第1話

文字数 1,994文字

 ある日、ひとりの人間がこの社会から忽然と姿を消す現象。
「失踪」
 最近、ニュースでは失踪事件が増えていると伝えています。
 でも、失踪はそこまで珍しいことでもないのですよ。
 ここ数年の失踪の件数ご存じですか? 意外と多くて驚きます。
 しかし、今は桁が違うのです。
 毎日、大勢いなくなっています。
 このままでは町が消え、首都も消え、ついには国が消えるかもしれません。次の瞬間、あなたも消えているかも?
 怖いですね。
 このままでは人類は終了。貯金は使い切っておいたほうがいいですか?
 急にこんな話。わけわかんないですよね。
 では、一つの例をあげてみましょう。
 オフィス街のどこにでもいるサラリーマン。先ほどまでいそいそと歩いていた彼ですが、突然に立ち止まります。
 手にしていたカバンをするりと落として、異変に気がつく周囲の人々。その勇気ある一人が彼の顔を覗き込みます。
 彼は目の前をじっと見つめ、はらはらと涙をこぼしておりました。
「え、大丈夫ですか?」
 思わずそんな声をかけますが、彼の耳に届いた様子はありません。
 次に彼がどうしたかというと。
 彼は駆け出しました。
 一目散にわき目もふらず。
 そして、驚く人々の前から忽然と姿を消しました。
 消えるというのはただ走り去って見失うのではなくて、煙のように一瞬で消えるのです。
 そう、完全に消失したのです。
 これがこの度、人類を滅ぼすことになった失踪の基本パターンです。
 嘘みたいな話ですが、信じてください本当です。
 こう見えて、私、大学で教鞭をとっていますから。
 信じてください。どっちも本当です。
 それはそれとして、彼は何を見たのでしょうか?
 どうして急に駆けだしたのでしょうか?
 ヒントがあります。
 もう一つ。これはちょっと別の例。
 消えなかった人がいました。
 ある病院で車椅子の老婆が突然取り乱して走りだそうとしました。
 しかし、足が悪く駆けだすことができずに車椅子から飛び立とうとするや、そのまま地面に倒れてしまいました。
 職員が駆けよると「待って、お兄ちゃん。今、行くから。おいてかないで」としきりに泣いていたそうです。
 あなたにこんな記憶はありますか?
 四方八方の雑木林からセミの鳴き声が響き渡る夏休みの昼下がり。広がる田園とそれを見下ろす入道雲。深海のように蒼い夏空に続くあぜ道を、麦わら帽子を被った兄が駆けていく、その背中を追い駆ける今は年老いた妹。
 彼女は遠く昔のそれを見たようです。
 あなたにもそんな記憶はありますか?
 学校の廊下をふざけあいながら駆けていく友の背中。
 ハイキングできた険しい山道を登っていく普段は見ない父の背中。
 河原のグラウンドで青空に蹴り飛ばしたサッカーボールを追い駆けるチームメイトの背中。
 数えきれないほどの桜の花びらが舞う春の通学路。幼馴染が駆けていくのに置いていかれないように一生懸命後を追う。眼前には赤いランドセルが揺れている。
 誰にでもある時の流れに消えた日々。
 この醜い世界で束の間の尊く愛おしい記憶。
 人々はそんな陽炎を見せられ、そして、魅せられるのです。
 大切な誰かの背中を追い駆けていた日々を再び追い求めてしまう。
 追い駆けて、そして消える。
 罪なことを。
 誰がそんなことを?
 これはもう現代科学の外側にいるものじゃないでしょうか? 例えば魔性の類とか?
 科学者の見解ではないですね。
 それに連れ去られるとどうなるのでしょうか?
 そこにあるのは天国か地獄か、それとも永遠に続く思い出の中の幸福か?
 それで? 人々の選択は?
 それを知る方法はたった一つです。

「お母さん。早く!」
 白く儚い雪が深々と降っている。娘がはしゃぎながら雪の町を駆けていきます。ああ、そうだ、あの日だ。私の人生でとても幸せだった日々。
 あの日は大雪が降って、珍しく休みになって、車も人も姿を消して、そんな世界で、今は亡き娘と二人だけで遊んだ日。
 みんなこういうのを見ていたようですね。
 待ち望んだ魔性とようやく出会えました。
 これが人類の終焉の正体です。
 さて、記録はこれで取れました。
 あとは仲間が「この記録」を見つけてくれればよいでしょう。魔性の正体が伝わるはずです。後は人間社会を維持したい人次第。
 さあ、ここからはプライベートなので好きにやらせていただきます。
「ちょっと待ってお母さん準備体操をしなくては、最近、走っていませんでしたから」
 駆けていく娘の背にウキウキしながら声をかけます。
 個人的な見解ですが人類は滅ぶでしょう。この感情を抱いてあなたは駆けださないのですか?
 でも、もしかしたら、そんなことは感じない機械みたいな人達が文明を繋いでいくのかもしれませんね。
 明るい未来を祈っています。
 でも、私は違うから。
 娘のいない世界に未練なんてないのだから。
 それを認識した瞬間、私は駆け出しました。
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