第1話

文字数 4,219文字

ワタシはトモ。
生物学上は女性として生を受けました。ですが、ワタシは幼少の頃から、ジブンが女性であることに違和感を持っていました。
 一番古い記憶は5歳頃でしょうか。ワタシには4つ離れた姉がいます。ある日、母親がワタシたちに新しい洋服を買ってくれました。嬉々として包装紙を開けると、そこには姉とおそろいの、赤いスカートが入っていたのです。
「わぁ、かわいいスカート」
 姉は飛び上がって、母親に抱き着いたけど、ワタシはあんまり嬉しくありませんでした。赤っていかにも女の色だし、スカートなんてこんなみっともないものをなんで履かなきゃいけないんだと思ったからです。ワタシが喜んでいない様子を見て、母親はちょっと悲しそうな顔をしたのが印象的で、今もその表情だけははっきりと覚えています。
 それからというもの、母親は姉には赤やピンク、ワタシには青や緑の服や小物を買ってくるようになりました。ワタシが「男の子っぽい色の方が好き」とでも言ったのでしょうね。でも、本当に青や緑が好きだったのかは記憶にありません。ただ、女の子という括りにされたくなかっただけなのかもしれません。
 ワタシは歌うことが大好きな子どもで、暇があればアニメや歌番組を観てはそこら辺にあるものをマイクにして歌っていたものです。大人になったらミュージシャンになりたい。そんなことを漠然と考えていました。
 
 小学生の頃はあまり覚えていません。というのも、ワタシは小学3年生の頃にこの街に転校してきているので、友達を作ることや、方言になれることで精いっぱいだったのです。それでも子供の脳って本当に吸収が早くて、こんな訛りに強い津軽地方の言葉もイントネーションも、一年足らずで習得してしまうのです。高学年になったころにはこってこての津軽人の一員になっていて、誰もワタシが元宮城県民だなんて忘れていたことでしょう。よく仲良くなった友達とカラオケに行っては、歌番組で覚えた最新曲を熱唱するのが楽しみでした。ですが、友達によくこう言われたものです。
「トモちゃん上手なのに、なんで男の人の歌ばかり歌うの?」
 そんな小学5年のある日、ワタシの体に異変が起きました。トイレでパンツを下ろしたら茶色いシミが付いていたのです。汚い話で申し訳ないのですが、ウ〇コを漏らしてしまったと思いました。ですがそれが何日も何日も続くのです。もしかして病気?と思い、おそるおそる母親に打ち明けました。すると、
「それはね、生理だよ」
 と言って、「こういうことよ」と、どこからか引っ張りだしてきた古い本を差し出してきました。たしか、「おんなのこ物語」というタイトルの漫画本だったと思います。
 そうか、ワタシは女だったんだ。そう確信しましたが、そのときの感情は覚えていないのです。記憶の深い深い奥の方に、無意識に閉まってしまったのかもしれません。もちろんワタシがその本を開くことはありませんでした。

 小学校高学年になったころから、クラスの男子の何人かが声変わりをし始めていました。ワタシはジブンの子どものままの高い声がすごく恥ずかしくて、歌うことが大好きでしたが中学の合唱コンクールではいつも口パクをしていました。
体育の時間は男女で別れるようになり、体力差が顕著になってきました。筋肉が発達して、目にもとまらぬバレーボールのスパイクを打つ男子に比べて、ワタシの体は意と反して胸やお尻が大きくなり、保健体育の授業通りの柔らかく丸味を帯びたものに変化していきました。それが本当に嫌で嫌で、日光湿疹が出るからと先生に断って夏でもカーディガンを羽織っていたものです。もうこの頃からは、あんなに好きだったのに人前で歌うことはしなくなり、友達からのカラオケの誘いには一切乗りませんでした。
 そんな矢先、高校2年の頃です。同じ吹奏楽部の一つ上の先輩に告白をされました。チューバ担当のマサキという、ガタイの良い男子でした。ワタシはサックスを吹きながら彼の逞しい上腕二頭筋を横目に羨ましさと憧れを持っていたのです。
 ワタシとマサキの交際はこうして密かにスタートしました。部活が終わると、毎日のようにlineをしたものです。マサキは弁護士を目指していること、そのために県外の大学受験を考えて必死に勉強していること、将来は地元に戻って結婚し子どもを設け、温かい家庭を築き上げたいと思っていることを教えてくれました。
 交際している間マサキは色んなことを話してくれましたが、ワタシは自分のことを何一つ話すことができませんでした。だって、マサキが見ているのはワタシの女の部分だけだったから。ワタシという人間として肯定し、こうして密な関係を築いていたのではなかったのです。
 そんなある日ワタシは恋をしてしまったのです。相手は、これまた同じ吹奏楽部の後輩の、サツキという女子でした。背が小さくてボブが良く似合う、いつもニコニコとしている子でした。トランペット担当でしたが、なかなか音を出せないようで、吹いても顔が真っ赤になるだけで出てくるのは「ぶふぅ」という情けない音だけでした。先輩からは「サツキがまたおならしてる」と笑われていましたが、それでも変わらずにこにこしている彼女に、ワタシは恋をしてしまったようでした。
 こういう問題を抱える何割の人間が、生を終えるまでに答えを出せずにいるのでしょうか。今や性の概念は単に生物学上の男と女だけではありません。しかしそれにまだ強く囚われているのが真実であり、それぞれの性の生き方がマニュアルのように根付いているのも真実。だからどちらともいえない、何者でもない自分が怖くて、あの頃マサキの彼女でいたのかもしれません。マサキと一緒にいるたびに、ワタシは自分が女性だと認識せざるを得なくなる。あのままマサキとずっと交際していたら、やがて結婚していたかもしれない。そしてワタシは子を孕み、産み母親となり、愛する夫や子供を温かい家へと迎え入れる日々を過ごすのでしょう。
 そんな人生もいいかもしれない。そう思える日は来たのかは分かりません。マサキが上京したころには交際関係も終焉を迎え、少し寂しいのと、少し安堵したのを覚えています。

 高校卒業を間近、部活も引退して人生からは音楽という二文字が消えました。残ったのはなんの取柄もなく、何事にも宙ぶらりんなワタシだけでした。正直、生きている意味なんてないと思っていた頃です。ワタシは不思議な体験をしました。
3月の公園。雪の積もる遊具のある場所を抜けて、くねくねとした砂利道を歩き進むと左側にテニスコートがあります。春になれば子供らの遊ぶ声、テニス部の練習の音の響いているのですが、雪解け間近の公園は、町の人に忘れ去られたようななんとも言えない寂しい場所です。テニスコートを過ぎて雪の残る一本道をひたすら歩き続けると、やがて開けた真っ白い空間が現れました。直径10mほどの小さな円状のコンクリートの周りには、雪の壁で進めないようになっていて、まるで公園の終点といったところでしょうか。
 ですがあり得ないのです。なぜならこの公園はいつもワタシが家まで帰る近道として毎日通り抜けていたので、行き止まりなんてありえないはずなのです。混乱していると急に冷たく強い風が吹き、ワタシはふいに目を閉じました。するとどこからともなくバイオリンの音色が聞こえてきたので、ゆっくりと目を開けました。誰もいなかったはずの円状の空間に、直線のような細い体で髪の長い人が奏でていたのでした。そのバイオリンの音色は女の人が泣いているようにとても悲し気なものでした。
 するとその人はワタシに気付いて、その不思議な曲を奏でながらゆっくりゆっくりと歩いてきました。そして目の前まで来ると、こう言いました。
「あなたは誰?」
声と見た目では男性か女性かの判別がつかない、なんとも不思議な印象の人でした。
「ワタシは、誰なのでしょうか」
 ワタシはその人に投げかけたが、何も答えてくれず、ただ、あの悲し気な音楽を奏でているだけでした。
「ワタシはどっちなのか、はたまたどっちでもないのか分からないのです。女性だとは思いませんが、男性であるという自信はありません。何者としてどうやって生きればいいのでしょう」
「何者としてどうやって生きるか。その答えを知るのにはまだ年月がかかります。ただ、あなたが何をしたいのかだけは知っています」
 その人はそう言うとピタリと演奏をやめました。長い前髪で顔はわかりません。ですがその人はその前髪の向こうからワタシを覗き込んでいるようでした。
「歌いませんか?」
 そう言ってまたバイオリンを構えると、その人はワタシが昔から好きだった曲を奏で始めました。
「でも、歌はもう……」
「他の誰かとして歌わなくていい」
 哀愁漂うバイオリンのイントロに心が溶けていきそうで、不思議な感覚になっていくのが分かります。ずっと歌いたくてたまらなかった。でもそれを制限していたのは誰?
「あなたは、トモでしょう?」
 そう、ワタシはトモ。ワタシはバイオリンのような甲高いままの声で歌い続けました。やがて声枯れようとも、どんな声になっても、ワタシはこれからもずっと歌い続けるでしょう。そして今宵もまた、ありのままのワタシで歌います。それでは聞いてください。『聖域のソリスト』

「……前置きなげえよ!」
 ステージの上の相棒のユウトの突っ込みが観客の笑いをどっと誘い込む。
「お前さぁ、よくMCでその話するけど実話なの?」
「だいぶ端折ってますがね」
「いや毎回長くなってるから。前はマサキの夢弁護士じゃなくて医者って言ってなかった?」
「いやーどうしてるかな、幸せになっていただきたいものですね」
「はぐらかすな」
「マサキは今〇〇水族館でペンギンの飼育係やってるらしいですよ」
「個人情報保護法!まぁしかしえらい路線変更だな。いや、マサキのことは気になるけど置いといて、曲やりましょうや」
観客の笑いがユウトのピアノで歓声に変わった。それにギター、ドラム、ベース、シンセサイザー、さまざまな楽器の音が乗り、会場全体がうねるように振動する。念願のステージの上、トモはその細い体にバイオリンを引っ提げて、すべての音を纏い、長い前髪の奥で目を閉じる。
 トモの瞼にあの頃の自分の姿が浮かぶ。雪の中の小さいステージの真ん中で、バイオリンのような声で歌い続ける自分が。

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