第1話

文字数 14,258文字

【プロローグ】
それはまだ蝉も泣き止まない夏の終わり頃だったと思う。全寮制の高校に入学し、むさ苦しい四人部屋生活も二年目に入り、未成年ながら前日夜遅くまでのビール宴会で、少し気分も優れなかったとも思う。
太陽の光を少ししか遮らない薄いカーテンから漏れる日差しと戦った結果、そろそろ起きようかと、硬いベッドに引いた、これまた薄い布団上で、カチカチになった肩を揉みながら上半身を起こした時だった。
何時もは【煩いなぁ。】と感じ、その度に名前を呼ばれた寮生に対して、「アイツなんかやったんじゃないの?」と、仲間内でコソコソ話をする寮内放送で、自分の名前を呼ばれた事に気が付いた。
当然ながら、何時もはコソコソ話仲間であった同部屋人も、ここぞとばかりに「お前何やったの?」と心配をするポーズでニヤニヤしながら声をかけてくる。ほぼほぼ代返で授業をサボることに長けている有名同居人までベッドから起き上がり、ニヤニヤとこちらを見る始末。
裏返しにはいていることに気が付いたパンツを正しい姿に戻し、洗濯後に折り畳むこともなく、ベッドの端に鎮座するTシャツから一枚を選び、まだ半乾きの短パンを洗濯バサミから外し、被告人の如く俯き加減で、学生課の部屋に出頭すべく向かった。
ゆっくりゆっくり歩きながら、頭がボサボサで鶏のような皇帝ペンギンの様な出で立ちに気が付いた。今更、頭で怒られることも無いだろう。と覚悟を決めたが、シワシワのTシャツを引っ張りながら、少しばかりは印象を良くすることも忘れてはいなかった様に思う。
学生課のドアの前に立ち、これまた顔も洗わず来たことを少し後悔しながら、少しばかり遠慮がちにドアノックをしてみた。
学生課の担当職員は総勢三名。学生の間ではそれぞれあだ名が付いており、やかん、暖簾、りんご。
やかんは少し恰幅の良いおじさん。とても良い人だけど、少しでも対応を間違えると、それこそ頭からリアルに湯気を出すかのごとく怒り出す始末。沸騰する前に、ヤカンの蓋がカチャカチャと音を鳴らし始めるがの如く、小言が始まると要注意。
暖簾は初老のおじいちゃん。何を言っても「あぁ。」との反応で、ちゃんと理解して貰えたのか、はたまたこの人は何が言いたいのか少し分からないことが多い。でもこの暖簾が居ないと学生課が回らないとのもっぱらの噂で、実は只者ではないかもしれない。
最後はりんご。唯一の女性職員。年齢不詳。お察しの通りほっぺたが、リンゴのように赤く、テレビでよく見る田舎の子はこんな感じ。というのがピッタリ。と言っても、所謂ステレオタイプの田舎の子でもなく、そこそこ美女で学生の間では人気が高い。全校生徒のほぼほぼを男子が占める当校においては、アイドル的な存在だったように思う。
話を元に戻そう。
「入りたまえ。」声の主はやかん。悪い話は大体やかんが担当と聞いており、ため息が聞こえない様に少しうなだれ、ノックした右手をドアに当て、体を三秒ほど支えた後に、「失礼します。」と入室した。
良く人は死ぬ前に走馬灯のように過去を思い出すと言うが、やかんと対峙する前に走馬灯が見えたように思う。と言うよりも、今までの数多くの悪事の、どの件が今日の話題かを必死に思い出そうとしていた。と言うのが正しいかもしれない。あれか?、これか?、と思いを巡らせていると、「今すぐ自宅に帰りたまえ。」との声。
流石に停学や退学になる様な案件を直ぐには思い出せなかったが、昨晩、麦酒自販機の前で、自販機の下に転がり込んだ、貧乏学生には貴重な貴重な、お釣りの百円玉を探っている所を目撃されていた事に気がつく。【えっこれ?】と思いに深けていると、「おじさんが亡くなったそうだ。早く帰りたまえ。」とやかんが続けて言った。
色んな悪事を走馬灯の様に思い出したのも徒労に終わり、ボサボサの頭を整えながら、まだしわくちゃのTシャツをなびかせて、手ぐすね引いて私の帰りを待つ同居人のニヤニヤ顔を思い浮かべながら、自宅に帰る準備をすべく寮の部屋に急いだ。
叔父の名前は、かずお。私がエンジニアを目指すきっかけともなった、大切な人だった。

【かずお】
かずおは母親の弟。母とは少し歳が離れており三人兄弟の三人目。私の母、母の妹に続く、待望の男の子であったと私が小さい頃から良く聞いていた。
ただ、小さい頃から病弱で、何か有ると熱を出したり咳き込んだりと、育てるのに苦労したという話を何回も聞いた。と言う私自身も、子供がかかるという全ての病気を制覇しており、普通は一回しかかからないおたふく風邪に二回かかった。と言う実力者でもある。そういう意味では、私も私の知らない所で、育てるのに苦労した。と言うカテゴリーに属していたのかもしれない。
そんな病弱であった叔父・かずおも、年齢を重ねる度に、少しずつ健康な体となり、中学を卒業する頃には、同級生と遜色のない健康体になっていったと聞いた。
私とかずおの年齢差はそれほど離れてはなく、確か十歳位だと思う。私が物心をついた小学一年生の頃の記憶は鮮明で、今ではあまり見ることの無くなった、タミヤのプラモデルを一緒に作ってくれた思い出が特に多い。
とにかく手先が器用で、中々組立てる事の出来ない小さな小さな部品を、それこそ魔法のようにどんどん組み上げていくことにただただ私は驚いていたように思う。
本来のプラモデル作りは、自分自身がパーツを切り取り、セメダインを使い、紙に記載された組立手順に従って作り上げるのが醍醐味のはずだったが、そんな事も忘れ、かずおの手品師のような動作にずっと魅了されるのが楽しかった。しかしながら、かずおの絵のセンスはほぼほぼゼロで、仕上げの塗装からは私の仕事だった。
深緑色の戦車が、かずおの塗装の手にかかると、どうしてもミドリガメの様になってしまうので、二回目か三回目からのプラモデル作りから、塗装についてはお役御免とさせて貰った。
だが、大砲が付いた戦車。遠目であってもミドリガメに魅せる技術は、それはそれでかずおが練りに練った手品だったのかもしれない。
そんなかずおも、中学を卒業後、絵を描くことを求められない、絵心を全くと必要としない、繊維工場のラインに入り、日々、繭から取り出された糸を綺麗に仕立て、紙に巻き付け出荷する。と言う仕事に就いた。心配していた体もほぼほぼ健康体となり、毎日を楽しく過ごしており、休みの日になると、これまた絵心を必要としない、私のプラモデル作りに没頭する日々を過ごしていた。
その繊維工場は私の小学校の通学路脇に有り、今ほど暑くもなく、エアコンも無かった工場の扉は開きっぱなしで、私が工場を扉から覗くと、決まって扉から見て、一番左の列の手前から二番目に座っていたかずおと目が合い、二人で決めた指挨拶とアイコンタクトで、一日の健康確認をしていた様に思う。
また、かずおは、病弱であったが為に中々出来なかった人との繋がりを広げる為に、当時流行っていたアマチュア無線免許を取得し、世界中の人と交信し、これはアメリカの人、これはドイツの人、これはブラジルの人という具合に、壁に毎日の様に届く、多くの人からの葉書を貼り付け、健康な体をどんどんと取り戻し、楽しく豊かな生活を送っていた。
しかしながら、壁一面を葉書が埋めつくそうとしていた春先の日、人生を大きく変える事件が起きてしまった。かずおがふと目眩を覚えた瞬間に、繊維工場の機械に手を巻き込まれ、魔法の手の両手首から先を失ってしまったのである。
実はこの頃の私の記憶は薄れており、余り覚えてはいないが、学校帰りに工場を覗いても、いつものかずおの席がポツンと空いており、私の自宅の紫陽花が咲き終える季節が過ぎても、繊維工場脇の向日葵が咲いても、その向日葵が私の心を映すようにうなだれ枯れてしまっても、指挨拶とアイコンタクトをする事は出来ない日々が続いた。また、プラモデル作りをする為のお小遣いも、何だったか忘れたが、理不尽な理由で停止となり、かずおと会うことの無い日々を過ごしていた様に思う。
季節は過ぎて新年となり、毎年恒例の新年の集まりを母の実家でやる事となり、久しぶりにかずおと会うこととなった。
顔を見ることも無く半年以上経ち、かずおの魔法もプラモデル作りも半分興味が無くなっていた私が、かずおと会った。だが、その姿は余りにも変わり果て、どす黒い顔、落ち込んだ目、やせ細った頬。そして何よりも、手首から先の無い両手に言葉を失ってしまった。かずおも私の顔をうつらうつらと見るだけで、何の声も発することも無く、この半年余りの時間の流れを嫌と言う程思い知らされた。
食事となり、両手首にリストバンドをはめ、リストバンドと手首の間にフォークを刺し、ゆっくりとおせち料理を口に運ぶその姿は、余りに残酷で、私は、堪らずその場を離れてしまった。
母の実家に居ることもいたたまれなくなり、新年にも関わらず少し暖かく陽気の良い日であったと思うが、薄着の体を少し震わせながら、近所をブラブラと歩いてみた。
私が小さい頃は真冬でも半ズボンをはく様な文化と言うか、しきたりと言うか、風潮と言うか、その様な時代でもあったと思うが、気がつけば左の後ろポケットに貰ったばかりのお年玉が入っていた。特に何か買うことも計画していなかったが、気が付けば、半年以上訪れることのなかったおもちゃ屋の前に立っていた。何とも言えない感情を抱きながら店に入ると、懐かしいプラモデルが陳列されており、当然ながらミドリガメに変身する前の戦車プラモデルも数点鎮座。
知らず知らずの内に、一つずつプラモデルを手に取るうちに、自然と涙がこぼれ出し、そして大きな涙と変わり、やがて号泣する事となった。まだ幼い頃の私は、号泣と言う言葉は知らなかったが、知らない子供でも起こせる行動なんだと少し大きくなってから知る事となる。
当然ながらおもちゃ屋のおばさんの気が付く所となり、お年玉を落としたの?とか、お金が足りないの?とか、優しく声をかけて貰った様な気がする。しかしながら、自分がなぜこんなに泣かなければならないか全く理解できない当時の私は、返事をする事も出来ず、ただただその場で戦車プラモデルを抱きしめ、号泣する事しか出来なかったように思う。
やがて落ち着き、実家への帰路に着いていたが、何故か戦車プラモデルを手にしていた。おもちゃ屋のおばさんにどんな話をしたのかは、今でも全く覚えていないが、以前買っていた物よりもワンサイズ大きい、いつか買いたいと思っていたドイツの戦車であった。
左の後ろポケットに入っていたお年玉も、いつの間にか右の前ポケットに移動しており、その中身も減っていなかった事を思えば、おもちゃ屋さんのおばさんからの、宝物の様なお年玉であったのだと今は思う。
普通に歩けば十分もかからない道のりであったが、全く歩みも進まず、それはそれは富士山に登るようなペースで実家に辿り着いた。
流石に何処に行ったか分からない私を心配した為か、母と祖母が玄関前で両手を前に抱え、少し寒そうな出で立ちで私の帰宅を待っていた。家を飛び出ると何時戻ってくるのかも普段は全く気にしない様な母ではあったが、この日は少し違っていたんだと思う。
祖母も何も言わずただ優しく笑いかけるだけで、「とにかく早く中にお入り。」と声をかけられたのは覚えている。
私自身は、手にしたプラモデルを迂闊にも持って帰ってしまったことを強く後悔し、どうにかそれを何処かに隠そうとしたが、母と祖母に誘導されるがまま、リビングに入る事となってしまった。
ヘビースモーカーの祖父が焦がしてしまった畳のいくつかの黒い焦げ跡と、古めかしく、これまた黒く時代を感じる木製天井からぶら下がる小さな電灯を改めて気にとめたが、私がリビングに入った瞬間、私が持つプラモデルを目にした家族の微妙な空気感と、ほんの少しの静寂を感じた瞬間、全く思ってもいない声がかかった。「久しぶりだね。作ってみるか。」かずおの声だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい。」と涙を流しながら謝る私を尻目に、優しく「秘密基地に行こうか。」と声をかけるかずおに連れられ、以前は壁一面に写真が貼られていた部屋に向かう事となった。
久しぶりに入る秘密基地。壁一面の写真は無くなっていたが、かずおの魔法の道具はそのまま残され、少しハンダの匂いが残る部屋でプラモデル工作を開始する事となった。
泣きじゃくる私を横に、かずおは箱を開け、プラスチック部品を取り出し、ハサミとカッターを準備した後、こちらを振り向いて一言言った。「これからの組立てはお前だな。俺は塗装をやるよ。さぁ始めよう。」
この日を境にお互いの役割は反対となったが、以前のようにプラモデル工作の共同作業が開始となった。かずおの魔法の手の様に、セメダインもはみ出ないような完璧な物を作りあげるのは難しかったし、何故か部品が余ってしまうような事もあったが、魔法使いの指導もあり、そこそこの物を作る事が出来る様になるには、それ程時間は必要なかった。残念ながら、かずおの塗装の方は、ミドリガメになったり、スッポンになったりを繰り返し、相変わらずではあったが、少しずつ戦車の雰囲気を醸し出す様には成長した。これは致し方ない。私がかずおを成長させる程の魔法を持ってなかったからである。
このプラモデル作りがきっかけに。と言うのはかなり烏滸がましいとも思うが、少しずつかずおの生活も変わり始め、今で言う電子部品の販売を自宅で始めたり、中断していたアマチュア無線を再開したりと、以前ほどではないが、少しずつ明るい生活を取り戻してきた。それと共に、部品販売店に人が集まり、両手首の先が無いにも関わらず、ラジオやテレビ修理を簡単にやってしまうかずおの魔法に魅了されたり、何年か振りにアマチュア無線交信したり、再び、海外の知り合いからも葉書が集まる様になってきた。となれば、秘密基地の壁には以前の様に葉書が貼られる様にもなり、不幸な事故で生活が一変したものの、ささやかながらも、幸せと思われる時間が過ぎていった。
そんなかずおも20歳を過ぎ、縁談の話が舞い込んできた。と言うのも、かずおは不自由な体ではあったものの、周りに人が集まる人柄の為か、自然な事に思う。お相手の女性の名前は礼子さん。さらさらの長い髪に黄色いワンピースと白いカーディガンが良く似合う人だった。
礼子さんは、生まれつき少し足を不自由にしていた女性で、出かける際には車椅子を使うなど、本人の思う姿では無い。と言う環境で育った感じで有ったが、笑顔が素敵で、笑うとそれは可愛いエクボが両方の頬に浮き出る女性だった。「いつ会っても可愛い甥っ子さんね。」と、私の顔を車椅子から毎回見上げながら言ってくれていたのを思い出す。
編み物が得意で、寒くなるとかずおのセーターを編んでみたり、帽子を編んでみたりしていた。かずおは黄色が好きで、礼子さん自身も黄色がとても似合う事もあってか、編み物は何時も黄色。かずおも満更でもなく、嬉しそうに、増えていく黄色いセーターやベストや帽子を、それ程寒くもない部屋で毎日のように着用していた。
かずおの部屋の壁に貼られた、多くの外国から届いた葉書を見ながら、「この人はどこの国の人で、趣味は料理作り。」と言う様な、かずおのたわいの無い話を、優しく、ニコニコしながら、興味深く聴き入る姿も本当に素敵な人だった。「私もお話してみたいな。」などと、エクボを少し見せながら笑う姿も忘れられない。
そして幾らかの月日が経ち、本格的に縁談として纏まりつつあったクリスマスの日、全身ほぼほぼ黄色の装いで、部屋をクリスマスツリーやトナカイらしき自家製動物の飾り付けをしていたかずおに突然の連絡が入った。礼子さんが、買い物帰りの家路で、交通事故にあってしまったのである。
礼子さんが担ぎ込まれた病院に、家族で急いで向かったが、残念ながら打ち所が悪かったらしく、礼子さんは家族が到着するのを待つ様に、父親と母親の声を聞いて暫くして、帰らぬ人となってしまった。いつもの黄色いワンピースと白いカーディガンの出で立ちで、少し小さなクリスマスケーキを抱えて、遠い所に行ってしまった。
礼子さんのお葬式は数日後に執り行われ、霊前に飾られた写真には、いつも通りのエクボの礼子さんがいた事は覚えている。そんなお葬式も終え、少し落ち着きを取り戻した大晦日の前日12月30日、新たな事件が発生する事となる。かずおが失踪したのである。
その年の我が家のお正月は無いに等しかった。年末恒例だった餅つきや大掃除や初詣といったイベントは全て無くなり、何処にも出かけず家に引きこもる毎日だった。私の心配といえば、お年玉がもらえるか、もらえないかであり、なんとなくそんな事が話題ともならない雰囲気に、がっかりしていた。
警察にも捜索願を出し、皆が思い当たる所を探す日々を過ごした数日後に、かずおが突然帰ってきた。
私の両親を始め、皆がかずおを問いただす中、祖母が突然と優しく笑いかけ、「とにかく早く中にお入り。」と声をかけたのを覚えている。それは私が幼少の頃にかけてくれた言葉と同じで、違いと言えば、少しばかり体が小さくなった祖母の出で立ち位であろう。
かずおの帰宅後何日か経ったある日、私はかずおから、お願いが有るから来てくれるか。との連絡を受けた。その時にかずおから聞かされた話は、今でも少しばかし信じ難い事は多いが、とにかくかずおが無事に戻って来た理由でも有るので信じることにはしている。
かずおが語るには、失踪してから数日間は行く宛てもなく、思いつくまま様々な場所を放浪していたとの事だった。それは人里離れた寂れた場所であったり、ネオン輝く街中であったりと、かずお自身もどこに居たかは良く覚えていないらしい。そんなある日、年明けの少し暖かい日の夕刻、かずおは行く宛てもなく、浜辺に座り、女の子が凧揚げをしている幸せそうな3人家族を見ていた。冬休みもそろそろ終わりなのかな、等と思いふけていたその時、不意に後ろから女性に声をかけられた。
「かずおさん。」
かずおは、聞き慣れたその突然の声に振り返る事も出来ず、返事も出来なかったが、かずおの右側でひらひらと風に揺れる、黄色いワンピースの裾に気が付いた。そして声が続いた。
「ごめんなさい。私、貴方を幸せに出来なかった。」
かずおは何も答えられず、ただただうずくまる。
「でもね。生まれてから何も希望を持てずに、ただただ過ごしていただけの私に、貴方は喜びと希望を与えてくれたわ。」
「貴方の思う形に私はしてあげられなかったけど、私自身はとても幸せだった。」
「だから、貴方が幸せに出来た人が居る。という事を忘れないで欲しいの。」
かずおは何も答えられない。
「私の最後の二つのお願いを聞いて欲しいの。」
「1つ目は、私のお家に行って両親に会ってくれる?」
「2つ目は、両親に会ってくれれば分かると思う。お願いね。」
「かずおさん。本当に有難う。私は幸せだったよ。」
それだけを言い残すと、黄色いワンピースと白いブラウス姿の女性は、かずおから静かに離れて行った。

さて、かずおの私へのお願いは、礼子さんの自宅への同行だった。失踪と同時に少しぎくしゃくしている他の家族とは行きにくいんだろうな。と私なりに理解した。かずおが黄色いセーターと黄色いマフラーを着用するのを待って、礼子さんの自宅に向かった。道中は交わす会話も無く、バスを四十分位かけて乗り継ぎ、礼子さんの自宅に到着した。この四十分は、礼子さんがかずおに逢うために使っていた道程であり、その時の礼子さんの気持ちと、それを待っていたかずおの気持ちを推し量ると、心が折れそうになった。特に今の様にバスが車椅子を使う乗客に優しくなかった時代に、息を少し切らせながら素敵な笑顔でやって来ていた礼子さんの気持ちを思いやるといたたまれなくなった。
礼子さんの家に到着。かずおと付き合いが始まってから、押しボタンが大きくなったチァイムを押した。
「どちら様?」
「かずおです。」
「少し待ってね。」
というやり取りを経て、玄関の扉が開いた。礼子さんの母親が出迎えてくれた。何時もと違うのは、父親も出迎えてくれたことと、礼子さんが居ないことだった。
「いらっしゃい。まだ片付いてないけど。さぁ入って。」母親に誘われるが如く中に入った。早速礼子さんに挨拶を。と思いリビングに入ったが、一つだけ不思議な事に気が付いた。黄色いカバーの掛かった骨壷と葬儀で使われた写真が、白い布に覆われたテーブルに置かれたままだった。
お葬式から数日経っており、普通であれば納骨が終わっているにもかかわらずである。
お焼香を済ませ、一時間ほど思い出話を交わし、帰ろうとした時、母親から、「かずおさん。これ、礼子からの手紙。私たちは私たち宛のを読んだけど、これはかずおさん宛。中は見てないけど、ここで読んで欲しいの。」と、一通の手紙を渡された。

かずおさん。

来てくれて有難う。私はとても幸せ。不自由な体を不幸と思い、何もやる事を見つけられなかった私に、貴方は頑張って前を向く力をくれたわ。編み物にもチャレンジしたし、絶対一人で乗りたくなかったバスにも乗ってみた。バスの窓から流れる景色もそれまでとは変わって、春の桜、秋の落ち葉、冬の白く凍った畑。私にはどれも新鮮で美しい世界だった。あら、夏が抜けた。うふふ。夏はとても暑くて苦手だったから、ママに頼んでかずおさんのお家の近くまで送って貰ってたの。最後まで気が付かれなかったかしら。一度だけ、それほど汗かいてないね? って聞かれた時はドキドキしたけれど。
あのね、かずおさん。私、先に行く所が出来てしまったらしい。ごめんなさい。かずこが夢の中で教えてくれたの。あ、かずこ?かずおさんと私の娘。今、私のお腹の中に居るの。かずおさんの”かず”と、私の”こ”を引っつけた名前。笑わないでね。でもね、産まれてくることが出来ないらしい。私が居なくなってしまうから。って言うの。最初は信じることが出来なかったけど、でもね、貴方と私の子供が言うんだもの。信じてあげようと思うの。だからこの手紙を書いています。
正直貴方と始めてお会いした時は、ただただ驚いた。事故で両手を無くした方。と聞いていたから、世の中を避けて静かに暮らしている人だと思っていました。でも、自分の不幸を思い悩まず、素敵な趣味に没頭し、世界中に友人がいる貴方を見て、私は目が覚めたの。そしていま迄の自分を見つめ直したの。貴方との御付き合いを決めたことを両親に伝えた際に、少し戸惑う両親に気がついたけれど、私は貴方となら、本当の自分を取り戻して生きていける自信が出来たと伝えて、了承して貰ったの。始めてパパとママに意見したかしら。
私は貴方に出逢って、本当に幸せ。かずこが言う事が現実になったとしても、今まで通り生活してね。私、見守ってる。
そして、私は貴方に一つ目のお願いをする日が来ると思う。その時は、そっと傍に立つから驚かないでね。いつものワンピースとブラウスを着ていくから気が付いてね。
最後に二つ目のお願いをします。
私は、貴方が来るまで、私はお家で待つ事にしました。両親にも最後のお願いと伝えているので、きっと守ってくれると思う。だから、私をそっと抱きしめてね。少し小さくなってるかもしれないけれど。
本当に有難う。繰り返すけど夢を諦めないで。私は貴方ともう一度出逢えることを神様にお願いするわ。叶うかしら。私は、貴方とかずこと、年明けに浜辺で凧揚げをする事が夢なの。

今まで有難う。

礼子

かずおは、はっ!と、浜辺で凧揚げをしていた家族を思い出すと同時に、手紙をテーブルに置き、そっと礼子さんの骨壷を持ち上げ、両手で抱きしめ、嗚咽を伴う涙を暫くの間流し続けた。

帰りのバスの中、
「あのな。」かずおが不意に話しかけてきた。
「うん。」私が答える。
「ある街でさ。」
「うん。」
「れいこさんの所に行こうと思ったんだ。」
「うん。」
「でもさ。」
「うん。」
「上手くいかなかったんだよね。」
「…」
「ロープを柱にかけたんだけど。」
「…」
「この手では輪っかが作れなかったんだ。」
「…」
その後は何の会話もなく、私は流れ出る涙を、誰にも知られないように、ただただ膝を握り締めるばかりだった。
そして、これがかずおから聞いた最後の言葉だった。
「俺さ。両手が無いことをこんなに良かったと思った事は無かったよ。」

その後、私とかずおと会うことはなかった。と言うのも、中学時代はクラブ活動に没するが故に、中々かずおの所に出掛けることがなかったからである。高校受験にあたっては、将来のエンジニアを目指し、当時は先進であった電気工学を学ぶべく、少し実家から離れた高校を受験する事とした。この学校は全寮制で四人部屋での生活となったが、その二年後にかずおが亡くなったとの連絡を受ける事となったのである。
死因は突然のガンで、少し若いこともあって、あっという間に行ってしまった。
学生服を着て、これまた久しぶりに母の実家を訪れた。祖父が喫煙をやめた後に畳替えをした為か、焦げ跡の全くない畳の布団の上でかずおは横になっていた。物心をついてから、亡くなった人を間近で見ることとなったが、今にも起きてきそう。とよく聞く表現そのままに、今でもかずおが起きてきそうに感じた。「何で寝てんの?」と本当に声をかけたくなる感情を抑え、ただただ見つめることしか出来なかった。
祖母から、「渡したい物が有ったみたいよ。」と言われ、かずおの秘密基地を覗いて見た。          
以前と変わらない数々の工作道具とハンダの匂いを感じ、以前に増して、大量に貼られた壁の写真を見ながら歩いていると、部屋の一番奥で、それは立派な戦車プラモデルに気がついた。私が一緒に作った記憶のない物で、祖母から聞くには、電子部品のお店に来るお客さんに相当の絵心を持つ人が居たらしく、その人から教わりながらゼロから作ったらしい。不幸な事故で無くしてしまった両手を駆使して組み立て・塗装した本人納得の逸品との事。思わず手に取り抱きしめたくなったが、そっと手に乗せた。ひっくり返してみると、ナンバー一と書かれた懐かしいかずおの文字。これからも沢山作りたかったのだろう。と、その完璧な出来具合に涙するだけだった。
翌日はお葬式の日となった。私は子供が親より先に亡くなる事の親不孝を強く印象づけられた。かずおは不幸にも祖父、祖母を残して旅立つ事となってしまった。葬式の間、出棺まで、ただただ項垂れ、時に顔をあげて悲しみに老ける顔をしている祖母であったが、出棺となった瞬間に、それまでの気丈な姿を投げ捨て、棺桶に、「かずお、行かないで!」 とすがりついたのである。
その声は悲痛で、何度も繰り返され、私は凍り付き、何もする事が出来なかった。本来であれば孫である私がその場で祖母を支え、慰めてあげるべきであったと思う。しかしながらただただ見守るしかなかった。
すがりついた祖母の名前は、みちこ。私を優しく見守ってくれた人だった。

【みちこ】
祖母・みちこは、私の育った地方でも相当の田舎で生まれた。本人の自慢は女学校出身であり、若くして、簡単につく事の出来なかった職についたと言う事だった。私は話半分程度で聞いていたのだが、祖母が亡くなったあと、実家のタンスの中に、古びた今で言う従業員カードが出てきたので、後ほど本当と知る事となる。
本当に小さく、こじんまりした体で、いつもニコニコしている人だった。祖父は明治生まれの軍人上がりで、その時代に生まれた人には珍しく、百八十センチ程度の身長があった。今で言う所の凸凹コンビとなるが、祖母も百五十センチを超える身長であったなら、男性平均身長よりも低い私は、通勤電車で周りに埋もれる事もなく、新鮮な空気を吸える身長であったのでは?と、高校を卒業する頃に気が付いた。
思い起こせば、私の小学校時代、祖母の実家に行く理由は二つ有って、ひとつ目はかずおに会いに行く事。ふたつ目は私が起こした悪事に対して、私の母親がそれほど怒らない為の調整であった。
小学生が起こす悪事なんてたいした事ではなく、また理由もそれ程のことでもないので、大人になる過程での、ちょっとしたプロセスである事を私の母に語って貰うことを担ってくれた。私の母も祖母からの言いつけであればきっちりと守る性格であったが為か、この裏工作が成功すれば、意気揚々と家に帰れる毎日であった。
とにかく祖母には怒られた記憶が全くなくて、とにかくニコニコ、ニコニコしている人であった。
さて、かずおの四十九日法要が過ぎた頃、祖母から私の寮に葉書が届いた。教えて欲しい事が有るので、時間がある時に家に来て欲しい。と言う内容だった。私の祖母は相当の達筆で、私のレベルでは解読が必要ではあったが、所謂高校の中間試験が終わった夏の日に実家へ戻ってみた。
まずはかずおの部屋を覗いてみた。主の居なくなった電子部品店の部材は無くなっていた。壁一面に貼られていた葉書は剥がされ、祖母が一枚一枚を丁寧にアルバムに整理していた。
この辺りは女学校上がりの几帳面さか、私自身も大いに真似したい所ではあるが、中々このレベルに達しないことは痛感している。
そんな事をしている内に、祖母から声がかかり、早速教えて貰いたい事の話となった。祖母が教えて貰いたいことの本を目の前に置いた。
本の名前は【アマチュア無線技術試験。テキスト&問題集】。電気工学を選択した私にとっては確かに得意分野に近い内容では有ったが、理由が少し分からなくて、「ばぁちゃんどうしたの?」と聞いたところ、「死ぬまでに、かずおが過ごした世界を感じたい。無線免許を持ってかずおに逢いに行く。」との事。八十歳を超えていた老人にとっては、非常に難しいと感じたが、「お願い。」と嘆願されると断る訳にはいかない。
私の専門分野外のアマチュア無線ならでは。の問題もあるので、私自身がそれを学び取る時間を二ヶ月として、その二ヶ月後の私の夏休み期間に、祖母と私で進めることとした。
早速同じ本を購入し、夏休みに向けて勉強を進めたが、これが中々強敵で、電気工学を学んでいれば楽勝。とタカをくくっていた私の甘い考えは玉砕された。
わずか二ヶ月で、私自身が無線免許取得をパスするレベルにならなければならない事に気が付いたのである。
学業は当たり障りのない範囲でこなし、試験も赤点とならない、六十点以上を目標にやっていた私にとって、国家試験は相当高い壁。しかも受験生は私自身でもない。私の理解が正しくないとそのまま間違いに繋がる世界。 多分この二ヶ月は人生において、最も勉強をした期間だったと思う。若い頃からこれくらい勉強をしていれば、所謂難関校と言われる高校や大学に合格していたかもしれないと今は思う。
さて、二ヶ月が過ぎ、いよいよ夏休みを使ったアマチュア無線試験対策を祖母と開始した。流石に女学校上がり。理解は早く覚えも早い。一番心配していた忘れる事。に対しても全く心配はなく。と言う時間が過ぎ、確認に確認を進め試験日となった。
試験日までに何回か体調を崩すこともあったと後程聞いたが、何かに取り憑かれるように勉強を進め、問題集と言われる部類の物に対しては、毎回満点に近い点数を取れるようになっていたとも聞いた。
試験後何日か過ぎた合格発表の日。結果は寮に電話してくる手筈になっていたので、朝早くに起床し、柄にもなくきちんとしたシャツに着替え、パンツの裏表を確認し、この日に合わせて買ったスラックスをはいて部屋で電話を待っていた。
お昼過ぎに学生課から呼び出しの放送。寮の手洗い場の給湯器でシャンプーし、髪を整え、急ぎ足で学生課に向かった。この日の当番は暖簾。りんごが良かったのにと思いながら電話を替わる。「どうだった?」と問いかけると、電話口は祖母。女学生の様な明るくはっきりとした声で、「合格だったよ。かずおに会いに行ける。」との声。
いやいやまだ会いに行ってもらうと困るんだけど… と思いながらもお祝いの声をかけ、学生課から部屋に戻ることにした。「ありがとうございました。」と暖簾に声をかけると、いつも通り、「あぁ。」との返事。少しばかし両手でガッツポーズを作りながら部屋に戻った。
さて、祖母は免許を取るだけではなく、かずおが使っていたアマチュア無線機器を大切に大切に使いながら、最初は日本国内、そして少しばかりの海外の人と交信を進めていった。かずおを知っている人と偶然に繋がったり、思い出話を進めているうち、やがて昔の様にかずおの部屋の壁は葉書で埋め尽くされ、本当に女学生に若返った様な生活を送っていた。
そんな祖母も、よる年波には勝てず、数ヶ月前に亡くなった祖父の後を追うように、免許取得の数年後に、かずおの傍に行ってしまった。祖父の出棺の際に、「アマチュア無線免許を取ったのは、私が直接伝えるから、かずおには秘密にしといて下さいね。お父さん。」と祖父に声をかけていた祖母は、ちゃんとかずおに伝える事が出来ただろうか。自分の息子を不幸な事故に巻き込んでしまった事を、自分が丈夫な体で産んであげなかったから。と、死ぬまで日々繰り返し涙していた祖母は、祖父・かずおと仲良くしているだろうか。
そんな思いを描きながら、祖母の棺桶には、アマチュア無線免許証と、お別れの花が見えなくなる程の、アマチュア無線仲間の葉書を入れてあげた。
きっと、【この人知ってる。そうなの?私もこの人と話をしたよ。】と言うような毎日を、家族で送っているだろう。そう願って止まない。

【エピローグ】
私の叔父は、病弱で生まれ、追い打ちをかけるように、自慢でも有り、多くの人を魅了する手を失うと言う人生を送った。その人生は、薔薇の花一輪すら感じない、波乱に満ち、描ききれない沢山の事柄があったように思う。 壮絶と言う言葉が近い様にも思うけれど、その様な単純な言葉で言い表せない人生であったとも思う。
また、自分が愛し愛された息子に、その様な人生を送らせてしまったと全てを背負い込み、誰も居ないところでは、毎日の様に一人涙するが、人前ではそんな姿を全く見せず、いつもニコニコしながら、一人でも良いから幸せになって欲しい。と、気丈に振舞ってきた祖母の姿も思い出す。
人はこんなにも強く生きる事が出来るのか!と思い知らされた経験でもあったが、一方で、自分にはとてもとても出来ない事でもあった。
生きると言うことは不連続で、ひょっとしたら、明日我が身に何かが起こる可能性の中にあると思う。それは良い事かも悪い事かもしれないが、自分に起きてしまった事を受け入れ、自分が進むべき道をしっかりと見つめ、前に進んだ人がいた事は、何かの役に立って欲しい。
不幸にも事故や事件に巻き込まれ、また思い通りにならない事があっても、立ち止まったり後ろを向くことをやめ、先に一歩でも踏み出し進む勇気を持っていきたいし、持っても貰いたいと思う。
少なくとも、私の叔父・かずおの部屋に、多くのアマチュア無線仲間と肩を組み合う姿が撮影された、弾けるような笑顔の写真がある限り、私はそう思い、皆にもそう伝えたい。
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