いつか、能登半島を抱きしめて
文字数 4,215文字
能登半島を抱きしめ損ねたことがある。それも二回。
一回のみであったのなら「じゃあ次の機会に」と余裕を振りまいてもいられるのだが、二回目となるとそうもいかない。なんだか一生抱きしめることができない気がする。三度目の正直という言葉はあるが、四度目の正直という言葉はないのであって、次が勝負だと否応なしに慣用句から攻め立てられている気がする。
そういうわけで、三度目のチャレンジは未だ成せずにいる。
しかし、鬼の顔も三度までという言葉もあるので、鬼に変身する機会があったら是非チャレンジしようともおもう。その時、赤鬼青鬼どちらに変身するかは未だに決めかねている。
さて、能登半島を抱きしめる、とはどういうことだろう。
書いておきながら私もよくわかっていない。
それでも、パワーワードとして脳裏に焼き付いているのは、良くも悪くも思い出になっているからに違いない。
最初に抱き損ねたのは八歳の時のことだった。
小学生の時、四十七都道府県暗唱という題目を唱えた人はたくさんいるだろう。
福岡の片田舎の生まれ育ちの私でも、その効力のおかげで、石川県は所在も名前も知っていた。
当時、私は学童保育に通っていて、あるパズルに夢中になっていた。日本地図のパズルだ。どなたかの保護者から寄進された、このパズルは子供たちからは人気を博していた。時には、パズルのピースの争奪戦も行われるほどに。
その中で、日本海にあるこの出っ張りはなんだか抱きしめることができそうだと思った。それは私だけではなく、この特徴的なピースは、誰もが一番最初に手にするピースだった。
しかし、どこぞのおもちゃのカウボーイも言っていたように、子供はモノを無くす天才だ。
パズルのピースもいくつか欠けいって、そのひとつに人気者の石川県も入っていた。
これが能登半島を抱きしめ損ねた一度目である。
私は能登半島を握ることはできても、抱きしめることはできなかったのである。
やってしまったことというのは反省できるが、できなかったことというのは後悔になってしまう。
ところで、私はよく寝る。嫌なことがあれば、さらに時間をかけて睡眠をする。しかし、忘却の相棒と思っていた睡眠は、どうやら医学的には記憶を定着させるための術であるらしい。
そういうわけだから、異常ともいえるほど嫌なことも楽しかったことも覚えている。強いて言うなら幼少の頃の、ませた妄想のあれこれもすべて覚えているのはこのせいかともおもう。
よって、このなんだか口惜しい気持ちは私の後悔の権化として、珠洲市馬緤町の沿岸から見えるゴジラ岩のように記憶の中でじっとこちらを見つめ続けているのであった。
その記憶が再び私の行動を刺激したのは、去年の七月のことだ。
三連休であったから、海の日近くのことだろう。
そのころ、紀尾井町のビルの一群の中にオフィスを置く大企業にかろうじて入社した私は、人生で初めての一人での休みというものを持て余し続けていた。
高校卒業と同時に始めた東京での一人暮らしであったが、バイトに勉強に音楽活動に、デート活動と休みの日に一人でいるということがなかったのだ。
趣味と言っても寺社仏閣巡りや史跡巡りくらいで、音楽に関しては辛うじて副業として成立するくらいであったから、趣味と位置付けるには本格的すぎていた。
また、その前前前年まではこっそり同棲をしていたものであるから、一人の時間を持て余すという行為はなんだか贅沢にも胃が痛くなるばかりであり、例の映画に倣って四ツ谷の須賀神社の階段で振り返って、三年前の自身の生活を見つめなおすくらいしかやり過ごしようもなかった。
また、結婚ブームが旋風を起こし始めもしたから、その中心の台風の目の真ん中のように物音を立てない自分周りに焦りも感じていた。
これに関しては、遺憾ながら、いまだに嵐の前の静けさは続いている。
そんな中、私を抱きしめてくれる人はいないのかしらと少女漫画のヒロインよろしくひと夏の思い出を夢想しだしたときに、「能登半島ならば抱きしめてくれるのではないか」と、例の記憶がよみがえったのである。
先にも述べたように、やらない後悔よりやる反省、がモットーであるから思い立ってからは早かった。早かった、というよりは無謀という表現が正しいのかもしれないが、吉祥寺のみどりの窓口にかけこんで新幹線かがやきのチケットを片道分だけ購入して、中央線に飛び乗った。
目的はただひとつ。能登半島を抱きしめに。
人生初の北陸地方への旅だった。
日本海を通じて福岡県とはつながっているが、雪国というイメージが強くどこか異国の地のような気がしていた。
されど、快適な新幹線かがやきでの旅はあっという間に終わり、気づけば私は駅構内のそばをすすっていた。
土曜の昼に飛び出して夕方近くに着いたもので、宿の一つもとっていなかったがラッキーなことに駅前のビジネスホテルに空きがあり、金沢での夜も新幹線同様快適に過ごすことができた。
翌朝、金沢でひらみぱんのパンをこれでもかというほど腹に貯め込んで、能登半島へ向かうべく前日電話で予約した観光タクシーに飛び乗った。
話はそれるが、私は自動車免許を持っていない。正確には父親から「世界平和のため」取得することを許されなかった。
であるから、観光タクシーは貴重な私の交通手段なのである。金沢に優れた観光タクシー会社が何社もあることを、金沢神社の前田公とその祖先菅原道真公に御礼申し上げての旅の始まりであった。
さて、この時点で、どこで能登半島が私を抱きしめてくれるのかは、見当をつけかねていた。
どこかで適当な勘が働くだろうという、どこまでもフィーリング任せの旅であった。故に、抱きしめ損ねたのだろう。
金沢のびゅうハイヤーの七時間コースは、能登半島ビギナーの私を余すことなく楽しませてくれそうなコースをいくつも提案してくれた。
日本海の風を浴びたかったので、千里浜なぎさドライブウェイから歌川広重能登滝之浦・巌門を行くコースにしていただいた。
まず、千里浜なぎさドライブウェイの砂浜を駆け抜けたのちに旧福浦灯台へたどり着いた。この日は晴れであったから、能登半島のシンボルマークとして私の海馬に記録されている。運転手のおじさんは、私が歴史好きと知ったとたんに、さまざまな能登半島の歴史を伝授してくれた。
よって道中、スマホや本に頼ることなく観光を楽しむことができた。
ひとつひとつ事細かに書いてしまうと、字数が足りなくなってしまうので、私が一番心を惹かれた観光地、男女滝について少し話そうと思う。
なめたき、と読むその滝は、向かって左側がゆるやかな流れが連なる女滝、右側が急傾斜で流れ落ちる男滝である。その様子が、夫婦のように寄り添って一本の流れになっているのが特徴だ。美しい滝であった。
この滝を、美しいと思うと同時に面白いと思った。
本流が女滝で、支流が男滝なのである。
この滝が、いつ名付けられたかは知らないが、本流を女にしているところに面白さを感じた。
まるで、ミトコンドリアは母親からしか受け継がれない様を表しているかのような、名付けだと思った。
この女性主体文化と男性主体文化に関しては、稚拙な知識しか擁していない私などよりも、何倍も頭の良い先生たちが研究を行っているので特に語ることはないが、こういった名づけのひとつやその景観に、当時知りようもなかった「科学の事実」が重なることを、偶然か必然か考えることは、罪のない妄想である。この妄想は、未知の土地を旅する時のひとつの楽しみだ。
また、縄文時代の文化が北陸地方には残っていることも、私の脳を刺激した。
私の生まれ育った九州は、火山の影響などにより縄文時代は一度消えてしまっている。
奥能登にはこうした先人たちの想像が史跡として残り、それを日常的に享受できる生活が残っている。
私には、それが心底うらやましく思える。嫉妬さえ抱く。
遺跡や史跡、というものはいつだって想像と創造という新しい扉を開けるための、鍵であるのだから。それを、生まれた時から近くで見ることができる石川県の人々は、見ることのできない私よりいくつもの扉を知っている。
それが、うらやましくてたまらないのだ。
男女滝を巡った後、ふたたび運転手のおじさんのうんちくを耳に入れながら、金沢駅にたどり着いた。
みどりの窓口で帰りの切符を買い求めた。その日は三連休の真ん中であったので、難なく東京行の切符を買うことができた。
帰りの新幹線の車内で、福うさぎをほおばりながら、男女滝の景観を思い出している最中、大事なことを思い出した。
そう。能登半島を抱きしめるという抽象的な目的を、美しい景色たちとおじさんの巧みな解説に夢中になるうちに、忘れてしまっていたのである。
思えば抱きしめるタイミングなどなかったような気もするし、あの場所で大の字になって抱きしめておけばよかったとも思う。
しかし、新幹線の中ではどうにも行動ができない。
こうして、能登半島を抱きしめる機会は持ち越しとなったのである。
抱きしめる機会もないまま、一年と少しがたって今日に至る。
職は変えてしまったが、相変わらず土日祝休みのひとりぼっちの休日を過ごしている。
最近では、言葉に自分というものを投影したりして過ごしている。そうでもしないと、東京の巨大な人波で、私のミトコンドリアは吹き飛ばされてしまいそうな気がするからだ。
いつか私でも、いつか能登半島を抱きしめることができるのだろうか。
冒頭にも述べたが、やはり三度目という数字は人間生活上重大な数字である。失敗が許されるのは昨今のことで、歴史上失敗は許されないことのほうが長いのだから。
それでも、いつかまた石川県には行きたい。行くことができなかった場所がたくさんあるし、もっとゆっくり能登半島で過ごしたい。隅々まで知ることができれば、抱きしめることを許してくれるかもしれない。
いつか、能登半島を抱きしめて。
その先の意味は、初めて環状木柱列を見た時のような、あなたたちの想像と創造にお任せすることにしよう。
一回のみであったのなら「じゃあ次の機会に」と余裕を振りまいてもいられるのだが、二回目となるとそうもいかない。なんだか一生抱きしめることができない気がする。三度目の正直という言葉はあるが、四度目の正直という言葉はないのであって、次が勝負だと否応なしに慣用句から攻め立てられている気がする。
そういうわけで、三度目のチャレンジは未だ成せずにいる。
しかし、鬼の顔も三度までという言葉もあるので、鬼に変身する機会があったら是非チャレンジしようともおもう。その時、赤鬼青鬼どちらに変身するかは未だに決めかねている。
さて、能登半島を抱きしめる、とはどういうことだろう。
書いておきながら私もよくわかっていない。
それでも、パワーワードとして脳裏に焼き付いているのは、良くも悪くも思い出になっているからに違いない。
最初に抱き損ねたのは八歳の時のことだった。
小学生の時、四十七都道府県暗唱という題目を唱えた人はたくさんいるだろう。
福岡の片田舎の生まれ育ちの私でも、その効力のおかげで、石川県は所在も名前も知っていた。
当時、私は学童保育に通っていて、あるパズルに夢中になっていた。日本地図のパズルだ。どなたかの保護者から寄進された、このパズルは子供たちからは人気を博していた。時には、パズルのピースの争奪戦も行われるほどに。
その中で、日本海にあるこの出っ張りはなんだか抱きしめることができそうだと思った。それは私だけではなく、この特徴的なピースは、誰もが一番最初に手にするピースだった。
しかし、どこぞのおもちゃのカウボーイも言っていたように、子供はモノを無くす天才だ。
パズルのピースもいくつか欠けいって、そのひとつに人気者の石川県も入っていた。
これが能登半島を抱きしめ損ねた一度目である。
私は能登半島を握ることはできても、抱きしめることはできなかったのである。
やってしまったことというのは反省できるが、できなかったことというのは後悔になってしまう。
ところで、私はよく寝る。嫌なことがあれば、さらに時間をかけて睡眠をする。しかし、忘却の相棒と思っていた睡眠は、どうやら医学的には記憶を定着させるための術であるらしい。
そういうわけだから、異常ともいえるほど嫌なことも楽しかったことも覚えている。強いて言うなら幼少の頃の、ませた妄想のあれこれもすべて覚えているのはこのせいかともおもう。
よって、このなんだか口惜しい気持ちは私の後悔の権化として、珠洲市馬緤町の沿岸から見えるゴジラ岩のように記憶の中でじっとこちらを見つめ続けているのであった。
その記憶が再び私の行動を刺激したのは、去年の七月のことだ。
三連休であったから、海の日近くのことだろう。
そのころ、紀尾井町のビルの一群の中にオフィスを置く大企業にかろうじて入社した私は、人生で初めての一人での休みというものを持て余し続けていた。
高校卒業と同時に始めた東京での一人暮らしであったが、バイトに勉強に音楽活動に、デート活動と休みの日に一人でいるということがなかったのだ。
趣味と言っても寺社仏閣巡りや史跡巡りくらいで、音楽に関しては辛うじて副業として成立するくらいであったから、趣味と位置付けるには本格的すぎていた。
また、その前前前年まではこっそり同棲をしていたものであるから、一人の時間を持て余すという行為はなんだか贅沢にも胃が痛くなるばかりであり、例の映画に倣って四ツ谷の須賀神社の階段で振り返って、三年前の自身の生活を見つめなおすくらいしかやり過ごしようもなかった。
また、結婚ブームが旋風を起こし始めもしたから、その中心の台風の目の真ん中のように物音を立てない自分周りに焦りも感じていた。
これに関しては、遺憾ながら、いまだに嵐の前の静けさは続いている。
そんな中、私を抱きしめてくれる人はいないのかしらと少女漫画のヒロインよろしくひと夏の思い出を夢想しだしたときに、「能登半島ならば抱きしめてくれるのではないか」と、例の記憶がよみがえったのである。
先にも述べたように、やらない後悔よりやる反省、がモットーであるから思い立ってからは早かった。早かった、というよりは無謀という表現が正しいのかもしれないが、吉祥寺のみどりの窓口にかけこんで新幹線かがやきのチケットを片道分だけ購入して、中央線に飛び乗った。
目的はただひとつ。能登半島を抱きしめに。
人生初の北陸地方への旅だった。
日本海を通じて福岡県とはつながっているが、雪国というイメージが強くどこか異国の地のような気がしていた。
されど、快適な新幹線かがやきでの旅はあっという間に終わり、気づけば私は駅構内のそばをすすっていた。
土曜の昼に飛び出して夕方近くに着いたもので、宿の一つもとっていなかったがラッキーなことに駅前のビジネスホテルに空きがあり、金沢での夜も新幹線同様快適に過ごすことができた。
翌朝、金沢でひらみぱんのパンをこれでもかというほど腹に貯め込んで、能登半島へ向かうべく前日電話で予約した観光タクシーに飛び乗った。
話はそれるが、私は自動車免許を持っていない。正確には父親から「世界平和のため」取得することを許されなかった。
であるから、観光タクシーは貴重な私の交通手段なのである。金沢に優れた観光タクシー会社が何社もあることを、金沢神社の前田公とその祖先菅原道真公に御礼申し上げての旅の始まりであった。
さて、この時点で、どこで能登半島が私を抱きしめてくれるのかは、見当をつけかねていた。
どこかで適当な勘が働くだろうという、どこまでもフィーリング任せの旅であった。故に、抱きしめ損ねたのだろう。
金沢のびゅうハイヤーの七時間コースは、能登半島ビギナーの私を余すことなく楽しませてくれそうなコースをいくつも提案してくれた。
日本海の風を浴びたかったので、千里浜なぎさドライブウェイから歌川広重能登滝之浦・巌門を行くコースにしていただいた。
まず、千里浜なぎさドライブウェイの砂浜を駆け抜けたのちに旧福浦灯台へたどり着いた。この日は晴れであったから、能登半島のシンボルマークとして私の海馬に記録されている。運転手のおじさんは、私が歴史好きと知ったとたんに、さまざまな能登半島の歴史を伝授してくれた。
よって道中、スマホや本に頼ることなく観光を楽しむことができた。
ひとつひとつ事細かに書いてしまうと、字数が足りなくなってしまうので、私が一番心を惹かれた観光地、男女滝について少し話そうと思う。
なめたき、と読むその滝は、向かって左側がゆるやかな流れが連なる女滝、右側が急傾斜で流れ落ちる男滝である。その様子が、夫婦のように寄り添って一本の流れになっているのが特徴だ。美しい滝であった。
この滝を、美しいと思うと同時に面白いと思った。
本流が女滝で、支流が男滝なのである。
この滝が、いつ名付けられたかは知らないが、本流を女にしているところに面白さを感じた。
まるで、ミトコンドリアは母親からしか受け継がれない様を表しているかのような、名付けだと思った。
この女性主体文化と男性主体文化に関しては、稚拙な知識しか擁していない私などよりも、何倍も頭の良い先生たちが研究を行っているので特に語ることはないが、こういった名づけのひとつやその景観に、当時知りようもなかった「科学の事実」が重なることを、偶然か必然か考えることは、罪のない妄想である。この妄想は、未知の土地を旅する時のひとつの楽しみだ。
また、縄文時代の文化が北陸地方には残っていることも、私の脳を刺激した。
私の生まれ育った九州は、火山の影響などにより縄文時代は一度消えてしまっている。
奥能登にはこうした先人たちの想像が史跡として残り、それを日常的に享受できる生活が残っている。
私には、それが心底うらやましく思える。嫉妬さえ抱く。
遺跡や史跡、というものはいつだって想像と創造という新しい扉を開けるための、鍵であるのだから。それを、生まれた時から近くで見ることができる石川県の人々は、見ることのできない私よりいくつもの扉を知っている。
それが、うらやましくてたまらないのだ。
男女滝を巡った後、ふたたび運転手のおじさんのうんちくを耳に入れながら、金沢駅にたどり着いた。
みどりの窓口で帰りの切符を買い求めた。その日は三連休の真ん中であったので、難なく東京行の切符を買うことができた。
帰りの新幹線の車内で、福うさぎをほおばりながら、男女滝の景観を思い出している最中、大事なことを思い出した。
そう。能登半島を抱きしめるという抽象的な目的を、美しい景色たちとおじさんの巧みな解説に夢中になるうちに、忘れてしまっていたのである。
思えば抱きしめるタイミングなどなかったような気もするし、あの場所で大の字になって抱きしめておけばよかったとも思う。
しかし、新幹線の中ではどうにも行動ができない。
こうして、能登半島を抱きしめる機会は持ち越しとなったのである。
抱きしめる機会もないまま、一年と少しがたって今日に至る。
職は変えてしまったが、相変わらず土日祝休みのひとりぼっちの休日を過ごしている。
最近では、言葉に自分というものを投影したりして過ごしている。そうでもしないと、東京の巨大な人波で、私のミトコンドリアは吹き飛ばされてしまいそうな気がするからだ。
いつか私でも、いつか能登半島を抱きしめることができるのだろうか。
冒頭にも述べたが、やはり三度目という数字は人間生活上重大な数字である。失敗が許されるのは昨今のことで、歴史上失敗は許されないことのほうが長いのだから。
それでも、いつかまた石川県には行きたい。行くことができなかった場所がたくさんあるし、もっとゆっくり能登半島で過ごしたい。隅々まで知ることができれば、抱きしめることを許してくれるかもしれない。
いつか、能登半島を抱きしめて。
その先の意味は、初めて環状木柱列を見た時のような、あなたたちの想像と創造にお任せすることにしよう。