第1話

文字数 2,429文字

「あんたは、どうしてそんなにネガティブなの!」
 ネガティブかあ、そうかもしれない。そうだと思う、自分でも。
「嫌いなことはずらりと並べられるけれど、好きなこと、いいことは全然出てこないじゃん!」
 その点は、実は、自分でも気がついてる。落ち込みそう。
「ねえ、いいもん見つけたから。ゲームと思って、ちょっと聞いて。まずは、心から感謝することを3つ書き出して(1)。はい、ここに紙とペンがあるから。」
 準備がいいな。計画してきてたんだな。ペンを素直に持った自分に驚いた。書くつもりらしい自分に気がついた。紙を見つめながら、ペンも持っているけれども、何も出てこない。しばらくふたりの間で沈黙が続く。痺れが切れたように姉が口を切った。「例えば、生きている、とかでもいいわけよ。」私は姉の目を見つめた。当たり前のようでも、確かに私は今、生きている。姉の、多分結婚も意識していただろう、ボーイフレンドは交通事故で突然この世を去ってしまった。10年前だ。ふたりとも今の私と同じ歳だった。だからだと思う、素直な気持ちで「生きている」と紙に書いた。後ふたつ。姉は辛抱強く私を待っている。

「仕事がある」と次に書いた。姉の顔を盗むように見ると、微笑んでいた。後ひとつ。「単語を聞いてすぐに後ろから言える」と書いたら、姉は吹き出した。「それ、心から感謝してるの?」「他に思い浮かばない。」私は、人が言った単語をすぐに後ろから言えるのだ。例えば、「クリスタル」と言われれば、即「ルタスリク」と言える。何も役にも立たない変な特技。「まあ、いいわ。じゃあ、次は心から感謝してる人を3人書き出して。それと、どうして感謝しているかも(2)。」難しい。一体私は誰に感謝の気持ちを持っているのだろうか? それよりも、だいたい私は人に感謝の気持ちなんて持っているのだろうか? 深く考えても出てこないだろうと思い、「父、母、姉」と3人立て続けに書いた。

「父って書いた理由は?」「育ててくれたから。」「母は?」「育ててくれたから。」「姉は?」「育ててくれたから。」

 姉と私は10も歳が離れている。歳の近い姉妹とは少し違うだろう。叔母のような存在かもしれない。でも、10歳しか違わない叔母と姪はこんな感じだろうか? 私が高校生になったばかりの頃、姉はもう社会人で恋人もいた。その人はうちによく遊びにきていて、私は兄のように慕っていた。その彼が突然交通事故で死んでしまった時、ショックを受けたのは姉ばかりではない。そして、悲しみのどん底に陥ってしまった姉を見るのは辛かった。そばに寄れなかった。姉さえも失ってしまったように感じていた。それでも時間をかけて姉は立ち直った。ヨガがよかったらしい。今はヨガのインストラクターをしている。ヨガにどう助けられたのかは、私にはよくわからない。どん底の前にはいつもそばにいてくれた姉、這い上がってからまたそばにいてくれる姉は、ある意味私を育ててくれたかもしれない。それに今も、こうして。

「じゃあ、次いこう。ええと、何だったっけ。そうそう、次は、その感謝している要素が自分の中にもあるか?(3)」

 はあ? 私が自分を育ててるの? 「もういいよ。馬鹿らしくなってきた。何なのよ、これ。」姉も予想外の進行になったと思ったんだろう、軽いため息をついて私が書いた紙をたたみ始めた。「まあ、とにかく、生きてるんだから、もっと明るい部分に意識を向けて、嫌なことばかり見つめちゃダメよ。」決まり文句でこのゲームは終わった。

 姉とわかれた後、あんなくだらないゲームで気分は、晴れてなかった。街を何となく歩いて、何となく家に向かっている途中、電信柱に貼ってある紙に目が入った。

    バイオリン教室
       初心者の大人も大歓迎

 バイオリンを習ってみたいと高校生ぐらいの時に思った。でもバイオリンとかピアノは小さい頃から習うものだと信じていて、今更習えるわけがないと思い込んでいた。最近同僚のひとりが、昔から憧れていたフルートを思い切って買って習い始めたと言っていた。この頃はマシな音が出るようになり始めたんだ、と本当に嬉しそうに言っていた。私もバイオリンを習ってみようかな。今からでも弾けるようになるのかな。ポスターを写真に撮った。後で電話してみよう。バイオリンを弾いている自分の姿が見えて、ちょっと心が浮かれた。そうだ、今電話してみよう、という考えが浮かんだ瞬間、もう私はその電話番号をかけていた。

「はい、鈴木です。」
「あのう、今バイオリン教室のポスターを見てかけてるんですけれど。」
「ああ、はい、鈴木バイオリン教室です。でもスズキメソードはやってません。」
 何のことかよくわからなかった。
「あのう、私、全くの初心者で、しかも大人なんですけれど。バイオリンも持ってないし。」
「ああ、大丈夫ですよ。バイオリンはレンタルもあるし、練習用のでよければ安く手に入るのもあります。必要なものは、音楽を楽しむ気持ちとバイオリンを習いたいっていう気持ちですね。一度、バイオリンを触りに遊びに来るっていう感じでいっらしゃいませんか?」

 私は、その場で「遊びに行く日」を鈴木先生と決めてしまった。声の感じからとっても明るそうな先生だった。いっぺんで気に入った。私はまんざらネガティブではないのかもしれない。またバイオリンを構えている自分の姿が見える。電話をしまって、家に向かった。空を見上げたら、いわし雲。とってもきれい。他の人から見れば普通に歩いていただろうけれど、心の中では、私はスキップをし始めていた。

(1)(2)(3) The Universe Always Delivers Twice-Manifesting with Energy and the Law of Attraction: A Guide for Magic and Miracle Making by Sarah Hertz

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