第1話

文字数 4,671文字

 2019年の今ごろ「あぁ疲れた」とふいに思いました。
静かな国とか島に行きたいな、と思っていました。
理想を探して写真を見たけれど、これだっと思える場所には出会えませんでした。

さて、この「あぁ疲れた」の前に、
とてもとても長い「しんどいなぁ」があったのでその話をしようと思います。本当聞いて!しんみりするお話なんですけれどもまぁ聞いて!!

 近年、20代30代の若いうちに親の病気、介護や看取る経験をする人が増えているそうですが、私もその1人だったんですね。
当事者ながらも「大変だけど若くて体力あるし、一時的に仕事ややりたいことが出来なくても、まあ挽回できるでしょう。いい経験になるさ」と考えていました。
さぁどっこいどっこい。そんな事ないんですね。

 まず私の紹介を。
今年で28歳の女性、趣味は絵を描くこと。
#小児ガンで右目が失明#母子家庭#ステップファミリー#等々ハッシュタグの多い身の上ですが、わりと健やかに育ち、今は元気に無職です!(2020年12月現在)
お母さんは64歳。元美容師。
数年に渡るガン闘病の後、旅立ちました。

これを初めから振り返っていきますと、
まず2012年。お母さんのガンが判った当時の私にはまだ、絶望感や暗い気持ちは全くありませんでした。
むしろ勇気とやる気が沢山湧いて、守るぞ!やるぞ!と、頑張りたくて仕方がなかったくらいです。
気持ちに余裕があって、時間を大事に、お互いを大切にと思いながら暮らしていました。
そこから3年、4年経ち。
抗がん剤って辛い。サポートも辛い。
お金がどんどんなくなるけど、治療は終わらないけど、楽しい暮らしでした。
体調の良い時に映画を観に行ったり、「元気になったらこれしようね」と笑い合ったり。
たまにお母さんの昔馴染みの方が遊びに来てくれるのも、ずいぶん励みになりました。
その頃の私は、一人暮らしをしていて、仕事にやりがいを感じたり、周りの同世代の子達とそう変わらない生活をしていました。元気な私。
なんだか、楽しい気分になると罪悪感が沸くようになっていました。
 お母さんの闘病、5年目。
ここまでにお母さんの受けた手術は2回、抗がん剤治療の為の入院は月に1~2回。
具合が悪い日が多いけど、身の回りの事は自分で行える程に動けていました。
それでも日常に別れの気配がたまに混ざって、
じわじわ、じわじわ足下に迫りました。
ガンが動き出します。
痛みとして、出来物として。奴はお母さんの鎖骨の骨を喰いました。

身の回りの事が1つずつできなくなり、外に出られなくなりました。

6年目。

サポーターをして、痛み止めを飲んで、お母さんは闘っていました。
この年、去年のお正月、私は胃腸炎になってしまってあまり一緒にいられませんでした。
春には少し気分が上向いた様で、沢山の思い出話の合間に最期の先の話をしました。

夏も近づいた頃。
お母さんの呂律が回らなくなる時がありました。
LINEや手書きのメモの文体が暗号文の様に崩れる事が増えました。

そして、職場への移動中にかかってきた、異変を訴えるお母さんの電話。
すぐに駆けつけられなかった私に代わり、身内がお母さんを病院へ担ぎ込んでくれました。

お気づきと思います。
ついに脳にまで爪を伸ばして来たガンの奴らめの仕業です。言葉や身体の自由が持っていかれ、おまけに神経やリンパを蝕んで、痛みがないはずの場所に激痛を感じる錯覚を起こしました。
むごい病気です。
痛み止めすら効かない。
「最期まで痛みに耐えるか、今から最期まで眠るか」
そんな選択をお母さんに迫る日が来るとは思いませんでした。

「自分で聞ける?」
身内皆の気づかう眼差しと声音の優しさを覚えています。

 入院してからは早送りのように1ヶ月近くが過ぎ、最期は病院で迎えました。
梅雨も明けきらない時期の朝。曇りだったけど、朝って明るいですよね。顔がよく見えました。 

最期までの期間を1ヶ月と見るか6年と見るか。
どちらが適切なのかは分かりませんが、
人が亡くなるまでの幾分かの時間をライブ体験していくと、大好きな人の死はただ事じゃないんだなと、よく分かります。
身体中の柔らかいところをギュウギュウ押されたみたいに苦しい。ぜんぶが具合悪くなっちゃう。これを毎日味わいました。
そして近親者や身内であっても、まるで違う死生観を持っているのだな、と分かりました。
皆が人生の一大事を同時に迎えて、最大の熱量で向き合う。
亡くなる側も、一人一人の一大事に一生懸命応える。

沢山の人から労り、慰めをもらいました。
同じ位、「何故、数年もの間何もしなかったのか」「なんでもっと頑張れなかったのか」「親不孝」とお叱りの声も頂きました。
周りの言葉の痛いこと痛いこと。
なにしろ私は喪主(内定)でしたからね。責任重大だったのです。

特に亡くなる前の1週間はしんどいなんてものじゃなかった。
「し"ん"と"い"」って感じです。

きっと多くの方が経験してるでしょう。気まずい空気を打ち壊してでも葬儀の話をしなきゃいけないあの時間がやって来たのです。
私が一番ポンコツになった瞬間です。
一応、いざという時の希望をお母さんと話し合って、なんとなーく方向決めていたんですけど。
エンディングノートも1年以上前に準備していたんですけれども。
でも、「いざ」が近づいたらお母さんは喋れなくなっているではないですか。 
ノートまっさらではないですか!!

私もまっさら。耳は竹輪にでもなったんか?という程情報を拾いません。

こんな大事な場面の時にどうして私は、お母さんと話した事をひとつも伝えられないのでしょう?
どうして、この期に及んで今まさに病床で苦しんでいる人をあてにしているのでしょう?
結局、私は周囲の人達に対して、綿菓子みたいなフワッフワの返事とヘラヘラ笑いしかできませんでした。

自分の素行が恥ずかしくて悔しくて仕方がありません。

私って、私が成長したつもりだった5年6年って、
お母さんと一緒に闘ったつもりだった数年って、
周りの人から見たらただの親不孝の時間だったんだろうか。
この先何をどんなに頑張っても、ずっと「世間知らずの親知らず人間」にカテゴライズされたままなんだろうか。こういう時に限って、人から聞いた悪い言葉ばかり思い出してしまいます。

「あぁ、しんどいな」
ここで初めて、辛さがやって来た気がします。
頭の後ろ側でずっと「いなくなりたいな」と考えていました。

お母さんを連れてどっかに消えようかな、と何度も想像して、床擦れを直すフリして実行しようとして。
でも、重くて抱き上げられもしなくて、すぐ諦めました。
諦めたのにまた、どうやっていなくなろうか。
どうやって私の痕跡を消そうか。
出きるはずもない事ばかり考えていました。
かといって、死にたい気持ちは全くなかったんですけどね。

 さて、この地獄の期間。
仕事をして、お見舞いの人の対応をして、介護の準備をして葬儀の相談をして、お母さんとのお別れもしっかり済ませて。
なんて喪主見習い(暫定)に出来るはずもなく。

だって、Excelを入力しながらスマブラできる人がいますか?ドラムを叩きながらブレイクダンスできる人、いますか?
無理ですよね?探せばできる人がいそうだけれど、簡単じゃないですよね?

事情を説明して仕事を休むだけで吐くほど消耗しました。
葬儀の準備は親戚に頼りきりです。
介護の準備もそう。
和式便座に被せるタイプの様式便座を買ったはいいけどドアが閉まらなくなったのはいい思い出。
普段接し慣れていない相手との会話は、ドッと疲れます。アドバイス頂くのはもっと疲れます。
毎日たまる罪悪感。
眠れません。

せめて最期の時間だけでも人に譲ろうと思いました。

思ってしまいました。

そうしてしばらく。
とにかく喪主(本採用)は頑張りました。ほぼお飾りでしたが、本番でイザコザがバチバチわっしょいしたので
もう喪主はやりたくないなと思いました。サブ喪主くらいがいいなと思いました。

お母さんの家の片付けは親戚80%業者10%位で、私は働きも少ないのに片付けの段取りにもたついて、各種解約とか役所の手続きくらいしか出来ませんでした。今謝るよ、ごめんね!

全部終わって、やっと「あぁ疲れた」と思いました。
止めていた呼吸をやっと再開した心地です。
同時に「なんかもう無理だな」とも思いました。

だから、思いきって今年1年を休みにしました。
やりたい事だけしようって決めました。

だってね、今さらだけど、うるせーわい!って思ったんです。
主役はワシわい!って。
なんだか、今なら言えます。
私はお母さんとの別れを悲しむ前に、身内ではない、周りの言葉にぺしゃんこになってしまったんですね。

人生の先輩として、葬儀や人の死に縁遠い若い世代をフォローしようという気持ちはよく分かります。
数十年来の友人を想う気持ちも痛いほど分かります。

でも何が悲しくて子が親の死に目までの大事な時間を他人に讓らにゃならんのでしょう。
ありがたいお言葉をくださった皆様方は、喪主(サンドバッグ)より20も30もお歳を召しているのですよ。なんなら私のオムツ交換してらっしゃる方もいるわけです。
和田アキコさん、上沼恵美子さん世代の方から舌戦を挑まれるような構図です。ウィッス!先輩、私しばらく立てません!
20代の6年はなかなかのボリュームよ?わりとがんばったらろ??
と、気が荒ぶりました。ここに着火するまで時間がかかりました。
一時はぺしゃんこになったけど、私が本当に親不孝だったり社会的にアウトな人だったら、今こんなに元気にしていないでしょう。
痛い言葉をもらっても、皆私だったら選ばない生き方をしてるだけと割り切れば楽なものです。
というわけで、私休む!ぜっったい休む!!そう固く心に誓った私は去年の11月頃から準備をし、今年、2020年の3月で華麗に退職を決めました。
準備した上で無職になるっていいね!心に余裕があるよ!

さて現在。
お休み生活8ヶ月目の後半、静かな国とか島には行けないまま毎日を過ごしていますが、気になってた分野の勉強や趣味に没頭できたり、好きなだけ眠れたり、自由な時間と充実がありました。
去年はピンとも来なかった美しい景色の写真や絵を見て、「素敵だな~行ってみたいな~」と自然に思えるようにもなりました。
ここにたどり着くまでに、「大阪転勤辞令から逃げろ!退職ムーブ卍」や、春頃の「うれしはずかし初デートin田んぼ」「岩塩に名前つけて可愛がった夏2020」「オンライン一周忌&初盆フェス」など数々のイベントをはさみつつ、今は新年を迎える準備をしています。
就活もしています。
次の職場の採用も勢いで決まればいいのになってもんです。できればこの間面接した所に決まればいいのにな!なー!


 2019年、「ああ、疲れた」と思った時に行きたかった静かな国。
行きたいのに姿かたちを想像できなかったその場所。
今はふんわりとイメージできます。
そこはきっと、たぶん月と水、砂や風だけで作られたような透明な国で、
心が軽くなる景色だけがあるのです。
ここへ行くには海を電車で渡っていくようなファンタジーな行き方が合う気がします。

次に私が思いつくのは、ここに生きる人々や魚、植物、街並み、どれでしょうか。
それともこの国にふさわしい名前を思いつくでしょうか。

私の2020年はもうすぐ終わりです。
良い1年でした。休んで良かった。


次回予告
私「2021年、新しい環境にも慣れ、恋人との交際も順調な私。頭を悩ませる問題から解放された私に怖いものはありませんよ!」

謎の影「三回忌、出る!」
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