父の遺言辿った帰路の最中に(本編)

文字数 12,175文字

車窓が切り取る景色は、黄緑の田園からトンネルの黒い壁面に変わった。
暗闇を透かす窓には一瞬で不機嫌そうな草臥れた女の姿が曝け出される。女の後ろには、ぼんやりと橙色に照らされた車内が浮かび上がっている。草臥れた女は頬杖をつき、容姿は見るに堪えない酷い有り様だった。

艶を失って毛羽立ち縛られた髪。
リップクリームだけの赤味の薄い唇。
水色のマウンテンパーカー。
灰色のゴムラバーの腕時計。
隣席の登山用リュックサック。
リュックサックの上の登山帽。

仕事上で相手するならきっと成果を期待出来ない、信用する事のないであろう、そんな華やかさの欠片も無い装いの女、女と呼んで良いのかも迷う様な女が、窓の表面からから私を見ているのだった。

私は彼女に向けて、嫌味たっぷりに溜め息を吐いてから、シートを少し倒して背もたれに沈んだ。手を伸ばして帽子をリュックサックから奪い取り、化粧の薄い顔に乗せる。帽子で視界を封じ込めた。

もうこんな私など見たくない。

本当は容姿も気にしない様な、粗暴な女などではない。東京では私は私自身をブランディングしていた。仕事ではオーダーメイドのスーツしか着ないし、化粧品などは用途に合わせてブランドを決めていた。決して身なりを諦めたりせず、ちゃんとテーマがあったのだ、今と違い。

今の私は本当ではない。こんな何も魅力のない女など私ではない。

今と本来とのギャップが、私に苛立ちをもたらした。今こんな格好をしているのは、旅の都合上仕方の無かったことで、この帰路を堪えればまた私は私に戻るのだ。そう自分に言い聞かせる。それでも、旅の帰路にある私は苛立ちを抑えられない。こんなことになったのも、抑えられない苛立ちも、全て父のせいだ。

しばらくして、車内アナウンスがもうすぐ駅のホームに着くことを知らせた。徐々に東京に近づきつつある。衣ずれや喋り声、硬い靴底が床を打つ音。人がそれぞれの目的を持って乗り込んでくる。

どうか隣の席が埋まりませんように。願いながらただただ動かずにいると、耳に少し小さな柔らかな男性の声が届いた。

「お隣よろしいですかな。」

帽子を上げると、六十歳後半から七十歳前半の父と同じ年頃であろう老いた品の良い男がこちらを通路から窺っていた。

「すみません。」

そう言って、私はリュックサックを膝の上に移動させ、初老の男に隣席を譲った。男はオールドブリティッシュ風の紳士服を身に纏い、首にはスカーフを巻いていた。男は「どうも。」と言うと、帽子を少し上げ会釈をしてから腰掛けた。右足が少し不自由のようで、座った後で使っていた杖を前の座席に引っ掛けていた。

私は横目に彼の着座までを見届けた。そして、変わらずまた帽子を顔に乗せて列車の出発を待つ。

父と同じ位の男ということもあって、私は居心地の悪さを感じてしまう。父と私は、ずっと疎遠だった。いや、私はずっと避けて来た。それ故に、基本的にその年頃の男に対して苦手意識があった。空席がまばらにあるのに、たまたまであることは分かりながらも、どうして私の隣なのかと不満に思う。

出発してから間もなく、隣席の老人は一度咳払いをして、「おやおや、これは。」と切符を見ながら呟いた。そして、小さく笑い出して、「私としたことが。どうやら誤ったようだ。」と続けた。極め付けに、こちらへ向けて「これはこれは失礼しました。」と言って、軽く帽子を上げてから前の席へと移った。私は狸寝入りをして、何も返事をしなかった。

列車が少し揺れる。その度に彼の杖が音を立てた。杖に付いた革製のキーホルダーが杖本体や座席の後背部のプラスチックに当たるため、カチャカチャと音が出るのだ。その音が嫌でも彼の事を意識させる。そして、存在感をアピールしてくる彼に苛立ちを覚えながらも、意識から消えてくれない彼を通して、今回の旅の事を思い出すのだった。


事の始まりは数ヶ月前、父から届いた定型の安っぽい白色封筒だ。
郵便受けから取り出してそれを見た時、私は不思議に思った。封筒に切手は付いておらず、父は住所を知らないはずだった。本人に話したこともないし、母にも教えていない。本当に父からなのだろうか。まずはそこに疑問が湧き、少なからず中身が気になった。

しかし、結果として封を切ることは無かった。ただ無造作に玄関の靴箱の上に置かれ、チラシや月毎発行されるお知らせなんかが積み重なる氷山の一角と化した。疑問に勝る黒い感情が、私が封を切る事を制止した。私は父の事が嫌いなのだ。

父を嫌った理由はもう覚えていない。ただただ嫌いだった。所謂、生理的に無理というやつだ。私達は遠く離れたパズルのピースで、永久にはまる事のない生き物だった。

その様な背景もあり、家を飛び出してからというもの、父とは会う事も連絡を取る事も無い状態で生きてきた。二十年以上そうしてきたのだから、絶縁したと言っても差し支えない。普通なら他人への劣等感とか何らかの負の感情を抱くところなのかもしれないけれど、私は特に気にする事もなかった。ましてや後悔することなど、ただの一度も無かった。私の人生に父は居ないし、要らないという結論が私の中に横たわっている。

父が死んだ今もその思いに変わりはない。だからこそ、父と会わなかった期間は未だに記録更新を続け、私が死ぬまで新記録が誕生し続ける事態になったのだ。
そう、謎の手紙が届いた数日後、母から携帯電話に着信があった。留守番電話には、父が危篤となったから会いに来れないかという伝言が早口で残っていた。私はショートメールで今忙しいと返したきり、何度着信があっても応じる事は無かった。
そして、父が亡くなったと言う報告が、二日程度してから、留守番電話に入っていた。驚くほどに何の感情も湧くことがなかった。だから、平然と通夜も葬儀も四十九日も出席しなかった。母にはいつも、今忙しいと返信し続けた。私にとって父の死はその程度のことだった。実際、仕事は忙しかったけれど。

私は新卒で入社した会社に馴染めず、二度転職して、今の会社に就職した。それ故に、結果を出そうと必死になったし、結果も伴った。私には給料が無ければ帰る家も無いのだから。背水の状況は心労も多かったけれど、モチベーションを上げる役割も担っていて、学歴や職歴からすると普通の人では就くことが出来ないポジションまで上り詰めることが出来たと自負している。

今の会社は、三年未満の離職率は低いが、五年を超えると離職率が二次関数の様に急激に上昇するような独立志向の強い人間が集まる会社で、若くて優秀な人間は、必要なコネクションを作れたら居なくなった。だから、会社の内部では、勤務歴の長さが無能を表す指標として扱われていて、若手は仕事を持ってくるし、ベテランは介護が必要というのが、常に忙しさを生む原因となっていた。

私は、いずれはと思いつつも、理由があり退社しないでいた。勤務歴ランキングでは上の方にランクインし始めたものの、新人の頃に初めて立ち上げた思い入れのある事業が、担当は外れたけれどまだ継続していて、それがクローズするまでは退社しないことにしていた。独立した同僚からは何故独立しないのかと聞かれることもあって、少し煩わしく思いながらも、能力が認められていることに嬉しさを感じることも度々あった。

そのような状況もあって、この会社に居続けたけれど、そのいずれがやってきた。父の手紙からしばらく経過した夏、遂に私の育てた事業がクローズすると、私のところに担当者がお詫びきたのだ。芸能人の訃報も相次いでいて、どこか一つの時代が終わったような心地がした。それから少しして私は、会社に退職の意向を伝えた。繋ぎ止めるために呼び出されたりしたけれど、どの言葉も紙のように薄く感じられ、心に響くようなものはなかった。

退職の意向を伝えて初めての週末、私は自宅の書類整理をしていた。なんとなく自分の部屋もスッキリさせておきたかった。その手始めとして玄関脇の氷山を解体していたとき、いつか放置した父の手紙を見つけた。先程買った小型のシュレッダーがギュルギュルと不愉快で鈍い機械音を鳴らしながら、氷山の一部を吸い込む横で、それだけは一応開封することにした。ハサミを引き出しから取り出して、封筒を叩いて中身を寄せたあとで、スーッとハサミを通す。


出てきたのは「遺言状」と書かれた私宛ての手紙だった。死因は分からないけれど、父は自分の死を予感していたのかと少し興味を持って読み始めた。父の字を初めて見たため、意外と達筆なことに驚きながら読み進めると、そこには私への謝罪と私たち家族の思い出が綴られていた。「これまですまなかった。」、「あの頃はどうだった。」、「あそこに行ったときの幸子はどうだった。」なんて書き綴られていたのだ。

普通であれば涙の一つでも流すべきところなのだろう。だけれど、私は寧ろ眉間に皺を寄せて、怪文書を見ているかのような怪訝な顔になった。いや、寧ろ私は怪文書を見ていると言える。何故ならそこに綴られた家族の思い出に、私は一つとして覚えがないのだから。

幼少期に行ったというが、私はそんなところに行ったこともないし、そんなことをしたこともない。数十年前のことを覚えているかと聞かれれば、もうほとんど記憶もないけれど、ただ全くピンと来ないはずがない。小学校の同級生も一人や二人は思い出せるのだから。
考え得るのは、父の耄碌による記憶障害だろうか。しかし、遺言状に書かれた文字に乱れは無く、文章の構成などを観てもさほど変には思えなかった。私は手紙を置いて少し考えた。

父はこれを私に寄越してどうしたかったのか。私にこんな事があったと話して、私に見舞いにでも来て欲しかったのか。許して欲しいとでも思っていたのか。許すわけがないじゃないか。今まで何もしてくれなかった癖に。私が小さい頃のことは覚えてないだろうと多寡をくくり、話を捏造してまで、私に気に入られたかったのか。何を期待したのか。嘯くなど、浅ましく卑劣な行為でフェアじゃない。私に求めるならば、訳の分からない文章を書き記すよりも、その結論を書いておけ。言いたい事は沢山あり、苛立ちが募る。

父が何をしたかったのかを主題に、私は苛立ちながら入浴中まで考えてみたけれど、答えが出ないため考える事をやめた。そもそも、私の感情が父に乱されているということが気に食わない。早くこんな手紙もシュレッダーにかけて、私の記憶諸共忘れ去りたい。

そして私は、思い付いた。父が間違っている事を証明してやる。余っている有給休暇を消化しがてら、旅に出ることにした。特に旅行に行きたいと思って居たわけではないため、わざわざ旅行雑誌を買ったりして入念に調べることはしなかった。とりあえず、最初の目的地を父の遺言状の思い出の地として、そこで私の記憶が思い出されることがなければ、やはり捏造だとしてこの忌まわしき手紙とそれに関する記憶を全て焼き捨てる。そして、私の住所を特定して、父に協力したであろう母や姉の連絡先も全て消してしまおう。私にとって母も姉も必要ではないのだから。


まず最初に向かったのは、東北の川下りが有名な観光地とした。選んだ理由は、ホームページの道案内が某社の有名なマップを使っていたから。それ以外はなんだか平成中期のITが流行り始めた頃に作られたようなホームページばかりで見る気にならなかった。

東北新幹線に乗り込んで目的地の最寄り駅で降りてから、ホテルの予約を済ませてレンタカーを借りた。運転するのは十年ぶり位だろうか。若い頃は社用車を使う事もあったけれど、ポストに就いてからは運転する事もなくなった。そもそも、社用以外で車を使う事はなく、マンションは駐車場がないところに住んでいるくらいだ。

慣れない運転ながらも東京と違い交通量が少なく、カーナビの助けもあってなんとか辿り着いた。時々ウインカーを早く出し過ぎてしまうことがあったけれど。不思議と車の運転は身体が覚えていて、意外となんとかなるものだと他人事のように感心した。

観光地の駐車場には、三回くらい切り返してやっと停められた。エンジンを止めてから、駅で買ったコーヒーボトルで一息入れつつ、辺りを見回す。お盆も終わってしばらくしているのに、駐車場には何台か自動車やバイクが停まっていた。車種や駐車位置を見るに恐らく、定年後の老夫婦や職業不詳のおじさんツーリングサークルといったところか。その他にも二台くらい、学校はどうしたのだろうと心配になる家族連れと思われるミニバンがあった。

駐車場から川辺に向かって、建物は四棟あって一つを除けば全てトタン打ちの昭和の残香漂う二階建てをした土産屋などだった。残りの一つも、昭和を思わせる三階建ての民宿に近い旅館だった。どれも錆が浮いたり、日焼けして色が疎らだったり、蔦が絡んだりして、懐かしさと哀愁がある。いや、その懐かしさとは、あくまで来たことのある懐かしさではないけれど。各世代の抱いている"昔"といえばの心象風景というのだろうか、共通認識として印象付けられた昔。例えばテレビでブラウン管テレビの時代の、色ボケした昔のアイドル歌手の映像が流れた時のような、そういう懐かしさだ。つまり、案の定この景色に見覚えがない。

目的は果たされたけれど、せっかく来たのだからと思い、私は車から降りると、川下りの案内を探して歩き始めた。落葉樹の生き生きとした緑がそこら中に薄い影を作り、濃い鼠色をした苔むした岩肌が川向こうに見える。車の中では聞こえなかったけれど、川の流れる音が岩肌に反響していて、気持ちが良い音が響いている。太陽の光が届いているが、首都圏と違いむわっとした気持ちの悪い暑さはなく、風も流れて心地良いくらいだ。夏を過ぎたのも良かったのかもしれない。
そんなことを思いながらも、錆び付いた看板に目的の文言を見つけて、矢印に従い一つの家に入った。

中は土産の物品販売スペースと食事処になっているようだった。手前には、地元の名物なのだろう広島のモミジ饅頭のような饅頭や、何処かで見た事あるようなサブレなどが様々、カートのうえに置いてあった。どれも気を引くようなものではなくて、土産として職場などに配るという目的がなければと買おうと思わない品物だった。

その奥が食事処になっていて、大衆向けの中華屋によく有りそうな安っぽいテーブルと丸椅子の組み合わせと、膝丈くらいの高床の畳敷に足の短い机と座布団の組み合わせが、四組あった。
更に奥には、レジスターやカウンター、台所が続いている。向かって左手側に川下りの乗り場へ続く扉があり、近くの壁に乗船料金などを書いたプラスチック板の案内が釘付けされていた。

私が入室したことで鳴った玄関扉の鈴の音により、高座の畳でテレビを見ていた、エプロンと三角巾を着けた白髪の老婆がこちらに気付く。「よっごいしょ。」と勢い付けて、前の机に手を突いてゆっくりと立ち上がった。そして、腰を曲げながら高座を降りてサンダルを履き、腰を曲げたままこちらに笑顔で寄ってくる。

「はいはい、いらっしゃい。ごめんなさいね、あれさ見てて。」
そう言う彼女は、齢八十後半から九十くらいに見えた。

「いえ。」
「珍しね、わんさかだ。お嬢さん、ちょいと待っでね。舟、今行っだとごだ。」
「はい。お嬢さんという歳でも無いですけど。」
「あいあい。ところで、お嬢さんなんが食べるがい。お腹減っでねぇが?」

彼女はそう言って微笑みかけてきた。彼女は訛りがあって、私は所々聞き取れていないので、推測で文章を組み立ててやり取りした。しかし、四十になる女に向かってお嬢さんとは、流石にやり過ぎに思えるけれど。そう思っていたのに、さらっと流された。彼女の歳から見れば、四十も二十も十も変わらないのかもしれない。
言われてみれば、今はもうお昼時を過ぎた頃で、お腹が空いていた。車の運転で緊張していて気付かなかったけれど、気になり出すと気になってしまうものだ。

「それじゃあ。」
「うんうん。ほれ、こっちさ、こ。」

そう言って老婆は自分が元々座っていた座布団のところまで足早に歩いて行き、高座に膝をついて座布団を軽くパンパンと払った後で私に手招きをした。私はコクリと頷いた後で歩いて行き、ヒールを脱いでからその座布団に座った。ヒールからの解放感を感じて少し緊張が解ける。車の運転の疲れがどっと来た。普段なら酸味の強いワインでも飲むところだけれど、帰りも車がある。我慢だ。それと同時に、帰りも運転かと認識してしまい、憂鬱な気持ちになった。

「なにさする?」

そう言って老婆は机の上の古い革製のカバーに包まれたメニュー表を広げる。中華そば、うどん、そば、何とか定食…。どこにでもよく有るメニューが多い。しかし、料理の腕もそうとは限らない。東北地方は味が濃いと聞いたこともあり、当たり外れを考えると無難なメニューを選ぶしか無いだろう。

「山菜そばで。」
「あ"あい?」
「さ・ん・さ・い・そ・ばっ!」
「あー、はいはい。」

老婆はそう言うと、そそくさとキッチンの方へと腰を曲げたまま向かった。私は一息を吐きつつ、いつの間にか出されていた水を飲む。今の聞き返し方を見るに、もしかして今まで私の言葉は聞こえてなかったのだろうか。まあ、いい。ここまで不快なく来れたのだから、些細なことだ。大した問題ではない。
待っている間、手持ち無沙汰なので辺りを見てみる。出入口からの目隠しとして、座敷の上には藤細工の一種であろう衝立があって、入り口からは見えていなかったけれど、座敷の壁面にはいくつも古ぼけた写真がプラスチックの安い額縁に入って、掛けられていた。時々目を引く構図の写真もあった。多分、彼女の旦那の趣味なのだろう。アマチュアカメラマンとしてどの程度の腕と評価されるのだろうか。私はカメラの趣味はないので分からないけれど、それなりにいい線は行っているのではないだろうか。

そんなことを思ったのも束の間で、私はすぐに飽きてしまい、壁に貼られた周辺の観光地を紹介したお手製の観光マップに目を移した。手書きで簡易地図と名所、アピールポイントを教えてくれている。素人らしい作りで学生の修学旅行のしおりを想起させ好感を抱けるものの、改善すべきポイントも多い。まず、ここに来た観光客に宛てたものだろうに目的地までの所要時間がない。減点十。それから…。などと考えてしまう職業病を有効活用した。しかし、それも長くは持たず、結局スマホで時間を潰すことになった。これほど遠くに来たものの、スマホで見る情報は、場所が何処であろうと寸分違わず同じもので、何故だろう言いようのない違和感が込み上げた。

「それさ、主人の趣味でな。」

気付くと老婆がエプロンで手を拭きながら、高座の縁に腰掛けていた。しかし、近くに蕎麦は見当たらない。茹でているところなのだろうと見立てた。私は顔を上げて、目の前の写真たちを見るともなく見て相槌を打つ。

「この写真ですか。」
「むがし、軍でやっでだんだと。それでウヂさきてがらも…。」

そうして老婆による老婆の主人の話が始まった。半分以上聞き取れないため、「へぇ。」や「そうなんですか。」と適当な相槌を打ちながら、満州にいた頃の話や、それからこの店を構える前に借金していたことなど、知らない人の興味のない話を長々と聞かされた。正直他人の話を聞くのは好きではない。だけれど、聞くことにしたのは、この見知らぬ土地を旅する中でスマホの充電がなくなるリスクと、知らない人の興味ない話を聞く苦痛を天秤にかけた結果だった。スマホなしで時間を潰せるならば、多少の苦痛は受け入れよう。もし、帰り道に迷った時を考えると、スマホなしは流石にまずい。そう判断した。

しかし、天秤虚しく、程なくして私の耳には老婆の話がまるっきり入らなくなってしまった。そして、空腹である苦痛が貧血のような気怠さを伴って、じわりじわりと私を苦しめ始める。堪えきれず、老婆に蕎麦のことを聞いてみると、老婆は「んだ。」と返事をして、悪びれることもなく腰を曲げながらゆっくりと厨房に戻った。

それからどれくらい経っただろうか、老婆はやっと黒い陶器の器に入った蕎麦を漆塗りの盆に乗せて持ってきた。持つ手をふるふると少し震わせてゆっくり運びがてら話を続ける。

「んでね、主人の趣味がそれさ。」

唾が入るじゃないかと気になってしまうので、東京じゃ有り得ない接客だと思いながら、目の前に運ばれてきた山菜そばを見る。早く食べたいと思うが、まだ老婆は盆から山菜そばや小鉢などを机の上に広げている途中だった。早くしてくれと表に出さぬように苛立つ。

「ほれ、その写真。」

老婆は目の前で配膳しながらも、顎で私の見るべき方を示して、そう言った。

「主人の好きだった写真、これさ。」

私は首を少し伸ばして老婆の腕越しにその写真を見る。私はその写真を認識すると同時に、呼吸を忘れた。老場が配膳を終えて、また畳の縁へ腰掛けた状態になる。

「よくひどりで見てだよ。そこさ、座っで。」

その写真は、見る人に嬉々とした感情をありありと伝えてくる、小学校低学年くらいの幼女が楽しそうにうどんを食べている写真だった。家族旅行で来ているのであろうその幼女は、写っていないけれど、きっと居るであろう目の前の家族に、目が線になる程の笑顔を向けていて、ぷっくりとした頬はリンゴのように赤く、髪は幼女らしく星の付いたゴムで二つ結びにしていた。彼女の奥には、ピントが合っておらずはっきりしないが、ペアルックと思しきオレンジのお揃いのスウェットを着た、幼女より少し大きな姉であろう体が見えている。

すると、幼女が微笑みかけているのは、父か母なのだろう。だけれど、父はいつも母の右にいたから、私の目の前にいるのはきっと父なのだ。


「お嬢さんと同じほぐろさ。」

そう、その写真は子供の頃の私だった。

私はあの頃よりも少し肥大化した目尻の黒子に撫でるように触れる。


「わしも、主人とおんなじさ。見てんのさ、そこで。つい、おきゃぐさんのほぐろも探すんだっけよ。」


これは、私だ。
勿論、記憶にはない。だけれど、目の下の黒子や、着ているスウェットも見覚えがあった。何より確かに思えるのは姉の姿だった。私の思い出される子供の頃の姉と全くシルエットが一緒なのだ。

私は唾を飲む。
嘘だと思っていた。いや、今でも信じることが出来ずにいる。だけれど、私はここに確かに来ていたのだ、父の言う通り。父が死の直前にここに来て偽装工作したということも仮説として立てられるけれど、写真の風化の仕方や老婆を鑑みるに、それはない。この私が父に微笑みかけているというのか。私の中には、父と話した記憶など無く、ここに来た記憶も全くないのだ。信じられないし、信じたくもない。

父と話した記憶はない、私の中には。物心がついてからここに至るまで、まるっきり父とのエピソードが存在していないのだ。だけれど、父は冷たい、父が嫌いだ、許せないという感情だけが私に強く刻み込まれていて、その感情が他の家族との思い出の中では必ず想起させられた。

家を飛び出したのも、特別口論したからということはなく、父がいると思うと家が窮屈で仕方なく思われて、高校時代はずっと家に帰りたくないと思って過ごしていたからだ。それが尾を引き、大人になった今も家にいることが苦痛となっている。休日は用事がない限り必ず外出しているくらいに。

しかし、その呪いを掛けられたかのような黒色の青春時代の前に、私は父と笑い合えていたというのか。そう、この写真の時代には少なくとも、私は父と旅行に来ていたのだ。それも楽しそうに。私の中に漠然とある、「私の家は旅行に行ったことがないから、同級生の旅行話に劣等感を持っていた」という感覚、記憶は思い違いなのか。この写真を信じるならば私も一度は旅行をしていることになる。

そもそもとして、私は何故この写真に気付かなかったのだろう。これほど目の前に大きく、目を惹くように在ったのに。多分、老婆の主人の最高傑作と言えるくらい良く撮れている写真だろうに。老婆に言われるまで認識していなかった。

私はどうしてしまったのだろう。運転の疲れか、見知らぬ土地の緊張か、それとも将来への不安か。いや、そのどれでもない。きっと。


「うどんでも食べるか?幸子。」

後ろから父の声がする。どこかに行っていた私の意識が物凄い力で現実に引き戻され、急いで後ろを振り返る。店には川下りを終えたであろう観光客がゾロゾロと店に入ってきているところだった。その中の一人である声の主は、父には似ても似つかない、恐らくミニバンの持ち主であろうマイルドヤンキーっぽい中年の父親で、改めて声を聞くと、どうして父だと思ったのかも分からないほど違う声をしていた。

観光客が一通り出切ってからしばらくして、船頭であろう浅黒の壮年の男が「ばっちゃん、茶。」と言って店に入ってきた。老婆は、「あいあい。」と答えてキッチンへ消えた。浅黒の男が私に話しかけてくる。

「おきゃくさんも乗る?ちょいとまっでな。次、三時の予定だがら。」
「いえ。」
「その、大丈夫です。」
「あら、そうがい?」

さっきまで使っていた眼鏡を探す時のような、どこか疑問をもったままの腑に落ちていない表情をして、男は高座の縁に老婆と同じように腰掛けた。男の方に向けていた顔を正面に見据え、私も伸びた蕎麦を心無く啜る。最早、味は分からなかった。

そこからの記憶はほとんどない。帰路をほぼ意識がないままながら大事なくやり過ごし、ホテルでの入浴中に、遺言状を辿って各地を巡ることに決めた。父の遺言状全てが真実とは限らない。確かめないといけない。そう思った私は、高い手数料を払いながらも、大体県庁所在地を名前に冠する各地の地銀のATM(エーティーエム)で必要なお金を切り崩し、着ていた服は捨て、旅化粧をしながら旅をした。行く先々ではあの写真と同じように、私たち家族に関わる物−−−何かしらのアイテムや人の話−−−に出会い、そして今に至る。

旅の終期に至って思い返せば、衝動的に旅をしたけれど、この旅はなんだったのだろうか。旅をして得たものは何も無い。得たものは。ただ、負債的なものは抱えることになった。私が忘れていて、父が覚えていたということへの悔しさだ。勿論、そのとき父は大人だったし、私は子供だった。競争条件は同じでは無い。しかしやはり、頭で理解したとしても、悔しさや怒りが込み上げてくるのを抑えることは出来ないのだ。私はこれからもこの感情を抱えなければならないのか。そう思うと、旅をすべきでは無かったと言いたくなる。

それだけではない。短期的な負債として疲労もある。これほど長期の休みを取ったことはなかったから知らなかったけれど、知らない土地を歩むのは非常に疲れる。疲れている時は、あまり許容する事や受け流す事が出来なくなる。それは仕事の経験から分かっている。この疲れも一日二日で取れるものではないだろう。

こうして、私は怒りなどの沢山の負債を抱えて、今列車に揺られている。充実感や達成感があれば、きっと今も旅の余韻を楽しめているに違いない。だけれど、私の旅はそういった類のものではない。



東北のハブターミナルが近付き、辺りが騒がしくなり始める。帽子で塞いだ視界の微かな隙間から、車窓の向こうを見る。駅の外形が目に入るとすぐさま視界から空が消えて、薄暗いホームで人の列が次々と現れては消えていった。多くの人は暗めのスーツ姿をしていて、違うと分かりながらも何故だか通夜での焼香の列に思われた。

新幹線は鈍行列車と違い、緩やかに、静かに停車して、ホームに列を成していた人々が騒がしく物音を立てて、そこに乗り込む。座してそれを見ると、機械的に動くそれは死人の乗り込む幽霊列車のようだ。父もこうして何処かへ、到底天国とは思えないけれど、幽霊列車に乗り込み向かったのだろうか。

そんなことを思いながら出発を待つ。帽子で見えないけれど、私の隣席は幸運にも直ぐに埋まらなかったようだった。しかし、斜め前のあの老人の所で少し話し声が聞こえた後、カチャリ、カチャリと音が聞こえ、隣席が埋まった。帽子を少し上げて隣を見ると、あの足の悪い老人が座っていた。

「お騒がせしてすみません。どうやら合っていたようです。」

そう言って老人はにこやかに会釈をした。そうか、老人は間違っていなかった。最初から。彼はわざと間違った振りをしたのだろう。私のために?

私は何て返すべきか、言葉が見当たらず固まる。顔を隠していた帽子をゆっくりと膝に置く。その間、ぐるぐると色々な思いが交錯し、無表情のまま何も言えずにいた。感謝をすべきか、いやでも何で私が。勝手にやったことでしょ。失礼を詫びるか。いや、そんな失礼なこともなかった。余計なお世話だと怒るか。苛立ちをぶつけたい気もあるけれど、流石にそれは常識ないか。無視して狸寝入りか。それも流石に常識ないか。疲労で頭が回らない上に、全部ネガティブな感情に支配される。なんと言うべきなのだろう。この老人はきっと私のために行動したということは、ほぼ間違いないのだろうから。

老人が腰掛けてから数十秒。まだ見定まらない言葉を探す私の目から一滴。頬を伝う何か。本当に一滴だけの水。私は悲しくなどなく、泣きたいわけでもなかった。何が起こったのか分からない。ただただごちゃ混ぜの感情の中で、冬の結露した窓を伝う水滴のように、涙が出て来た。慌ててその雫を拭い捨てる。言葉も出ず、涙の理由も分からず混乱している私に、老人は優しく諭すように言った。


「お互い様ですから。気にしないでください。人にはそんな時も必要です。」


訳なく父が重なるその言葉に、私は「すみません。」と返し、そしてやはり帽子で顔を隠して、何に対してか分からない気分の悪さを抱えて東京へ帰ることになった。老人はそれっきり話しかけてくる事もなかったけれど、彼が居ることの居心地の悪さは消えることもなく、私は早く東京へ着く事だけを願い、早く東京へ帰り、早く私に戻ることを切望し続けた。
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