第1話

文字数 1,913文字

 4月になると思い出してしまう話がある。4月は桜が咲く月というより、桜が散る月だという認識に染まった僕が社会人1年目になった時の話だ。
 その頃はまだスーツを着ると違う自分が現れたみたいで、社会人の自分とプライベートな自分を上手く区別できていた。だから社会にいる時の自分がどんなに仕事が出来なくても、どんなにつまらなくても、それでも自我を保てていた。
 入社式はいつの間にか終わっていて、気づいたら次の日になっていた。社会人としての心得を説明する人事の人の話は上の空で、どうしたらこの人生に希望が持てるか、そんなことを考えていた。
 休憩時間になると他の同期はおそるおそるといったように隣同士で会話をしていた。
「どこ出身なの?」
「一人暮らし?」
 どこからも同じ会話が聞こえた。僕の隣には人がいなかった。五十音順で前から並んで座っていたから、淀橋家に生まれた僕は最後の一人余ってしまったらしい。通路を挟んで隣にいた山下はさらに向こうの村井と話していたから、そこに割って入ることはできなかった。もちろん、今だから二人の名前も認識しているが当時は彼らのことも何も知らなかった。
 僕は諦めて前を向いていた。随分と無機質な前だったことは憶えている。
 その時に颯爽と現れたのが彼女だった。
 彼女は額に汗を輝かせ、髪も若干乱れていた。息も上がっている。失礼だが綺麗とは言い難かった。彼女は若月咲と名乗り隣の席に腰かけた。
「早速、遅刻しちゃったよ。人事の人から電話来てめっちゃ焦った」
 若月は何も聞いてないのに一人で話し始めた。僕は正直苦手なタイプだと思った。だから今日以降関わらないだろうと考えていた。
 次の講義の時間、若月は書き殴るようにメモを取っていた。僕もメモ帳を一応開いていたが「報連相大事」としか書いておらず、彼女が何をそんなにメモするのか疑問だった。
 また、休み時間になる。退屈だった僕は少し仕掛けてみることにした。
「社会人になってどうすか? 」
 あまりいい質問とは言えないし、敬語とタメ口の中間の変な語尾になってしまった。だけど、若月は普通に答えてくれた。
「私、働くの楽しみなんだよね」
 自分の考え方と真逆の回答に僕は若月の方を思わず凝視してしまった。しかし、若月は僕のことなど見ておらず、少し斜め上に顔を向け、僕には無機質に見えた前を、そこにユートピアが広がるかのようにキラキラした目で見ていた。
 
 この人は主人公なんだ。
 
 遅刻してやってきた時からあった違和感が言語化された。今後の未来に希望しか見えていない、そんな印象だった。自分とかけ離れた彼女をもっと知りたくなった。
「希望の部署とかあるんすか? 」
 僕は答えを待った。欲しい答えが来ることを少しは期待していた。
「私、英語できないんだけど、英語使う部署に行きたいんだ」
 ああ主人公すぎる、そう思った。こんなに主人公な人が現実にいることが信じられなかった。社会人は皆目が死んでいると思っていたのに。僕はこの瞬間をカメラに撮って残したかった。いつか、この希望も失われてしまうかもしれないから。
「この会社、食堂あるの最高だよね。楽しみすぎる」
 その日は最後まで主人公だった。

 研修期間が終わり、若月の配属先は希望通り英語を多用する部署になった。僕の部署とは関わりが薄く、その後会社で会うことはなかった。その時は僕と違う軸で彼女の主人公としての物語が始まると思っていた。

 僕は当初ミスを連発していた。唯一メモしていた報連相ができていない、と指導役の先輩社員によく怒られた。忙しそうにしている先輩に声をかけることを躊躇してしまって仕事はうまくいかなかった。自分が仕事ができないことにはそんなに絶望しなかった。元々何となく気づいていた。一度、シュレッダー内のゴミを処理しようとして、誤って床にまき散らしてしまった時は心が折れたが、それを機に人からどう思われるかということに鈍感になる術を身に付けた。僕はダメで嫌な奴で主人公にはなれなかった。

 4月が再びやってきて、2年目研修として同期が一堂に会した。
 そこに主人公はいなかった。若月と同じ部署だった村井に聞いた話によると、彼女は年末に退職したらしい。何があったのかは誰も知らなかった。突然のことだったらしい。
 彼女は挫折したのだろうか。それとも更なる高みを目指して他の会社に移ったのだろうか。僕は少しだけ安心していた。今日若月と再会して、彼女が死んだ目をしていたら、社会を憎んでしまいそうだった。そうなる位なら答え合わせはしなくて良かった。
 その日から、僕の毎日はほとんど何も変わらなかったが、食堂よりも外で昼食をとることが多くなった。
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