異国の雪

文字数 2,715文字

「……ところでミヒャエル。今は入国制限が大分厳しいはずなんだけど、どうして此処まで来られたの?」
 訝しげに首を傾げるリディアに、焼き芋を齧っていたミヒャエルは顔を上げた。
「こっちに仕事を見つけたんだ」
「……え」
「社長のコネで、ゲーム作ってる会社に就職する事になったんだよ」
「社長って、私のボスの」
「そうだよ」
「どうして……」
「どうしてって……そりゃ、どうしても……君に会いたかったからだよ、リディア」
 リディアは目を瞠る。
「あんた……」
「知ってるだろうけど、去年の末にバンド抜けるって決めて、売れそうな機材いくつか売って動画配信しようって思って、パソコンも古道具屋で探したんだ。だけど……適当なパソコンがすぐに見つからなくて、あのあばら家であれこれ考えてるうちに、何が必要だったのかって考えたら、君だったんだよ」
「それはどういう」
「去年の夏の時点で、俺にとってあのバンドは、もう有っても無くても同じ様な、もう他人の手に渡った様な物だった。だけど、君と一緒にスタジオの中であれこれ作って、稼ぎになるかどうかも分かんない様な動画作った時が一番楽しくて……全部放り出してしまって、君が居なくなって、やっと分かったんだよ、俺には君が必要だ、と」
「だからって、こんな時に」
「こんな時だからだよ! そりゃ、大騒ぎになってる間には、あばら家の地下室でギター弾いて、広告費が入るかどうか毎日胃の痛い思いをしてたけど……君に会う為だって耐えてきたんだよ。一度しか会った事のないミュージシャンに、不躾で恥ずかしいのを我慢してまでソーシャルネットでコンタクト取ったのだって……君に会えるならって思ったからだった。しかも……彼は君のボスだった」
 腐れ縁とはこういう事か。リディアにとって、ミヒャエルの来日は運命の出会いなどではなかった。
「でも……ゲームを作る会社っていうけど、あんたギター弾く以外に能なんて無いでしょ?」
「失礼な事言わないでくれよ、ロキに多少なりと打ち込みとか教わったし、音楽制作で必要な人材って言って貰って、一番ましなギター売ってでも日本に来たんだから……勿論、一番必要な君が此処に居るから此処に来たってのが、俺の本心だよ」
 リディアは深い溜息を吐いた。
 こいつは本当に大馬鹿野郎だ、と。
「……森鴎外を追いかけてきたエリーゼ・ヴィーゲルト嬢も真っ青ね」
「は?」
「日本の小説家に、森鴎外って人が居るの。十九世紀の終わりぐらいから二十世紀のはじめに活躍した人で、ドイツに留学していた時にエリーゼという女性と恋仲になって、彼女は鴎外が日本に戻った後、追いかけて船に乗って日本まで来たの。尤も、鴎外は逃げ回って、兄弟が説得したそうだけど」
 ミヒャエルは今ひとつ理解出来ないと言った様子でリディアを見つめる。
「……この天変地異の真っただ中に、無理やりにでもビザ取っ手入国したあんたは、一カ月単位で船に乗って鴎外を追いかけてきたエリーゼ嬢よりも、更に上を行ってるの! そもそも、こんな時に、ギター売ってまで来るなんて、とんでもない執念だわ」
「……だけど」
 ミヒャエルは眉根を寄せた。
「だけど、後悔はしてないよ。現に君は俺に会ってくれたし、俺は……君は、君が幸せに生きていける場所に居るべきだって、此処に来てよく分かった」
「ミヒャエル……」
「俺にとっての幸せは、君の傍に居る事。君にとっての幸せは、この国で生きる事。なら、俺は……俺がこの国に来る事を選ぶのが当然じゃないか!」
 リディアはただ深い溜息を吐く。
「……分った分かった。でさ、就職決まったのはいいとして、住む所は有るの?」
「東京の外れに部屋を借りてくれてるから、暫くは其処で暮らすよ」
「東京?」
 リディアは目を丸くした。リディアにとって東京という土地は、とても家賃が払える様な土地ではない認識だった。
「うん、会社が借り上げてる部屋らしい。家具も一応あるから、すぐに住めるって……ただ、有ってもギターは弾けないかな」
 リディアは思案した。彼女にとって東京というのは家賃が高く、電車はしばしば止まり、決して安全とも言い切れない土地である。
「……もし、ネットつないで仕事ができるっていうなら……部屋はいくつも空いてるし、私のボスがあんたを此処に呼んだというなら……ボスさえいいなら、私は構わない」
「リル」
「それに」
 ミヒャエルは首を傾げた。
「あんたに甲斐性が無かったら、あんたは私の傍に居られないんだからね!」
 ミヒャエルはただ目を丸くしてリディアを見つめた。
 それはつまり、一緒に居てもいいという事なのか、と。
「……ところで、宿は取ってあるの?」
「いや……車広いし」
「馬鹿か。このクソ寒いのに車中泊する気? 泊っていきなさい。毛布くらいなら余分あるから……はぁ」
 リディアは何度目かの溜息を吐き、戸締りをすべく玄関へと向かう。
 今日はもう、誰も来ないだろう、と。
「あ……」
 ふと見上げた空からは、白い結晶が降り注いでいた。そして台所に戻ると、台所から続く居間の掃き出し窓から、ミヒャエルもまた空を見上げていた。
「此処は南の方だから、雪が降るとは思わなかった」
「南とは言うけど、沖縄以外じゃ何処でも降るわよ。ただ……この辺りじゃあまり積もらないし、粉雪はすぐに消えてしまうわ。というか、積もったらあんた、東京に戻れないでしょ」
「それも、そうだね……」
 リディアはミヒャエルの隣で、再び灰色の空を見上げた。
「……ところで、ミヒャエル」
「何?」
「ロキはどうしてる? ドイツも、大概混乱を極めているとは聞いているけど……」
「引きこもってる分に、多分大丈夫。ツアーも何もなくなった分、ヨハンが時々様子を見に来てくれてたし、今は無理に動かなくてもいいとは言っておいた」
「そう……」
「リディア」
「この大騒ぎが落ち着いてくれたら……彼にもこの国を見せてあげたいわね……その前に、あんたにこの国の言葉を覚えてもらう必要があるかしら」
 ミヒャエルは目を丸くしてリディアを見た。
「当然じゃない。英語でさえそこら辺のお店じゃ、ちゃんと通じないんだから」
「そ、そうだよ、な……」
 ミヒャエルはあまり深く考えていなかったが、英語のテストで惨憺たる点数を叩き出した学生時代を想うと、今更になって少しだけ後悔の念を覚えた。
「さてと……夕飯、二人分作らなきゃいけないし、あんたはそこらへんでゆっくり過ごしてて」
 台所へと向かうリディアの後姿に、ミヒャエルは眉根を寄せた。
 故郷であるはずのドイツがどうなっているか、自分から誰かに聞こうともせず、唯一尋ねられたのが、共通の友人であるロキの近況だけだった事が、彼女の本心なのか、と。
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