壁の薄いアパートで

文字数 3,852文字


 隣人と休日に時間を合わせて外出することになったのは二か月ほど前からだ。彼は名前を新名と言って、保育士をしている。彼がゲイだと知ったのは、このボロアパートの壁の薄さのせいだ。
 ボロイにもほどがあるアパートの住人は、僕と新名だけで、全八室のうち六室は無人だ。大家も扱いかねているのか、部屋の外の廊下の電灯も切れたまま放置されている。
 
 そんな真っ暗な通路を足音高く通り過ぎる来客が隣室に通いだしたのも二か月ほど前から。ドカッドカッと軍靴でも履いているかのような足音が耳障りで、聞かないようにしようとしても、そちらに意識が向いてしまう。足音は新名の部屋の前で止まり、ゴンゴンと重いノックの音がする。すぐにドアが開き、閉められる。人が床に倒れたような音に続いて、新名の喘ぎ声が聞こえだす。
 初めのうちは耳を疑った。新名とは顔を合わせれば挨拶くらいはしていた。彼の声はソフトで、決して高くはない。それが、軍靴の音の主と逢うとワンオクターブ高くなる。まるで少年か、はたまた少女のようにも感じられる透明感があるのだ。
 出来ることなら聞きたくはないのだが、いかんせん、壁が薄い。僕は新名の情事の一部始終を聞き続けることになった。

「すみません、ご迷惑ですよね」

 新名に突然呼び止められたとき、僕はたまたまグラビア雑誌を抱えていた。コンビニでもらった小さなビニール袋から顔を出したグラビア雑誌をちらりと見た新名は、すぐに顔を逸らした。

「えっと、迷惑って、なにがですか?」

「声、聞こえてますよね」

 無言。僕に出来るのは口をつぐんで目を逸らすことだけだった。ここ数日、軍靴は毎日、新名の部屋に来ていた。喘ぎ声が聞こえない日にも、楽し気な笑い声や軍靴の男の大きな話し声が丸聞こえだった。

「全然、大丈夫ですよ」

 そう言って立ち去ろうとしたのだが、新名は僕の袖口を引っ張って押しとどめた。

「私は、ゲイなんです」

 そんなことを言われても困る。隣人の性癖になんて興味はないし、ましてやLGBTQなんて難しい問題に僕の頭が追い付けるとは思えない。

「これからも、お付き合いする人は男性だと思います。あまり驚かせてもいけないかなと思って、お話しておきたくて」

「はあ」

 新名は手にしていた紙袋をそっと差し出した。

「引っ越しの挨拶にもうかがわないままで、失礼しました。よろしければ、これ、どうぞ」

 引っ越しと言って、このアパートに後から入居したのは僕だ。嫌みにも聞こえるが、新名なりの気遣いなのだろう。

「恐れ入ります。頂戴します」

 受け取って中を覗くと、緑茶のティーパック詰め合わせが入っている。ちらりと新名に目をやると、なにかを期待した子犬のような目で僕を見ていた。

「えっと、よろしかったら、うちでお茶でも」

「はい! ぜひ!」

 僕の言葉にかぶせるように返事をして、新名は満面の笑みを浮かべた。

 家にお茶なんて常備してないから、もらったばかりのティーパックを使った。恋人が出来たときようにと妄想半ば買い込んでいたマグカップにお湯を注ぐ。僕と新名、二人、おそろいだ。まさか初めてこのマグカップを使うのが自分より背の高いイケメンだとは思いもよらなかった。
 良いお茶らしく、お湯を注いですぐに爽やかな香りが部屋に広がった。

「いい香りですね」

 素直な感想に、新名は嬉しそうに頷く。

「ママさんたちに教えてもらったんです」

「ママさん?」

 一瞬、夜の世界のマダムのことかと思った。新名はその考えを読んだようで慌てて両手をぱたぱたと振った。

「保育園の保護者さんです。私は保育士で」

「ああ、そうなんですか」

 そこで会話が途切れた。手持無沙汰でマグカップを手に取ると新名が「まだ早いと思います」と止めたので、大人しくマグカップをテーブルに戻した。
 なにか話したいことがあってやってきたのだろうに、新名はぼんやりと宙を見つめて黙っている。本当に、本当に手持無沙汰で、意味もなく立ち上がって冷蔵庫を覗いた。茶菓子なんてものは入っていなくて、缶ビールとキュウリと田舎から送ってきた梅干しが入っているだけだ。

「梅干し、食べますか?」

「あ、はい。大好きです」

 新名と話していると予想外のことばかり起こる。二十代前半だろう男性が梅干しが大好きなんてことがあるんだな。驚きながらも、皿に梅干しを六個、ピラミッド状に積み上げて、箸と一緒にテーブルに出した。お茶もそろそろいい感じだろう。マグカップを取っても、新名から止められることはない。

「わあ、酸っぱいですねえ」

 梅干しを頬張ってにこにこしているが、僕などは端っこを少し噛んだだけでも悶絶する酸味だ。新名の口はよく鍛えられているようだ。

「もう少し、お話してもいいですか」

 箸を置いた新名が神妙な表情で言う。なんのことかと一瞬、戸惑ったが、そうだ、声が聞こえるという話をしていたんだったと苦い思いで振り返った。

「いや、あの。声とか気にせず、どうぞ青春を謳歌してください」

 はあ、と深いため息をついて、新名は視線を落とした。長いまつげが頬に影を落として、いやに色っぽい。思わずドキドキする。

「やっぱり、聞こえてるんですね。あの人は木崎さんと言って、保育園の保護者の方なんです」

「そうですか」

 なんと返事をすればいいか迷ったけど、無難に相槌をうってしまった。これでは話を続けるしか仕方なくなった。もう、帰れと言える雰囲気ではない。

「木崎さんは、優しい奥さんと、かわいらしい娘さんがいる、誠実なお父さんなんです」

 奥さんと娘がいるのか。思いっきり不倫だな。誠実な男ではないと思うけど。

「私の一目惚れだったんです。さえちゃん……、娘さんのお迎えに来られる木崎さんの精悍な姿に魅せられて」

 なるほど、軍靴のような足音は、確かに精悍というに足る雰囲気を持っている。

「ほかの人の目を盗んで連絡先のメモを渡したんです。まさか連絡をもらえるなんて思ってなかったんですけど。電話があったときは夢かと思いました」

 新名は、今まさに軍靴の男から電話を受けたとでもいうように、うっとりした表情を見せた。恋をしている人間とは、こんなに幸せそうで、こんなに馬鹿げているのか。呆れていいやら、羨ましいやらで僕の胸中はざわざわした。

「初めて家に来てくれた時から、私のことを好きだと言ってくれて。こんな私なんかを……」

 感極まったのか涙目の新名を見ていると、なんだかなにもかも、どうでもよくなってきた。真面目に聞くのも馬鹿らしい。のろけを聞いている暇があったら自分の恋人を見つける時間に充てたい。

「そんなわけで、どうしても、木崎さんとの逢瀬は止められないんです」

 なにが『そんなわけ』なのか、ちっとも分からなかったが、一応、頷いておいた。

「そのお詫びと言ってはなんですが、今度の日曜日、ネズミーワールドに行きませんか」

「は?」

「入場者限定パーティーに当選したんです。限定5000人」

「行きます!」

 こうした経緯で僕と新名は、あちらこちらと共に出歩くようになった。本当なら、新名は軍靴の男と出かけたかったのだろうけれど。

 話してみると、新名とは趣味があった。好きな本やバスケットボールのチーム、給食で好きだったメニューや初恋の相手の性格。一緒にいなかった時代の思い出話で盛り上がれる貴重な話し相手だった。
 そんな休日に明るい気持ちを抱きつつ、夜には辟易とする。軍靴はほぼ毎日、新名の部屋に向かった。薄い壁を意識してか、新名の声は小さくなっていた。だが、軍靴の主はそれが気に入らないのか、壁越しでもはっきりと分かるほど新名に強い官能を与えている。新名の高い声を聴いては、ため息をもらした。


「私も、悪いとは思っているんです」

 新名がそう言ったのは、もらったティーパックが切れかけたころだ。

「奥さんも、さえちゃんも、立派なお父さんを信じているでしょうに。木崎さんに嘘をつかせて、それでも私は木崎さんを諦めきれない」

 マグカップを両手で包み込んで、新名は顔を伏せた。暗い表情は、新名が軍靴の男の話をするたび見ている。きっと男と逢うときには新名は喜びにあふれた顔を見せているのだろう。
 男が太陽なら、新名は月だ。男の振る舞いに一喜一憂する。輝くような満月は軍靴の男に向けられて、僕が見ることが出来るのは新月の新名だけだ。新名は僕のすぐそばにいるように見えるのに、太陽がなければ輝くことなどできないのだ。
 僕のマグカップが新名のものとおそろいだと、きっと彼は気づくこともなかっただろう。

 新名がアパートから姿を消したのは、新月の朝だった。軍靴の男が妻から断罪されて新名の部屋に泣きついてきて、二人そろって部屋を出て行った。ティーパックはなくなって、マグカップはお役御免で、食器棚の奥に戻っていった。

 大家さんから退去してほしいと言われたのは、それから一か月ほどたったころだ。ボロアパートを取り壊してマンションを建てるらしい。良ければ条件を優遇するからマンションに入居しないかと言われたけれど、壁が厚い部屋に住む気にはなれなかった。
 転居したのは、やはり壁の薄いアパートだ。隣の部屋には若夫婦と五歳児の一家が住んでいる。毎日、やかましく、健康的で、信頼しあっていることがよく聞こえてくる。彼らはいつでも太陽に顔を向けて生きているのだろう。たがいに笑いあい、愛し合い。

 僕は誰にも使われないマグカップをしまった食器棚を見つめて、いつか新月のような悲しみを、もう一度聞ける日を夢見ている。
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