第1話

文字数 3,045文字

 彼が住む村はのどかで、素敵なところです。
 気候は穏やかでいつも暖かく、自然に囲まれていて食べ物にも困りません。子どもはのびのび育ち、大人もとっても長生きしています。
 そんな街で彼も幸せに暮らしていました。
 彼の家は村で唯一の床屋さんでした。町中の人はみな彼の両親に髪を切ってもらっています。村一番の可愛い娘として有名だったあの子もその中のひとりでした。
「こんなわたしにも似合う素敵な髪にしてください」
 あの子は床屋に来ると必ず彼の母にそう注文して無邪気に笑います。
「こんなだなんて、あなたはとってもケンキョね」
 そう言って彼の母と父は笑います。
「わたし、ケンキョなの?」
 あの子は鏡越しに自分の母親へ尋ねました。
「そうね。お二人が褒めてくださるんだからそうなんじゃないかしら?」
 そう苦笑いをしながら答えました。
 彼はそれをただ見ているだけでした。

 その日、彼は勉強もしないで村を散歩していました。彼はとても勉強が嫌いなのでした。
 ふとお花屋さんから漂うお花のいい匂いが気になって足を止めてみました。ガラス戸の向こうではお兄さんがいくつも重なった、重そうな鉢植えを運んでいました。とても大変そうだったのでお手伝いをしようと思い、扉を開いて店の中に入りました。
「大丈夫?」
 そう声を掛けるとお兄さんは鉢植えを移動させてから、大丈夫、と言いました。それからもしばらく彼のことを無視して、お兄さんは忙しそうに作業を続けました。
「手伝いに来たんだよ」
 そういってもお兄さんはただ、大丈夫、そう返すだけでした。
 しまいに彼はむくれてしまいました。不機嫌に店に咲いているお花を眺めていました。
 すべての鉢植えを運び終わったお兄さんは少し申し訳ないなという気持ちになりました。どうにか機嫌を直してほしいなと思い、彼に話し掛けます。
「床屋の坊ちゃん、どうかした?」
 彼は馬鹿にされたように感じて、プイッとお兄さんを無視しました。
 今度は少し言葉を考えて、
「何か御用ですか、お客さん」
 彼はちゃんとしたお客さんとして扱われたのに気が良くなりました。彼の単純さを少し笑いながら、お兄さんはほっと一安心しました。
「このお花、何のお花?」
 特に用があったわけじゃないので、その時たまたま見ていた花を指さして尋ねました。
「これ? これはロベリアっていう花なんだよ。きれいでかわいいでしょう」
「うん! ろべりあ、とってもきれい!」
 彼は聞いたことのない花の名前を知って嬉しくなりました。またじっと花を見つめます。
「きれいでかわいい。まるであの子みたいな花だなぁ」
「その子のこと好きなのかい?」
 お兄さんの直接的な質問に彼はついつい赤くなってしまいました。
「それは内緒!」
「おっとすまない。無粋な質問だったね」
 お兄さんはいたずらして叱られてもまるで反省しない少年のような屈託のない笑顔を見せます。
 それからお兄さんは一度店の奥に戻って行きました。人がいなくなって退屈になったので普段なら店を出るところですが、彼はなかなかロベリアの花の前から動きませんでした。上からのぞいてみたり、下から見上げてみたり、横から見てみたり、いろいろな見方でロベリアを見ていました。
「気に入ったのかい?」
 他にお客さんもいなかったので戻って来たお兄さんは彼に聞きました。
「うん! あの子にとっても似合いそうだから、よく見て今度絵にかいてあげたいなぁと思ったの!」
「そう? お花を見せてあげたらいいんじゃない?」
「だってお金ないから買えない」
「なるほどね。じゃあ、特別にこの花の苗をプレゼントしよう」
「いいの?!」
 彼は目を輝かせて喜びました。お兄さんは彼の喜びようが予想を超えていたので、ついつい嬉しくなってしまいました。
「えーと、お花を育てたことはある?」
「ない。ないと育てられないの?」
「いいえ。大丈夫ですよ。きちんと育て方を教えてあげるからね」
「枯れない?」
「枯れないよ。大丈夫。ちょっと待っててね」
 そう言ってお兄さんはまた店の奥に戻って小さな鉢植えとスコップを持ってきました。そして店先に並んでいた苗を一つ取りました。
「今からこの苗を鉢植えに植えようか。やってみる?」
 彼は少し緊張した面持ちで、頷きました。
 お兄さんは鉢植えに入った土をサッと整えてから、彼に苗を渡しました。
「さあ、ここに植えてみて」
 彼はゆっくりと苗を持って、慎重に土の上に置きました。そしてスコップで周りの土を優しくかけました。
「オッケー。よくできたね。あとは日当たりと風通しのいい場所において、毎朝たっぷりの水をあげること。それで元気に育ってくれると思う。もし困ったことがあったらすぐに来てくれたらいいから」
 お兄さんは鉢植えを彼に渡しました。
「ありがと、お兄さん」 
「いいえ。大切に育ててあげてね」
「うん。大切に育てて、あの子にプレゼントするんだ」
 それを聞いたとたん、お兄さんは少し複雑な顔をしました。
「どうしたの?」
 彼が聞くと、困ったような笑顔を浮かべて、
「花にはそれぞれ想いが込められているんだ。花言葉って言うんだけれどね。ロベリアは『謙虚』っていう意味なんだ。けれど……」
「ケンキョ!」
 お兄さんはまだ話を続けていたけれど、彼は『謙虚』という言葉に興奮してしまって聞いていませんでした。
「お兄さん! ろべりあって『ケンキョ』っていう意味なの!?」
「うん。ロベリアの花言葉のひとつだ」
「前にね。お父さんとお母さんがあの子のこと『ケンキョ』だって褒めてたんだ! やっぱりろべりあはあの子にぴったりだ」
 彼はとっても嬉しくなりました。お兄さんは優しい顔で彼の頭を撫でました。
 彼はお兄さんにたくさんお礼を言ってから家に帰りました。家で待っていたのは彼の母のお説教でした。彼は勉強を放り出して出て来ていたのをすっかり忘れていたのです。
 しかし興奮している彼は母のお説教を聞かずにロベリアの話をたくさんしました。それには母も毒気を抜かれて、楽しそうに彼の話に耳を傾けました。
「それでこんなに立派な鉢植えをもらって来たのか」
 彼の父が驚いたように言いました。
「今度お花屋さんには何かサービスして差し上げないと」
 彼の母が嬉しそうに言いました。
「この花はね、ろべりあって言うんだって! 花言葉は『ケンキョ』なんだよ!」
「あら、それはいい花言葉ね」
「うん! あの子にぴったりな花なんだ!」
「そうかい。咲くのが楽しみだね」
「大切に育てるんだよ」
「任せて! きれいに咲いたろべりあを絶対あの子にプレゼントするんだ!」
 そう言って彼は毎朝欠かさず水をやり、虫が寄らないようにいつも見守って、大切に大切に育てました。
 そしてきれいに咲いたロベリアをあの子の誕生日にプレゼントしました。
 あの子は喜んで受け取ってくれました。
 けれど、彼の気持ちは受け取ってくれませんでした。
『こんなわたしにはもったいないわ』
 それを聞いて彼はあの子はやっぱり『ケンキョ』だなぁ、と思いました。
 それ以来彼は毎年あの子の誕生日にはロベリアを送っています。
 今年、あの子は村一番のプレイボーイと結婚したけれど、それでも彼はあの子にロベリアを送り続けます。
 ありったけの『想い』を込めて。
 


 
 
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