少年は修羅の果てに何を見る

文字数 10,811文字

 私には感情というものが存在しない。どうして私の周囲の人間たちが喜怒哀楽を様々な形で露わにするのか理解できない。
 生まれてからどれくらい時間が経過しているかわからないが、少なくとも私の記憶の中では喜怒哀楽を表に出したことはないし、出し方もわからない。
 私は四六時中、仕事をしている。休みなどという概念はない。これといって趣味もない。私はそれで満足であるし、趣味というものは楽しむためのものであるから、喜怒哀楽がない私には必要がない。
 私は毎日、家庭教師の仕事をしている。
 今日からは小学生の男の子に勉強を教えに行くことになっている。以前、勉強を教えていた子供のことはきれいさっぱり忘れてしまった。いつものことだ。
 電車に乗って1時間かかるので、1時間30分前に家を出ることにした。電車で1時間、駅から男の子の家まで歩いて10分、家に到着してから男の子の母親と話をするのが10分。おそらくこんなところだろう。
 最寄り駅に到着し、自動改札を顔認証で通過する。毎日のように使用しているが、改めて時代とは刻一刻と進歩している。改札を抜けると同時に電車がホームに滑り込んできた。
 電車に乗っている間に今日の指導内容を脳内でシミュレーションする。シミュレーションが上手くいくときもあれば、そうでないときもあり、その成功例と失敗例を蓄積し、分析し、次回の指導内容に反映させていく。この蓄積が、私が所属する家庭教師派遣会社の財産となるのだろう。成功例の蓄積は、私の価値を増大させることに直結するので、私にとっても意味のあるものなのだろう。
 シミュレーションは一瞬で終えてしまったので、電車に乗っている間は何もすることがない。考えることは何もない。ただそこにあるのは無だ。
 電車が到着したらしい。先ほどと同様に自動改札を顔認証で通過する。
 駅前は広場になっていて、中央に小さな噴水が設置されている。噴水の近くで親子が楽しそうに微笑んでいる。微笑ましいとは思わない。
 広場の前の道路は微妙に傾斜している。どうやら坂道になっているらしい。目的地へはこの坂道を登っていかないといけない。坂道をひたすら登っていくと、右側に公園が見えてきた。端末で目的地を確認すると、この公園の向かいにあるマンションが男の子の家らしい。確かにマンションの前には高層マンションが林立している。そのうちのどれかだろう、と目測をつけた。
 公園を横切って、もう一度、端末を確認すると、3棟並んでいるマンションのうち真ん中の一番高層のマンションが目的地らしい。
 エントランスに入り、インターホンを鳴らす。
「英育教育社の佐藤と申します」
「ああ、どうも。いらっしゃい」インターホンから品の良い女性の声が響き、自動ドアが開いた。
 エレベーターに乗り10階を目指す。軽やかな到着音とともにエレベーターのドアが開いた。廊下は左右に伸びているが、目的地はエレベーターのすぐ隣だった。
 チャイムを鳴らすと、廊下を駆ける音がする。
 ドアが勢いよく開くと、先ほど聞いた声と見事に一致する品の良い女性が現れた。
「佐々木妙子と申します。今日からよろしくお願いします」佐々木は品良くお辞儀をして、そう言った。
「英育教育社の佐藤と申します。こちらこそよろしくお願いいたします」
「では、どうぞ。上がってください」
「お邪魔します」
 佐々木は、少しパーマのかかった肩までの髪を片手で押さえながら、屈んでスリッパを用意した。
 私は、スリッパに足を通し、佐々木に案内されるままに長い廊下を歩いた。
 佐々木は、廊下の突き当たりの扉を開けると、広めのリビングが目に入った。
 佐々木が、どうぞと振り返り、リビングに案内された。
 リビングは広々としており、佐々木の容貌と同じくインテリアも統一感があり、品がある。おそらくこれらは佐々木の趣味だろうと想像できた。
「こちらに座って、お待ちください。息子を呼んできますので」
「では、失礼します」私はそう言うと、静かにダイニングテーブルに座った。
 佐々木の息子はすぐに現れた。佐々木の品の良さも受け継いだ利発そうな男の子だ。
「息子の祐二です」
「祐二と言います。よろしくお願いします」祐二はぺこりとお辞儀をした。
「じゃあ、祐二、準備してなさい」
「はーい」
 祐二はリビングを出ていった。祐二が部屋を出て行ったことを確認すると、佐々木もダイニングテーブルに座った。
 佐々木は少し言いにくそうに話を始めた。
「祐二はねえ、勉強があまり得意ではなくて……、今回、家庭教師の方に来てもらおうと思ったんですけど。もちろん、それが大きな理由なんですが……」
「はい」
「英育教育社さんって勉強を教えることだけに重きを置いているわけではないじゃないですか」
「はい、そうですね」
 確かに佐々木の言っていることは本当だ。私が所属する英育教育社は、勉強を教えるということは最重要課題ではあるが、それ以上に子供の自主性、自尊心、自己肯定感などを伸ばすことも大切だと捉えている。
「祐二はああ見えて、とても引っ込み思案というか……、自分の思ったことを周りに言えないんですよ。だから、いじめというわけではないと思うのですが、からかわれることも多いようで。そんな祐二の弱い部分を変えてやりたいんですよ」
「なるほど。よくわかりました」
「英育教育社さんに家庭教師に来てもらって、子供が変わったという話を知り合いから聞きまして。実際に調べてみると、そういう評判も多くて、とても良いなあと思いまして」
「ありがとうございます。つまり、息子さんを変えたいというわけですね」
「はい……。もっと自分を表現できるようになって欲しいんですよ。自己主張も
 できるようになって欲しい……」
「了解しました。最初のうちは勉強を教えながら、息子さんのことを知っていきたいと思います。佐々木さんともお話をしながら、徐々に息子さんを変えていけるように一緒に頑張りましょう」
「ありがとうございます。期待しております」
 その後は英育教育社の担当社員から話をしてあった具体的なプログラムの話や受講料の話をもう一度行い、祐二の元に案内された。
 扉を開けると、祐二は勉強机に座って本を読んでいた。
「こんにちは。本が好きなの?」私には感情というものはないが、口調だけは変えることができるので、できる限り優しい人という印象を与えるために語尾だけを少し上げた。
「うん、好きだよ」祐二は振り返ると、人懐こい笑みを浮かべた。
「そうなんだ。私も本は好きだよ」
「へえ、どんなのが好きなの?」
「何でも読むよ。ミステリーとか推理小説とか。祐二君には少し難しいかな」
「難しいよ。でも、そういうのってびっくりするやつでしょ?」
「そうだね。びっくりするよ。祐二君ももう少し大きくなったら読んでみるといいよ」
「うん、読んでみる」なかなか素直な子だなと思った。
「ずっと読んでるの?」
「うん。休み時間もずっと読んでる」
「それはすごいね。私には無理だな。飽きてしまう」一日中、本を読むと考えると、一体何冊の作品が読めるだろう。1冊の情報量を一瞬で脳内にインプットしてしまうから、一日あれば家の蔵書をすべて読み終えてしまうだろう。それはある意味、退屈な一日と言えるかもしれない。
「全然飽きないよ」祐二はそっと本を閉じた。表紙を見てみたが、読んだことはない。少なくとも私の脳内にはインプットされていない。子供の頃の記憶がないのだから、当然だろう。
「祐二君はお友達とは遊ばないの?」
「あいつらと遊んでも楽しくないもん」祐二は苦い顔をした。
「あいつら? お友達といても楽しくないの?」
「友達なんかじゃないよ」
「そうなんだ」
「そうだよ」祐二は憤慨したように呟いた。
 祐二は本を持って本棚に直しに行った。そのとき表紙の裏が見えたが、少し汚れているように見えた。なぜだろうか。
「じゃあ、そろそろ勉強を始めようか」
「うん」
「勉強は好き?」
「嫌い」
「なんで?」
「難しいもん」
「難しいものがわかるようになるために私がいるんだよ」
「頼もしいね」
「そうだよ、私は頼もしいんだよ」私は珍しく誇らしげに胸を張った。
 それからは祐二が苦手らしい算数を重点的に教えていった。時間はあっという間に経過した。
「それじゃあ今日はここまで。どうだった?」
「うん、すごくわかりやすかった。先生はすごいね」
「プロだから」
「今度もよろしくお願いします」祐二はぺこりとお辞儀をした。母親によく似ている。
 私は祐二の部屋を出ようとして、ふと思い出した。
「祐二君」
「何?」
「思ったことはちゃんと言わないとだめだよ。祐二君があいつらって言った子たちにも」

 部屋を出ると、佐々木が心配そうに廊下に立っていた。
「佐藤さん、あの子は大丈夫でしたでしょうか?」
「はい、良い子ですね。ただ、佐々木さんがおっしゃったように学校ではずっと本を読んでいるようですね。友達ともそんなに遊んでいないようです。何か嫌なことがあるのであれば、はっきりと言うように、ということだけ伝えました」
「そうなんですか……。ありがとうございます」
「いえ、次回もよろしくお願いいたします」
「佐藤さん」
「何でしょうか?」
「お茶でもいかがですか?美味しい紅茶があるのですが」
「結構です」
「そうですか……」
「それではこれで失礼します」
「次回もよろしくお願いいたします」佐々木は丁寧に頭を下げた。
 佐々木宅を後にし、同じ道を通る。電車に乗り、家に帰る。毎日この繰り返しだが、私は何も感じない。当然だろう。これが私だからだ。
 自宅マンションに到着し、玄関を抜けると自動で灯りが点る。テクノロジーの進歩は著しい。
 ソファーに座り、端末を取り出す。今日の指導内容をデータで本社に送らなければならない。チップを端末に装着し、本社に送信した。本社からはすぐに反応があった。
「初回としては十分だと思います。引き続きよろしくお願いいたします」
 機械的な文章に、「承知いたしました」と機械的に送信した。
 次回の指導は2日後だ。それに備えて眠りについた。

 目が覚めると、カーテンの隙間から朝陽がのぞいていた。眩しくて目を細める。
 眠り過ぎたという感覚はなかった。
 端末を確認すると、本社からの事務的なメールがいくつか届いていたので、返信をした。送信時間を見ると、昨日の23時5分と表示されていた。彼は働きすぎだな、と思った。
 起床してすぐに祐二への初回の指導内容を再度インプットする。その上で今日の指導内容を概算で弾き出す。小学生のインプット量としては多すぎると感じたため、もう一度、試算を始めた。すぐに結果は出た。この程度であれば、問題ないだろうというところで落ち着いた。後はシミュレーションをするだけだ。
 シミュレーションは電車の中ですることにして、さっと着替えを済ませ、家を出ることにした。外出をするに際して特別な準備がいらないことが私の利点だろう。
 電車は混雑していた。なぜだろうかと周囲の雑音に耳を傾けていると、どうやら少し前に人身事故があったようだ。長時間の運休があったようで、ホームで待っていた人たちが一斉に乗り合わせたらしい。こういった混雑の問題は今の時代でも発生するようだ。
 電車がホームに滑り込み、乗客が一斉に吐き出される。家路を急ぐ人で溢れている。
 坂道を登る。周囲を見渡すと、サラリーマン風の人が多い。前回、この街を訪れたときは日曜日の昼下がりだったが、今日は平日の夕方だ。街というのは、時間帯によって見せる顔がまったく異なる。こういう事象を、面白いというのかもしれない。
 玄関先で迎えた佐々木は前回よりも受け答えが軽やかに感じられ、完全に打ち解けた様子だ。警戒心はなくなったようだ。
「英育教育社の佐藤と申します」
「もう、佐藤さん、畏まりすぎですよ」
「そうですかね」
「そうですよ」佐々木は相も変わらずにこやかだ。
「祐二君は?」
「それなんですが……」佐々木は申し訳なさそうだ。「祐二はまだ帰って来てないんですよ」
「そうなんですか。こういうことは頻繁にあるのでしょうか?」
「いえ、初めてです。祐二には端末を持たせているので、何度か連絡をしているのですが……」
「どうしましょうか。待ちましょうか?」
「申し訳ないです。少しお待ちいただいてもいいですか?」
「はい、ではそうさせていただきます」
 祐二君が帰宅するまで待つことになった。ダイニングテーブルに座って、端末から本社に経緯を説明するメールを送信すると、すぐに「心配ですね。佐々木様のお子様が帰宅され、指導が始まったらもう一度メールをください」とだけ返信があった。
「すみません」佐々木はそう言ってから、前回は断った紅茶をテーブルに静かに置いた。「すぐに帰って来るはずなので、少しだけお待ちください」
「わかりました」
 目の端で佐々木を窺うと、台所で端末からメールを打っていることがわかる。なぜ祐二は帰ってこないのだろうか。すると台所から、あっという声がした。
「佐藤さん、祐二からメールがありました。今から帰ると……」
「そうですか。それは良かったですね」
「はい……。本当に。それにしてもどうしてこんなに遅くなっても帰ってこなかったのか」佐々木はすっかりやつれてしまったように見えた。
「何か事件に巻き込まれたわけではないのですかね」
「そうだといいのですが……」
 チャイムが鳴った。どうやら祐二が帰ってきたようだ。佐々木は慌てて玄関に駆け出した。
「祐二、一体どこに行ってたの?」玄関を開けるや否や佐々木の大声が聞こえてきた。「その顔、一体どうしたの?」
 またも佐々木の大声が聞こえた。どうしたのだろうか。
 佐々木がリビング戻ってきた。祐二の姿は見えない。扉がバタンと閉まる音が聞こえたので、そのまま部屋に入ったようだ。
「祐二君は部屋へ?」
「はい……。ただ、祐二の顔が腫れていて、誰かに殴られてのではないかと……」
「殴られた?」
「はい」
「どうしてまた?」
「わかりません。何も言ってくれません」
「そうですか。今日の指導は延期した方が良さそうでしょうか?」
「そうですね。わざわざお越しいただいたのに大変申し訳ございませんが」
「いえ、仕方ないです。また祐二君の状況がわかりましたら、ご連絡ください」
「わかりました」
 その言葉を聞いて、私はすぐに席を立った。
「それでは失礼します」
「すみません」
「いえ、それでは次回はよろしくお願いします」

 佐々木宅を後にし、すっかり陽が沈んだマンションの前で本社にメールを送信した。
 今日の指導は中止になったという私のメールに、本社からすぐに返信があった。
「佐々木様のお子様が帰られたのとのことですが、なぜ指導を中止したのですか?」
「祐二君は誰かに顔を殴られて顔が腫れていたようです。指導はできないと判断しました」
「なるほど。それは仕方ないですね。次回の指導時にまたメールをしてください」
「承知しました。本日は指導をしていませんが、データを送るべきですか?」
「送ってください」
「承知しました。また連絡します」
 端末をポケットに仕舞って、私は歩き始めた。どうして祐二は顔を殴られていたのだろうか。誰に殴られていたのか。考えても仕方がない。本人に確認しないとわからないだろう。そう感じたので、思考をストップした。
 朝は通勤ラッシュというものがあり、電車が非常に混むようだけれど、陽が沈んだこの時間、19時でも帰宅を急ぐ人で混むらしい。不思議なものだ。
 家に帰り着いてすぐに端末から指導データを送信した。本社からは特にリアクションはなかった。彼は珍しくもう家に帰ったのだろう。

 少し眠ったようだ。と、思ったが、実際に経過した時間は私の予想をはるかに超えていた。
 端末を開くと、本社からのメールに加えて、佐々木からもメールが届いていた。
 本社からのメールは、明日の指導の実施有無を尋ねるものだった。それは佐々木からのメールを確認してみないとわからないので、返信を後回しにし、佐々木からのメールを開いた。
「先日は大変申し訳ございませんでした。祐二はなかなか口を開こうとしませんが、学校には行っています。落ち着いているように思えます。明日の指導は問題ないように思います。予定通りお越しいただいてもいいでしょうか?」
「承知いたしました。予定通りということでお伺いさせていただきます」
 佐々木からはすぐに返信があった。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いしますという簡単なものだった。
 本社からのメールを再度開く。時刻は昨晩の22時48分とある。
「佐々木様からその後、何か連絡はありましたか?」
「昨日、連絡がありました。特に問題なく学校にも行っているようです。本日の指導も予定通り実施してください、とのことです」
 私は立ち上がり、外に出る準備を始めた。

 玄関先の佐々木は非常ににこやかだった。
「先日は大変ご迷惑をおかけしまして」佐々木は何度目かの謝罪をした。
「いえ、仕事ですので」
 リビングに入ると、ダイニングテーブルには祐二が座っていた。
「こんにちは」
「こんにちは」祐二は初めて会ったときと変わらない屈託ない笑みを浮かべた。
 私は、佐々木の方を窺い、
「では、早速始めましょうか?」
 と言った。
 佐々木は私を見て、首を縦に振った。「ほら、祐二、もう始まるって」
「はーい」祐二はダイニングテーブルからぴょんと飛び降りた。
 祐二の後に続いて、私は部屋に入った。祐二はさっと勉強机に駆け寄って、机の上に置いてある本を棚に慌てて戻した。あの本は確か初めてこの部屋を訪れたときにも置いてあった本だ。
 前回の指導が中止になったことで、間が空いてしまったため今日の指導は前回のおさらいから始めるようにシミュレーションしていた。祐二の理解力に合わせて指導のスピードも微妙に変えていく予定だ。
 前回の指導のときにも感じていたことだけれど、祐二は非常に素直で、指導に対する吸収力や理解力もある。祐二の「勉強が嫌い」や佐々木の「祐二は勉強ができない」という言葉とは異なる。
 実際に今日の指導も祐二の理解力を再認識するものになった。
 かなりのスピードで指導をしていたので、さすがの祐二も疲れてきたようだ。
「少し休憩をしましょう」
「はい」
 祐二君が誰かに暴力を振るわれたというのは本当のようだ。顔が腫れている。
「先生」
「何?」
「トイレに行っていい?」
「どうぞ」
 祐二はずっと我慢していたのか、小走りでトイレに行った。
 祐二がいなくなって、私は最初にこの部屋を訪れたときに見つけた本のことをふと思い出した。本棚の側に行くと、その本はすぐに見つかった。本棚からそっと本を抜き取り、裏表紙を見ると、黒のマジックで「死ね」と禍々しく書かれている。やはりそうかと思い、私は本を元にあった場所に戻した。
 祐二が戻ってきた。
「痛い?」
 祐二は一瞬、怪訝な表情を浮かべたが、すぐに私が顔のことを言っているとわかったようだ。
「うん……、痛いよ」
私は単刀直入に訊くことにした。「誰にされたの?」
「あいつら……」
「あいつら?」
「うん。あいつら」
「なんでそんなことされたの?」
「わからない。あいつらは僕のことが嫌いなんだ」
「嫌いってだけで暴力を振るうの?」
 祐二は首を傾げている。
「前にこの家に来たときに私が言ったことを覚えている?」
 祐二は首を横に振った。どうやら覚えていないようだ。
「思ったことはちゃんと言わないとだめだよ。嫌だと」
「そんなことを言ったら、もっと酷いことをされる……」
「祐二君が酷いことをされないように仕返しをすればいい」
「仕返し?」
「そう、仕返し」
「わかんないよ」
「それは自分で考えるんだ。どうすれば酷いことをされないか。祐二君は頭の良い子だ。考えれば、絶対に答えは見つかるはずだ」
「うーん、難しいね。でも、考えてみる」
「うん、それがいい」
 私はさりげなく時計を見た。もうそろそろ休憩は終わりだ。
「では、勉強を再開しよう」

 祐二の様子が変なんですとメールがあったのはそれから10日ほどが経過したときだった。それまでの間も何度か指導は行ったが、祐二に特に異変があったようには思えなかった。
「様子が変とはどういうことですか?」
「ここ数日、ぼんやりしているというか……、目が虚ろというか」
 メールの文章だけでは詳細はわからないと感じた。
「今日の指導の際に注意深く観察します」
「よろしくお願いいたします」
 私はそのメールを見て、身支度を整えた。
 家を出ると、陽は沈みかけている。季節の移ろいは早い。
 電車に乗り、今日の指導のシミュレーションをする。今日の祐二の状態によって指導内容は大きく変わるだろう。想定される事象をピックアップし、分析する。直面するパターンに応じて対策を考える。シミュレーションは一瞬で終えた。
 佐々木宅へと続く坂道を足早に登っていると、前方にランドセルを背負った小学生が見えた。あの後ろ姿は祐二ではないだろうか。
 祐二は公園の中にあるトイレへと駆けていった。家はもうすぐ目の前なのになぜトイレに行くのだろうか。
 トイレの方に向かうと、祐二は洗面台で手を洗っていた。
「祐二君」
 私はそう呼びかけると、祐二の背中がびくっと反応し、こちらを振り返った。祐二は奇妙な笑みを浮かべている。佐々木がメールに書いていた、虚ろという表現と合致した。
 私が近づくと、祐二は再び手を必死で洗い始めた。洗面台を覗くと、流れる水の中に赤いものが混じっていた。
「怪我でもしているの?」
「ちょっとね、何でもないよ」
 祐二はそう言うと、再び奇妙な笑みを浮かべた。
 祐二はポケットからぐしゃぐしゃに丸めたハンカチを取り出し、乱暴に手を拭いた。
「行こう」祐二は足早にトイレを離れ、公園を横切った。
 玄関から出てきた佐々木は、私と祐二が一緒にいることに大変驚いたようだ。
「遅かったのね」
「ちょっとね」祐二は乱暴に靴を脱ぎ捨て、自分の部屋へと入っていった。
 乱暴に脱ぎ捨てられた靴を直しながら、佐々木は狐につままれた表情をしている。
「祐二君はいつもこうなんですか?」脱ぎ捨てられた靴を見て、佐々木に尋ねた。
「いえ……、いつもきちんと揃えて脱ぐんですが」
「そうですか」
「祐二、少し変でしょう?」
「確かにそう見受けられます」
「どうぞ、お上がりください」
「失礼します」
 祐二の部屋に入ってすぐに違和感に気づいた。ベッドの脇に金属バットが立て掛けられている。
「祐二君は野球が好きなの?」これまでの指導で祐二が野球が好きだとは聞いてはいなかった。
「うん、言ってなかったっけ? 買ってもらったんだ」
「そう」
「あいつら、僕のことを舐めているんだ」
 急に話題が変わったことを訝しく思った。
「舐めている?」
「うん、僕がどれだけあいつらに反撃したってあいつらは平気なんだ」祐二は先ほど必死に洗っていた右手を握りしめた。「ちょっとトイレに行ってくるから準備してて」
 祐二は部屋を出て行った。
 私はかばんをベッド脇に置き、机の上を眺めた。やはりあの読みかけの本が置かれている。ページを捲ってみると、中身がびりびりに破かれている。裏表紙は以前見たときより酷い落書きで見るも無残な形になっている。
「見たんだね」祐二はいつの間にか部屋に戻って来ていた。
 祐二は私から本を奪い返して、本棚に乱暴に戻した。祐二は中空を見つめ。奇妙な笑みすら浮かべている。
「先生、今日は何を教えてくれるの?」祐二は私の方を見て、屈託のない笑みを浮かべている。
「今日は国語」
「国語かあ、苦手なんだよなあ」
「大丈夫、祐二君は何でもできる」
「何でも?」
「そう。あいつらにも」
「僕は何でもできる」祐二はそう言うと、また中空を見つめたまま押し黙った。
 指導の間、祐二は元のように小学生らしい無邪気さを取り戻した。ただ、休憩中に母親に持たされている端末を神妙な面持ちで眺めていた。必死の形相で文章を打ち込んでいる。何かを決意したような目をしていた。
 指導は滞りなく終わった。次回の指導日を伝え、祐二の部屋を出て、佐々木と話をしているとリビングのドアが開いた。祐二が顔を見せた。
「お母さん」
「どうしたの?」
「ちょっとだけ出かけてくる」
「だめよ。もう夕飯よ」
「公園で遊んでくる。すぐ戻ってくるから」
「遅くならないようにね」
 祐二は金属バットを片手に玄関を出て行った。
「祐二君は野球が好きなんですか?」
「いえ、野球なんてやらせたことはなかったのですが……。この間、急に金属バットを買ってとせがまれまして。野球が好きだなんて聞いたこともなかったのに」
「野球は好きと先ほど聞きましたけれど」
「そうですか……。変ですね」
「では、そろそろ」
「はい、遅くまでありがとうございます。次回もよろしくお願いいたします」
「失礼します」
 佐々木宅を後にし、マンションのエントランスを抜けると、女性の悲鳴が聞こえた。公園の入り口に女性の二人組を発見した。
「どうかしましたか?」
 女性は恐怖で慄いている。言葉にならないようだ。私は公園の中に踏み入った。
 公園の中は森が鬱蒼と生い茂り、木の葉がさざめく音だけが聞こえる。暗い公園の中を進んでいくと、人影が見えた。
 小柄な男の前に数人が蹲っている。小柄な男は右手に棒状の物を持っている。
 すぐ近くまで行くと、小柄な男は祐二で、右手には金属バットを持っている。祐二の前には3人の男の子が蹲っている。
そのうちの1人が肘だけで起き上がろうとしている。
祐二は迷いなく金属バットを振り下ろす。
「祐二君は何でもできるんだね」
「もちろん」祐二は、暗闇でもはっきりとわかるほど屈託のない笑みを浮かべていた。

 私は手元の端末を起動した。端末では報道ニュースが放送されており、見慣れた高層マンションの前でレポーターが神妙な面持ちで事件を伝えている。
 しばらくすると、端末が震えた。どうやら本社からのメールのようだ。
「ニュースを見ていますか?」
「見ています」
「金属バットで同級生を撲殺した小学生というのはAWZ-2、あなたが指導した子供ですね?」
「はい」
「今回の件は誠に遺憾です。本社でも問題になっています。ただ、AWZ-2、あなたが送った指導データを分析しても特に問題があったということでもないし、あなたが不良品ということもない。不良品ではないということは、あなたに搭載されているチップを分析して判明しました。この件は非常に悲しいことだが、あの子がそもそも先天的に持っていた凶暴性、狂気性が原因だろう。それらをあなたがほんの少し導いたに過ぎない。だから、あなたが特に悲しむことも悔やむこともない」
「私は悲しいや悔しいといった人間本来の感情は持ち合わせてはいません」
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