第1話

文字数 2,045文字

 だいたいは、ワクワク感とともに乗るものじゃないのかな、飛行機って。あんな気持ちで乗ったのは初めてだった、と東京行きの機内で、私は意外に冷静に考えている。
 
 「あんな気持ち」で乗ったのは5年前、大学生だった息子の元へ向かったときのことだ。
 その朝、知らない番号からの着信を取ると、相手はこう言った。
「お母様のお電話におかけしています。警察の者です。」
交通事故に息子が巻き込まれたかもしれないという。とにかく行かなければ。飛行機に飛び乗った。
 
 飛行機に乗るまでに、警察官と何度か電話のやりとりをしたが、事故の状況も息子の様子も詳しくわからない。息子の携帯にかけてもつながらない。本当に息子が巻き込まれたのかもわからない。だけど・・・何度目かの電話の中で伝えられた言葉は、心の準備を促していた。いや、まさか。まだ息子と決まったわけでもないのに。
 道中のことはほとんど憶えていないけれど、初めて味わった大きな恐怖の感覚だけは、胸の中にいまでも残っている。着陸した先に何が待っているのか、逃げ出したいほど怖かった。それでも、それとは裏腹に、まだ着かぬかと気持ちは焦った。
 約一時間半のフライト。恐怖、焦り、祈り、絶望、どれを自分の気持ちに採用したら良いのかわからず、何も感じないように心をブロックした。まだ何も決まったわけじゃない。今はそれだけが確かなことであり、それが押し寄せてくる恐怖からかろうじて私を守っていた。背中をあずけることもなく座席に座る私の顔は、能面のように無表情だったと思う。

 息子は、大学に通いながらギターの演奏と描画をこよなく愛し、いつもユーモアがあって、時々クスッと笑わせてくれるメッセージを携帯に送ってくれた。その日の前日にも、新しく描き始めた馬の絵をコメントも何もなしに送ってきていた。私が「いいね!」と返すと、大物画伯を気取ったように「うむ」という一言で返してくるあたりが、息子らしかった。
 その前は、自動販売機の写真が突然送られてきていた。写真を拡大してよく見ると、取り出し口の中に、息子が買ったのであろう一本のお茶と、一匹の黄緑色の小さなアマガエルが写っている。取り出し口の中に入り込んで出られなくなっていたようだ。「かわいいね。助け出してやった?」と送ると、「もちろん。冷え冷えになってたから、たぶん恩返しに来ると思う」と返してきた。私は「来るね」と返した。
 なにしろおだやかで、やさしく、かわいい私の息子は、今はとても大きくなり、私は毎日見上げて話しかけている。
「いつも見守ってくれてありがとうね!おかげで今日も母ちゃんは元気にしとるよ!大好きだよ!」
 大きな空に、いつも息子を感じる。朝でも、夕でも。青いときでも、ねずみ色のときでも、いつでも。

 あれからずっと、私は東京行きの飛行機に乗ることが怖かった。東京へ向かう自分を想像しただけで、フラッシュバックを起こした。東京行きの飛行機に乗れば、あの日の自分と重なり、あの恐怖がまた私に襲いかかってくる気がする。到着した先に待っていたものを知っている今は、一縷の望みを盾にして恐怖から心を守るすべもない。

 今回の東京行きを決めることには、勇気が必要だった。
 でも、今、私は東京行きの飛行機に乗っている。そしてその機内にいて、思う。大丈夫だ。
 笑顔の客室乗務員さんに、私も笑顔でコーヒーをお願いした。私は背もたれに体をあずけて座り、コーヒーの香りをかぐ。ひざの上で機内誌を開き、エメラルドグリーンの海の写真を見て、きれいだと思うことができている。
 
 あの日から、長いような短いような、少しの時間が過ぎ、その間ずっと、息子は私にたくさんのギフトを届けてくれていた。
 いつも私を気にかけ、そばにいてくれた人たち。涙が止まらぬ私の肩を、いつまでも抱いてくれていた人たち。やさしくあたたかい言葉をくれた、たくさんの人たち。息子は、すぐそばにやさしい気持ちを寄せてくれるたくさんの大切な人たちがいることに気づかせ、助けてもらっていいんだよと教えてくれていた。そして、息子はいつでも私の心の中にいることを、気づかせてくれた。
 ぽっかりあいた心の大きな穴。それは今も変わらないけれど、あの日から息子は、ただ暗かったその穴のまわりに、明るい色で花を描き、馬やアマガエルを描き、楽しく装飾して、穴をのぞけば、澄んだ青空と「ここにいるよ」という息子の顔が見えるように、細工をしてくれた気がする。だから私は今日、心の大きな穴と共にあっても、取り乱すことなくおだやかな気持ちで、この飛行機に乗ることができているのだ。
 もうすぐ到着だ。東京につけば、招いてくれた大切な人たちが待ってくれている。
 
 窓の外に、群青色の東京湾が見えてきた。大丈夫。息子よ、母ちゃんは大丈夫ばい。私は今日、5年ぶりに東京へ降り立ち、そして歩き出すのだ。
 やさしい笑顔で迎えてくれる大切な人たちに支えられながら。
 大きな、大きな、大きな空に、見守られながら。

 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み