第1話 縁は異なもの味なもの

文字数 1,399文字

父親の体が壊れ始めて亡くなるまで、そんなに時間はかからなかった。

 父は付き合いだと言っては、酒の席に363日出向き、家にいたのは節季の二日間だけだった。節季にはスナックのママ達がこぞって日頃のツケを年に二回のその時期に集金にまわるから店を休む。だから父が家にいるのは年にたったの二回だけ。母はそんな父をアル中だと罵倒した。父は新聞記者だった。昭和は今と違ってSNSなどなかったから全ての仕事はアナログで、コミュニケーションが何より重要だったし、横の繋がりが出世にも影響した。それが雄一家族を守る手段だった。私達がそれに気付いたのは、父の葬儀で並んだ夥しい数の花輪を見た時だった。

もう一つ、父は約束というものをしなかった。守れない事も分かっていたし、嘘をつきたくなかったのだろう。

 子供の頃、友達が夏休みや冬休みに家族旅行をした事を教室で自慢気に話しているのを聞いて羨ましく思った事もあったけれど、それを両親にせがんだ事など一度もなかった。連れて行ってくれない事も分かっていたし、何より、寝た子を起こしたくはなかったからだ。寝た子とは母親の事だ。彼女は父が家を空ける事を忌み嫌っていたから、他の家族が楽しく家族旅行などしている事など言おうものなら、それはそれは世にも恐ろしい夫婦喧嘩が勃発し、大惨事になるのは目に見えて分かっていたからだ。私達姉妹はそっちの方がむしろ面倒だった。この夫婦はトムとジェリーみたいに毎日、大小様々な喧嘩をしていたけれど、それでも最後まで夫婦として添い遂げた。夫婦二人きりで何かを楽しむ事もなく父は逝ってしまった。と、私は思っていた。でも、それは間違いだった。一度だけ父が母と初めて約束をした。それは退職後に母と二人で海外旅行をしようと言うのだ。母は本気にしていない。と、いう素振りを見せながらも小さく微笑んでいた。でも体を壊しそれが叶わないと分かった時、父は無念そうに掠れた声で私に言った。「母さんに嘘をついてしまったなぁ」そう言うと、病床から空を見上げた。きっと、涙を溢さないようにしたのだろう。
入院中、母は高価な個室を取り、片時も父から離れる事なく献身的に看病をした。疲れた顔一つせず、穏やかでそして幸せな表情をしていた。それを見て私は不思議に思ったけれど、後にその理由が分かった。

父の葬儀に母が喪主として弔問客に言ったことで腑に落ちた。

 母は父の遺影を見ながら優しい眼差しでこう言った。「主人が亡くなる前の一ヶ月、二人きりで幸せな時間を過ごせました。夫婦になって50年、初めて二人きりの長く楽しい旅行をした気分でした。お父さん、約束を守ってくれてありがとう。とても幸せでした。ありがとう」そう言うと父の遺影に深々と頭を下げた。それを見て私は見えなかった二人の絆が色付いて見えた気がした。

 縁は異なもの味なもの

 その言葉が私の頭の中をグルグルと回って止まらなかった。

父が真っ白な骨になって戻ってきた時、母は
辛うじて指だと分かる部位に自分の手を置いて泣いた。
夫婦が夫婦になって再び手を重ね合う間、誰にも分からない、入り込めない歴史があって、夫婦だったと言う証は一生消えることなく残るのだとその時感じた。

 そしてその事実は色褪せることなどなく、年月が経つに連れ、それは鮮明になる事を知った。

 縁は異なもの味なもの。

 夫婦とは2人だけしか知らない、色褪せない世界なのだろう。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み