る瞬間でも愛し合った夫婦ですものね。

でも、今はそのお話をする心にはなっておりません。
それはまた次の私からの手紙でお話ししようと思っています。

かしこ
     大河内君恵

そう言いながら、彼女が先生に次の手紙を出すことは無かった。

               
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