野口英世とパツキン女

文字数 2,173文字

 野口英世は金髪が好きだ。
 日本でも女遊びが激しかった野口だが、それはロックフェラー医学研究所に勤めるようになった今も変わらない。
 今日も野口は、ニューヨークの酒場に繰り出していた。ナンパである。
 すると、イケてるパツキン女が、野口の隣のスツールに腰掛けたのである。
 女は、ウイスキーを三杯ストレートで呷ると、野口に向かって言った。
「四杯目はあなたが奢って」


 一時間後には、野口と女はすっかり意気投合していた。
「ヒデヨ・ノグチだ。ヒディと呼んでくれ」
「メリー・ロレッタ・ダージスよ。メージーと呼んで。お仕事は何を?」
「ロックフェラー医学研究所で働いている。細菌の研究さ」
「細菌……何?」
 まだ人々の間に、細菌の概念は十分に行き渡っていなかった時代である。野口は丁寧に説明した。
「このテーブルの上や、空気の中には、目に見えない小さな生き物が溢れている。そいつは、人を病気にしたり、パンをふくらませたりするんだ」
「ぞっとしない話ね」
 十杯目のストレートを口に運ぼうとしたメリーに、
「そのストレートの中にも、数え切れないほどの細菌がうごめいている。そもそも、穀物をウイスキーに変えるのも、細菌の仕業だ」
 メリーは驚いた目でグラスを見つめたが、すぐに目をつぶってグラスを飲み干した。
「で、あなたは? ウイスキーの専門家?」
「いや、梅毒スピロヘータの研究をしている」
「あなたも梅毒に?」
「まさか。十分気をつけているからね」
「ならいいわ」
 メリーは野口の腕を取った。
「今晩付き合ってちょうだい」
「ずいぶん……その……積極的だな」
「積極的な女はお嫌い?」
「……いや、大好きだ」
 二人が席を立とうとした時、酒場のドアが開いて、罵声が飛んできた。
「見つけたぞ、このあばずれ!」
 振り向いたメリーの顔が、恐怖に歪んだ。


 いかにも粗暴そうな、アイルランド系の男だった。
「俺というものがありながら、こんなところで男漁りか!」
「あなたとは何の関係もないじゃない!」
「俺とお前は許嫁だ!」
「親同士が勝手に決めたこと! 私は認めてないわ!」
「とにかく来い!」
 メリーの腕を取ろうとするアイルランド男の腕を、野口が押さえた。
「何しやがる、このジャッ……プ……」
 侮蔑語を発しようとした男の顔が苦痛に歪んだ。あまり知られていないことだが、障害のある野口の左手は、うまく動かないかわりに、握力が発達している。その左手が、男の手をぎゅっとねじ上げたのである。
「ご婦人に暴力を振るうのは、感心しませんね」
 男は力任せに野口の左手を振りほどいて、じろっと野口を睨んだ。
「二人の間のことだ。第三者が口を挟むんじゃねえ」
「彼はこう言っているが、どうなんだい、メリー?」
「……助けて、ヒディ」
「わかった」
 野口は自分のグラスを空にして、立ち上がった。
「ここでは店に迷惑がかかる。表に出ようじゃないか」


 あらためて夜の路地裏で向かい合うと、アイルランド男は野口より、頭一つは大きかった。それでも野口には、全くひるむ様子がない。
「先に言っておくが、僕は日本人を侮蔑する者を、決して許さない」
 ファイティング・ポーズを構えた。先に野口の握力を思い知っているアイルランド男も、用心してなかなか手を出そうとしない。
「そして、ご婦人に暴力を振るう者もだ」
「格好つけやがって!」
 挑発されてかっとなったアイルランド男が、野口につかみかかる。野口はその腕を取ると、鮮やかな一本背負いで、地面に叩きつけた。
 大の字に伸びて唸る大男に、野口が冷ややかに声をかける。
「まだやるかね」
「うるせえ!」
「きゃあっ!」
 メリーが悲鳴を挙げる。アイルランド男が、ナイフを抜いたのだ。
「……殺してやる!」
 ナイフを小脇に抱え、突進する。野口はそれを……受け止めた!
 くぐもった音がして、真っ赤な飛沫が飛ぶ。野口は音もなく崩れ折れた。
「……人殺し!」
 呆然としていたアイルランド男は、メリーの声に我を取り戻すと、ナイフを投げ捨てて、一目散に走って逃げた。
 メリーは倒れた野口に、必死で取りすがる。
「ああ、ヒディ! どうしましょう……目を開けて!」
 野口が目を開いた。
「大丈夫だよ、メージー」
 何事もなかったかのように立ち上がる。メリーは目を丸くして
「大丈夫って……」
 野口は上着をまくって見せた。分厚い雑誌と、潰れたトマトが落ちてくる。
「ただやっつけたのでは、彼は今後も君につきまとうだろうと思って、さっきの酒場で失敬してきた」
 見開いたメリーの瞳から、大粒の涙が零れる。メリーは野口の胸に飛び込んだ。
「バカバカバカ! 本当に死んじゃったかと思ったじゃない!」
 野口はメリーを抱き留めると、
「……本当に積極的だな、君は」
「積極的な女が好きなんでしょう?」
「ああ、大好きだ」
 二人は唇を合わせた。


 野口英世とメリー・ロレッタ・ダージスは、その年のうちに結婚。夫婦仲は極めて良かったが、メリーには酒乱の気があり、酔って野口に暴力を振るうところを目撃されている。
 一方の野口は晩年まで喧嘩っ早く、亡くなる前年にもニューヨークの路上で乱闘騒ぎを起こしている。


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