第1話

文字数 2,017文字

 東インド艦隊の若い特務曹長から見てもその日本の女は美しかった。
 東洋人の女の年齢はわかりにくい。だが目の前の女からは成熟した色気が感じられた。つややかな黒髪も彼にとってはオリエンタルなエキゾチックを感じさせた。「渋皮の向けたいい女」という言葉を彼は知らない。
 女がやってきたらそのまま通すようにと言った新・駐日特命全権公使兼総領事長は、いったいどういう目的でこの女を呼んだのだろうと曹長は妄想をかきたてられていた。
 
 寝所の扉が叩かれ女の声がした。
「ミスターパークス」
「入りたまえ」
 パークスは訪問者を部屋に呼び入れた。
「失礼します」
 警備兵の興味の的となった女が現れ、英語で話しかけた。
「函館に行かれるとお聞きしました」
 パークスは上半身裸だった。廈門(アモイ)や広東で外交官として勤務したので英人にとって耐え難い高温高湿の極東の気候には慣れているはずだったが、新任地の夏は想像以上にきついようだ。貴族階級の出身ではないと聞いている。レディの前でも快適さを優先させているのだろう。あるいは日本の女をレディとは思っていないのかもしれない。ここはロンドンではないのだ。きっと雛には雛のマナーということなのだろうと女は思った。 
「早耳だな、ミスK」
 ミスとは言ってくれるのか。けいは思った。女の名はけい。パークスに紹介した男が笑いながら言っていた。
「発音しやすかろう。お国の言葉ではKですむ」
 けいの目前にパークスの背中があった。引き攣れた傷跡が目につく。四年前のアロー号事件で広州総領事だったパークスが講和交渉中に清に囚われ、一年間投獄された際、拷問でできた傷跡だと聞いている。使節団十一名がその時に死んでいる。
「日本におつきになるや目を回すようなお仕事ぶり。おからだに障りませんか」
「清で地獄を見たのは四年も前だ。生まれついての貴種ではないし現場のたたき上げでここまできた。身を粉にして働き続けるしかないのさ」
 常に恫喝的な態度が、部下の嫌気を誘うパークスだったが、深夜の来訪者に対しての口調は優しかった。
「開港場に設けた領事館を巡り、現地の領事たちから現状をつぶさに聞かねばならない」
「ご一緒させていただきます」
「目立たぬようにな」
 眉の下の影が濃い。彫りの深い顔立ちだった。奥二重の目が鋭すぎる印象を時に与えるが、哀しいほど優しげな色を浮かべるときがある。けいはそれを知っている。
「お気をつけください。攘夷志士にとって外交官は最上のターゲットです」
「言われるまでもない。それにロッシュだって同じように危険だ」
 パークスは駐日仏公使レオン・ロッシュの名をあげた。
 けいは黙って頷いた。仏は幕府と密着している。英は薩長と接近している。仏にとって幕府最大の敵である二つの公国に近い英はできれば排除したい存在なのだ。文明圏ならば成熟した外交交渉がかわされるだろうが、極東の島国ではルールどおりにことが運ばれるとは限らない。
 パークスは振り向いてけいを見た。
「サトウという優秀な通訳がいるが、あいつは俺の方針に従わない独断専行の気味がある。通訳補佐として目を離さぬようにしてくれ」

 プリンセスロイヤル号が横浜を抜錨し函館に入港したのは十月六日だった。パークスは現地の総領事ヴァイスから現況を聞き、日が暮れると船に向かった。護衛の兵は二名。江戸や京・坂、神戸ならば警戒もするが、北の新開地では危険もあるまいと考えたのだろう。通訳として同行しているけいは危ないと思っていた。
 けいの目が細められた。進行方向に人影を認めたからだ。
「ミスターパークス」
 注意を喚起したとき、五つの影が駆け出した。長着の袂を紐で縛ってたすきがけにしている。抜剣していた。
「止まれ!」
 護衛兵が銃をかまえようとしたが遅かった。襲撃者たちは無言で刀を振り下ろした。しかしその剣先は目標からそれた。先頭の二人の喉と人中に突き刺さったものがあった。長い釘のようなものだった。二人が前のめりに倒れた。その間に兵は銃剣を襲撃者たちにむけて防御体勢をとった。三人の男が立ち止まり刀を正眼に構えた。英兵の横をすりぬけたけいが三人に向かって突進した。いつの間にか右手に抜き放たれた仕込み杖が握られている。
 あっというまのことだった。五人の刺客が地に伏していた。英兵は通訳兼パークスの夜伽の相手だと思っていた日本の女が練達の剣士であることを知った。パークスはそれを知っていたがその実力を初めて目の当たりにし、驚きを隠しきれないようだった。
「見事な剣技だ。K」
「お役にたててようございました」
 刀身の血を懐紙で拭い、けいがわずかに微笑んだ。
「おまえをつけてくれたこと、高杉に礼を言わねばならぬな」
 来日するなり下関に寄って会談した長州藩の高杉晋作(たかすぎしんさく)の名があがった。
「高杉様はミスターパークスを守りきれと私に言われました」
「世話になる」
「どちらの?」
 艶然と笑いながらけいはパークスを波止場へ誘った。
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