第1話

文字数 10,510文字

潮の匂いがすると、私は無我夢中で走り出した。朝、太陽が顔を出す前に、人々がまだ深い眠りの中にいる時に。聞こえるのは私の足音だけだった。外灯が等間隔で立ち並び、その先には確かに海があるのがわかった。

「はぁ、はぁ」

息を切らしながらも、私は全力で走った。そして、たどり着いたその場所は、今、私しか知らない今日が目を覚ます場所。





半年前、私はこの町に引っ越してきた。海の側にある小さな町だった。人口は一万人ほどで、大半の住民は大人になったらこの町から巣立っていった。残っているのは漁師と、小さな町工場に勤める少数の人たちだけだった。この町は父の故郷で、父もまた高校を卒業と同時に町を出て、東京でサラリーマンをしていた。それから母と出会い、私と弟が生まれた。でも数年前、母が死んでからは、父も少しずつ気を病んでいき、ついには医者に鬱病と診断された。父は通院しながらも、男手ひとつで私たちを育ててくれたが、この病気をきっかけに、東京での暮らしを捨て、祖母のいるこの町へと引っ越してきた。東京にいた頃は駅近のマンションに住み、放課後は友達と原宿や渋谷に出かけた。彼氏もいた。彼とは引っ越しをきっかけに別れてしまったけど、いろんな思い出を作った。

だから私は当初、この町に来るのが死ぬほど嫌だった。何でもあって、たくさんの友達がいる場所を捨て、何も無くて知り合いさえもいないこの町に来るのが、私は耐えれなかった。父には、東京で一人暮らしをさせてほしいと頼んだが、高校生の女の子が一人で東京に暮らすことに父は猛反対した。

「なんでそんなところに行かなきゃいけないの!」

「仕方ないだろ…ここで暮らすのはもう無理なんだ」

父は弱々しい声で私を諭した。
そんな父を見て、私はそれ以上、何も言い返すことなく、自分の気持ちを押さえ込んだ。





「おはよー」

いつもの待ち合わせ場所、この町に来て初めてできた友達の桃子が眠たそうな顔で私に手を振った。

「ねえ、渚。昨日の『ミュージック・ナイト』観たぁ?」

「ううん。昨日はすぐに寝ちゃったから」

「えーっ!残念!」

「どうしたの?」

「あんたの好きな "ブレイン・チャイルド"が出てたよ」

「ええっっ!」

驚いた私の顔を見て、桃子はクスッと笑った。私と桃子の家はすぐ近くで、いつも同じ時間に二人の家のちょうど間にある公園で待ち合わせをした。

「知ってれば録画してたのにぃ…」

「ごめんね。てっきり渚は観てるものだと思ったから。連絡もしなかったんだ」

私はけっこう引きずるタイプだ。その日の午後まで、私は早く寝てしまったことを悔やんでいた。


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チャイムが鳴って皆が席に着いた。私のクラスは二十人ほどで、ちょうど女子と男子が半々くらいに分かれていた。人口の少ないこの町なので、一学年にクラスは二つしかなかった。担任の先生はもうすぐ定年を迎えるおじいちゃんで、怒ったところを見たことないくらい、優しかった。

この高校は町にある唯一の高校で、大概の中学生がこの高校に入学し、卒業していくらしい。偏差値は悪くもなければ、良くもない。入学試験も、ある程度のラインに達していれば入学できた。

私は一番後ろの窓際の席で、窓の外を眺めると、そこからは大海原が見えると思っていた。しかし、残念なことに、学校の周りは森に囲まれていて、屋上からの景色でさえ、かろうじて森の中に立つ鉄塔の頭が見えるくらいだった。

「東京にいた頃はこの木々がビルだったのにな」

たまにふと、そう思うことがあった。でも、半年もしたらその生活にも慣れていった。住めば都と言ったもので、今のこの生活や、環境に、私はすぐに染まっていった。


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お昼になると、私と桃子は机を並べてお弁当を食べた。たまに、他の女生徒も交えて、女子トークもした。誰が誰のことを好きだとか、最近は誰が気になるとか。そんな話をしながら、私は引っ越しと同時に別れた彼のことを思い出した。

その彼には中学生の頃、帰り道に告白された。彼とは小学校からの同級生だったけど、ほとんど話したことがなかった。彼はずっと野球をやっていて、女子に人気があった。私も彼のことはカッコイイな、という程度でしか思っていなかったけど、まさか、彼が私のことを好きだったなんて夢にも思わなかった。

「なぁ、向井…俺さ…」

頬を赤らめ、私の目を真っ直ぐ見つめる彼を見て、私も心臓の鼓動がだんだんと早くなっていった。
それから私たちはたくさんの時間を共有したけど、今となってはそれもただの思い出。別れ際に彼が「いつかまた渚と一緒に笑いたい」と、涙ながらに言ったことが、未だに頭から消えない。





帰り道、桃子が私に言った。

「ねえ、今から映画でも観に行こうよ」

この町には小さな映画館があった。工藤さんという頭の薄い五十代くらいの男性が経営している、駅の近くにある映画館だった。ほとんどの映画は工藤さんの独断と偏見で上映作品を決めていたのだが、たまに、お客さんのリクエストに応えてくれる時もあった。

「今さ、魚と人間が恋する映画やってるんだって!」

「なにそれ?ホラー?」

「違うよ。有名な監督が作ったんだって」

私は映画を観ることは好きだけど、好きなジャンルは偏っていた。いわゆる超大作や有名俳優の出ている作品は観なかった。別に意識してたわけじゃないけど、自然とそうなっていった。

「なんてタイトル?」

私は桃子に聞いた。桃子はしばらく考えた後、おぼろげに「確か…なんとかウォーター」と答えた。

「なんとかウォーターって…」

私は笑った。桃子も照れながら笑った。おそらく、彼女が言いたかったのは『シェイプ・オブ・ウォーター』だったんだろう。私は以前にテレビで放送されたのをチラッと観たことがあったが、今日は桃子に付き合うことにした。


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私たちは海岸沿いを歩き、映画館へと向かった。私がこの町に降り立って、初めて嗅いだ匂い。この潮の匂い。それを含んだ風、波の音、カモメの鳴き声。太陽はもう少しで水平線の向こうへ消えていく、この瞬間、最高の時間だ。太陽はここから地球の裏側を回って、ふたたび、またこの場所に帰ってくる。

私が桃子と歩きながらその光景を見ていると、波打ち際に人影が見えた。

「あっ」

私は思わず、声を出してしまった。それに気づいた桃子が私と同じ方向を向いた。

「どうしたの?」

「いや、別に…」

私はその姿に見覚えがあった。今朝、私が誰よりも早く夜明けの海を見に来た時、その人は私より先にその場所で海を見ていた。


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私と桃子は映画を見終わった後、映画館の隣にある喫茶店に入った。二人で映画の感想を言い合ったのだが、少し大人なシーンや、目を塞ぎたくなるような痛々しい場面もあったので、映画の話はそんなに盛り上がらなかった。

喫茶店で桃子と別れ、私はひとり、海沿いの道を歩いて帰った。さっきの場所に人の姿はなかったが、私は明日また夜明けの海を見に来た時、もしもその人がいたら話しかけてみようと思った。





朝方、私はいつもの時間に家を出た。秋が近づき、少し肌寒くなってきたので、私はTシャツの上にパーカーを羽織った。

家から徒歩五分、空が少しずつ青く色付き始める時間。数軒の民家が立ち並ぶ路地を抜け、何度か犬に吠えられながら、私は足早に海岸へと向かった。

海岸に着くと、その場所に彼はいた。私は少し緊張しながらも、彼の元へと近づいた。私の足音に気づいたのか、彼は振り返り、私を見た。

「お、おはようございます」

私はたどたどしく挨拶をした。彼は何も言わずに、私の顔を眺めていた。

「あの…今日はいい天気になりそうですね」

「…うん」

彼は小さくうなずいた。私は少し気まずくなったので、海に視線を向けた。そうすると、彼が私に呟いた。

「君、向井さんでしょ?隣のクラスの」

「えっ!」

私は驚いた。彼は微笑んで、立ち上がった。両手でズボンについた砂をはらい、私に近づいた。

「僕は井上力也。よろしくね!」

「あっ、えっと…よろしくお願いします」

「ごめんね、この場所って君がいつも海を見てる場所だよね?」

「いや、いいの!というか…別に私の場所じゃないから…」

彼は背が高く、長い前髪で目が隠れそうだった。

「僕はもう帰るからさ、じゃあね」

彼はそれだけ言って、その場所を立ち去った。


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学校に行くと、いつもの時間にいつも通り、授業が始まった。私は窓の外を眺めながら、朝の井上くんの姿を思い浮かべていた。もう半年もこの学校にいるけど、彼のことは知らなかった。でも、何故か彼には親近感がわいた。初めて会ったはずなのに。

休み時間になると、私は隣のクラスを覗いた。思えば、井上くんだけに限らず、私はまだ同級生の顔をほとんど覚えていなかった。

ざっと見た感じ、井上くんの姿は見当たらなかった。彼は今日、学校に来なかったのかな?そんなことを考えていると、誰かが私に声をかけた。

「ねえねえ、向井さん」

私が振り返ると、男の子が後ろに立っていた。私はその顔に見覚えがあった。映画館を営む工藤さんの息子、工藤健太くんだった。

「なにしてんの?」

「いや、別に…」

「昨日さ、うちの映画館に来てくれたよね」

「え、うん」

「だいぶ綺麗になってたでしょう?」

「そうだね」

三年前、この町は津波の被害に遭っていた。日本に訪れた大地震の影響で、想像を絶する津波が町を襲った。町のほとんどは浸水し、海の近くにある建屋は崩壊した。工藤さんの映画館もまた津波被害に遭い、映画を上映することは困難になった。おばあちゃんの家は幸い、床下浸水だけで済んだけど、おばあちゃんは今でもあの津波の恐怖を思い出すと、夜も眠れないらしい。津波は町の人々の暮らしを奪うだけでなく、恐怖心までも植え付けていった。


------


私は屋上で空を眺めながら、波の音が聞こえないかと、耳をすませた。

「いつもはあんなに穏やかなのに」

雲ひとつない青空に、トンビが八の字を描いて飛んでいた。

私が空を見上げてボーっとしていると、突然、ガチャっと音がして、屋上の扉が開いた。振り返ると、そこには井上くんが立っていた。

「あっ、向井さん」

「井上くん!」

私は立ち上がり、スカートをはらった。彼は私に近づいて、遠くを指差して言った。

「ここからは見えないでしょ。海」

「うん、波の音も聞こえない」

「じゃあさ、今日の放課後、またあの場所に行こうよ」

「えっ?」

彼はそれだけ言うと、ふたたび出入り口の扉を開け、屋上の階段を降りていった。


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その日の放課後、私はあの場所へ向かった。少し風が強かったので、めくれそうなスカートを手で押さえ、海を目指して歩いた。…何故だろう、心臓の鼓動がいつもより早くなっていた。

海岸へ着くと、井上くんは先にその場所へ来ていた。

私が声をかけると、彼は振り返り、私に微笑んだ。

「やぁ。となりに座る?」

「うん」

私は彼の横に座った。今日も海は青くて、波は穏やかだった。もう少しで太陽は水平線へ沈んでいくところだった。私たち二人はお互いに何も喋らず、その光景を見ながら波の音を聴いて時間を過ごした。

「なんか…嘘みたいだね」

「なにが?」

「海。今はこんなに静かなのにさ…あんなことに…」

私はどうしてか、感傷に浸ってしまい、涙ぐんでしまった。彼はそれを見て、何も言わずにただ、海を眺めていた。

「向井さんってさ、夢とかある?」

「夢…?」

「うん。なにかやりたいこととかさ」

やりたいこと。私は必死で考えた。今までやりたいことなんて考えたこともなかった。

「ごめん、急に。今のは忘れて!」

「えっ…あっ、うん」

「学校には、この町の生活には慣れた?」

「生活かぁ。うーん。慣れたって言ったら慣れたけど…」

「東京から来たんだもんね、田舎生活は辛いよね」

彼は笑いながら、私に言った。転校して来てから半年、だんだんとこの生活に慣れていく自分がいるのはわかった。でも、私はどこかに物足りなさを感じていた。心のどこかに、小さな小さな隙間があるのがわかっていた。

「もう夕暮れだね。そろそろ帰ろうか?」

「うん」

私たちは立ち上がり、その場で別れた。立ち去る彼の後ろ姿を見て、私はどこか物悲しさを感じた。





日曜、私は桃子と買い物に出掛けた。町の中心部にある商店街、ほとんどの店はシャッターが閉まっていて、あるのは少しの洋服屋と、アイスクリームの店だけだった。

「ここのアイス、本当に美味しい」

桃子はニコニコしながら、アイスクリームを食べた。私も同じアイスクリームを食べながら、人のいない静かな商店街の道を眺めた。

「ねえねえ、これからどうするー?」

「もう買い物も終わったし、解散しよっか?」

「ええ!もう?」

桃子は残念がっていたけど、私の心はそわそわしていた。今日もまたあの場所に行けば、彼に会えるんじゃないか。そう思っていた。


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桃子と別れ、私はそのまま海岸に向かった。今日は曇り空で、波はたぶん穏やかではないんだろうな。私がそんなこと考えながら歩いていると、突然、私を呼ぶ声が聞こえた。

「向井さん!」

振り返ると、そこにいたのは井上くんだった。

「井上くん!」

「もしかして…今から海行くの?」

「うん」

「そっかぁー」

「井上くんも…もしかして行こうとしてた?」

「いや、僕は犬のミルクを買いに行ってたんだ」

井上くんはミルクの入ったスーパーの袋を私に見せた。私は少し残念な気持ちになった。

「井上くん、犬飼ってるんだ」

「うん、柴犬だよ」

「名前は?」

「メスだからエリー。もしよかったら見に来る?」

「えっ!いいの?」

「もちろん!」

急なことで、その時は気づかなかったけど、私は男の子の家に行くのが初めてだった。元彼の家さえ、行ったことがないのに、私はまだ出会って数日しか経っていない男の子の家に行くことになった。


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井上くんの家は海から少し離れた場所の、山の麓にあった。周りには何もなくて、あるのは緑豊かな田園だけだった。平屋の一戸建て。庭は車三台が軽く入るくらいのスペースがあった。

「お邪魔しまーす」

門を開けると、すぐに飼い犬のエリーが井上くんに飛びかかって来た。エリーは吠えながら、井上くんの顔を何度も舐めた。まるで長い間、家に帰えらなかった主人が、突然、目の前に現れたかのように。

「おいエリー!やめろって」

井上くんの顔は、困りながらも笑顔だった。私もその光景を見て笑った。

「こんにちはエリー。お邪魔するね」

私は井上くんの後に続き、玄関から家の中へ入った。中から人の声はしなかった。

「今は誰もいないんだ」

「そうなんだ…」

廊下を進み、突き当たりにある部屋が彼の部屋だった。扉を開け、中に入ると、部屋の中は思っていたよりも殺風景だった。彼はクッションを私に差し出し「適当に座って」と声をかけた。

「ありがとう」

私はクッションの上に腰を下ろした。

テレビが一台、小さなコタツ机と、本棚があった。本棚に並べられているのは、どれも英語の本で、背表紙だけでは内容はもちろん、タイトルさえもわからなかった。私がじっと本棚を見つめていると、それに気づいた彼が声をかけた。

「なんか気になる本ある?」

「いやいや!私にはさっぱり」

「どうして?」

「だって…これ全部英語の本でしょ?」

彼はクスリと笑った。私はバカにされたようで、少し腹が立った。

「あっ、お茶でも入れてくるね」

彼は部屋を出て、キッチンへ向かった。私はその隙に、適当な本を手に取った。パラパラとページをめくると、やはり書かれていたのは全て英語の文字だった。表紙を見るとタイトルが大きく載っていた。

「………ホスピタル…?」

スマホを取り出して、意味を調べようとしたが、彼の足音が聞こえたので、すぐに本を棚に戻した。

「はい、これ、麦茶」

彼は机にコップを二つ置いて、私の向かいに座った。少し沈黙があった後、私は急に思い出した。今、男の子の家に来ていることを。そう思った途端、何故か急に緊張した。そんな私をよそに、井上くんは喋り出した。

「向井さんって、いつあの海岸を見つけたの?」

「こっちに引っ越して来てすぐだったかな。適当に家の近くをブラブラしてたら見つけたんだ。別にどうってことないただの海岸なんだけど、あの場所で海を見てると、なんか落ち着くんだよね」

「わかるよ。実は僕も転校生なんだ。向井さんと同じで、引っ越して来てすぐ、あの場所を見つけてね。それ以来、ほとんど家とあの場所の往復だよ」

「井上くんも転校生なんだ!兄弟とかいるの?」

「ううん。今は母さんとばあちゃんと三人暮らし」

「そうなんだ…お父さんは?」

「父親と弟は死んだんだ。海難事故ってやつだね」

「あっ、ごめん…」

私は地雷を踏んでしまった気になった。でも、彼は私に微笑んで話してくれた。

「気にしないで。僕が小学校六年の時かな。父と一つ下の弟が海へ釣りに行ったんだ。その時に乗った船が整備不良かなにかで、何十人を乗せたまま沈んだ。父さんは必死で弟を助けようとしたけど、二人とも波にのまれて帰らぬ人になった」

その話をしていた彼の目に涙が溜まっていたのが見えた。私は目をそらして、さっきの本を見た。このまま彼の話を聞いて、悲しそうな彼の顔を見ると、私まで泣いてしまいそうだったから。交通事故で死んだ母の事も思い出してしまいそうだったから。

「ごめん!私、そろそろ帰るね!」

私が立ち上がり、部屋を出ようとした時、彼が私の手を掴んだ。

「待って」

私が振り返ると、彼は涙をこらえ、私の顔を見た。私はどうしていいかわからず、その場に立ち尽くした。

「向井さん…実は僕、ずっと前から君のことを知っていたんだ。あの場所に座り込んで、海を見つめる君の後ろ姿は、どこか寂しそうだった。君も…もしかして、大切な人を失ったの?海を見ながら、どこか遠くへ逝ってしまった人を想っていたんじゃないの…?」



母は優しかった。家に帰ると、キッチンから聞こえる母の声が、いつも私を出迎えた。そんな当たり前の光景も、今となっては遠い思い出。あの悪夢の日から、一体どれだけの時間が経っただろう。私は海を見ながら、遠くに行ってしまった母のことを想っていた。

「あの日、私はお母さんと喧嘩したの。家を出る前に、もうこんな家にいたくないって。そう言って飛び出した。寂しそうなお母さんの顔、それが最後に見たお母さんの姿だった」

「向井さん…」

「何度も後悔した…今、お母さんに会えたら…ちゃんと謝りたい」

気づけば、私の目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。井上くんは私の肩にそっと手を置き、私に声をかけた。

「向井さん…たぶん、お母さんはずっと君たちを見守ってくれてるよ。僕もそう思う。もう亡くなった人には会えないけど、ずっと側にいてくれてるはずだよ」

抑えてた感情はもう歯止めが効かないくらい、一気に放出した。私は彼の前で泣きじゃくった。彼はそれから何も言わず、私の側に寄り添ってくれた。





次の日、私は学校を休んだ。桃子は心配してメールをくれたけど、別に体調が悪かったわけじゃなかった。ただ、なんとなく、今日は家から出たくない気分だった。今日もあの場所に井上くんはいるのだろうか。私はそんなこと思いながら、海を眺める井上くんの姿を思い浮かべた。母のことを人に話したのは初めてだった。東京にいた頃だって、元彼にさえ深く話したことはなかった。私はどこかモヤモヤした気持ちになった。井上くんのことを想うと、胸の奥の方が熱くなった。

「これって恋?」

自分で言って恥ずかしくなった。彼のことはまだ何も知らないし、彼だって私のことは何も知らない。私はベッドから下りて、カーテンを開けた。今日の空は曇り空で、風が強かった。たぶん海も荒れてるだろうな。

私が部屋を出てリビングに向かおうとした時、チャイムが鳴った。宅急便?それとも家族の誰か?まだ昼前だし、桃子なわけないし。私はそっと玄関に近づき、覗き穴から外を見た。そこには井上くんが立っていた。私は自分がパジャマだということにも気付かず、慌てて玄関の扉を開けた。

「こんにちは」

井上くんは手を上げて微笑んだ。

「どっ、どうしたの…?」

「実はさ、今日学校に行ったら、向井さんが休みって聞いたからさ。僕も早退してきちゃった」

「ええっ」

家には私以外、誰もいなかった。私は井上くんを家に上げた。

「お邪魔します」

「どうぞ、どうぞ、汚いところですが」

私は井上くんを自分部屋に案内した。そこで、ようやく、自分がパジャマだってことに気付いて、急に恥ずかしくなった。井上くんにはイスに座ってもらい、私はベッドに腰掛けた。

「向井さん大丈夫?風邪でもひいたの?」

「いや…そういうわけじゃないけど…」

井上くんは何かを察したのか、それ以上は聞かなかった。彼は目線を私から本棚に移した。私の本棚には漫画か映画のDVDしかなかったので、見られるのは恥ずかしかった。

「へぇ、向井さん、映画観るんだ」

「うん。でも、たまにだけどね」

「ほとんど知らない映画ばっかりだ。この中だと ”アンブレラ” くらいかなぁ」

「ええっ!アンブレラ知ってるの⁈」

「うん、昔、父親と観に行った」

「初めてだよ!アンブレラ知ってる人!」

「そうなの?わりと有名かと思ってたけど、結構マイナーなんだ?」

私はこの映画が大好きだった。雨の止まない国で生まれた男の話で、一度は太陽を見たいと思い、男が雨の降り続ける原因を探るために奮闘する話。そこには衝撃の理由があって、二転三転する話の展開に私は魅せられた。

そこから、私は時間を忘れて井上くんとこの映画について語り合った。


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「ただいまー」

しばらくすると、弟が家に帰ってきた。井上くんは「そろそろ帰るよ」と言って立ち上がった。私は玄関まで彼を見送った。廊下で彼とすれ違った弟は私の顔を見てニヤニヤしていた。

「じゃあね」

私は井上くんに手を振った。彼は一度、こちらを振り向き、手を振って、ふたたび歩き出した。

私は部屋に戻り、自分のベッドに横たわった。熱があるわけじゃないのに、体が熱かった。心臓がドキドキしていた。

「あー、やっぱそうかぁ…」

私の心に空いた小さな隙間、それが少しずつ埋まっていくのがわかった。

「足りなかったのはこれだったんだ…」





次の日、私が学校へ行くと、桃子が心配した顔で駆け寄ってきた。

「渚!大丈夫?」

「うん、平気だよ。ありがとう」

桃子はホッと胸を撫で下ろした。私は自分の席につき、窓の外を眺めた。授業が始まり、気がつくと授業が終わっていた。ふと、我に返れば、私は井上くんのことを考えていた。


------


昼休み、私は隣のクラスを覗いた。井上くんの姿は無かった。そんな私に気づいたのか、工藤くんが声をかけてきた。

「おっ、向井さん。どうしたの?」

「えっ、ああ、ちょっと…」

「誰か探してた?」

「うん、その…井上くんって…」

私の顔は真っ赤になっていたと思う。工藤くんに悟られぬよう、必死で平静を装った。

「井上?」

「うん」

「…誰?」工藤くんは首を傾げた。

「井上…力也くん」

「いやぁ…うちのクラスにはそんな奴いないよ?」

「え…?」

私は最初、工藤くんがふざけてるのかと思った。しかし、工藤くんの様子を見る限り、嘘をついているようには思えなかった。

「ごめん、今のは忘れて!」

私は駆け足でその場を去った。突然、不安な気持ちでいっぱいになった。まさか、まさか、と自分に言い聞かせた。私は学校を飛び出し、あの場所に向かった。


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さっきまで晴れていた空は、だんだんと雲行きが怪しくなってきて、今にも雨が降りそうだった。私は井上くんの事を考えた。いつも海を見ていて、どこか寂しそうだった。この土地に来て、初めて母のことを話せた人、一緒にいると落ち着いた。心の中が満たされていった。気がつくと、私は涙を流していた。

海岸に着くと、彼はいつもの場所に座っていた。ひとまず、私は安心した。でも、なんて声をかければいいのかわからなかった。彼は私に気づき、立ち上がってこちらを向いた。

「向井さん。雨が降りそうだね」

「井上くん…あの…」

私が喋り出そうとした時、彼はそれを遮って話しかけた。

「ごめんね、僕は嘘をついてた」

「嘘?」

「うん。家族の話。あれは嘘」

「海難事故の話?」

「僕が小学生の頃、父が癌で亡くなった。当時は小学生だから何がなんだかわからなかったけど、歳を重ねるにつれ、父親がいない寂しさが増していった。それから数年後、僕が中学に上がる時かな…次は弟が難病にかかったんだ。父の次は弟。あの時は死ぬほど泣いたなぁ」

井上くんは振り返り、海を眺めた。天候のせいで、波が荒くなっていき、海が騒ぎ始めた。

「だから僕は医者になると決めた。どんな難病だって治してやるって心に決めたんだ。それから必死で勉強して、医大に入学したんだけどさ…そこで三年前のあの津波だよ」

私はすべてを察した。そしてこれ以上、彼に喋らせたくないって思った。

「井上くん!もういいから!」

「向井さん」

「どうして井上くんが私の元に現れてくれたのかわからないけど…私は出会えて嬉しかった!一緒にこの海を見ながら時間を過ごせたし、映画の話だってできた。母のことだって…ずっと誰にも言えなくて自分の中で押さえ込んでいた感情を井上くんにならすべて吐き出せたの…!」

私は何度も涙をぬぐった。それは涙なのか、少しずつ降り始めてきた雨なのかはわからないけど、彼は今、確かに私の前にいて、私は彼に話しかけている。

「向井さん。ありがとう」

彼は笑った。私も必死で笑顔を作った。行かないで。口には出さなかったけど、私は心の中でずっと叫んだ。このまま、私も連れ去ってほしかった。なにかの映画見たような、そんなエンディングを迎えたかった。


……「渚ぁ!」



声の方に振り向くと、桃子が傘をさして立っていた。

「なにやってんのよ!あなた病み上がりでしょ!」

「桃子…ごめん」

たぶん、振り返ればもう彼はいないのがわかった。井上くんは波に消えた。夢だったのかなとも思ったけど、桃子の大きな声を聞きいて、これは現実だったと確信できた。



私は振り返り、涙を拭って、海に向かって叫んだ。
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