第1話

文字数 845文字

もしかすると、貴方は知らないのかもしれない。鼻の奥をツンとくすぐる若竹の青臭さ、湿った腐葉土から立ち上る土の香り、暗闇の中、遠くから聞こえてくる雨蛙たちのせめぎ合うような鳴き声を。

雨が、くる。

私はいつも、この季節になるとわかるのだ。そう、わかるのだ。雨がくるのだと。
生毛をチリチリと逆撫でるような重たい空気。燕が頭を垂れ、低く飛ぶ姿。窓から見える山嶺に悠々とかかる白い傘。頬骨の上で弾む、透き通った雨雫の群れ。
幼い頃から、私は雨が好きだった。雨の日というのは視界がボヤける、という人も多いが、自分の眼には世界の全ての輪郭がいっとう際立って映えるのだ。
なにもかもが、あまりにも美しい。この世界は、雨が降ってこそ完璧な状態なのだとさえ考えていた。
まだ幼かった頃、雨の日は傘をささずにずぶ濡れになって帰るのが好きだった。
生温い空気の中、同じく生温い雨雫を全身に浴びて、大きく深い水溜りを見つけてはそこに飛び込んだ。
帰り着く頃には下着までぐっしょりと濡らし、よく母親に叱責されたものだ。
でも、抗えない。
だって、雨がくるのだから。

今も私は雨が好きだ。休日、窓辺へと寝転がり、日がな一日、灰色の薄暗い空から、雨が滴るように地面に吸い込まれていく様を見ていると、とても心浮き立つ。
さすがにもうこの年齢になると、雨に濡れ、黒く輝くコンクリートの上を素足で走り回ることはしなくなったのだが。
カラフルな傘をさし、髪は濡れないか、服は濡れないか、靴は水溜りをしっかり避けているか……
そんなことを考え々々、雨の日の畦道を闊歩する。
だが、本当はカラフルな傘なんて必要ないのだ。髪も濡れたっていい。服はダメになるほど濡らせばいい。靴なんて履かなくても、雨の日のコンクリートは私との秘め事を良しとしてくれる。
水のように侵入してくる月の光に照らされて、今、遠くから雨蛙たちの囁き声が聞こえてくる。

明日は雨にするかい?
そうだね、明日は雨にしよう。

私はそんな秘密の会話を寝物語に聞きながら、ふと、思うのだ。

ああ、雨がくる、と。
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