第1話

文字数 1,122文字

【エッセイ賞】

年が明け、寒さが厳しい大寒の頃、私は卒業論文作成に追われていた。



どんなに書き直しても、教授から可が下りない。締め切りもすぐそこだ。毎日夜中まで研究室で改訂を繰り返す。先輩曰く、これは毎年のことなのだそうだ。どんなに前もって準備をし、論文を書き始めても、締め切りぎりぎりまで実験のデータをとれといわれる。最後まで粘ってたくさんのデータを載せるべき、というのが教授の方針なのだ。締め切り直前まで追い詰められる。



そんなとき、SNSの枕草子の投稿が目にとまった。



「春はあけぼの」



最近は専門、実験データ、英語論文が脳内を占めていて、その一節が妙に浮いていた。系統が違うと言えばいいのだろうか。明らかに一つだけ異質だった。とても強く心が惹かれた。一方で、思わず鼻から息が漏れた。なんて呑気なんだろう。私は、春はいついつが良い、なんてこと考える余裕がない。データをとる、解析する、まとめる。ずっとディスプレイとにらめっこだ。日付がそろそろ変わろうとしているのに、データ量が多すぎて終わりが見えない。清少納言と私の住む世界の差がなんだか面白く感じ、私はSNSで「春はあけぼの」とひとことつぶやいた。



 



それから数日して、知り合いからメッセージがきた。



「枕草子が好きなんですか?」



その人はサークル活動で知り合った学芸員で、あまり話したことはない。10-20歳ほど年上の社会人だということしか知らない。予期していなかった人からの藪から棒な問いに、ここ数週間あたまの中にあった卒業論文が嘘みたいにいなくなった。違う次元に飛ばされたみたいだった。



そのメッセージをきっかけに、枕草子の冒頭を読んでみた。そこには四季折々の風景があった。春の朝焼け、夏の夜のムシムシした空気感、秋の夕暮れのもの寂しさ、冬の朝のシンとした寒さ。すっかり忘れていたものだった。ここ数週間は日常の風景に目も止めなかった。食べ物の味や香り、生活の中のちょっとした発見に全く気を止めなかった。気にかける余裕がなかった。それだけ卒業論文に追い詰められていたのだ。学校と家を往復するだけの灰色の日々に心が侵食されていた。



それに気づいた途端、首から肩にかけて筋肉がこわばり体が重いことに気づいた。体の変化にも疎くなっていたらしい。意識の外にいた体の感覚が戻ってきた。どっと疲れを感じ、私はそのまま深い眠りについた。



 



翌日、久しぶりにすっきりと目が覚めた。卒業論文は相変わらず終わっていない。しかし、しっかり寝たからだろうか、体が軽く気持ちが良い。炊きたてのご飯の香りに思わず笑みがこぼれた。清少納言が笑っているに違いない。もうすぐ立春だ。<完結>
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