其の1 智恵美 (黒★☆☆☆☆)

文字数 5,917文字

 智恵美は子どもの頃から隅にいるのが好きだった。箪笥(たんす)や机などで塞がれている以外の部屋の角が彼女の居場所であった。

 騒々しいほど蝉たちが勢いよく鳴きしきる暑い夏の日のこと。わたしは思いきって彼女に、どうしてそれほどまでに隅がいいのか尋ねてみた。

 彼女はわたしの質問をまるきり予想もしていなかったように二重まぶたの目をまん丸く見開いた。しばらく彼女は考えると、わたしをちょいちょいと手招きした。不思議がるわたしに自分の特等席を譲り、目を閉じて、しばらくそこで座っていてごらんと言った。わたしは彼女の言うとおりに目をつむった。彼女を真似て足を三角に折って、膝を抱える。それからずりずりと尻をずらし、角ばったところにちょうどお尻の割れ目が着くくらいまで体を寄せて縮こまる。すると彼女はわたしの正面で一、二、三、四……と数えだした。十まで数え終わると、どう?とわたしに尋ねた。

 ここだけ温度がちがうみたい。とてもヒヤッとするんだね。
 うん、そうなの。そこだけとってもヒヤッとするのよ。
 ちょっと魚のくさったみたいな臭いがするね。
 そうなの。ちょっと臭うの。でもしかたないの。
 へえ。理由を知ってるの?
 うん、もちろん。

 彼女は答えて、くふふと笑った。けれど結局、彼女は理由を教えてくれなかった。もちろん、わたしも彼女に答えは聞かなかった。彼女は大人になったらわかるかもしれないと言った。わたしもそれでいいと思った。
 そして今日、彼女はまた隅に座っている。

 濡れたように黒光りしている長い髪が顔を覆い隠してしまっていて、表情をうかがい知るのはむずかしい。血の気のうせた青白い脚がにょっきりと見えている。触れたらぷっちんと弾けてしまいそうなくらいにぶくぶくと浮腫んでいる、その指先は垢でもこびりついているかのように黒ずんでいる。よくよく見ると、彼女の夏用のセーラー服は黒い細かなカビが生えている。かすかに魚のくさったような臭いが彼女のいる一角から漂っていた。

 ねえ、せっかくだからこっちにおいでよと、わたしは彼女に声を掛けた。しかし彼女はかたくなにその場を動こうとしない。しっかと膝を抱え、固く閉じた膝の谷間に顔を埋めている。
 ああ、そうか。彼女も久しぶりの再会に少しばかり緊張しているのだろうと思ったところに、やだあ、怖いよおと高田早織がわたしのポロシャツの袖をくぃくぃといじくった。
 わたしが怖い?と訊くと、早織はええ、とってもと上目遣いでわたしを見ながら真っ赤な唇をとがらせた。もう一度隅を確認してみる。智恵美はどうもそこがしっくりくるみたいだ。ならば、それでいいではないかという気になった。だって会いたいと言ったのはそもそも彼女なのだ。もう少し気持ちが落ち着いたらきっと、彼女のほうから近づいてくるだろう。
 わたしたちは部屋の真ん中にあるガラステーブルを囲むように座った。麦茶の入ったグラスを置く。早織がやだなあと怪訝な顔をしてわたしを見たが、にっこりと笑みを返すだけにした。

 ねえねえ、それよりさあ……と今度は黒川裕子がポテチの袋を開けて、机の上に勢いよく広げた。細かなクズがテーブルを汚す。裕子は床にささっとクズを払った。さっそく早織が手を伸ばす。早織は昔からコンソメが大好きだった。小さい頃はよくのり塩派のわたしと智恵美、コンソメ派の早織と裕子にわかれて、どっちを食べるか争ったものだ。今日は智恵美の提案で、ふたりが大好きなコンソメにしている。それも彼女たちには内緒だ。智恵美に言わせると、そのほうが喜ぶらしい。たしかに言うとおり、早織はパリパリとしたたかに音を立てながら次から次へと食べていく。おいしそうな音がしている。なにかの音にとてもよく似ている気がするが、なんだったろうと思って振り返る。智恵美はうつむいたままだ。ポテチに反応しないのはコンソメ味のせいだからだろう。

 それより急にどうしたのよと裕子が油でべたべたな指先をじゅるじゅるとしゃぶりながら、ねっとりとした視線をわたしに向けて尋ねた。
 そうね、中学までは音沙汰なかったのに急に会いたいから来てほしいなんて、どういう風の吹き回しよと特に怒ったふうでもなく早織が続いた。
 わたしたちは近所に住んでいて、物心ついたときからいつも一緒に遊んでいた。リーダーはいつも裕子だった。早織はムードメーカー。智恵美はみんなのあとをとことこ黙ってついてくる子で、わたしはバランサーだった。わたし以外のみんなは地元の中学校へ進学したが、わたしは都会の全寮制の中学へ進学することになって地元を離れた。だから智恵美以外のふたりに会うのは実に三年ぶりのことになる。

 そんで、そんで都会の学校はどうなのよ? オシャレなお店いっぱいでしょ? もう、なんか都会人ってかんじになっちゃって。恋人と手つなぎデートしたりするわけ? 

 早織も裕子もしきりにわたしの話を聞きたがった。わたしは後ろの智恵美を気にかけながら、夜は暗くならないね、恋人はまだいないからデートはしてない、でもオシャレなお店はたくさんあるから、来たら楽しめると思うよと当たり障りのない程度に答えた。
 それでも彼女らには充分すぎるほど刺激的な話だったらしく、ふたりは目をとろんとさせながら、いいなあと油でぎとぎとになった唇を舐めた。

 大学はそっちを受けるわ。あたしは遊びに行くだけでいいなあ。じゃあ、泊めてもらえばいいじゃない。でも全寮制でしょ、無理よ。その頃はきっともうアパートかなにかにひとり暮らししているわよ、ねえ?

 ふたりは甘えるような目でこちらを見つめた。相変わらずだなとわたしはほほえみ返した。彼女たちがこうやってふたりで盛り上がるのも昔からのことだし、わたしに甘えてくるのもなつかしく思えた。

 わたしは智恵美を盗み見る。彼女はうつむいた顔を少しだけあげていた。膝と額の間に黒々としたすきまが姿を見せている。どうやらふたりの会話の切れ間を探しているようだ。なにかきっかけがあれば輪にも入りやすいだろう。
 わたしはどういう話ならいいだろうかと思案しながら、麦茶のグラスを手に取った。カランッと氷が甲高い声をあげた。グラスに浮いた水滴がぽたり、ぽたりと膝の上に落ちてシミを作る。そこで不意に思い出した。パリパリというポテチを食べる音と似ていたのは、ずぶ濡れになった智恵美のお気に入りの漫画を乾かして、一緒に一枚ずつ剥がしたときの音だ。わたしと智恵美だけで楽しんでいることに癇癪を起したふたりがプールに漫画を投げ捨てたのだ。あのときの胸糞の悪さを押し流すように麦茶を喉に流しこんだ。

 それにしてもこの部屋暑いわねえ。ねえ、エアコンもうちょっと下げてもいい? わたしはちょっと脱ごうかなあ。だってもう胸の谷間にまで汗かいちゃってるのよ。やだあ、抜け駆けしないでよ。じゃあ、ふたりして脱いじゃおっか。

 ふたりがじゃれ合うようにして、セーラー服の上着を脱ぎ始めた。そのとき、ふと気配を感じて、わたしは智恵美のほうを振り返った。彼女がずずっ、ずずっ……とお尻をずらして移動している。特等席を彼女らに譲ってあげようとしているらしい。

 わたしはセーラー服のボタンを開いて、なまめかしい視線をわたしに向けてくるふたりに、涼しくなるいい方法があるよと提案した。彼女らはパッと互いに顔を見合わせたあと、なになに? もったいぶらずに教えてよとうれしそうに身を屈ませた。

 あそこの部屋の隅っこでね。こう三角座りになるだけでいいよと言うと、彼女らはまた顔を見合わせた。ぎょっと目を剥いてわたしを見る。心なしか唇の端が震えているようにも思える。
 本気? 裕子が訊いた。試してごらんと答えた。ひとりじゃいやよ、わたし。と早織がごねた。ふたり一緒に座ってみたらいいよと促した。
 ふたりはちらちらとわたしの顔を伺いつつ、智恵美が座っていた角まで歩いた。智恵美はふたりの邪魔にならない場所に移動していて、ふたりの様子を固唾を飲んで見守っている。

 ねえ、本当にやるの? 
 大丈夫だよ。昔やったことがあるから。ぜんぜん怖くないよ。
 それなら信じるけどさ。ウソだったら許さないんだから。
 大丈夫だよ。ほら、やってみて。そう。そうやって座ったら、今度は目をつむってみて。十まで数えるからね。目は開けちゃダメだよ。

 ふたりは互いの手を握り合って座ると、固く目を閉じた。仲良く身を寄せ合うふたりの正面から二歩ほど離れたところにわたしは腰を下ろして、ゆっくり一、二、三、四……と数え始めた。すると智恵美はここがチャンスだと思ったのだろう。ずりっ、ずりっ……とまた尻を動かして、彼女らの正面に回る。彼女が動くたびに、魚のくさったような臭いが強く香る。早織と裕子もそれに気づいているのか、鼻の頭と眉間にしわを作って、しかめ面になっている。

 ねえ、もういやよ。暑いままでいいから、こんなことやめてよ。わたしも暑いのはがまんするから、もう目を開けてもいいでしょ?

 彼女らはわたしに懇願した。わたしは智恵美の背中を見つめた。ようやくふたりの真正面にやってきた彼女はふるふると小さく首を振った。わたしは彼女たちにダメみたいだよと伝えた。

 ねえ。これはなんの罰ゲームなの? この場所って智恵美が好きだったところじゃない。こんなことさせてどうしようって言うの? それよりさっきからずっとおかしいわよ。あなた、ずっと隅ばかり見てたじゃない。そう、それは気になってた。麦茶も四つ置いたし。これじゃあ、まるで智恵美が生きているみたいじゃない!

 わたしは彼女らの言うことには答えなかった。ただ淡々と数を刻んだ。九……まで数えて、ふうっと息を吐く。目を開ける前に――とわたしは前置きした。

 そこ、すごくヒヤッとするだろう? なんでだと思う。智恵美がいたからなんだ。うん、そう。キミらが殺した彼女がね、ずっとそこで座っていたんだよ。隅っこはね、死者の席なんだってさ。え? 智恵美はどこにいるって? ああ。優しい彼女はキミらのために特等席を譲ってくれたんだよ。今はキミらの正面に座ってるよ。どうしても訊きたいことがあるらしくてね。すごく、すごく困ってるから助けてほしいって頼まれたんだよ。あれがないとね、家に帰れないらしいんだ。ほら、キミらさ。持って帰っちゃたんでしょ? そうだよねえ。あれはさ、水の中に放り投げても浮いてきちゃうしね。智恵美は変質者に襲われたって? バカ言わないでくれよ。こっちは本人から全部聞いてるんだからさ。今日のことだって、キミらに会ったら、怒りで我を忘れてしまうから嫌だと何度も断ったんだ。だけど考えてごらん。大切な人にそうやって言われたら、やっぱり叶えてやらなくちゃと思うもんだろう? だからね、今日はふたりにちゃんと答えてもらおうと思ってさ。怖い? そうだよね。だけど智恵美のほうがもっとずっと怖かったんだよ。池に突き落とすなんてさ。ひどいことするよね。あのとき、助けてって何度も言ったって。でも、キミらはざまあみろって笑ってたって。好きだったのに抜け駆けしやがって。おまえのものだけになるなんて許されないんだよって。溺れる彼女を棒で押さえつけたって聞いたよ。そうそう。知ってるかい? 彼女の制服の肩や襟のところに丸く黒いカビが生えてるんだけど、これはキミらが押さえつけた跡なんだよね。智恵美、言ってたよ。水がね、死んだ魚の臭いでひどく生ぐさかったって。どろどろして黒ずんでいて、ねっとりと体に巻きついてくるみたいだったって。すごく苦しかったんだって。ああ、ごめん、ごめん。ひとりでおしゃべりしすぎちゃったね。智恵美も話したいよね。じゃあ、ふたりとも目を開けていいよ。ちゃんと彼女の質問に答えてあげてね。

 十……と言い切って、わたしは三人を見守った。
 裕子と早織は目をつむったまま、互いに肩を抱き合って、ガタガタと震えている。か細い声でごめんなさい、許してくださいと涙ながらに謝り続けている。

 智恵美はゆっくりと立ち上がった。ゆらりゆらりと振り子のように体が左右に振れるたびに、濡れた長い黒髪からぴちゃん、ぴちゃん……と水滴がしたたった。一歩踏み出すと、浮腫んだ足の皮膚が裂けて、黒々としたドロドロの液体が流れ出てくる。それは彼女の黒ずんだ足元に落ちてシミを作り、影のように広がって、隅で震える幼馴染ふたりを飲み込んでいく。智恵美がぬうっと身を屈ませた。緑の藻が絡まったふやけた腕を伸ばして、ふたりを抱きしめる。瞬間、火がついたような絶叫がふたりの口からほとばしった。
 智恵美が再会を懐かしむかのようにふたりをぎゅうと強く抱きしめた。めきめきと骨が軋んだ音を立てて折れていく。
 
 いだい、いだい! 
 だずげで、じにだぐない!

 彼女らの嗚咽に混じって、ゴボゴボゴボゴボっと空気の泡が水の中をさかのぼってくる音が聞こえた。そのあとに智恵美の声が続く。

 ねえ、わだじの……ぐづ……がえじ……で……

 ああ。なんと悲壮な声だろう。彼女の必死な訴えがわたしの胸を締めつける。わたしさえ地元を離れていなかったら、彼女にこんなにも苦しい思いをさせずに済んだのに。でも、これでようやく彼女は報われる。彼女の願いを叶えられるのと考えただけで、わたしはとてもしあわせな気持ちになった。

 わたしは三人にくるりと背を向けた。ここからは女の子だけの時間がいいだろう。わたしは男だから、どうしたってやっぱり女子特有の雰囲気は入りづらいものがある。

 ぐづば……ずでだ。
 もう……ざがじでもない。

 彼女らの答えを背中越しに聞きながら、わたしは麦茶のグラスを手に取った。煽るように一気に飲み干す。すっかり氷が解けてしまった空のグラスを置くと同時に、ぎゅえええという断末魔の叫びと大きなカエルがつぶれるようなぶぢゅんっという音がこだました。べっちょっと背中に生温かいものが張りつき、臭気が強くなった。わたしはゆっくりと振り返る。

 壁にも、天井にも赤い血飛沫が長い尾を引くように飛び散っていた。くったりと海老ぞりになって腰から折れ曲がる幼馴染たちの腕はだらりと床まで伸びていた。ぴくりとも動かなくなったふたりをお気に入りのぬいぐるみのように大事に抱きしめながら智恵美が隅に立っている。真っ白だった彼女の顔も体も、今や真っ赤に染め抜かれている。智恵美はずるりと長く青い舌を出して、唇の周りの血をべろんと舐めた。それから満足そうににっこりと笑む。わたしはよかったねとほほ笑み返しながら、彼女に向かって大きく両手を広げてみせた。
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