3話 安らぎと絶望

文字数 2,912文字





それから紆余曲折を経て、時子は14歳で児童精神科病棟に入院することになった。

時子の手首の傷を見た当時の担当医が、その時すぐに「入院しますか?」と遠慮がちに聞いたのは、「この子を早く母親の手の届かない所へ隔離してあげなければ」と考えていたからでもあったのだろう。

そして時子は院内学級の中学を卒業し、そのまま大人の病棟へ移されることになった。

その頃の時子を撮った写真を、時子の父親が持っていた。まるで人間らしい表情を失った、人形のような時子。それでもその中にはいつも嵐が吹き荒れ、母親から吹き込まれたたくさんの呪詛が、彼女を常に追い詰めていた。

時子は食欲が回復した後も、眠ることが一番苦手で、不眠時の最後の対応として、筋肉注射を打って眠るようなことが、毎晩のように続いた時期も長かった。

だから彼女は、32歳になった今でもまだ、睡眠導入剤と大量の安定剤がなければ、決して眠ることはない。

思い返せば、一番古い時子の眠りの記憶は、朝方になってからやっと少し眠り、8時頃に父親に起こされて学校に遅刻して行ったというものだった。時子は幼い頃から、ほとんど眠らない子供だった。


そして精神科病棟からは離れ、社会生活を営むために、障害者向けの訓練施設へ通ったりしながらも、その間、俺たち別人格は、彼女の心の裏側で育っていき、ずっと待ち続けていた。


3年前、28歳だった時子はSNSで出会った今の夫と、1年の交際を経て結婚し、懸命に自分の痛みと向き合ってくれる夫の前で、初めて少しだけ心が安らいだ。それが俺たちにとって、そして時子にとっての、新しい闘いの幕開けだったのだ。



よそよそしいくらいに清潔で、清浄。俺はその部屋をそう表現する。そして、目の前に居るカウンセラーは、なんだか、不気味なくらいに、肯定的な態度を取るのだ。

俺にとってカウンセリングは心地のいいものではなかったが、目の前に居るカウンセラーを信用して打ち明けなければ、時子の窮状は救われない。

「目が覚めましたか?あなたは?時子さん?」

「…いいえ」

「名前は?聞かせてください」

カウンセラーは六十歳くらいの小柄な女性で、下世話な見方で本当に失礼だが、“健康法ならなんでも詳しそうだな”といった感じの主婦と、雰囲気がよく似ていた。もちろん、医療に携わっているからこその、本質的な意味合いでそうなのだろうが。

俺は、彼女に名乗るのは少し抵抗があった。

時子は、俺たちが頻繁に表に出るようになってから、時折記憶がなかったり、急に別の場所で目が覚めたりということに悩んで、ここを訪れた。

だから俺は自分のことを勝手に“病巣”と表現していたし、「俺が独立した人格であることは否定されるんじゃないか」と思っていたからだ。

気が進まないながらも、俺は「五樹です」と名乗った。

するとカウンセラーは微笑んで、「五樹さんですね。そうお呼びしていいかしら?私、あなたのこともお名前でお呼びしますから」と言ったのだ。

俺は驚いたので、思わず、「いいんですか」と聞いたが、「いいんです、それで」と返されただけだった。

それから、そのカウンセリングルームの方針に則って、俺はなんだかわけのわからない体操をいくつかさせられた。そしてまた椅子に掛けてから、カウンセラーはこう聞く。

「どうかしら?今、どんな感じですか?体の感覚をよく感じてみて…」

このカウンセリングは、「過去の緊張は神経に蓄積されるものだから、まずは神経を解し、安心感を覚える」という方針で進んでいる。

軽い体操などで間接や筋肉を解すと気持ちが軽くなるのと同じで、それを繰り返すことによって緊張感が解れ、さらには脳に記憶された過去についても、少しずつ変わっていくのだそうだ。

時子自身も、それを感じている。

「まあ、僕は…普通でしょうか。特になんともありませんが…」

これは少し言いにくかった。「何も成果はなかった」と伝えるのと同じように思ったからだ。でもなんとカウンセラーは親指を立てた。

「そうです。それが本当なら普通の状態なんです。グッドですよ」

“相変わらず不必要なくらいに肯定してくるなあ”と、俺はちょっと居心地の悪さを感じた。表には出さなかったけど。

そして、人格交代の予兆である眠気が表れるまで、俺は、時子の過去の出来事が今の時子にどのような影響を与えているように思うか、少し話をした。そのためにも、このカウンセリングに俺は引っ張りだされたのだろうと思うから。

カウンセラーの話では、「今までは隙を見せることが怖かったけど、安心できる環境に移ったことがわかったから、今まで別の人格として隠していた感情を、表現するようになったんです。全然悪いことではないんですよ」、とのことだった。

いまいち信用していいのか分からないくらい、やっぱり肯定的な人だなと思った。もしくはそれがカウンセリングというものの本質なのかもしれないが。


時子は、辛かった過去の話をするのを、意識的に避けてきた。

過去、時子は「いつまで昔のことに固執してるんだよ」と冷たくあしらわれたことが何度もあり、本当はPTSDを抱えていて、今も過去の傷から血が噴き出し続けていることに気づく人間は、居なかった。それに気づいたのが時子の今の夫で、このカウンセリングルームを探し当てたのも彼だった。

俺はさっき「引っ張りだされた」と言ったが、誰に引っ張りだされたのか。それは時子自身だ。

彼女は俺たちのことは意識的には何も知らないが、おそらく無意識下の逃避行動として、その瞬間に一番見合った人格を選び出して表につん出し、自分は引っ込むのだ。


時子は、常に疲労して、傷つき続けている。彼女は一分一秒の隙もなく、「早く死にたい」としか考えていない。そして、その気持ちを抱えながら夫に愛されることにさえ、罪悪感を感じてまた傷つく。

そして、ほかの人格が表に出ている時、時子はどこに居るのか。

以前の話で、俺たちは横一棟の区切られた部屋の中に住んでいると話した。そしてその部屋から出た横には、深い深い穴が掘られている。

これは時子の心の中の風景だが、その奥底に時子は柔らかなハンモックを長く長く吊り下げて、そこで眠り込んでいるのだ。

俺が眠気を感じて目を閉じると、俺は自分の部屋の前に立っている。俺の部屋のすぐ横には、時子が潜む穴がある。その穴の底は暗くて、覗こうとしても果ては見えない。

俺が「自分は戻らないといけないんだろうな」と感じてノブに手を掛ける時、穴の底からは必ず、こんな叫び声が聴こえるのだ。

「いや!いや!もう誰とも会いたくない!私は早く死にたいだけなのに!」

幼い頃から母親に、「早く死んで欲しい!お前みたいな下らない人間が生きてたら迷惑なのよ!」と、毎日のように言い聞かせられた時子は、自分を“死ななければいけない人間”のように捉えている。俺はあの女を殺しても恨み足りない。

それでも俺が部屋のドアを開けると、地中深くに潜っていたハンモックは急に飛び上がり、その時、時子の絶叫が俺の耳をいつもつんざくのだ。

“俺はどうしていつも…”

そうして俺は部屋の布団に横になり、テーブルの上のスタンドライトの灯りを消し、目を閉じる。







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